無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年10月18日(火) 古畑VSイチロー/ドラマ『1リットルの涙』第2回

 来年正月に、3夜連続のスペシャルでシリーズが完結予定の田村正和主演のドラマ『古畑任三郎』。犯人役に第1夜・石坂浩二&藤原竜也、第3夜に松嶋菜々子の出演が決定していたが、残り第2夜の犯人になんとマリナーズのイチロー選手が本人役で出演することが決定したとか。
 聞けば、イチローは『古畑』の熱狂的なファンで、シリーズも全て見ており、そのことを知ったプロデューサーが出演をダメモトでオファーしたところ、二つ返事で快諾したのだそうな。
 演技経験の全くないシロウトを主役級の役どころに抜擢するというのは、日頃研鑽を積んでいるプロの役者に対する冒涜ではないかとか、所詮は人気取りが目的ではないかとか、揶揄する声は多いと思う。下手をするとプロの役者や評論家がそんなことを言うことがあるのだが、残念ながら、演技とかドラマというものは実はそういう一見理が通っているように見えるインテリぶった批評モドキを越えたところに存している。
 つまり、「シロウトの演技がプロの役者の演技を越える」ことがこの世界には往々にしてあるのだ。例えば「子供と動物にはかなわない」なんてのもそうだろう。「巨匠」と呼ばれる監督がある時期から全くのシロウトや新人を使いたがるようになるのも、「プロを越えた演技」を期待しているからだ。正直、「プロの演技」を標榜する人間ほど「先の読める定番な」演技しか披露できない。心を打つ演技というものはどこかに予測不可能な「シロウト」の要素を含んでいるものである。
 もちろん、イチローに演技ができるのかどうか、というのは全くの未知数である。しかし未知数というのは「どう転ぶか分からない」ということであり、ともかく「結果を見てみなきゃ分からない」ということであるのだ。
 いやね、もうネット始めて仕入れる情報量が格段に増えてからはね、世の中、ここまで余談と偏見に満ち満ちてるもんなんだと驚いたし、それが「見識」なのだと勘違いしてる馬鹿だらけなのだということに暗澹たる気持ちにもなったのである。「シロウトに演技ができるのかね」程度ならばともかく「シロウトに演技させるんじゃねえ」と、「見る前から」文句を付けるのは、いったいどういう神経をしているのか。全く、「カミサマ」だらけの世の中である。
 ま、見た後で「シロウト使うな!」と怒るんだったらそれは問題ない(笑)。
 

 仕事が終わりかけてた午後5時。
 ふと気が着くとしげからメールが入っている。いつもの「何時に帰れる?」コールかと思って開いてみると、たった一言書いてあったのが「父ちゃん入院」。
いつものことだが、しげのメールは電報より短いのでいったい何が起こったのか全く分からない。夕べ一緒にスシを繰ったばかりだと言うのに「入院」?
 折り返ししげに電話をかけてみたら、「父ちゃん、脳梗塞だって」。
 「脳梗塞? 倒れたんか?」
 「いいや、病院には自分で行ったって。朝から父ちゃんが『手が痺れる』って言うから、お姉さんが無理やり病院に行かしたら、CTスキャンで脳梗塞だってことが分かったって。今、○○病院にいるよ。『倒れたわけじゃない』って伝えといてって。今から病院に行く?」
 「そうだな。博多駅まで出て来てくれん?」
 そのあと姉にも電話をかけてみたが、概ねしげの話の通りだった。何度か手に持っていたハサミを取り落としていたので、これは様子が変だ、と病院を勧めたそうである。
 脳梗塞かあ、昨日、寿司を食い過ぎたのがよくなかったんだろうか。あるいはホークスの敗退がショックで頭に血が上ったか。いろいろ考えていても仕方がないので、ともかく病院に向かうことにする。

