無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年10月23日(水) 『ハリポタ』ホントに面白いか?/『呪いのB級マンガ 〜[好美のぼる]の世界〜』(唐沢俊一&ソルボンヌK子監修)

 職場で若い子から、「今日は『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』の発売日ですよ」と教えられる。イカンイカン、すっかり忘れていた。積読にしちゃいるが、一応全部初版で買っちゃいるので、買い忘れないでいようと思ってはいたのだ。
 それで仕事帰りに「本屋に連れてってくれ」としげに頼んだら、「おれはアンタのパシリじゃない」と文句を垂れられる。つい、二、三日前も、私が車の中で鼻歌を歌ってたら、「俺が運転してるのになんでアンタが楽しそうにしてるんだよ」と因縁つけられたが、何をそんなにイラついてるんだろうか。どうやら仕事がメチャクチャ忙しいらしい。かと言ってヤツアタリされても迷惑だ。
 「四の五の言わずに連れてけこのアマ」と、チョイと鼻に指突っ込んで、奥歯ガタガタ言わせてやってドテっぱらに穴ぁ空けてカツブシを突っ込んで言うことを聞かせる。

 博多駅バスセンターの紀伊國屋書店、『ハリー・ポッター』がそこら中に山積。昼間、天神を回って買い物をしたというしげの話によると、「天神コア」あたりでは、一階フロアで叩き売りまでしてたそうである。バナナか。口上の一つでも聞いてみたいものだ。
 そこまで売れてるというのは(売ろうとしているのは)、やはりどこか異常に思える。近来にないベストセラーになっちゃった理由がどうも判然としないのだが、逆に理由なんてたいしてないのかもしれないとも思う。読書が日常の習慣となっている身にしてみれば、『ハリー・ポッター』もたくさんの本の中の一冊に過ぎないのだが、そうでない人にとってはやっぱり面白いんだろう。トバし読みしかしてないんでよくわからんけど(^_^;)。
 でもなあ、あまり若い人がこういうのばかり読んでるのもどうかと思うんだけどなあ。例えば受験生の場合、特に弊害があると思うけどね。読書感想文とか、みんな『ハリポタ』だと、点数はどうしても辛くなるだろうし。面接試験とか、「最近、何か読みました? あなたも『ハリポタ』? ふ〜ん、そうですか。じゃあ、お次の方」ってなもんで、あっさり落とされちゃうかも。
 けれど、今はどこの古本屋に行っても全くその姿を見ない『ハリポタ』シリーズだけれど、3年後にはひと棚全部『ハリポタ』で埋まることになりそうだよな。どうせ「本なんか読まなくても生きていける」とか考えてるど畜生どもがベストセラーだってんで、仕方なく買って読んでるのが殆どだろうからな。そう考えると、これだけ「売れてる」ことが本自身にとってはかわいそうなことのようにも思えてくるのである。

 もう一冊、近所の本屋には全く置いてなくて苦労した唐沢俊一監修『呪いのB級マンガ』もゲット。新刊だってのに平積みされてなくて、棚に2冊しかなかった。紀伊國屋は、唐沢さんの新刊には比較的好意的で、新刊休刊を問わず常時サブカルコーナーに平積みされてるのだが、この本だけは別扱い。ご本人の著作も面白いのだけれど、こういうプロデュース本も唐沢さんの真価が発揮されてると思うので、もっと読まれたらいいと思うんだけどなあ。澁澤龍彦本もあまり売れてなさそうだし。


 晩飯はロッテリアでチキン。
 しげがイライラしてたのは、やっぱり昼間なにやら車のグッズを買ってて寝てなかったせいらしい。帰宅すると、夜仕事に出るまで3時間ほど寝るが、日頃は寝つきの悪いしげがバタンキューである。ああ、ホントにそんなに疲れてるんだったら、ドテっぱらに突っ込むの、カツブシじゃなくて明太子くらいにしといてやればよかった(なんのこっちゃ)。


 先日からLOTTEの『銀河鉄道999』フィギュアを集めているのだが、海洋堂の香川雅彦原型制作なだけはあって、シチュエーションがスバラシイ。今日はようやく一番欲しかった鉄郎の母ちゃん(星野加奈江)をゲット。これが雪の中、機械伯爵に撃ち殺された瞬間の苦悶の表情をフィギュアにしているという通好みというよりは子供向けに何を作るっとんじゃ(^_^;)、という物である。もちろん私はこういうのが大好きだ(まあ、えっち)。
 まだ鉄郎と車掌さんを揃えてないけど、もうこれで充分。好きなのが手に入れば、あまりコンプリートには拘らないのである。


