無責任賛歌
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| 2005年08月01日(月) |
無意識の戦争/舞台DVD『仮装敵国 〜Seven 15minutes Stories〜』 |
これも先に但し書きしておかないとまた誤解を招きそうなんで一応断っておく。 私はもともと、スポーツは決して嫌いじゃない。生まれつき体が弱いから苦手ではあったが、小学校時代、マラソン大会はいつもビリだったがリタイアしたことは一度もないし、地域の子供相撲大会とかに参加した思い出はあるし、平和台球場に野球観戦に連れてってもらったことだって何度もある。 じゃあ、大人になってスポーツに全く興味を示さなくなったのはなぜかと言うと、ひとえに世間のファンの熱狂ぶりが鬱陶しくてたまらないからだ。 特に世界大会の類になると、どうしたって政治や国際情勢と無縁ではいられなくなるから、純粋にスポーツを楽しむことはほぼ不可能になる。 何度もこの日記でも書いてきたことだが、国家間のスポーツ試合が「代理戦争」になっていることを憂える人間があまりに少ないことは極めて危険な状態なのだ。だって、「負けた悔しさ」は絶対「雪辱」とか「復讐」という次なる「より過激な」戦いを誘発する要素にしかならないから。 つか、実際にそうなった例はいくらでもあるというのに、相変わらず「○○○国倒せ」とか平然と言ってられるってのは、心の底ではみんな戦争がしたくって仕方がないのだとしか思えず、暗澹たる気分になる。クーベルタンの「オリンピックは参加することに意義がある」ってのは、スポーツが政治に利用されることを戒めることが目的であったのだが、真剣にこの言葉の意味を噛み締めてる人間がどれだけいるのだろう。 「自分は純粋に試合を楽しんでるだけだ」と思ってらっしゃる方、でも周囲の人々、あるいはネットの匿名掲示板に群れ集ってる連中を見て御覧なさい。あなた以外のファンが本当に「スポーツだけを楽しんでる」と断言できるかどうか。 ここしばらくの世間のサッカー熱もいい加減でどうにかしてほしいと思ってたのだが、何が一番いやな気分になるって、「絶対に負けられない戦いがある」ってあのキャッチフレーズだ。 選手がそういう気分で戦うのは別に構わないけど、マスコミが煽るこっちゃねー(怒)。なんであんな選手無視の言葉が堂々とまかり通るってんだ? これまでのスポーツの歴史の中で、こういうマスコミや世間の過激な煽りのせいでダメになっちゃった選手の例、いくらでも挙げられるだろうが。そういう批判を避けるつもりかどうか知らんが、「誰のために」「何のために」負けられないのか、曖昧にしているところがこのフレーズの特にいやらしいところだが、またそれに簡単に乗っかっちゃうアタマ軽いファンがゴマンといるってことも情けなくてね。 で、東アジア選手権で、日本は北朝鮮に1−0で敗退しちゃったわけだけど、ネットをあちこち覗いてみると、予想通り、日本チームをもう小汚く罵倒する連中の多いこと多いこと。 こないだ勝ったとき北朝鮮をからかってたやつらと同じ連中かもしれないが、勝ったときに有頂天になりすぎてた感じだったから、負けたらいったいどんな反応するだろうと思ってたんだけど、日本チームへの慰めとかねぎらいの言葉がホント少ないのね。どうしてまあ、あれやこれやと欠点をあげつらうことばかりに血の道あげられるのか、神経を疑うよ。 そりゃ、北朝鮮のファンの方がアタマはとことんイカレちゃいるんだが、ありゃ国家戦略で洗脳されてるんだから狂ってるのは当たり前だ。でも、日本人の場合、マスコミの影響だけでなくって自ら狂おうとしてるやつの方が多くはないか? 何も北朝鮮に対抗して、自分たちまでアチラのレベルにまで下がってやる必要はないんじゃないか? 負けたら負けたでいいじゃん。ドイツに行けることは決まってるんだしさ。照る日もあれば曇る日もあるって、どうして鷹揚に構えられないかね? 中国も北朝鮮も韓国も民度は低いが、日本だってあまり熱狂が過ぎると威張れたものではなくなるのである。今は本当に北朝鮮憎しとか韓国憎しとか中国憎しとか、敵愾心をあらわにしたにわかファンが増えてるから、「自分はそうではない」と冷静に自己認識ができるのなら、そいつらに同調するような応援の仕方にならないように自重したほうがいいと思うのである。 しばらく日本チーム(「ジーコジャパン」って言い方も意味不明で好きになれないのでこう呼ぶ)も負けが込んだほうが、にわかファンも減って、本当のサッカーファンだけが残るんじゃないかね。 「好きなチームが負けても決してファンはやめずに応援する」これが本当のファンってものじゃないかね。 ……あ、それで今気づいたけど、俺って、「選手」のファンになったことはあっても、スポーツ自体のファンになったことはなかったなあ。長嶋は長嶋、大鵬は大鵬だから好きだったのである。だから未だに野球のルールとか全然知らないんだけど。
朝起きたらまた手足が痺れていて動かない。ものは何とかつかめるが、握力がなくて強く握ることができない。立ってもふらついてコケそうになってしまう。ちょっとシャレじゃない状態だったので、仕事を休む。薬も飲み始めたし、休み明けには調子も戻るだろうと思っていたのだが、そううまくはいかなかったようだ。 年を取ったんだなあと自覚するのは悲しいが、ちょっと夜更かしが過ぎたりすると、すぐカラダに来てしまうようになってしまった。つかこれ、明らかにこないだのカラオケの影響だろう。もちろん体調のいいときなら多少の無理は利くんだが、体調のいいときの方が少ないんだから、もう無理はしちゃいかんということである。 多分、毛細血管があちこち詰まりかけているのである。風呂に入っちゃ出、指先、足先を揉み解して半日過ごす。その間、しげが何をしているかというとやっぱり寝ているのである。もう文句を言う元気もないが、役に立ってほしいときに絶対に役に立たないんだよな、こいつは。