 病院に着いたのは六時少し前。
 病室を訪ねると、そこは重いドアで仕切られていて、救急医療センター「HCU(high care unit)」という物々しい文字がガラスに躍っている。何となく不安な気分で、中に入ってみるが、受付で教えられた病室にはまだ父の名札がない。しげが 「部屋が違うんじゃないと?」と言うが、「まだ名札が間に合ってないだけだろろ」と中に入ってみると、案の定、父が別途に寝ていた。
 「おう、来たとや。てっきり来んやろうと思って、お医者さんには『息子は来ましぇん』て言うてしもうたとこやったが」
 どうして私が来ないと父が思い込んだのかは定かではないが(笑)、口は全然満足に利けるようである。「どげんあると?」と聞くと、「朝からなんか手の感覚がなかったけん、あ、ついに来たとかいなと思って、病院で見てもらうことにしたったい」
 「姉ちゃんは『無理やり病院に行かせた』って言いよったけど?」
 「なんがもんか。私が自分で来たと」
 どっちの言い分が正しいのか、そりゃどっちでも構わないのだが、とりあえず命に別状はないようなのでホッとする。
 「最初は××病院に運ばれるところだったとぜ。ほら、××病院はお母さんが倒れて、最初に運ばれて、ここじゃ治療できませんからって、こっちの病院に運ばれたろうが。だけん、××病院はやめてくださいって頼んでこっちにしてもらったったい」
 事実、母が死んだ時に呆れてしまったことなのだが、救急車の職員は、手近な病院に患者を適当に運び込むだけで、そこが脳出血の治療設備があるかどうかなんて全く知らないのである。つか、脳出血や脳梗塞の治療設備もない病院が救急病院の指定なんて受けてること自体、問題なんじゃないのか。ともかく西方沖地震の時もそうだったが、福岡の病院事情は全くデタラメなんである。
 とか考えてたら、主治医の先生が来られた。メガネをかけた細身の、袴田吉彦にちょっと似た感じの先生で、心の中では「こいつも藪じゃねえかな」とか思いながら顔はにこやかに「父の具合はどうなんでしょう?」なんて聞いてみる。
レントゲン写真を見せながら、「この右側の部分に白いのがあるでしょう。視床下部なんですが、ここに脳梗塞ができていて、それで手の感覚がなくなってるんですね。けれど、麻痺とは違います。脳梗塞の中では一番軽い症状だと考えてください」
 「それはまた元通り動かせるようになるということですか?」
 「元通り、というのは難しいと思います。後遺症が出る可能性もありますし。けれど、放っといたら悪くなるばかりですから、それをこれ以上悪くならないように止めることですね。今はともかく点滴をして、検査をしているところです」
 要するに、「まだどうなるか分からん」ということなのだろう。心なしか、父の表情が曇ったように見えた。また仕事ができるようになるか、不安なのだろうと察していたら、先生が退出したあとで、「これでしばらく酒が飲めんなあ」と言ってため息をついた。
 この期に及んでまだ「酒」かよっ! 半身不随になるとか、言語障碍を起こすとか、植物人間になるとか、そういう心配もあったのに、呑んだくれはこれだからもう。

 数少ない読者のみなさま、途中までは思わせぶりな書き方になってしまいましたが、覚悟しなきゃならないような状況ではなかったようでホッとしてます。まだ容態が急変するんじゃないかとか考えると油断はできないのですが、とりあえずは父がそんなに落ち込んではいないようだったのが幸いでした。
 しかし、病院に行く途中、しげが「来月、父ちゃんと一緒に旅行に行くの予定しとったろ? キャンセルせんといかんね」と言ってたのを「いや、意識があるなら意地でも行くよ、あのオヤジは」と返事していたら、病室で父は本当に「来月の旅行には行くからな」と言い切りました。その時までには絶対に退院できる、いや、「退院する」つもりでいるんですね。全く、懲りないオヤジ殿であります(苦笑)。


 ドラマ『1リットルの涙』第2回。

 亜也(沢尻エリカ)は自分が脊髄小脳変性症であることをまだ知らない。母の潮香(薬師丸ひろ子)がその現実を受け入れることを拒んで、未だに本人に伝えられないでいるためだ。担当医の水野(藤木直人)の診断を拒んで、セカンド・オピニオンを脊髄小脳変性症の権威である宮下(森山周一郎)に求めるが、結果は変わらない。ついに潮香は夫・瑞生(陣内孝則)に亜也の病名を告げる。そして二人は亜也の、恐らくはこれが最後になるだろうバスケの練習試合を家族で応援に行く……。