 マンガ、唐沢俊一&ソルボンヌK子監修『呪いのB級マンガ 〜[好美のぼる]の世界〜』(講談社・1680円)。
 ついに出たまるまる一冊好美のぼる本。世に唐沢俊一ファンは多かろうが、こういうプロデュース本まで楽しんで読んでる人はやっぱり「ケッタイ」な部類に入るんではなかろうか。なんだ私か(^_^;)。
 唐沢さんやK子さんがプッシュしているからと言って、じゃあ「好美のぼるは面白いよ!」と人に勧めることができるかと言うと、それはやっぱりちょっとためらわれるところなのである。ただ、それは好美のぼる作品が必ずしも「つまらない」せいではない(読んでつまんねーじゃん」という感想を持つ人が多かろうとは思うが)。
 大衆が消費する文化にも様々な質があって、マンガにおいても、作家性やアーティフィシャルな面が強い作品もあれば、マンガ表現の職人技を見せてくれるもの、ただひたすら荒唐無稽でナンセンスなものなどがあって、その全てをひとくくりにできるものではない。好美のぼるを始めとする貸本マンガや、オヤジマンガ、エロマンガ、4コマ専門誌などは確かに粗製濫造ではあるのだが、ある意味「どうせ読み捨てなんだから何やってもいい」という「デタラメさ」や「自由さ」もそこにはあるのである。そこに常識では考えられないすっとぼけた笑いも生まれてくるのだ。ジャンプマンガを始めとする少年マンガにはシバリが多すぎて、突き抜けた面白さってのはないからね。
 収録作品の『毒香水』、轢き逃げされて顔をメチャクチャにされた少女が、復讐のために麻薬の入った香水を犯人の少女たちに贈って廃人にしてしまうのだけど、いくらクスリが切れて苦しいからって、フツー、女の子が犬のポーズを取って「ウーッウーッウーッ」とヨダレ垂らして唸ったりはしません(^_^;)。一応少女マンガなはずなんだけど。
 しかもラスト、全ての復讐を果たして高笑いした主人公、次のコマで「この手でとうとうやったのになぜ寂しいんだろう」とか言っていきなりクビ吊って死ぬし。間が無いっつーか、「あと1ページしかなかったのでとりあえず結末つけました」っつーか。
 そんな好美さんがライバル視してたのは、手塚治虫だそうである。まあ、先日の『ロック・ホーム』について書いたことでもあるが、初期作品は手塚さんも思いっきり適当でアンチクライマックスな結末つけてたから、確かに同列に並べてみること不可能じゃない。けれど、劇画に対抗するようになって以降、格段にドラマとしての厚みを重ねていった手塚さんに比べて、好美さんは全く変化しなかった。でもこれはこれで「一切の迎合が無い(いや、時流への迎合はあるんだけれど、全て「好美流」に昇華されている)」という点でスゴイことなんだけれど、その偉大なるマンネリを理解するには、世間はもちっとマンガの持つパワーについて学習せねばならんと思うのだ。
 好美のぼる、タダモノではないのだよ。

2001年10月23日(火) 凡人礼賛/DVD『エイリアン9』2巻/『魔獣狩り』(夢枕獏・木戸嘉実)ほか
2000年10月23日(月) 浮かれたホークスファンは情けない/アニメ『犬夜叉』『人造人間キカイダー』第2話ほか


2002年10月22日(火) 愛の賛歌(^o^)/『金色のガッシュ』7巻(雷句誠)/『焼きたて!! ジャぱん』4巻(橋口たかし)/『眠狂四郎』5巻(柳川喜弘)

 21日の日記の続き。『華麗なるロック・ホーム』映像化の歴史。

 恐らく、『バンバイヤ』以降、ロックの映像出演はしばらく途絶える。『アラバスター』、『ダスト8』、『火の鳥・未来編』、『ブルンガ一世』、『インセクター』といったロック出演作が全くと言っていいほど、映像化されなかったせいだが(暗い作品ばかりだしね)、『ジェッターマルス』や『ふしぎなメルモ』あたりにチョイ役出演してはいないだろうか。さすがにそこまでビデオを揃えていないので確認ができない。