舞台DVD『AGAPE store #10 仮装敵国 〜Seven 15minutes Stories〜』。 G2演出の舞台はたいてい福岡か北九州には来るのだが、これはなぜか福岡での公演がなかった。DVD発売は何より嬉しい。「AGAPE store」としての公演だから、当然主役は松尾貴史である。『ガメラ』とか映画でのチョイ役出演や、バラエティ番組でのアンチ・オカルト・コメンテイターとしての彼しか知らない人には、舞台役者としての、喜劇役者としての彼をぜひとも知ってほしいところだ。 今回は七人の作家による七つの短編オムニバス。どうしてもスケッチの羅列になってしまう分、松尾貴史が持っている天性の狂気と言うか毒と言うか胡散臭さと言うか、それがエスカレートしていく面白さは今ひとつ味わえないが、作品ごとに変わるキャラクターの変化、各作家の力量の差が見えるのが面白い。 いや、一応、どの作品も水準以上の出来ではあるので、「差」と言っても部分的な視点における比較対照の問題でしかないということをお断りしておく。目安の意味で、今回は「点数」を付けてみることにする。 共演は辺見えみり・コング桑田・八十田勇一・福田転球・久ヶ沢徹・春風亭昇太。
1,長塚圭史「素晴らしい愛をもう一度」55点。 バスが自爆テロに遭って、妻(辺見)を失った夫(松尾)。彼は案内人(昇太)に連れられて、遺体が収容された公民館で妻と対面するが、妻は死んでいるにもかかわらず起き上がり、夫の浮気を責め立てる。そしてそれに同調するかのように他の遺体たち(コング・八十田・福田・久ヶ沢)も目覚め始め……。 舞台でホラーをやるのはなかなか難しい。まあホラーというよりはブラックコメディだから特に怖くなくてもいいんだけれど、オチがオチだけに、笑いの中に一抹の怖さを漂わせることができれば本当はもっといいのである。起き上がるまではみんな死体っぽくていいんだけど、いったん目覚めると死体らしさがさらっと消えちゃうのが弱点。あと、冒頭の松尾と昇太の掛け合いがやや「外し」てるのもツカミに失敗している印象。案内人がわざと別の死体を教えるなんてイタズラ、いくらなんでもリアリティがないよ。
2,倉持裕「MEAT DOLL」70点。 自己啓発セミナーで、3人の男(八十田・福田・久ヶ沢)が、指導官(昇太)から、「自分の肉体はあくまで『肉人形』に過ぎず、それを操る精神こそが自分なのだ」と洗脳される。その結果、ついに彼らは「他人の肉体」まで動かせるようになるのだが……。 他人の体も動かせるようになる、という設定には無理があるが、3人のロボットチックなマイム、他人を動かすことによって生じるトラブルが面白く、そういう無理は気にならなくなる。発想は二人羽織なんだろうけれど、それを「一人」で演じるところがミソ。 3,土田英生「潜入」60点 忍者七人が、敵の城に潜入して殿様を暗殺しようとする。ところが直前になって部下たちが次々と「草」(つまり二重スパイね)であったことが判明、味方はどんどん減っていく……。 まあ、結局「そしてだれもいなくなった」って結末になるのは見えているが、その「去り方」にそれぞれのキャラクターに合わせた工夫をしているので決してつまんなくはない。コング桑田がくノ一というムチャな設定も笑わせるし、最も忍者らしからぬ春風亭昇太のトロくさい演技も微笑ましい。けれど「『忍たま乱太郎』だよこれじゃ」という印象もぬぐえない。
4,千葉雅子「危険がいっぱい」50点 元漁師の清掃夫二人(コング・福田)が、ちょっとワンテンポ遅れた感じの後輩(久ヶ沢)をイジッてからかっている。けれど後輩の方はどこ吹く風。二人は適当にサボりながら好き勝手なことを喋っているが、突然後輩が倒れて仰天する。そこは原発で、漏れた放射能に後輩も二人も汚染されていたのだった。 途中までは女の話なんかしていかにも俗っぽい先輩二人と、実は事故で脳に損傷のある後輩とのボケとツッコミのやり取りが楽しいのだが、落ちが唐突で脈絡がなく、「はあ」という感じの一編。原発に関する知識が全くないってのも不自然っぽいが、でも現実に原発事故で死んだ人はホントに知識がなかったりしてるから、リアリティがないわけではないんだが。
5,故林広志「理想の部屋」65点 開戦を目前にして、シェルター内で討議を続ける総理大臣(昇太)・厚生大臣(松尾)・官房長官(コング)。評論家(久ヶ沢)。会話が盗聴されているということで、急遽「暗号での会話」に切り替えるが、その暗号コードが「カップルの会話」を模しているために、緊迫した状況が痴話げんかのように聞こえてしまう。ところがそこに厚生大臣の恋人(辺見)が現れて、本当に痴話げんかを始めてしい……。 これもよくある「言葉の取り違え」ギャグだけれども、かなりな部分までエスカレートされていて、まあまあ高水準の出来。けれど、閣議に関係ないけどなぜか紛れ込んでしまったという評論家っておいしいキャラを後半の展開では生かしきれなかったことと、もっと混乱させてテンポを早くすることもできるんじゃないかって疑問が出て来る点で、若干消化不良が残る。 6,後藤ひろひと「ONE ARMED FORCES」70点 戦場で、塀の上に横たわり、落ちてきた爆弾を片手にぶらさげ、必死になって重さに耐えている兵士(福田)。手を離せば当然爆弾は落下して大爆発を起こしてしまう。そこにニトログリセリンを本部に運ぶ途中の上官(松尾)がやってくるが、彼も左腕を負傷してい助けることができない。衛生兵(八十田)がやってきて二人を助けようとするが、うっかりニトロを受け取ってこれまた身動きできなくなってしまう。そして最後にやってきた女性兵士(辺見)は……。 一編のスケッチとしては一番まとまっている。最終的にどう考えても脱出のしようがない(つか、手榴弾のピンを抜いているから、数秒後にはどうしたって全員爆死である)状況なのに最後がとぼけたセリフで終わるのもツボを押さえたオチだ。まとまっているだけにさらに「この状況から脱出できたらもっとすごいスケッチになるよな」とつい期待したくなるのは欲深な要求か。