 苦手なのに今週も見ちゃったよ、『1リットルの涙』。
 『愛と死を見つめて』以来、この手のドラマは極力避けるようにしてきたのに、一回目をうっかり見ちゃったら、次の回も気になって見ちゃうんだよね。かつて伊丹万作が映画『小島の春』に苦言を呈したように、こういう「難病もの」が「見るものの涙を振り絞りはしても映画としては何の価値もない」ことは党に喝破されてるのは分かっちゃいるんだけどね。要するに脊髄反射でまさに記号的に「感動」のボタンを押されてるだけなんだけどね。
 見ない見ないと思ってはいても、どんなドラマにも「お涙頂戴」要素は含まれているものだから、いつの間にかそのパターンやセオリーは見えてくる。だから、こういうドラマがいかに現実に取材していようが、ドラマのために都合よく事実を改変され、人物の心理もどこか緊張感、切実感を欠いたものになってしまうことは否定のしようもない。みんな、下手な役者さんじゃないんだけど、やっぱり「お芝居」を見てる感じしかしないのね。
 私自身も怪我や病気で何度も死の淵をさまよった経験があるから思うんだが、そういう経験をすれば、限りある命を大切にしようと希望を持つかというと、そんなことはないのである。じゃあ絶望して自暴自棄になるかというと、そうでもない。どちらの場合も、そんな「ありきたりなドラマみたいな心理展開を自分がなぞるなんてこっ恥ずかしいマネ、とてもじゃないが自分自身で耐えられなくてできない」のである。
 つか全世界の難病の人に聞いてみたい。「あなたは親に向かって『どうしてこんなカタワなからだに生んでくれたんだよ』と文句をつけたことがありますか」と。多分、1%もいねえよ、そんなアホは。ドラマってヤツがどれだけ適当に作られてるか分かりますね。
 それなら病気になって何を考えるかというと、自分のことは殆ど考えなくて、医者や看護師に対する文句と悪態だけだったりするのだね(笑)。実際、何十人もの医者にかかってきたが、その8割は藪で無能で、残り2割は「フツー」でしかなかった。私が何度誤診で死にかけたと思ってるのだ。腹立たしさの方が先に立って、自分の残りの人生の短さを憂える余裕なんてありゃしねえよ。
 ま、私の場合は特殊かもしれないが、実際、希望と絶望は常にコインの表と裏で、どっちか一方に傾くってことはないんじゃないのかね。まあそれじゃ首尾一貫したドラマにゃ向かないんだろうけれど。

 続けて『鬼嫁日記』を見ている最中に眠くなったので寝る。いつもの就寝時間よりも2時間ほど早い。疲れてないつもりだったけど、心労はやっぱりあったのかな。

2002年10月18日(金) 今日はノロケじゃないと思う/『プリンセスチュチュ』10AKT.「シンデレラ」/DVD『鬼畜』ほか
2001年10月18日(木) 風邪、続く。気の利いたタイトルなんて思い浮かばねーや/『トライガン・マキシマム』6巻(内藤泰弘)ほか
2000年10月18日(水) オニギリとわらび座とフリカケと/『彼氏彼女の事情』10巻(津田雅美)


2005年10月17日(月) お隣さんがアレなのは分かっちゃいたが/映画『柳生武芸帳』(近衛十四郎主演版)

 小泉総理の靖国参拝がまたまた問題になっているが、スーツ姿で拝殿までで記帳もなし、という「私的参拝」を強調してもやっぱりお隣さんは難癖をつけてくるのである。予想通りではあるけれど。
 「私的参拝であろうとその精神において変わりはない」と言うが、世の中、「人の心が分かる」と称する方は実にたくさんいらっしゃるようで、いつの間にそんなテレパスだらけの世の中になっちまったのかね。私ゃちーとも知らなんだ。
実際にあの人が何を考えているのか、真意なんてものは分かりゃしないし、多分、小泉批判を繰り返してる人たちだって、「分かってやってる」わけじゃなかろう。政治はいつの時代だってどの国だって、他人の意向を忖度しないところから始まるもんである。
 結局、この事態が好転する機会なんて、近々は望めない。なあなあ外交をいつまでも続けたところで、あちらさんはハナからイカレてるんだから、話が通じる見込みなんてありゃしないのだ。かえって、一部の既知外連中がもっと興奮して、テロでも起こして取り締まられれば、運動は自然と沈静化することもありうる。それを期待するしかない、と言うか、そんな形で「犠牲者」が出ないと、何も変わりゃしないというのが、悲しいかな現実というやつなのである。