 ロックが思わぬ姿で復活するのは、あの悪名高き24時間テレビのおかげである(^o^)。
 ここいらで私の記憶もなんとかハッキリしてくるのだが、24時間テレビ第2作『海底超特急マリンエクスプレス』(1979)でのロックが、映像における初主演作であろう。
 相変わらずただの二枚目で、ピンチになったら情けなく嘆いたりして、ロックらしさはあまりないのだが、ムー大陸の女王であるサファイヤと恋をするのは『リボンの騎士』の再現でファンには嬉しいシチュエーションであった。「放映当日まで手塚治虫が絵コンテを切っていた」というマコトシヤカな風説でも有名な作品である(^o^)。ロックの声は武岡淳一。

 映画の初出演作は『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』(1980)。
 主役のゴドーから恋人を奪い、火の鳥を捕らえて永遠の生命を得ようとする悪辣な科学者を演じて、これこそロック、という感じの名演なのだが、残念なことに名前はロックであっても、髪型が変えられてあの巻き毛が消えてしまった。ザンギリ頭のロックってロックじゃねーよ(`‐´≠)凸。
 サングラスを掛けてるところにかろうじてロックの名残りがある。声は池田秀一。個人的には一番ロックらしさを表現していたと思う。ベストワンに推すなら、映画の出来は置いといて(^o^)、この池田版ロックが一番だと思う。
 ちょうど池田さんも声優として引っ張りだこになって、ノリにノッてた頃である。

 同年、やはり24時間テレビの『フゥムーン』(名作『来るべき世界』のアニメ化なのになあ……)に出演。ちょっと細面にデザインされていて、キャラクター的にもたいして個性を発揮しないロックだったが、声が『2772』でゴドーを演じた塩沢兼人だったので、手塚さんに気に入られて起用されたのかも。

 更に同年、無謀にも『Dr.スランプ アラレちゃん』の裏番組にぶつけて半年で惨敗したカラー版『鉄腕アトム』に出演。
 第10話『白い惑星号』、これは未見なのだが、原作通りならロックがやはり星野光一役で出演しているはずである。もっともキャラデザイン変えられてる可能性は大だけれども。演じているのは『マリンエクスプレス』と同じく武岡淳一。私の調べた限りでは唯一ロックを二度演じている声優さんである。ヒゲオヤジの富田耕生(あるいは熊倉一雄)ほどのフィックスはロックの場合はないのだな。
 第27話の『ブラック・ジャックの大作戦』は原作にないオリジナルエピソードで、タイムパトロールでアトムやブラックジャックを連れて時間犯罪者を捕まえる役だったような(細かいところは忘れた)。サファイアとの三度目の共演だけれど、つまんなかったという印象しか残ってない。演じたのは水島裕で、えらく声が上ずってた記憶がある。
 ほかにもこのリメイク版ではチョイ役出演してる回があるらしい。

 オリジナルビデオアニメ、『ブラック・ジャック』第3話『サンメリーダのふくろう』(1996)にレスリー役で出演。
 巻き髪でかろうじてこれはロックだ、とわかるが、何しろキャラクターデザインが杉野昭夫である。『エースをねらえ!』風のロックって、まあお耽美がお好きな方ならともかく、古いファンにはちと気持ちが悪い。いや、確かにロックには耽美的要素もあるんだけど、あくまで大正・昭和初期の浪漫画の流れにあるんで、鋭角的な線は違うのだ。それはブラック・ジャックのキャラについても言えるんだけどさ。
 しかも声が古谷徹って、違うでしょ、熱血は(-_-;)。シャアとアムロの二人が揃ってロックを演じてるってのは面白いけどね。……あ、マ・クベもか。

 映画としてはイマイチだったけれど、原作にいないのに大抜擢されたのが2001年の『メトロポリス』。
 養父レッド公を敬愛するあまり、ティマ(原作のミッチィ)を破壊することに執念を燃やすなるほどロックに演じさせるにはピッタリのキャラではある。
 キャラデザインの名倉靖博の線は、50年代の手塚治虫の懐かしい線を再現していて好きなのだが、それは同時に『バンパイヤ』以降のロックの狂気も削ぎ取ってしまうことになっていた。ミッチィは原作では男性女性のどちらにも変身できる両性具有のロボットなのだが、アニメのティマは女性形のみでの登場である。ミッチィが持っていた狂気のうち、男性の部分をロックが代わりに演じている、というのが脚本の大友克洋のアイデアであろうから、それはなかなかの着想なのだが、やはり男でも女でもない苦しみを持ってこそのミッチィなので、原作ファンとしてこの改変は素直に喜べるものではない。痛し痒しである。
 少なくとも、ここでのロックはサングラスをかけさせるべきではなかった、と思う。こういう狂気は眼で表現させなきゃならんのだ。演出があの『幻魔大戦』の(^o^)りんたろうだからしょうがないんだけどさ。
 声は岡田浩暉だが、池田秀一によく似ていて、最初聞いたときてっきり池田さんだと思いこんでしまった。声だけならこれもなかなかいい線行ってるんじゃないかな。