7,ケラリーノ・サンドロヴィッチ「スポンサー」75点 旅行先の料亭で、不倫カップル(松尾・辺見)が別れ話をしている。そこに仲居(昇太)が茶碗蒸しを持ってやってくる。茶碗蒸しを食べた夫は突然苦しみ出して絶命。実は女と仲居は共謀して夫を毒殺しようとしていたのだった。 ……というのは実は2時間ドラマのクライマックスシーン。三人はみな役者だった。ところがそこにプロデューサーから連絡があって、スポンサーに製薬会社がいる関係で毒殺はNG、撮り直しという事態になってしまう。急遽脚本が練り直されるが、脚本家(八十田)が考えたストーリーはとんでもないものだった……。 スポンサーの横槍でドラマが混乱ってのは三谷幸喜『ラヂオの時間』にもあった設定で、話がどんどん非現実な方向に進んでいくのも同工。殻は同じでも中身が違うから模倣した印象はないが、だったら三谷幸喜よりも面白くならなきゃいけない。まあ「すごく」とまではいかないが、死んだ仲居を二人羽織で操るギャグが秀逸なので、「少し」面白くなってるというところか。 ラスト、全体を総括するに当たって、これまでのスケッチをこき混ぜた演出は、一見不条理劇的であるが、実は喜劇の定番のカタストロフ・エンディングである。ケラさんが「筒井の子」であることがよく分かって面白い。
でも、全体を通してみると、「そこそこに面白い」印象はあっても「すごく面白い」ことにならないのはどうしたことか。これがオムニバスの持つ欠点の一つで、各エピソードに出来不出来が生じた場合、全体的な印象はどうしても「不出来」の方に引きずられる結果になるのである。シティボーイズやラーメンズのようなハイレベルな舞台であっても、それは起きてしまう現象で、それを回避するには「突出して面白い」エピソードが一つは必要になるのだが、今回はそれがなかった。「そこそこ面白い」が、全体として「今ひとつ」という雰囲気を作り出してしまっているのだ。 先述した通り、松尾貴史の毒を充分に発揮させられなかったこともちょっとネックになっている。でも、こういう「合作スケッチ」の試みはもっともっと作られたほうがいいと思うんで、第2弾、第3弾とシリーズ化してくれると嬉しい。
2004年08月01日(日) あなたへ 2003年08月01日(金) 引用は盗用じゃないぞ/映画『茄子 アンダルシアの夏』/『踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』 2002年08月01日(木) MANGA ATACK!/テレビ特番『パワーパフガールズムービー』/『トランジスタにヴィーナス』4巻(竹本泉)ほか 2001年08月01日(水) 掲示板変更&21世紀の夏/『日本はなぜ負ける戦争をしたのか。 朝まで生テレビ!』(田原総一朗)ほか
| 2005年07月31日(日) |
政治を笑えば政治に利用されるということ/映画『チーム★アメリカ ワールドポリス』 |
昨日、本当は朝から映画を見に行くつもりだったのだが、体調がすぐれず控えていた。 今日は昨晩の(つか朝までの)花火とカラオケで昼までくたばる結果になったので、その判断は正しかったと言えよう。 夕方になってようやく体が動くようになって、シネ・リーブル博多駅に映画『チーム★アメリカ ワールドポリス』を見に行く。世間は『亡国のイージス』の方に群がっているのだろうが、優先順位はやっぱりこっちが先になるよな(笑)。
『サウス・パーク』のトレイ・パーカー&マット・ストーンによる懐かしの「スーパーマリオネーション」映画であるが、まず内容紹介以前に、気になってる方も多かったであろう「果たして天皇皇后両陛下の出演シーンは上映されるかどうか」について報告しておく。ハイ、見事にカットされておりました。『チンポコモン』と同じ憂き目ですな。日本のどこが自由の国だと悪態の一つも吐きたくなる方も多かろう。別に私は天皇制反対論者ではないが、こういうつまらんタブーが現実に存在している以上は(右翼が実際に過激な行動に出る可能性が常にある以上は)、「日本は絶対に右傾化なんかしない」という主張に説得力がなくなってしまうのである。自主規制なんかするな。 多分、このシーンはDVD発売の際も日本版ではカットされることはまず間違いのないところだろうから(しかも何の説明もなく)、完全版を見ようと思ったら、本国版のDVDを取り寄せるしかない。お金の余裕がない人は、日本版を見てどこにどんな形でそのシーンがあったかを想像してみよう。 公開二日目であるにもかかわらず、ガラスケースの中にパンフレットが見当たらなかったので、もしやと思ってカウンターで「パンフレットは売ってないんですか?」と聞いてみたところ、「制作されてないんですよ」とのことだった。本当かあ? なんかマズイこと書いたライターがいて、急遽回収されたとか、そういう可能性もありそうな気がする。映画の詳しい内容を文字で確かめたい人は洋泉社発行の『チーム★アメリカ/ワールドポリス インサイダー』を買うしかなさそうである。
平和を乱すテロリストに対抗すべく結成された国際警備組織「チーム・アメリカ」。世界警察を自認する彼らは、今日も今日とてパリで自爆テロを目論むアラブゲリラを見事に殲滅した。その過程でエッフェル塔やルーヴル美術館が全壊するなど、ちょっとした被害はあったが、世界の平和のためには微々たる犠牲である。たとえアレック・ボールドウィン率いる全米俳優協会から「救済と称して破壊を繰り返しているだけ」と非難されようと、チームは全くどこ吹く風だ。 今日もエジプトはカイロで、憎きテロリストたちが大量破壊兵器を隠し持っているという情報を探り出したリーダーのスポッツウッドは、スパイを送り込むことにする。そのためにスカウトされたのは、なんとミュージカル俳優のゲイリーだった。果たして彼の「演技力」はテロリストたちの目を見事欺くことができるのか。そのころ、テロリストたちの背後に潜む黒幕・北朝鮮の金正日は、全面戦争を画策し、俳優協会を利用しようとしていた……。