 イッセー尾形さんのホームページの小倉ワークショップの更新がなかなかないなあと思っていたら、一度書かれた原稿が操作ミスで消去されてしまったとか。ようやく四日目および公演初日の内容がアップされたのだが、ほかの地域のワークショップほどには内容が詳しくない。「優等生のレポートを期待する」旨のことが書かれているのだが、しまった、こんなことならもっと詳しくメモとか取ったりしてまとめておけばよかった、と後悔することしきり。とても参加者投稿できるほどの内容を覚えてはいないのである。
 公演前日、なかなかうまく回らない状況に森田さんが苛立ち、椅子をバンバン叩いて手が丸一日痺れてしまったり、その晩、奥様の前で涙を流されたりとか、我々の不甲斐なさのせいでかなりご心労をおかけしてしまったのだが、断片的にはそういうことを覚えてはいるのだが、いざまとめてレポートを書こうとすれば、首尾一貫しない支離滅裂なものにしかなりそうもない。私はとても「優等生」とは言えないから、やっぱりどなたか優秀な方のレポートがアップされるのを待つしかなさそうである(←こういう遠慮しいなところが森田さんが怒る原因になってたんだけどもね)。


 行ったこともないのにしょっちゅう情報を書いてる福岡市天神のメイドカフェであるが、福岡県警が15日までに、2店に対して、メイドさんの行為が「接待」に当たるとして、風俗営業の許可を得るよう指導したというこりゃまたビックリの展開に。東京の秋葉原のメイドカフェが風営法に引っかかるなんて聞いたことないのになんで福岡だけが?
 事情は別に警察がメイドカフェに目を付けて取り締まりの機会を虎視眈々と狙っていた、というわけではなくて、メイドカフェ側が「うちの商売ってもしかしたら風営法に引っかかる?」と心配して県警に相談しに行ったら、「客の接待をして客に遊興または飲食をさせる営業」として許可の申請をするよう指導されたというのだから、何だかヤブヘビな話なのだが、「いらっしゃいませ、ご主人様♪」って挨拶が既に「接待」になるってことなのかねえ。オムライスにケチャップをかけてあげるなんてサービス、これはもう完璧に「接待」に当たるんだろうな。確かにこの程度でもオタクにとっては天国に上るような心地であろうから、フーゾクじゃないかと言われても反論はできないのかも(んなわけあるか)。
 私は風営法には全然詳しくないので、ふと気になったのだが、となると普通の居酒屋や温泉旅館なんかで、おかみさんや仲居さんがお酒を注いでくれたりするのは、あれも風営法に引っかかってるのか? そういうところに行くのも「フーゾク店に行った」ということになるのか? おさわりバー(死語)の類とは全く違うんじゃないのか?
 何だか今ひとつ納得が行かないものを感じはするが、これで客足が落ちるとか、損害を被る事態にもならないような気がする。行くと決めたら何があろうと行くのがオタクだ(笑)。ちょっとばかしミソをつけられた印象ではあるが、今後も逞しく商売繁盛であれば問題はないんだろうね。
 私も、こんなことなら風俗指定を受ける前に行っときゃよかった、と思わないでもないが(笑)、前にも書いた通り「メイドさん萌え〜」な属性は私にはなくて、こういう店が求められる文化的背景に興味があるだけなので、実際に行ってオムライスにどんな字を書いてもらうか求められたら、何を書いてもらうか分からずに困ってしまっただろう。どうせ福岡のオタクでブログやサイトを開いてないやつの方が少なかろうから、検索かければ「今日もメイドカフェ通い」なんてレポートは腐るほどヒットするだろう。そういう「濃ゆい」のを読むだけで充分お腹いっぱいにはなるから、無理に足を運ばなくても充分(笑)。