 さて、あと最新作として、宇多田なんたらがピノコを演じたどうしょうもないネット配信版『ブラック・ジャック』(2001)にロックが出演しているそうだが、これは未見(どうしょうもないというのはウワサね)。多分、一生見る機会はないような。
 データによれば『第9話 刻印』に間久部緑郎として出演。でも声優の神奈延年という人は知らんなあ。だからどんな声かも想像がつかん。

 抜けは多々あると思うが、ともかくロックの映像化の軌跡をたどってみた。手塚ファンの楽しみの一助となれば幸いである。

 マンガ本編に全く触れないのもなんなので、収録作品のメダマをご紹介。
 やはり手塚作品には必ずある単行本未収録オリジナルバージョンが数編入っているのがうれしいところ。
 サボテン君、というキャラクターはその名通りの作品でデビューし、手塚作品にあっては概ね正義感溢れる少年を好演しているのだが(『ブラック・ジャック』第一話『医者はどこだ!』では、無実の罪に陥れられた主人公を弁護する少年役)、その第一話ではなんとロックがサボテン君を演じているのである。現行の単行本では改稿されて我々のよく知るサボテン君に描き変えられているが、いったいどうしてこのような変更が行われたものか。米沢氏は「ロックではカッコよすぎたのかもしれない」と類推されているが、理由は手塚治虫のみぞ知る、である。
 そして、『ロック冒険記』幻の雑誌版最終回、ロックが死なないバージョン。読んでみるとページ数に合わせたせいだろう、地球の危機がいきなり回避されてしまうご都合主義な結末だが、手塚さんの「とりあえずキャラを死なせりゃ感動的に終わる」という安易な結末のつけ方にはいささか食傷気味なので(『メトロポリス』のミッチィの死などは必然性はあるけれども、『地底国の住人』の耳男などは死なせる意味が全くない)、こちらのほうが新鮮味を感じちゃうね。
 しかし初期のロックは実に女性的なラインを持った美少年なのだよなあ。ちょっと「男装の麗人」的なムードすら漂っている。あの独特な髪の巻き毛は、もともとは少女雑誌の表紙に描かれていた中原惇一や蕗谷紅児のイラストの延長線上にあったのだということが、ロックのアップなどを見るとはっきりわかるのだ。やっぱヅカファンなんだね、手塚さんは(^o^)。
 こういう宝塚趣味は『バンパイヤ』以降はすっかりナリを潜めてしまうのだが、たまにヒョイと意外なところで顔を出してくる。『原人イシの物語』で、死に行くイシの手を握って泣くロックの横顔などは、少女以外の何者でもない。ロックというキャラクターは、やはりただの二枚目にも悪役にも閉じ込められない、幅と深さを持っているのである。

 河出文庫の手塚治虫漫画劇場は、このあとアセチレン・ランプ編を配本するそうだが、できればそれも売れて、ハム・エッグ編、スカンク草井編、レッド公編、丸首ブーン編、金三角編とか出してくれたら嬉しい……って、私、ホントに悪役が好きだなあ。 



