無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年07月31日(火) 山田風太郎死す/『新・トンデモ超常現象56の真相』(皆神龍太郎・志水一夫・加門正一)ほか

 7月28日、山田風太郎死す。
 享年79歳。

 例えば、手塚治虫が存在していなかったなら、果たして石森章太郎や藤子不二雄や赤塚不二夫がマンガ家としてこの世に誕生していたかどうか、わからない。
 よしんばマンガ家になっていたとしても、さて、後世に影響を与え得るほどの文化を築き上げていたかどうか。
 今の若い世代、特に10代は、既に手塚治虫を知らない。
 知らないことを恥だとも思わない世代である。
 しかし、マンガに限らず、彼らが恩恵を受けている文化の殆どは、大なり小なり手塚治虫の影響を受けている。手塚治虫の功績は、そうした潜在化した文化を作り上げた点にあるといっていい。

 小説の世界において、そうした作家がいるかと言われれば、私は一も二もなく二人の作家の名を挙げる。
 大藪春彦と山田風太郎。
 この二人がいなければ、今のマンガ、アニメ、特撮、時代劇、刑事ドラマ、SF、その他もろもろのエンタテインメントは、ほぼ壊滅状態になっていたと言ってもいいのではないか。

 風太郎忍法帖。
 『甲賀忍法帖』、『伊賀忍法帖』、『柳生忍法帖』、『くの一忍法帖』、『魔界転生』……遺作、『柳生十兵衛死す』に至るまでの膨大かつ絢爛たる絵巻。
 昭和30〜40年代に大ブームを巻き起こしたその作品群は、無数の亜流を生み、更に亜流の亜流を生み、連鎖していった。
 今や風太郎忍法帖の影響がないエンタテインメントを探すことの方が難しいだろう。
 それは、単に忍者が出てくる、というだけのことではない。
 彼ら忍者が風太郎作品の中では常にフリークスであったこと、歴史の影に埋もれる存在であったこと、にもかかわらず、彼らが紛れもなく「生きて」いたこと。あらゆるエンタテインメントをエンタインメントたらしめる要素を風太郎忍法帖は持っていたのだ。

 直接的な影響は、マンガでは横山光輝『伊賀の影丸』や白土三平『忍者武芸帳』に顕著だろう。この二作が更に後世のマンガにどれだけ影響を与えたかを考えれば、間接的な影響は計り知れない。
 忍者ものはそのまま、SF作品にシフトする。石森章太郎『サイボーグ009』、平井和正・桑田次郎『デスハンター』、などに風太郎忍法帖を重ね合わせることは容易だ。
 山田風太郎は医科大出身であり、荒唐無稽なキャラクターにも一定の科学的根拠を持たせた。忍法帖シリーズがSFたりえた所以である。

 そして山田風太郎創造の名探偵、荊木歓喜。
 非合法の堕胎医にして、頭脳明晰なヨッパライ。
 彼の設定は、偉大な二つの亜流を後に生んだ。
 黒澤明の『酔いどれ天使』と、手塚治虫の『ブラック・ジャック』である。

 もう一つ、直接的な影響を与えたものを指摘しようか。
 かつて、宮崎駿が『シャーロック・ホームズ』をアニメ化しようとした時、初めコナン・ドイルの遺族の許可が得られなかった。そこで宮崎駿がとった手段は、ある小説を換骨奪胎してホームズ譚に取りこみ、似て非なるものにすることであった。
 取りこまれたのは山田風太郎の『妖異金瓶梅』。
 潘金蓮のキャラクターは、ハドソン夫人とモリアーティ教授に振り分けられ、応伯爵がホームズとなった。宮崎版のホームズがどこか冴えなくて、ハドソン夫人に頭が上がらないのは、彼が応伯爵だからである。

 ここで大切なことは、この「模倣者」たちが、自分が山田風太郎のマネをしたことに、全く無自覚かもしれないということである(堂々とパクったのは多分横山光輝だけだ)。
 手塚治虫に「ブラック・ジャックは荊木歓喜ですね?」と聞いても、きっと「いや、あれは私のオリジナルだ」と主張するだろう。しかし、手塚治虫が荊木歓喜を読んでいないはずはない。あるいは、黒澤明の『酔いどれ天使』を見ていないはずはないのだ。
 それらの記憶は手塚治虫の潜在意識に深く沈潜し、そして数十年を経て顕在化した。もはや作者は、自分が何に影響を受けたかも覚えてはいない。
 そして読者も、亜流作品を読むことで、知らず知らずのうちに風太郎のエッセンスに触れていく。
 山田風太郎は、そのようにして、風太郎作品を読んだことのない人間の心の中にも静かに存在しているのである。

