2011年04月21日(木) |
東日本大震災 目に見えない恐怖 |
本日上京す。
車中にて。ちくま新書「内部被爆の脅威」を読む。
仔細は省くが、放射性物質の人体へ及ぼす危険性は確実に存在すると書いてある。
次に、キオスクで購入した、週刊文春の最新号を読む。
「放射能に勝つ「食材」「水」−細胞生物学の権威が緊急報告」という記事。
こちらはうって変わって、放射線被ばくというものについて、至ってカジュアルに書かれている。放射性物質は身体から勝手に排出される?
ピロリ菌とどのぐらい深刻さが違うのかわからなくなるほどだ。
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車窓の桃の花が広がる風景に目をやりながら、嘆息す。
どうしてこうも、原発や放射性物質については、天と地も違う見解があるのだろうか。
「安全」は「危険」を馬鹿にしてせせら笑い、 「危険」は「安全」を悪者に仕立て上げる。
すでに実用化されて何十年も経ている科学技術を取り巻く感情として、 なんかおかしいと思うのである。
我々は、専門家ですら実用化可否の合意ができていない技術の、恩恵だけ先取りしている。
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ではどうしてそのように実用化できたかというと、 「安全」はオーソリティであり続け、「危険」はマイノリティでありつづけたからだ。
「安全」の主張は学校の副読本になっており、「危険」の主張は、失礼ながらほとんどは聞いたこともない出版社から出ている。 「安全」の活動資金は潤沢であり、「危険」は市民カンパから成り立っている。
「安全」は、リスクやそれを案じる声をignoreし、科学的事実や過去をignoreし、 反対の立場の人を徹底的にspoilし、記録をfakingし、オーソリティであることを増幅させながら、 何かひとつの方向へ、バッファローの大移動みたいにつきすすんだ。
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誰がそれを指示しているのかは誰も知らない。ケネディ暗殺の計画みたいに。
ただ、一人ひとりにとっては、立身出世の前に、 明確なタブーと、絶対に許されない失敗が存在するだけなのである。
その目に見えない意図による引力の構造こそが、 私には放射性物質よりもはるかに気味悪い。
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