 推理作家・時代小説家の笹沢左保が21日、肝細胞がんのため死去。享年71歳。 骨太な作風で知られる氏であるが、そのペンネームは妻の佐保子さんから取られている。そういう繊細で抒情的な面もあったのだ。
 今でこそミステリ界の多作家、と言えば赤川次郎にトドメをさすが、それ以前は笹沢左保か梶山季之、というのが相場であった。生涯の著作が377冊だそうだが、ちょうど三百冊の出版記念が赤川次郎のデビュー時に重なっている。
 「三百冊もよく書けるな」と赤川氏は慨嘆したそうだが、まさか自分が笹沢氏を超えるスピードでその記録を凌駕するとは、当時は思ってもみなかったろう。
 さすがの笹沢氏も、それ以降は著作のペースが落ちたが、それでも77冊を数えたのである。やはり並の筆力ではない。
 高校から大学にかけての一時期、本邦のミステリ作家の作品は一通り読んでやろうと思いたって、笹沢左保も『招かれざる客』ほか何作かを読んでみたのだが、見事なくらいに記憶に残っていない(-_-;)。
 多分、「本格ミステリとは言えんな」という感想を持ったせいだろう。当時の私はミステリに関してかなり偏狭だったのである。今読み返せばまた別の感想もあるだろう。
 赤川氏もそうだが、多作家というのはともすればその評価を低く見積もられる傾向がある。確かに内○○夫とか西○○○郎とか山○○紗とか、何十冊読んでも秀作にぶち当たらないどころか、日本語も使えねえのかこいつらは、ってな感じの憤懣やる方ない思いを味わわせてくれる作家も腐るほどいる。しかし、世の中の愛飲家だって、いつもいつも吟醸酒ばかり飲んでるわけじゃない、とりあえずビールで晩酌できりゃいい、とノタマわれる朋輩も多かろう。鮎川哲也や土屋隆夫クラスの作品ばかりでは、息も詰まるというものである。リズムに乗るように読み流す笹沢氏のような作家を評価してこそ、ミステリの裾野も広がるというものだろう……とかなんとか考えてたら同じようなことを唐沢俊一さんが裏モノ日記に書いてたなあ。これだから日記は遅れちゃうと書きにくい(^_^;)。
 笹沢作品は、小説よりもやはり『木枯し紋次郎』のほうが私の好みに合ったが、中村敦夫主演のドラマのほうがやはり印象が強く、「笹沢左保」を意識したのは実は大林宣彦監督のデビュー作の『HOUSE』出演だったりする。ワンシーンだけの出演だったが、ダンディな立ち姿は結構画面で映えていた。


 いつものことだが、しげの機嫌が悪い。
 毎日、車で迎えに来てくれるのはありがたいのだが、必ずたいしたことでもないことで難癖をつけてくるのだ。
 要するにまたも「オレのことキライやろ」と絡んできたのである。別に何も言ってないのにである(「何も言わない」から勝手にそう思いこむのだろうが、私はただ単に疲れているだけである)。そんな愚痴を口にしたら、私が怒ると分ってるのになぜか何度も聞く。だもんで「しつこい!」と私が怒鳴ることになるのである。
 しげの肩を持つ人は、「女って、自分が愛されてるとわかってても確かめたくなるものですよ」と言うが、それは「わかっていない」から聞いてるのである。「わかろうともしない」とも言う。以心伝心とまでは言わないが、自分で「夫婦は一心同体」とか主張すならこちらが喋ってなくてもそのときの気持ちくらい、ちったあ想像しろと言いたい。「黙ってる=嫌ってる」なんて小学生の発想じゃないんだからなあ。
 「あのさ、国に文化の違いがあるようにさ、個人にもそれぞれ文化の違いがあるんだよ。それを受け入れなきゃ会話はできないの」
 「何がどう違うと?」
 「例えばオレがオマエに最大級の愛の賛辞を贈るとしよう」
 「……うん(〃∇〃) 」
 「そのときオレはこう言う。『何も言わんでもオレの気持ちはわかろうもん』」
 「何それ(`Δ´)。全然愛のコトバじゃないやん!」
 「と、オマエがそう思ってるだけな。じゃあ聞くけど、オマエがオレにめいっぱい愛のコトバを囁くとしたら何て言う?」
 「……上目遣いで睨んで、『嫌いじゃないよ』って言う」
 「それを求愛のコトバと受け取るやつは多分この世にゃいないと思うぞ。だから結局、コトバなんてのは相手には伝わらないんだから、『これがこの人の愛のコトバなんだ』って受け入れるしかないんだよ」
 「……なんか騙されてる気がする〜」
 「騙してねーよ。じゃあ、オレが『オマエの好きなもん奢るぞ』って言ったら、それは信じるか?」
 「うん!」
 「……やっぱり自分の都合でコトバを勝手に解釈してるだけじゃん」
 で、「すし大臣」でたらふく寿司を奢らされるハメになったのだった。
 愛より食い気じゃんかよ、結局。