 仕事が終わって、しげと父のマンションまで出かけて行く。
 「給料日前だし、腹も減っとろう」と言われたので、素直に奢られに行くのである(笑)。なんだかんだで父と会う機会が増えてきているが、父に言わせれば「思い出作り」なのだそうだ。「最後に頼れるのは血の繋がった身内だ」なんてことも言うのだが、血が繋がっていても心が繋がってない例の方が世間には多いというのが現実である。
 ダイヤモンドシティの回転寿司屋で、たらふく食事。昨日もこの店に来たのだが、待ち客が20人以上いたので、あきらめて別の店に入ったのである。以前はこの店、そんなに混んでいなかったのに、いつの間にかダイヤモンドシティでも一番人気の店になっていた。理由はよく分からないのだが、テレビや雑誌で紹介されたとか、そんなことかもしれない。
 私と父は流れてくる寿司を目ざとく見つけては食べるのだが、しげは好みのネタが来ずにモジモジしている。
 「好きなのが来よらんとね?」と父が聞くと、コクン、と頷くので、「注文ばすればいいとたい」と言って、呼び出しボタンを押した。しげが店員さんに「穴子の一本握り」を注文するのを見て、父がまた「一つでいい?」と聞くと、「じゃあ二つ」と訂正する。既にそれは流れていたのを食べているのだが、しげは好きなネタの数が少ないので、気がつくと穴子と穴子とサーモンと穴子とサーモンと赤身とサーモンと穴子と穴子と赤身とサーモンと穴子と、同じものばかりを食べることになるのである。で、結局この日は穴子を五、六個は食べたみたいである。
 以前、上京した時も、帰りの土産に穴子寿司を丸ごと一本買って行って、殆ど全部一人で食いつくしたことがあったが、多分しげは世界で三本の指に入る「穴子フリーク」であろう。どうせなら芸名も「穴子」にしてしまえばよかったのに。


 福岡ソフトバンクホークスと千葉ロッテマリーンズのプレーオフ第五戦、2―3でホークス敗退。最初リードしていたので、守りに入った途端に負けたって感じ。こういうときは「負けてもいいから攻めていけばいい」ってのがセオリーだし、本当の野球ファンなら結果論よりもプレー自体を盛り上げてくれることを期待すると思うので、ホークスは最後に来て自ら墓穴を掘ったって感じである。
 解説の野村克也が「ホークスは引き分けでもいいんですからね」とか「ロッテが逆転するには、強攻策よりはバントでしょう」とか言ってたが、ことごとく外れていた。こういう口だけさんが楽天の監督になってもチームはたいしてよくもならんと思うが、なぜか妙に信頼されてるよね、この人。


 録画しておいたBS映画『柳生武芸帳』を見る。
 近衛十四郎の代表シリーズの一作目だが、この役者さんが時代劇史上、最高の剣戟役者だってこともだんだんと忘れ去られて行ってるんだよなあ。マトモなチャンバラ時代劇ってのはホント、昭和40年代で死滅してしまつてるんだよね。
この映画についても以前日記に感想を書いた気はするが、見返してみていくつか発見したこともあったので、覚書程度のことを書いておくことにする。
 全11作が作られた近衛十四郎の「十兵衛」シリーズだが、五味康祐の原作小説をちゃんと映画化したのは実はこの一作だけだということだ。ほかの作品は、タイトルに『柳生武芸帳』と冠してはいるのだけれど、殆どが設定を借りただけのオリジナルである。何たって十兵衛のライバルの山田浮月斎(原健策)が、この一作目で死んでしまうのだ。完結してるやん(笑)。だいたい原作自体が未完に終わってしまっていて(五味康祐の才能が枯渇したせいである)、柳生武芸帳の謎もほったらかしになっちゃってるのだから、映画はオリジナルの道を辿るほかはなかったのである。
 昔、テレビで見た時には画面の両端がトリミングされている「不完全版」だったから、今回初めてシネマスコープサイズで見ることができたのだが、このワイド画面を駆使してもなお、カメラは近衛十四郎の殺陣を追い切れていない。つまりそれだけ殺陣が激しくかつ超速度のものであったということであるが、忍者ものを意識したせいだろう、部分的に特撮を使っているのはいただけない。殺陣は殺陣のみで画面にその迫力を定着させてこそ価値があるというものだ。
 今回のNHKBS2での放映は、全シリーズの放送ではないが、シリーズ最高傑作のみならずチャンバラ映画史上屈指の傑作との誉れも高い『十兵衛暗殺剣』も放送予定である。これもレターボックスサイズ(16:9)での放送を見るのは初めてになるので、ようやくその真価を確認できるというものだ。いや、ホントは劇場で見るのが一番だってことは分かってるんだけどね。