さて、本作については「ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記」にて、何度となく町山さんが制作レポートや実際に観劇したときの批評やアメリカでの反響などを紹介している。 内容をかいつまんでまとめちゃうと、「トレイとマットの二人は自分たちではノンポリのつもりで、右も左もブッシュも反ブッシュもまとめてバカにしているつもりかもしれないが、出来上がった映画は政治的発言を繰り返す俳優たちへの嫌悪が勝ったせいで、『親ブッシュ』と捉えられかねない映画になっている」とのこと。あちらでの映画公開がまさしくブッシュ再選の直前だったせいで、実際に「政治的に利用された」と、彼らの「うかつさ」を痛烈に非難しているのだ。 確かに、最終的にはチーム・アメリカたちは俳優協会の役者たちを殲滅し、実はエイリアンの尖兵(トレイとマットは絶対に『ゴジラ対ガイガン』を見ているに違いない!)だった金正日も宇宙に追い払うことに成功するのである。だから、町山さんのように、「チーム・アメリカはバカだけどバカなりに一所懸命正義を行っているのであって、戦争に反対する側が売国奴である、という展開になり、後半はチーム・アメリカを全然バカにしないで賞賛したまま終わってしまう」という見方をすることも充分可能だ。 しかし、チーム・アメリカ(つかアメリカそのものだわな)が自らをDICK(ちん○こ)に例えたのは、まさにあの国の本質がそういう男根的暴力によって支配されていることを喝破しているのであり、決して褒め称えているわけではない。少なくとも日本人で「オレたちみんな、ちん○こ野郎だよな」と言われて感激して同意する人間はそうそういないだろう。なのにアメリカ人の間ではそれが「賞賛」のように錯覚させられてしまうのは、アメリカ人たち自身、自分たちがちん○こであることを「自覚」しているからである。いや、自覚どころか、ちん○こであることに、誇りすら持ってしまっているからである。「ヘイ、オレたちクールでイカしたちん○こ兄弟だぜ、おま○こもケ○の穴もみんなおいらたちがヤッてやるぜ!」って感覚なのだ。 つまりそれくらいアメリカ人の大半は低脳でイカレた糞ったれどもばかりなのだが、自分がバカであることを誇りにしているバカに向かって「バカ」と言ったところで、堪えるはずがないのである。 トレイとマットの二人は決して馬鹿ではないが、彼らの誤算は二つあったと思う。一つは、「親ブッシュ派」を「チーム・アメリカ」という架空のキャラクターに抽象化させたのとは対照的に、「反ブッシュ派」の連中を実在の俳優協会の面々に代表させたために、より「反ブッシュ」の色合いの方が濃く出てしまったこと(殺される俳優たちは以下の錚々たる面々。アレック・ボールドウィン、ジョージ・クルーニー、ダニー・グローバー、イーサン・ホーク、ティム・ロビンス、ショーン・ペン、サミュエル・L・ジャクソン、スーザン・サランドン、リブ・タイラー、ヘレン・ハント。一番バカにされているのはマット・デイモンで、自分の名前しか喋れない)。 もう一つは、「親ブッシュ派」の連中が「チン○コ野郎」とからかわれた程度では屁でもないほどにバカだったとは思いも寄らなかったということだ。「親ブッシュ派」の主流になってるのは反ホモのファンダメンダリストどもだが、実は他人のちん○こくらい喜んで舐める連中で、そのことを映画の中で指摘されても気づかないくらいに脳が腐れているのだ(そういうシーンがあるのである)。やつらを怒らせるくらいに馬鹿にするためには、「チーム・アメリカ」という衣装は“アメリカでは”まだまだカッコよすぎるのだろう。 まあ、我々日本人であれば、チーム・アメリカを見てかっこいいなんて思うことはまずない。アメリカに在住している町山さんから見ればこの映画は「親ブッシュ」に傾いて見えるのだろうが、我々から見れば「親ブッシュ」も「反ブッシュ」も「所詮はみんな同じアメ公」であり、「こいつらみんなただの既知外じゃねえか」なのである。 だからこの映画は、「アメリカ以外の人間にとっては」、既知外と既知外が互いを罵倒し中傷しFUCKし殺戮しあうとんでもなくアナーキーでスラップスティックな映画なのであり、この世界の警察を任じているやつらが本質的に狂っているという、笑えない冗談のような現実がまかり通っている恐怖を描いている作品なのである。 いや、映画見ている最中には大いに笑ったけどね。エロでグロで不謹慎なギャグは大好きだ。マジメな人は「やりすぎで笑えない」なんて言って鼻白むだろうが、人形たちは実に大らかにSEXを謳歌し、単純に殺戮されていて、そこにギャグとしてのひねりは殆どないに等しい。大人向けではあってもギャグのレベルそのものはザ・ドリフターズの「うんこち○ちん」と同程度の幼稚なものなのである。しかしその「幼稚さ」は逆にトレイとマットの「武器」になっていて、戯画化された人物はどんなにその特徴を誇張されて造詣されていても、みな溌剌としていて愛らしく(恐らくはパロられた本人以外の人にとっては)魅力的なのである。 ちょうど小林よしのりが薬害エイズ訴訟被告の安部英を戯画化したときに「思い切り憎たらしく描いたつもりなのにかえって可愛くなってしまった」と慨嘆したように、カリカチュアは差別化であると同時に対象をアイドル化してしまう効果もある。町山さんは「金日正だけが可愛く描かれている」とか日記に書いているが、決してそんなことはない。頭でっかちアレック・ボールドウィンもスーザン・サランドンおばさんも知恵遅れのマット・デイモンも自爆テロリストのマイケル・ムーアも全然可愛いのだ。 場内はなぜか若い女の子のお客さんのほうが多かったが、彼女たちもけらけら笑いっぱなしだった。特に受けていたのは、マイケル・ムーアの自爆シーンと人形セックスのシーンと、「マイケル・ベイはどうして映画監督が続けられるの? 『パールハーバー』は糞だ♪」の歌のシーンであった。私も、これが聞けただけでも大満足だ。
