春めいているが、まったく気を許していない弥生月、である。
震災から一年が過ぎた。 警察庁の発表によると、2012年3月8日現在、死者は15,854人、重軽傷者は26,992人、行方不明者は3,203人だそうである。
まだ行方不明者−その亡骸の−があるものの、 よくぞここまで捜索したものだと思う。
海に散った遺体の捜索は、さぞ困難だったと思う。 関係者の方々の執念と努力に頭が下がる。
* Hによると、山岳遭難の場合、欧米人は日本人ほど遺体捜索に執着しないそうである。
生存が絶望視された時点で捜索は終了、家族もそれ以上は望まないことが多いらしい。 少なくとも、二次遭難のリスクをおかしてまでヒマラヤの高所へ遺体掘りにいくというようなことは、しないそうである。
そうだから、亡くなった人の遺体を丁寧に葬ることで死別の悲しみを体現したいというのは、日本人の細やかな精神文化なのだ。映画「おくりびと」でそのことに共感した人も多いと思う。
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一年前の今頃、つまり津波発生から三日目の頃であるが、 「見つかった」と言えば、生存を意味していた。 「見つかった」人達は、命が助かったことを喜んだ。
それがいつしか、「見つかった」というのは遺体が見つかったことを意味するようになった。 それは、生死についてもはやどんな状態であっても「見つからない」人の悲しみよりは救いがあるという状況の変化があり、そのことが私にはせつなかった。
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