2002年10月17日(木) フェチじゃないモン!/『東京少年物語』(羅川真里茂)/『冷暗所保管』(ナンシー関)ほか
2001年10月17日(水) 踊る私と寝る私/映画『十兵衛暗殺剣』/『ザッツ・ハリウッド』ほか
2000年10月17日(火) 博多弁とベターハーフと女好きな女と/映画『知らなすぎた男』


2005年10月16日(日) 九州国立博物館、開館!

 昨晩、ようやく寝付けたと思ったら、真夜中にいきなりアタマにガツン、と衝撃を感じて飛び起きる。私はしげと父に挟まれて真ん中に寝ていたのだが、父が寝返りを打って、その時振り上げた拳骨で私の頭を殴ったのである。
 父と一緒に寝ることなんて滅多にないことなんで、こんなに寝相が悪いとは思わなかった。仕方なく、少し離れて寝よう、としげの方に体を寄せたら、今度はそっちの方からもガツン、とやられた。しげも寝相はかなり悪いのである。
 両方から殴られてはたまらない。仕方がないのでもう起きることにして、玄関先まで出て、本を読んで朝まで過ごす。起こされたのが午前三時なので、朝風呂が開く六時まで、三時間、ゆっくり本が読めた。……って、おりゃー、眠りたかったんだよ。

 朝風呂でようやく展望風呂もお湯が出ている。
 六時ジャストに入ったのに、一番風呂かと思ったらもう二人もどこぞの爺ちゃんが談笑していた。ものの五分もしないうちにドヤドヤとお客さんがやってくる。昨日はガラガラだったのにどうしたんだろうと思ったのだが、要するに、父と同じで、「酒飲んで寝る前に風呂に入っていた」のだろう。酒飲みの心理は分からない、というよりは温泉宿に泊まりに来て、全く飲まない私のような客の方が珍しいのだよね。
 父もやってきて、「早かったな」と言うので、「寝てないよ。夕べ、殴られて起こされたから」と言ったら、「誰にや?」なんて暢気なことを言ってくれる。これだからヨッパライはなあ。
 「しげは起きた?」
 「まだ寝とるぞ」
 しげも11時には寝てたはずだから、7時間は寝ている計算になるが、もちろんそんなのはしげにとっては「寝不足」なのである。けれど、今日行く予定の九州国立博物館は、今日が一般公開初日である。どれだけ人が集まるか見当がつかないので、早めに出かける予定なのだ。そろそろ起きてもらわなければ困る。
 ちょっと早めに風呂を切り上げて、部屋に戻る。布団をとっちらかしてカニみたいに足を広げてだらしなく寝ているしげの姿がそこにあったが、これを父に見られているのだよなあ。普通、そういうのが恥ずかしくて一番早く起きてもよさそうなものだが。

 ようやく起きた寝ぼけ眼のしげと父と、食堂で朝食。
 鮭の切り身、海苔、明太子、温泉卵、湯豆腐ほか。朝からお腹いっぱいである。
 給仕のおばさんから「今日は九国に行かれるんですか?」と聞かれたので、「ええ、そうです」と答えたら、フロントで前売券を売っている、と教えてくれた。「何百円か安くなるはずですよ」ということなので、出かける時に三人分買い求める。
 「先に前売り券を買っとけば、そんなに並ばないですむと思うよ」と言うと、父は「お前が聞いてくれてよかったな」と言って笑った。でも実は私の考えは、「現地に行って行列ができていて、「こんなに並んどうとなら、もう帰ろう」と父が言い出しやしないかと、それが心配だったからである。35年前、大阪万博で月の石を見られなかった時の恨みを私はまだ忘れてはいないのだ(笑)。