 マンガ、雷句誠『金色のガッシュ』7巻(小学館/サンデーコミックス・410円)。
 ガッシュたちと出会って戦い、それでも倒されずに生き残っていく魔物たちが少しずつ増えてきているが、必ずしも「強い」魔物ばかりが再登場するとは限らないところがこのマンガの面白いところだろう。
 今巻もまた、「生き残った」魔物として、テントウムシみたいなロップスが登場。魔界の本の主であるアポロは、財閥の御曹司で、ただ自由な旅を楽しみたいだけで、戦いを好まない。その点では清麿やガッシュとも共通しているのだが、「戦い自体を終わらせたい」清麿たちとはやはり根本的に生き方が違う。結局彼らは戦うことになり、それ自体は痛み分けに終わる。
 「魔界の王を決める争い」とヒトコトで言っちゃうといかにも陳腐な設定のように聞こえるのだが、その戦うキャラクターたちの中に、こういう物語の構造そのものを俯瞰する人物を配置することは、うまく行けば作品世界を大きく広げることに繋がってくる。ジャンプマンガだとこれに失敗すること多いんだよね。『封神演義』じゃ申公豹がそうなるべきだったのに、扱いがどんどん軽くなって物語に飲みこまれて、ザコキャラに落ちぶれてっちゃった。
 アポロとロップルがキャラとしてちゃんと転がっていくかどうかは未知数なのだけれど、サンデーの新人さん、最近うまく育ってないみたいだから、雷句さんにはちょっと頑張ってほしいとこなんである。
 ……でも、ウマゴンやキャンチョメ(全く、どこから考えつくんだってネーミングだよな)が勝ち残って魔界の王になっちゃったら、魔界はいったいどうなるんだと心配になるな(^o^)。「メルメルメ〜」しか言えないぞ、ウマゴン。


 マンガ、橋口たかし『焼きたて!! ジャぱん』4巻(小学館/少年サンデーコミックス・410円)。
 巻頭に特別読切『松代DX(デラックス)』と超特盛オマケ『炊きたて!! ゴはん』付き。普通、番外編とかは巻末に付けるもんじゃないかって思ったら、これ、巻末をカラーページにするための措置なんであった。
 でもホントに緑色の「ミドリガメパン」なんて誰が食べたがるってんだ。緑色ってあまり食欲をそそる色じゃないと思うが(野菜が美味しくないのはそのせいもあるかも)。
 パン造りマンガとしてマジメに評価するのはもう無理なんじゃないかって域に入ってきてるけど、あれだねえ、やっぱりマンガで料理物扱うときのノウハウを、『ミスター味っ子』が作ってしまった(アニメ版のほうが特に)ってのは功罪相半ばするところがあるんじゃないかなあ。
 橋口さんの画力は相当なものだけれど、にもかかわらず、焼きそばパンもお好み焼きサンドも、全然食欲をそそらない。その制作過程を細かくリアルに見せることが、かえって食欲を削ぐ結果になっているのだ。これが『美味しんぼ』だと画力がないせいで(^o^)、できあがったものがうまく見えるんだけどね。
 言っちゃなんだが、前作の『ウィンドミル』にしろ、橋口さんは自分の画力に合ったストーリーを作れてないように思うなあ。こういう料理ガチンコ勝負みたいなマンガじゃ繊細な表情なんて描く必要ないからねえ。まだラブコメのほうが絵に合ってるように思うけれど、無難なマンガ描くよりは素っ頓狂なマンガ描いて勝負した方がいいと考えたのかもね。
 でも、一応は料理マンガなんだから、読者が自分で「作りたくなる」ものを描いてほしいよ。マンガにはもともとそれだけの表現力があるんである。私ゃ未だに自分の作るカレーのベースは『包丁人味平』の味平カレーなんだから。