 しかし、それだけ人々に浸透しているがゆえに、こうも言えるのである。
 金井美恵子曰く、「山田風太郎は誰でもが読んではいるのだろうが、実はまだ誰にも読まれていない小説家の一人なのだ」。
 我々は、自分の心の中に風太郎が常にいることを自覚していない。本当はそこまで自覚しなければ、山田風太郎の偉大さは理解できないのだ。だが、誰も自覚していないからこそ、山田風太郎は偉大であると断言することもできるのではないか。それが先ほども述べた、「潜在化した文化を作り上げた」という言葉の意味なのである。

 風太郎作品に駄作はない。
 風太郎作品の駄作は、他の全ての小説の傑作の遥か上に位置する。 
 風太郎作品を読まずして、エンタテインメントを語るなかれ。

 傲慢にすら見えるこれらの惹句が、いささかの誇張もないと受け入れられているのも、風太郎作品のみであろう。

 なのに各紙の新聞の死亡記事、小さ過ぎ。
 今年取ったばかりの第4回日本ミステリー文学大賞受賞に触れてたのは読売新聞だけ。朝日も西日本も殆ど囲み記事扱いだ。。
 だから新聞はバカなんだって。\(`0´)/キイッッ。
 怒りを抑えつつ、FCOMEDY「裏モノ会議室」に、訃報を書き込む。

 柳生十兵衛三部作、どこかの局が一年かけて連続ドラマにしないかなあ。

 もしまだ「山田風太郎って、そんなに面白いの?」と疑問に思われるかたは、『伊賀忍法帖』あたりから読み始めてはいかがでしょう(『魔界転生』もいいけど長いし)。純然たる孤高のヒーローもので、読了した後、主人公、笛吹城太郎と別れるのが淋しくなります。……これも『カムイ外伝』に影響与えてるなあ。
 真田広之主演で映画にもなってますが、最高の演技を披露してくれているのは、果心居士役の故・成田三樹夫です。
 DVDももうすぐ出まっせ。


 連日の猛暑。
 仕事に行くのはいいんだけどねえ、立ってるだけでダラダラ汗が吹き出て来るんだよねえ。なんでこんなに汗かいてなきゃならんかってくらい。
 なのに体重の方は停滞気味だ。入院までに75キロっつ―のは、やっぱり無理っぽいな。

 終日勤務の予定だったが、病院に行かねばならないので、仕事を代わってもらって早引け。
 今日は入院する西新の成人病センターではなく、ウチの近所の、かかりつけの医者のほうである。センターから預かってきた手紙を担当の医者に渡さねばならないのと、薬をもらうため。検査をするわけでもなし、たいした用事じゃないけど、それでも今日のうちにでも足を運んでおかないと、いい加減時間がなくなってしまう。
 出掛けに、しげが「早く帰ってねえ」と甘えた声を出す。
 まあ、しばらく優しく相手をしてやらなかったこともあり、できるだけ用事を早めにすまして帰ってやろう、と自転車を飛ばしていったのだが、ちょうど昼休み。
 仕方なく、近所の本屋で時間を潰そうとして出かけていったら、またほしい本を見つけてしまった。

 ケイブンシャ『円谷英二特撮世界』。
 今更言うまでもないが、今年は円谷英二生誕100年である。
 関連本も腐るほど出版されていて、とても全部買うことはできないが、スチール写真のみならずスナップが多いのと、解説にリキが入っているのが見て取れたので購入。
 ひととおり円谷作品を見ていくと、確かに怪獣映画に関しては一本も見逃しがないのだが、初期作品や、コメディ、戦争ものについてはまだ未見のものが多い。
 名高き『ハワイ・マレー沖海戦』を見ていないというのは「円谷ファンを名乗るな」と言われてもしかたがないだろう。
 でも、戦争ものって、岡本喜八作品などの一部を除いてお涙頂戴が多くて好きになれなかったしなあ。
 『白夫人の妖恋』も三木のり平版『孫悟空』もまだ見てない。東宝、いい加減出し渋りしてないでDVD化しろよ。
 宝田明インタビュー、佐原健二・水野久美対談が提灯記事的なのはしかたがないが(水野久美が『マタンゴ』で食ってたキノコは実はピンクに塗った餅で、本当に美味しかったそうだ)、全体的に特撮の成功・失敗についてバランスよく書かれていて、良心的な作りである。