帰宅して、先日入手した舞台DVD『AGAPE store♯8 しかたがない穴』を見る。 去年、福岡公演もあったのだが、つい見に行き損ねていたので、DVDででも見られるのは嬉しい。 脚本はペンギンプルペイルパイルズの倉持裕の書き下ろしで、演出はもちろん我らがG2氏である。コメディが多いG2演出作品であるが、今回はホラー・コメディあるいはブラック・コメディ、あるいは不条理ギャグホラーとでも言うべきもの。笑って見ているうちにどういうわけかだんだんとこちらの神経の方が妙に敏感になるような不安になるような背筋に怖気が走るような、あるいはちょっとばかしトリップしてしまうような、そういうフシギな気分にさせられてしまう芝居である。
南米にある架空の国「ガルガル」がこの物語の舞台。 そこには大昔に陥没した巨大な穴があり、研究所がその穴の底に建設されていた。 その不思議な生態系を調査するために、調査団が派遣された。しかし、ヘリコプターでやってきた調査団は、骨折し意識を失った一人のガルガル人を残して、全員なぜか引き返してしまう。 現地に取り残されたのは、調査とは直接関係のない四人。通訳の蜂賀(松尾貴史)、ノンフィクションライターの恵美(秋本奈緒美)、恵美の付き添いでカメラマンの天川(山内圭哉)、女医の留里子(松永玲子)。研究所に常駐していた所員の佐藤(小林高鹿)は、二重の六角形から成る奇妙な宿泊施設に彼らを案内する。 その閉ざされた空間の中で調査団が再来するのを当てもなく待つうちに、5人の神経は少しずつおかしな方向へ傾いていく。 蜂賀は自分の持ち物が全て「微妙に違うもの」に変わっていると主張する。 留里子は新しい病気の創作にふけるようになる。天川は「この世にあるとは思えない動植物」を執拗に追いかける。彼らの生態を取材し「記録」しはじめる恵美。しかし彼女は一本のペンも持ってはいなかったのだ……。 そして穴の秘密を知っているらしい佐藤は狂気を帯びはじめた彼らを見ながら沈黙を守り続けていた……。
穴の底の物語、と聞くと安部公房の『砂の女』が思い出されるが、あれが一軒家の男女だったのに対して、倉持裕が描く「穴」は更に複雑化し、「穴の底の迷宮」での五人の男女の絡み合いが繰り広げられる……と言っても、ベースはコメディなので、男女のモツレとか、現実の男女であれば起こり得るようなドロドロまでは描かれない。 台形の同じ形の部屋が八つ組み合わさって、二重の部屋を作っているというややこしい構造は何のためか、というのは後で一応、そのわけが説明されるのだが、物理的原因は解き明かされても心理的原因まで作者は解説しようとはしない。そのあたりの観客を突き放した印象は、そのトリックの類似性とも相俟って、森博嗣の某小説を想起させるが、この劇にはミステリ風味はあっても本格ミステリを目指しているわけではないから、謎がやたら残るのは、それはそれで構いはしない。登場人物たちが「穴の謎」に振り回されるおかげで、男女の営みにすら一切頓着しないのも芝居を見ている間はさほど気にならず、一応納得できる流れにはなっているからである。 しかし冷静に考えてみれば、誰かを閉じ込める目的であるわけでもない研究施設に交通手段がヘリコプター以外にないというのもおかしいし、そもそもこの四人が、調査団が引き返したのに自分たちだけ降り立ったというのも理由がよく分からないのである。普通、一緒に帰るって。やはり最初の時点で「穴の毒気」にやられてでもいたものか。 即ち、この物語もまたリアルな現実劇ではなく、連綿と続く“何者かを待ち続ける”ベケットの『ゴドーを待ちながら』の末裔である不条理劇・抽象としての物語であるのだ。彼らは調査団の再来を待っている。怪我をして失神しているガルガル人の意識が回復するのを待っている。しかし、「調査団」は本当に存在しているのか? それは彼らの証言で語られているだけである。先述した通り、彼らがこの地に降り立ったこと自体、不自然なのだ。 しかも、ギャグのように語られはするが、彼らはこの穴に降りて以来、本来の職種をいっかなまっとうできていない。通訳は本当にガルガル語を話せるのかどうか怪しげである。ライターは全くレポートを書こうとしない。カメラマンはろくな写真が撮れない。医者はまともな治療ができない。「穴」という特殊空間にいるために、それはいたしかたのない緊急事態として説明がされるが、そもそも彼らは本当に通訳で、ライターで、カメラマンで、医者なのだろうか? 疑い出せばキリがないくらいで、そもそも本当に「ガルガル」なんて国が実在しているのだろうか?(いや、架空なんだけど)。 意識不明のままの「ガルガル人の学者」は本当に存在しているのか? 「演劇」が「見立て」によって成立する芸術である性格上、その学者はあたかも「そこにいるように見立てられて」演じられているのだが、もしかすると「彼」は「本当にいない」のではないか? 「彼」の正体は最後になってようやく明かされるのだが、たいていの観客は意味が分からずに困惑すると思う。もちろん意味なんて分からなくても構わないのだが、この芝居がまたしても「ゴドーの末裔」であることに気がつけば、その「意味不明」こそが作者の意図したことであることに思いが至るはずなのである。 これは演劇関係者であるならば基本中の基本として知っていなければならないことであるが、『ゴドー』の本質は、ゴドーの正体が誰であるかということよりも、そのゴドーを待ち続けるウラジミールとエストラゴンの二人もまた「正体不明」であることにあるということだ。 「人間とは何か?」「自分とは誰か?」そんな「答えが出るはずもない疑問」を持たされていることがまさしく人間存在の悲劇であり喜劇なのである。我々観客は彼ら五人の右往左往を笑ってなどいられない。彼らが狂気の徒であるならば我々もまた「この芝居を見る以前から」狂っている。我々は生まれついての狂人なのだ。