90歳になる父方の祖母の消息が耳に入ってきた。父方の祖母とは絶縁状態で父の葬儀の日を最後に会っていない。
父方の祖母は絶縁後、軽い痴呆を患ってグループホームで暮らしていたのだけれど、つい最近入院したとのこと。私の中ではもうすっかり過去の人になっていたので、今頃になってそんな話を聞かされるとは思ってもいなかった。「会いたい」とか「可哀想」と言った感情は全く無い。外国のニュースを聞かされたような、そんな感じ。
父方の祖母はそれこそ小説ネタにでもなりそうなほど強烈な人だった。エピソードは沢山あるけれど、私が彼女を見切ったのは父が亡くなった時のことだ。祖母は父の葬儀をするのに祖母が希望するお寺も葬儀会館も空いていなくて、父の遺体を安置するのに「家に連れて帰るのは体裁が悪い」との理由から、葬儀場の資材置き場に父の遺体を預けようと手配を整えた時「この人とはもう終わりにしよう」と思った。彼女は人間的な感情が欠落している人だったけれど、我が子の遺体をそんな風に扱えるだなんて、今になって考えてみもオカシイと思う。(勿論、色々大変だったけれど父の遺体は家に連れて帰った)
そして、祖母は今でも憎まれっ子世にはばかるを地で行くようにして長生きしている。言っちゃあなんだが不自由なく暮らしているようだ。祖母の心のうちは分からないけれど、聞くところによると不幸ではなさそう。
私達日本人は子どもの頃から「因果応報」とか「善因善果、悪因悪果」のような思想を教えこまれて大きくなるけれど、世の中を見渡すとそうでもないように思う。憎まれっ子は世にはばかるし、悪い奴ほどよく眠る。三浦綾子の小説『続・泥流地帯』の中でも「因果応報とは言えない世の中をどう生きるか」ってテーマが語られているけれど「じゃぁ、悪いことをして人を傷つけて生きたって悪いことが起こらないなら、自分の本能の赴くままに生きればいいじゃないか」って事にはならないし、そんな事をしたって幸せになれるとも思えない。
とは言うものの、祖母がよろしく長生きしていると聞くと、ちょっと複雑な気持ちだ。だからって、祖母が不幸のどん底で死ぬ事を望んでいる訳ではないし、もしそうなったとしても、それはそれで後味が悪いと思う。経緯はどうあれ「不自由な暮らせていて良かったね」と思えるほど達観出来れば良いたのだけれど、それはなかなか難しい。
……と。祖母の話はここまで。
今日はこれと言って特徴の無い1日だった。2日連続で出歩いていたので嬉しい1日。掃除に炊事に買い物。台所であれこれ作りおき料理をしたり、片付け物をしたり。そして今週も無事に1週間が終了。今週はあれこれと盛り沢山だった。無事に過ごせて良かったなぁ……って事で今日の日記はこれにてオシマイ。
本日のお弁当。おかかご飯、卵焼き、ウィンナー、ほうれん草とコーンのバター炒め、ジャガイモと人参のキンピラ、黒豆、キーウィ(別容器)。卵焼きは娘の作。スタッフの手が相当入ってます。やや焼き過ぎて表面が虎柄に。