 マンガ、柴田錬三郎原作・柳川喜弘画『眠狂四郎』5巻(新潮社/バンチコミックス・530円)。
 一気につまんなくなった、というよりどうしょうもないバカマンガになっちゃったんですけど、どうしたんですかあ?(^_^;)
 いや、風魔と戦うあたりまではまだいいんだけどね、戸田隼人との戦いなんて、最後はただのドツキ合いだぞ。でもってあの眠狂四郎がねえ、「愛する者、守るべき者のために……闘うっ!!」て言うんだよ。……それ、誰よ(-_-;)。
 柳川さん、原作ちゃんと読んでるのかねえ? これが「眠狂四郎」じゃなくて、たとえば全く原作のない「起笑一郎」とか「食泣次郎」とかなら私も別に文句もないんだけどさ、眠狂四郎って言えば「無明の剣士」であり「ニヒリスト」の代表だよ? 腐っても「愛」なんて幻想は信じないし、「剣」を捨ててのタイマンなんて絶対にしないって。ヤンキーじゃねえんだからさあ。
 なんだかシバレンを本宮ひろしで和えてみましたって印象だけど、それじゃ『真田十勇士』じゃん(^_^;)。別に原作を高尚だというつもりはないけどさ、エンタテインメントにはエンタテインメントとしての「格」がやっぱりあるんだよ。それをまたなんでこんなに意識の「低い」ところにまで持ってきたもんなんだか。
 最初のころはそれほどひどくはなかったし、若い人に読んでもらうにはある程度現代的なアレンジは必要だろうとは思ってたけど、原作の根幹にある「思潮」まで変えちゃ話にならんよ。これじゃ柴田錬三郎を借りてくる意味がないじゃん。柳川さん、自分で何を描いてるか認識してないんじゃないかね。
 原作知らない人にはこれでも面白いんだろうが、その読者が万が一、原作にも興味を持って読んでみたりして、「マンガと違うじゃん」とか文句言い出したら腹立つよな。勝手に設定変えてるのはマンガの方だって。
 焚書せよとまでは言わないけど(おいおい)、少なくとも「柴田錬三郎原作」ってのは看板に偽りアリだからね。

2001年10月22日(月) 野だいこ敬語/『源氏物語』第壱巻「桐壷」(江川達也)ほか
2000年10月22日(日) 時代劇なのにカップルが多いとは珍しい/映画『五条霊戦記』ほか


2002年10月21日(月) 今から2ヶ月後のプレゼントで悩んでいる男の愚痴/『華麗なるロック・ホーム』(手塚治虫)ほか

 入籍してから丸十年を経過しているが、式を挙げたのは五年経ってから。
 てなワケで今日が結婚「式」記念日である。
 ところがしげのやつ、この手の記念日ってのをすぐ忘れるのだな。イベント好きのクセに数字には極端に弱いので、「1021」なんて数字はいい語路合わせも思いつかなくて覚えられないようなのである。ちなみに「入籍」記念日は12月31日で大晦日なのだが、これもしげはすぐに忘れる。なぜだ(まあアホだからなんだけどな)。
 でも金欠病が続いているので、記念日のプレゼントは用意してない。と言うか、何を贈ったらいいか、もうネタギレである。指輪も贈った(縁日で売ってた、やっすいやつだけど)、ネックレスも贈った(観光地で買ったダッサイやつだけど)、ブレスレットも贈った(磁気だか妖気だかが出てる妖しいやつだけど)、香水も口紅もバッグも水着も贈った(たいてい1回で捨てられてるけど)、これ以上、何を贈ったらいいと言うのだ。図書券や現金は「そんなんプレゼントじゃない!」と怒るし。
 「お前の好みのものかどうか分らんからヘタなもん買えん」と文句を言うと、「プレゼントなんか用意してないフリして、『ほら』ってくれたものがステキなものだったりするのがいいとよ!」なんてほざきやがる。わしゃ、エスパーとちゃうわ。
 だいたい私の方から一方的にプレゼント贈るばかりで、しげからは気が向いたときにたまにしかプレゼントなんかくれないのだ。ブルジョアから搾取されるならばまだ納得がいかないこともないが、プロレタリアートがプロレタリアートから搾取するなよ。なんだかムチャクチャ理不尽なものを感じるのだが、世間の夫婦はやっぱり夫が一方的に妻にプレゼントしているものなのだろうか。……でも、親父がお袋にプレゼントしてるとこってあまり見たことないなあ。お袋はしょっちゅう、親父に何やかやと買ってたものだったけど。 