その人間の本質を突きつけているのがこの芝居の最も恐ろしい、「ホラー」としての要素なのである。 ある意味、「またゴドーかよ」という謗りを受ける覚悟も作者にはあったかと思うが(まあ意識しないで『ゴドー』になっていたという可能性もあるが)、舞台設定の見事さと役者陣の熱演で、二番煎じ三番煎じの印象を持たれることをうまく避けている。松尾貴史の操るいかにも胡散臭い「ガルガル語」(よく聞いてみると「愛があれば年の差なんて」「リンガーハットなぜ遅い」とか、日本語を外国語っぽく言ってるだけなのである)も、物語全体を通して見れば、ただのギャグではなく、「本当にガルガル語など話せないのではないか?」という彼のアイデンティティを疑う要素として機能している。全ての「実在」が疑わしくなったとき、そこから立ち上がるべき「人間」というものはありえるのかどうか。 不条理劇の究極はデカルトへの挑戦である。それが笑いと恐怖の表裏一体のドラマとして描かれることの必然をこの芝居は明示しているように思う。 一つだけガックリしちゃったのは、まあ、分かりやすくはあるのだけれど、六角形の部屋の上面図をわざわざ物語の冒頭から舞台に投影していた演出である。そんなの説明しないでいたほうがより舞台が「ややこしく」感じられてよかったんじゃないかと思うのだが。 ついでだけど、天川を演じている山内圭哉、今まさに奥菜恵の浮気相手ではないかと巷のスズメが喧しい人だが、今回はトレードマークのスキンヘッド(後頭部のひとふさだけ残している)をキャップなどで隠しての出演。普通の人っぽく演じてるんだろうけれど、やっぱりどこかコワモテの雰囲気が漂うのは隠し切れない(笑)。でも本当に奥菜恵の相談とかに乗ってあげてたのなら、優しいところもある人なのかもね。
テレビで映画『サトラレ』を放送していたが、久しぶりに見返してみると本広克行の演出が以前にも増して幼稚に見えてきた。一番よくないのは主人公たちを背後で支えているはずの「サトラレ対策委員会」の様子の描写で、委員たちのキャラクターがいかにもコトナカレな連中に戯画化されてしまっているので、それが物語全体に波及して全体的にチャチな印象を与えてしまっているのである。マンガだとサトラレにサトラレないようにする大騒動の様子などを描いても違和感ないのに、実写だとやっぱりどうしても「ありえねー」感じの方が先行してしまうので、それをどうにか処理しなきゃなんないのだが、その工夫が全くないのが本広監督の才能の限界である。 まあ映画全体がつまんなく感じられる原因は、主演の安藤政信 の演技がまたシロウトに毛が生えた程度で見るに耐えないってのもあるね。でもやっぱり八千草薫は年取ってもすっげえいいわ♪
2004年07月31日(土) ドラキュラ×の味 2003年07月31日(木) 女の子がいっぱい/『恋愛自由市場主義宣言! 確実に「ラブ」と「セックス」を手に入れる鉄則」(岡田斗司夫) 2002年07月31日(水) しげ、肉離れ?/『けろけろ 緑の誓い』(矢島さら)/『風雲児たち 幕末編』1巻(みなもと太郎)ほか 2001年07月31日(火) 山田風太郎死す/『新・トンデモ超常現象56の真相』(皆神龍太郎・志水一夫・加門正一)ほか
| 2005年07月30日(土) |
星に花火/『新吼えろペン』2巻(島本和彦) |
『ウルトラマンマックス』第五話「出現、怪獣島!」(装甲怪獣レッドキング/両棲怪獣サラマドン/飛膜怪獣パラグラー/電脳珍獣ピグモン登場)。 なつかしの初代『ウルトラマン』「怪獣無法地帯」のリメイク。前作からはレッドキングとピグモンが継承されての登場で、怪獣ファンとしては喜びたいところだけれど、物語自体はまるで高揚感を得られない。 まず、いきなり出現した謎の島に、DASHよりも先にトレジャーハンターたちが侵入してるという設定がヘンだけれども、またこいつらが定番過ぎるくらいにDASHの妨害をしまくるのが、ドラマ展開上ある程度は必要とは言え、説得力に欠けている。ものすごい犯罪を犯そうとしてるんだから、そこまでの行動に出るからにはよっぽど切実な理由とか緊急事態とかがなきゃなんないはずだし、何らかの心の葛藤だって描いてしかるべきなんだが、脚本はそんな緊張感を少しも描き出そうとしないのだ。いくらなんでもダッシュバードをぶち壊すのは笑いの種でしかない。そんな、駐車場荒らしじゃあるまいし、戦闘機のコックピットを簡単に壊させていいものか(カイトたちは開けっ放しで出てったのかよ)。 昔は、子供だましでない脚本を志す人は、こういうところでも手抜きはしなかったものだ。こんなテイタラクなら、たとえ印象が暗かろうと前シリーズの方がよっぽどマシである。蛍雪次郎さんにインディ・ジョーンズの格好をさせるのもどうかと思う。 怪獣の分類名が「どくろ怪獣→装甲怪獣」(レッドキング)、「友好珍獣→電脳珍獣」(ピグモン)と変わっちゃったことも気に入らない。着ぐるみの出来が40年前のものよりなんかチャチになっちゃってるのはどうしたものかね。 貶しどころ満載だけれども、強いてよかった点を挙げれば、「怪獣島が移動し、日本に迫ってくる」という設定が、これまたなつかしの一峰大二作のコミック版『ウルトラマン』を踏襲していたことである。まあ、何で島が動くんだって説明、まさかコミックのまんま「島がホンダワラで出来ている」なんてことにはしないと思うけれども、今のところ前編の段階では何の説明もない。もしかしたら後編でも何も説明しないつもりじゃないかという不安があるんだが、そこまで脚本家がアホだったら、円谷はもう脚本のチェック機能がゼロどころかマイナスになっていると判断するしかなくなるなあ。