 時間つぶしをしているうちに、病院の昼休みも終わり。
 診察(っても手紙渡すだけ)も5分で終わる。
 でも報告だけで800円取られるっちゅーのはちょっとボッてないか。

 病院の外に、一歩出た途端、突然稲妻が走り、豪雨が降り出す。
 ……ウソみたいだが本当だ。
 慌ててそばの喫茶店に入りこみ、やや遅い昼食。
 サービス定食がサイコロステーキだったので、迷わず注文。朝飯食ってなかったし、これくらいで体脂肪が増えることもなかろう。
 30分ほどしたら、雨はキレイに上がっていた。
 見事なくらい、夕立らしい夕立。こんなのって、滅多にないんじゃないか。
 今年は梅雨も梅雨らしかったし、猛暑も猛暑だし、絵に描いたような「日本の夏」である。
 んじゃ、今年はあと、秋は「枯葉散る秋」で冬は「雪の降る冬」になるのだろうか。


 皆神龍太郎・志水一夫・加門正一『新・トンデモ超常現象56の真相』読む。
 昔からオカルトの類は好きで、その手の番組も一時期食い入るように見ていたものだったが、最近はとんとご無沙汰である。
 それでもたまに『USOジャパン』とか『アンビリーバボー』とか見たりするのだが、しげが気味悪がってすぐチャンネル変えさせるもので、なかなかマトモには見られないのである。
 基本的に心霊現象も超能力もUFOもUMAも、「ホントかウソか」なんて杓子定規な見方をするのは好きではないので、「へ―、そうなの」と、漠然と見るのが好きなのだが、世間はどうしてもクロかシロかはっきりさせないと気がすまない人が多いのだね。
 いや、と学会の人たちではなく、ビリーバーの方々の方である。

 いつぞやの「ネッシーは私たちのイタズラでした」の暴露があったときも、私は別に動揺なんかしなかった。
 最も有名なあの「カマクビ」を上げた写真、なにかの特番で波の形状から数十センチしかないということは指摘されていたし、あんなプランクトンくらいしかいないような湖にプレシオザウルスが住めるわきゃない、ということは科学者の一致した意見だったのである。
 そんなことは知ってても、やっぱり「ネッシーがいたら面白いね」とみんなは楽しんでるものだと、つまりはエイプリルフールを喜ぶのと同じ感覚でいるのだと思っていたのだ。
 でも、あの暴露記事が出た時、私の周囲で「夢が壊れた」なんて言ってたやつが結構いたのだ。……マジで信じてたわけ? ネッシー。そりゃ、ホントに「夢」見てたんだって。

 更にアイタタ、と思ったのは、その直後に放映され始めたアニメ『モジャ公』。最初の数話、藤子・F・不二雄さん本人がシナリオを担当されていたのだが、モジャ公や空夫たちが、「モケーレ・ムベンベ」を探しに行く、という話があったのね。これ、この事件以前だったら、絶対に「ネッシー」を探しに行く話になってたはず。
 いくらネッシーのインチキがバレたからって、モケーレ・ムベンベだって相当インチキくさいじゃんか、なんでそんな姑息な手を藤子さんともあろう人が使うのか、堂々と「それでもネッシーはいる!」と主張することがなぜできないのか、夢を守るってそういうことだろう、と、ガックリきちゃったのだ。
 で、これが藤子さんのアニメの遺作になっちゃうし(T_T)。 

 で、今回、「モケーレ・ムベンベ」もこの本でデマと知りました。
 水深2メートルしかない沼に恐竜が住めるかい(-_-;)。
 あの藤子さんですら、晩年はボケちゃってたんだなあ。
 無常。

 でもマリー・セレスト号事件や、クロワゼットの超能力は、結構信じてたんだがなあ。でも、元々の知らされてたデータにウソが混じってたら、勘違いもするよなあ。
 あ、ユリ・ゲラーは信じてないよ。ルームランナー買う気に全くならなかったから。

 大学の友人で、「スプーンを曲げた!」と言ってたやつがいて、今、教師をやってるんだが、あいつ、生徒に「俺は昔スプーンを曲げたことがある!」とか吹聴してるのかなあ。多分偶然だと思うんだけど恥ずかしいよなあ。



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