 フロントでは、駐車場の場所なども教えてもらった。九国の駐車場自体はバス専用で、一般の車は停められないそうだ。知らずに行ったら、門前払いを食らうところだった。まずは大宰府駅前の駐車場に停めて、それから参道を通って、天満宮を突っ切って、更に連絡トンネルを潜って行かなきゃならないらしい。駐車場からも20分かかるそうである。これは是が非でも参道でお客さんにオカネを落としていってもらおうって魂胆なんだろうか。
 7時45分に出発、10分ほどで大宰府駅に到着。それから九国までは確かに20分かかった。
 連絡トンネルってのも歩かなきゃならないのかと思ったのだが、これはエスカレーターと動く歩道で繋いでいた。三人で歩道に乗っていると、後ろから女の人が走ってきて、右側にいた父に向かって、「右側は空けておくものですよ!」と怒鳴った。父は一応避けはしたが、走って行った女の人の背中に「そんな決まりはないとですよ!」と怒鳴り返した。
 「あれ、マスコミの人だよ」と私が言うと、「ああ、それで急いどったとか」と頷いた。歩道の横にだって道はあるのだから、急ぐのならそこを走ればいいのに、わざわざトシヨリをどかしてまで先に行きたがるような非常識な(しかも開場一時間も前に)人間なんて、マスコミの人間以外にいるわきゃないのである(案の定、あとで、場内で取材してる姿を見かけた)。
 博物館に到着してみると、開館までにはまだ一時間以上あるのに、既に50人ほどが並んでいた。先頭は小学生の三人組である。父がそれを見て「あれはヤラセやな。誰が小学生で博物館とかに興味があるもんか」と決め付ける。その可能性もないわけではないが、小学生でも美術品とかに興味のある子供がいてもおかしかないと思うけどね。

 しげがすっかり退屈して、かと言って父がいる手前、「帰ろう」とも言い出せずにぐったりして来たころにようやく開場。まずは三階の開館記念特別展示「美の国 日本」展に行く。オープニングセレモニーで、あちらこちらのお偉いさんが10人ほど、寄ってたかってテープカット。例の三人組の坊ちゃんたちが「一番乗り」ということでインタビューされて中に入ったあと、ようやく入れてもらえる。
なんたって何百点という展示物があるのだから、内容を詳しく書いているとキリがない。ごくかいつまんで紹介することにする。
 二部構成に分かれた第一部は「アジア古代王朝の精華」。正倉院の御物や「漢委奴國王」の金印も見られる。近年発見された、阿部仲麻呂と同時期に唐に渡って客死した日本人「井真成」の墓誌もある。このくらいの漢文なら何とか読めるなあと一所懸命読んでいたら、隣に現代語訳の説明の看板が立っていたのであった(笑)。
 第二部は「大航海時代の日本」。
 室町・安土桃山時代の屏風絵や武士の兜・鎧・具足、また武士たちの肖像画など。父はやはり道具箱に描かれた山水や、屏風絵の風俗、花鳥風月などに興味を惹かれている。私の祖父は沈金師で、父は本当はその跡を継ぎたかったのだがそれを果たせなかった思いが、今でもこういう工芸品、美術品への憧れと拘りを抱かせているのである。
 「お前の爺ちゃんはこういう展覧会があると必ず来て、絵を見て行きよったもんなあ。それで家に帰ったら、早速、絵を描いてみるとやけど、それが真似にならんで、ちゃんと爺ちゃんの絵になるとたい」 
 「爺ちゃんの絵は凄かったもん。ここにある絵のいくつかには負けとらんよ」
 「跡ば継いだお前の伯父さんは十年しか続かんやったもんなあ。伯父さんには爺ちゃんのような格調はなかったけん」
 身贔屓でなく、祖父の絵は、そして家具・調度に刻まれた金箔の鷹や、虎や、山水は、魂を与えられ、生きて動き出すかのような迫力と精気と、獰猛と慈愛とに満ちていた。残念ながらその血は父と私に伝わってはくれなかったようだが。