アメリカ航空宇宙局(NASA)が、昨29日に、太陽系の最遠部に冥王星よりも1.5倍大型な「第10番惑星」を発見したと発表。 これまた“第10番惑星と認定されたなら”、教科書を書き替えなきゃなんない大事態だけれども、発見された場所が例の小天体が群集している「カイパーベルト」の中だし、これまでに発見されてきた第十番惑星候補を押しのけてまでわざわざ認定しなきゃならないものかどうか、今の段階での発表はちょっと早計じゃないかと思える。周知のごとく、冥王星ですらその大きさから(月より小さい)惑星と認めるべきではないという意見も多いのだから。 まあオタク的には惑星の新名称はいったいどうなるのかとか気にはなる。神様の名前、殆ど使い果たしてるからなあ。言っちゃなんだが、小惑星や衛星にポコポコ付けすぎたのだ。せめてジュノー(ヘラ)くらいは取って置けばよかったのに。けれどその昔、世紀の大誤報であった「第一番惑星」(もちろん水星の内側にあるという意味)にいったんは付けられた「バルカン」はまずないところだろう。太陽から遠すぎるのに火の神はちょっとね。あと考えられる手は、今後も惑星が発見されることを想定して、冥王星1、冥王星2と番号を付けてく方法が残ってるけど、何だかこのまま「2003UB313」という名称のまま、定着しちゃうような気もする。こうなるともう味気ないっつーか、どうでもいい気になってくるよなあ。 惑星認定もまだである現段階では、はしゃぎ過ぎるのも早計だと分かっちゃいるんだが、つい、『セーラームーン』は新作が作られるのかとか、しょーもないことで騒ぎたくなるのは、オタクの性(さが)というよりは、我々の世代がかつて宇宙に限りないロマンを求めてきたロケットボーイズであるからだろう。「無限に広がる大宇宙」とか「Space is the Final Frontier」なんて言葉にたいしたときめきも感じない若い世代にとっては、今回の大発見も「へえ」で終わっちゃうんだろうなあ。そっちのほうがずっと寂しい。
夜、P.P.Produce次回公演のための第一回打ち合わせ……のはずが、出席者が少ないので急遽花火大会に(笑)。参加者は、鴉丸嬢、其ノ他君、しげ、私と、去年も花火で遊んだぞのメンバー。 だいたいうちの劇団、役者希望者がただの一人もいないというとんでもない劇団なので、「裏方手伝いならするよ」というメンバーが集まったって、現段階では打ち合わせにも何にもならないのである。とりあえず台本のシノプシスだけは二人に渡したけど、具体的な検討はもちっとあとになりそう。 最初、去年も花火をした岳城まで登っていったのだが、どういうわけだか、11時も回った深夜だというのにやたら車が停まっている。もちろん、我々同様花火をしに来てるわけでは全然ない。だってどの車も上下に揺れてんだもん(呆)。 いたたまれないので、目的地を変更、志賀島を目指す。途中、海の中道は何キロにも渡ってずっと右も左も海岸だから、どんなに人が来てたとしても、どこかに必ず花火の出来る場所はあるだろうという目算である。そう思って車を走らせたところ、確かに適当な場所は見つけたのだが、そこに至るまで走りに走った。 いやもう、驚いたの何のって、右も左も延々と続く車の列。何十台、何百台来てるか分からないってくらいに車がずっと路駐しているのである。これは別に上下運動しているわけではなく、めいめいが花火をしたりバーベキューしたり何かハイテクなビデオビジョンみたいなの持ちこんで踊ってたりしているのである。 確かに土曜の夜で翌日は休日だ、どこかで飲むよりみんなで集まって海岸でどんちゃんやった方が安上がりではあるかもしれないが、どうしてここまで人間が多いのか。こんな熱帯夜じゃ蚊にだって食われちゃうだろうに、そこまでして遊びたいのか、そういうエネルギー、他に使うことはないのかとか、自分たちも遊びに出かけているにもかかわらず、現代の若者の脳軟化現象を目の当たりにして慨嘆するのであった。 結局、前々回公演のときに舞台で流した映像を撮影した海岸(鴉丸嬢がドレスで突っ走った海岸である)まで出張る。場所はもう殆ど志賀島の手前だ。そこでも既に遊びに来ている連中が二、三組、花火をぱんぱか海に向かって打ち出している。だからその元気、もっと有効に使うことできないのか。 早速、しげが買い込んできた花火の袋を空ける。去年はネズミ花火とかスモークとか、夜中にやっても少しも面白くない花火ばかり買いやがったので、そこんとこ今年は「派手なの買え」と厳重注意しといたので、半分は打ち上げ花火。多分、二、三十発くらいはあったと思うが、其ノ他君と二人でどんどこ打ちまくったら、あっという間に終わってしまった。その間、鴉丸嬢はしげと二人で地味に線香花火とかしている。「男どもはどうしてあんなに打ち上げに熱中できるのか」みたいなこと言ってたけど、もちろんそれが男のロマンだからである。かと言って、フロイト的な解釈はしないよーに。
思い切り喉が渇いたので、飲み水を求めてそのままカラオケになだれ込む。朝の六時くらいまで四人で熱唱。 相変わらず鴉丸嬢と其ノ他君の歌う曲はオールドタイプの私には全然分からない。「ジムノペディ」って言われたら、私はエリック・サティしか思い浮かばないのだ。つか、こういうバンド名を付ける連中ってアタマ悪いとしか思えない。サティとその音楽性を比較される覚悟があってやってんのか? 度胸があるというよりはただの馬鹿じゃないかとしか思えないのだが。 其ノ他君が『HI-HO』を歌うというので、てっきりディズニーかと思ったら、これまたhideのである。こういう間違いをやらかしてるオヤジは、全国にかなりいるだろうなあ。オヤジ世代は新しい知識を全然知らないから参っちゃうよね、と若い人たちに馬鹿にされそうだが、私らに言わせれば、何でそんな紛らわしいタイトル付けなきゃならないのかと、そっちの方に文句を付けたいのである。
前にも日記に書いたことがあるが、そもそもイマドキの歌手やバンドが、旧曲のタイトルをまんまパクることがあまりにも多いのを問題視しないのは音楽家および音楽ファンの意識の低さでしかないと思うのだ。あの曲もこの曲も同じタイトルってんじゃあ思い入れだってしにくい。どうしても「人まね」にしか見えないから、ファンにはなりきれないのである。 「別にアンタにファンになられても困っちゃうよね」とかからかわれるかもしれないが、仮にこれが著作権に引っかからないとしてても、最低限、守らなければならない「礼儀」はあるはずだし、そもそもこれは作家としての「良心」の問題だと思う。どう言い訳したって、既成曲に同タイトルがあるの知ってて流用すれば、それはただの「恥知らず」なんだよね(それはそれとして、版権にうるさいディズニー、曲のタイトルを流用されてもそれは許しちゃうのかな。まあほかにも『星に願いを』とか歌ばかりでなくやたら本だのマンガだの映画だのに流用されてるからいいのかもしれないが。ああ、でも石野真子の『狼なんかこわくない』は私は許す)。 若い人にとっては昔の曲なんて知らないだろうし、今聞いた方がオリジナルってことになるんだろうけれど、だったらタイトルもどうしてオリジナルにしないのか、そこがオカシイのだ。だって、これが小説だったら、新人作家が自分の小説のタイトルに『吾輩は猫である』とか『羅生門』とか付けたら、絶対に問題になるのに(実際、『人間失格』ではモメたよね)、歌に関してだけはそのあたりの感覚があまりにルーズだからである。 これはタイトルだけの問題ではなく、日本の流行歌の場合、ポップスだろうがロックだろうが、全般的に詩の中身も陳腐なのは否定できない事実だと思うのである。別にコムズカシイ詩を書けと言いたいわけではない。日常のちょっとした思いや愛を語る場合でも、みんな似たような言葉、似たようなフレーズばかりを羅列して平気でいられるあの神経は何なのだ。で、何かと言えばサビの部分に英語を入れたがるんだよな。それで何が「オリジナリティ」だ「オンリー・ワン」だ。ウソこきゃあがれ。 この際、ハッキリ言ってやるが、若手の歌手が書く歌詞の七割五分くらいは「詩」と呼ぶのもおこがましいくらいに幼稚で脳タリンである。具体例を挙げるとテキが百万人くらい増えそうだから避けるけれども(既に遅いか)、これまで私が本気で「これはすごい!」と感じた詩は、中島みゆきなど、数えるほどしかいない。ほかのはね、アレとかは無内容だしアレとかは馬鹿だしアレとかは異性に甘えてるだけの糞である。「あの曲はいいぞ!」と反論したいヤツは具体的に歌を教えてくれ。どこがどう陳腐か全部心理分析して説明してやるぞ。
今日は特にアニソン縛りをしていなかったので、中島みゆきを歌ってやろうかと思っていたのだが、其ノ他君に先に『地上の星』を歌われてしまった。いや、あと追いで古いのを歌ってもよかったんだけど、なんか気を削がれた。もちろんこれは其ノ他君が悪いわけではない。でも其ノ他君にはその後、『アニメタル』も歌われちゃったんだよな(笑)。なかなかレパートリー広いぞ、其ノ他君。おかげで間隙を縫って選曲するのがなかなか大変だったけどな。 結局、こないだよしひと嬢とカラオケに行った時と同じように、英語曲ばかり歌うハメになった。 歌っている最中、私は飲み物を注文してはトイレに行きの繰り返しである。体調よくないってのに、全く何をやってんだか。これではまた心配しいな誰かからお説教を食らいそうである。 さすがに五時間もぶっ通しで歌っていれば、アタマがフラフラしてくる(こないだもそれくらい歌ってたけど)。鴉丸嬢と其ノ他君を送った後、帰宅したらそのままぶっ倒れて寝た。明日は『仮面ライダー響鬼』も放送がないので、ゆっくり眠れるのである。
マンガ、島本和彦『新吼えろペン』2巻(島本和彦)。 炎プロアシスタント募集編。読者投票で一番人気のキャラをレギュラー入りさせようという、いわゆる新キャラ導入ということだけれども、あまり魅力的なキャラがいないのがネック(笑)。連載本誌は読んでないので結果がどうなったかは知らないのだが、女の子キャラに決まるんじゃないかね。男増えてもマンガの画面、華やかにならないし。 それよりも今巻で面白いのはやっぱり「富士鷹ジュビロ」との対決編なのである。「架空のキャラの取り合い」って、現実には滅多にないだろうと思う人もいるかもしれないが、つい好きなキャラを自分のマンガの隅に描き込んでしまうという例は、80年代にはやたらあった。いやね、いくら好きでもここまでやるのは行きすぎだろうってのもあったのよ。あ○ひろ○の『とっ○も少○探検○』とか、脇キャラが殆どアニメキャラというヒドイ例すらあったのだ。 そういうシュミが高じていくと、脇キャラばかりでなく、主役か準主役のキャラですら、「このキャラ、あのマンガのパクリやん!」と非難されても仕方がないくらいに「似ている」キャラになってしまうこともよくある。マンガ家さん同志が師匠とアシスタントの関係であるとか、友達同士であるとか、そういう事情があるならそれもたまにはありかなと思うけれど、そうでない場合はやっぱり非難されちゃうわな。そのへん、うまくアレンジできれば、「『D-××××ma×』は決して『×の錬××師』のパクリではない」と言い逃れができるのよ(笑)。アレンジがヘタだと「サンデー」のかつてのアレとか現在のアレとか、困った事態になるんだよねえ。 島本さん自身、デビュー当時はモロに「石ノ森章太郎絵」と言われていたものだったが、実際に石ノ森さんから「認められる」ようになってからは絵柄がかえってオリジナリティを増すようになり、そういう文句もなくなっていった。今や独立独歩、今巻では自作について「従来の基準にあてはまらんところを目指すゆえ、しかたあるまい!」という自らのオリジナリティを宣言して恥じない域にまで達している(まあ、そういう文脈で出たセリフではないのだが)。 あと、巻末に特別収録されている尹仁完×梁慶一による『コリアより愛をこめて』は、『新暗行御史』11巻とのコラボになってるので、島本ファンはこちらも必ず買うように(笑)。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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