客はどんどん増えてきていて、一つの展示物をじっくり見ようにもどんどん押されていくような感じになる。最後の展示は信長や秀吉ほかの戦国武将たちの肖像画だったが、立ち止まっているとこちらの方が迷惑をかけているような感じになる。予定より早めに次の会場に移ったが、それでも一時間以上は経っていた。
四階の「文化交流展示室」。旧石器時代から近世までの美術品、博物資料の数々を展示している。
でもその中で一番印象に残ったのは、出入り口にあった「水城のジオラマ」の中に、誰がイタズラしたのか、「トラクターのミニチュア」が置かれてあったことだ。ガラスケースの中に密閉されているから、やったのは関係者以外にはいない。楽しいことをする人もいるものだが、誰かが気が付いて撤去しないかどうかが心配である。九国に行かる方は御早めに。どこにそれがあるか探してみるのも一興だろう。
世界地図を見て、地名が全て漢字で書いてあるので、学生さんらしき人二人が一所懸命解読しようとするのだが歯が立たない。「……てい・あ? どこだこれ?」なんて言っている。「あのね、それはね、『応帝亜』と書いて『インディア』と読むんだよ」とよっぽど言ってやろうかと思ったけどやめた。だって「分かった、メキシコだ!」とか言いやがるんだもん。

このころになると、しげは疲れ果てて会場内の椅子に座りこんでいる。そろそろ退散しないと辛かろうな、と思って、蒔絵の壷に勝手に触って係員さんからたしなめられている父を見つけて、一階まで降りる。沖ノ島の映画もシアターで上映していたのだが、人も何十人も並んでいたし、それは涙を飲んであきらめる。これは次回のお楽しみ、ということにしておこう。
一階は「あじっぱ」という体験ゾーン。世界各国のパズルをやったり、ドラを鳴らしたり、壷に触ってみたり、民族衣装に着替えたりすることができる。お子さん連れのお客さんは、子供をここで遊ばせておいて、自分は会場を見て回れる、というそういうコンセプトだろうか。
 ここで偶然、職場の同僚がボランティアで働いているのを見つけて驚く。軽く挨拶を交わしたが、休日もこうして働いているとは、この方、いったいいつ休んでいるのだろうか。

 会場を出て天満宮にお参り。そのあと参道の蕎麦屋で蕎麦と梅が枝餅を食べて帰る。
 父は天神に用事があるというので、帰りはちょっと遠回り。「三越で北海道物産展があるって言うけん、覗いてみる」ということなので、三越前で父を降ろして帰宅。
 ところが、じきに父から電話が入ってきた。
「物産展があると思うとったのは勘違いやった。家に帰って片付けしよったばってん、やる気が失せたけん、一緒に食事せんや」。
奢られ飯は遠慮しない。ダイヤモンドシティのパンのバイキングの店でたらふくパンを食った。
 
 
 帰宅して、録画しといたアニメや特撮を見るが、そこまで感想書いてたら時間がいくらあっても足りないのでもうホントに簡単にヒトコトだけ。。
『BLOOD+』第2話「魔法の言葉」。
 普通のアニメなんだけど、I.Gが作ったと思うとクオリティが低いように感じてしまう。
『仮面ライダー響鬼』三十六之巻「飢える朱鬼」
 あきらはあきらのままでイメージがあまり変わってない。よかったよかった。
『おジャ魔女どれみ な・い・しょ』第2話「N.YのMAHO堂 〜ももこのないしょ〜」
 メアリーはアメリカのたまきさん♪
『地獄少女』第2話「魅入られた少女」。
 よくある話だけれど絵はきれい。ノトマミ、こんな声も出せるんだなあ。

2002年10月16日(水) 合宿落穂拾い・その他盛り沢山/『ナジカ電撃作戦』2巻(田代琢也)
2001年10月16日(火) ココロを濡らす雨……詩人だなあ(どこが)/『エンジェル・ハート』1巻(北条司)ほか
2000年10月16日(月) ファジー理論とエスパーとサイボーグと/アニメ『犬夜叉』『人造人間キカイダー』第一話ほか



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