 
 それでもなにかイベントらしきことはせねばなるまいと、「さかい」で肉を食う。そう言えばしばらく焼肉を食っていなかった。
 しげにはとりあえず赤味の肉をあてがっておけばいいのだが、私はそれだけだと物足りないし、第一、三人前の盛り皿を頼んでおいても、しげがその大半を食い尽くすのである(-_-;)。私は私で何か頼んでおかないと腹が減って仕方がない。なんだかよく分らないが新メニューで壷に入ってるホルモンがあったので、それを頼む。甘タレが染みこませてあるということであるが、ホルモンにタレが染みこむものであるのか。まあ、腸だからどこかに穴は開いてるんだろうけれど。味は普通のホルモンと比べて美味いんだかどうだか、まあ、不味いとは言わないけれど、気分の問題という気もする。
 私がホルモンに執着してしまうクセというのは、これもやっぱり子供のころの刷り込みで、親が焼肉と言えばホルモン、というように小学生の私に食わせまくったのである。ホルモン注射とかなんとかとのイメージの混同があったのだろうが、「栄養がある」「からだにいい」と思い込んでいたのだろう。実際はただの腸なんだがなあ。しかし、この手の勘違いは世間一般でも同様だったらしく、昔は焼肉屋の前には堂々と「ホルモン焼き」と看板が立てられていることが多かった。っつーか、ホルモン焼き専門の店まであったくらいである(今はその店は焼鳥屋になってるが)。
 しげ、肉を10枚ほど食べ残して「もう食べきらん。少食になった」とぼやく。言って置くが、「三人前」の皿の、残り10枚である。私はせいぜい5、6キレしか赤味の肉は食っていない。少なめに見積もっても、しげは20枚以上肉を食い、、ご飯も2杯オカワリしているのである。「これで少食になった」と言ってるのだから(一応それは事実だ。昔は肉を10枚も残すことはなかった)、以前がどれほどのものだったかは察していただきたい。健啖家、なんて表現が生易しく聞こえるくらいなんスから、ホント。


 しげ、腹も下ってきたらしく、「早く帰ろうよう」と泣きだす。
 けれど無情に「いや、本が買いたいから」と突き放し、、ムリヤリ積文館に寄らせる。散々肉食っといて、腹が痛くなったなんて、自業自得というものだ。ちょっとくらいガマンせえ、と、しげを駐車場に待たせておいて、本を物色。
 ついでに隣のセガワールドを覗いてみたら、UFOキャッチャーでちょうどいい位置に『ヒカルの碁』の卓上時計が四種類出ていたので、全てゲット。
 喜んで駐車場で待ってたしげのところに持って行ったら、「なんでゲーセン寄っとんの!?」と立腹。
 「いや、たいして時間かかってないよ」
 「かかっとうよ! 行くときは『10分くらいね』とか言っといて、もう30分も経っとうやん!」
 「そんなに経ってないよ。せいぜい20分くらいやろ」
 「そうやってすぐサバ読む! どっちにしろ10分は過ぎとうやん!」
 「……おまえ、心狭いよ。もう少し広くならん?」
 「なるわけないやん。あんたの妻よ?」
 ……どういう理屈だ。じゃあ、私の友人、知人は全員心が狭いんか。どっちかというと心が広い人間ばかりで助けられてばかりなんだが。人間としての器の小ささという点では、私の知る限り、しげと親父が両巨頭だぞ。
 この日記で私は散々愚痴だの悪態だの吐いてはいるが、これは殆ど親父やしげの真似なのである。だって、私ってば日頃はおとなしくって気が弱くって、とても○○○○とか○○○とか○○○○なんてコトバ、口にもできないんですもの(^^)。
 ……っつーことは私、やっぱり身内に関しては不幸なのかも(・・;)。


 エロの冒険者さんのホームページ(未だに『素敵なあなた』というタイトルは馴染めない。ウチのバナー、未だに『元祖エロ倶楽部』のままだし)で、ネタになっていた、ぴんでんさんヤンキー化計画、これにしげが至極ノっている。
 っつーか、先に掲示板の方を見て、ぴんでんさんが本当にヤンキーになったと思いこんだらしい。
 んなバカな(^_^;)。
 以下は車の中での私としげのいつもの会話。
 「てっきり、車もヤン車になったと思ってた」
 「なるかよ。オタクのヤン車ってどんなんだ」
 「だから車体にピーブロ作品とか描いてるんだよ」
 「じゃあ、バックにはスペクトルマンで、サイドはライオン丸か。でもってフロントはザボーガーか。そんな車をぴんでんさんが……したら面白いな」
 「やろ!?」
 「でもそんなアホな車にするやつこの世にいるわけ……」
 ちょうどそのときである。
 しげの車の前に急にグイっと割りこんできた軽自動車。なんだコイツと、思ったが、腹立ちよりもなによりも我々二人の眼はそのバックに思わず吸い寄せられていた。
 ……そこには「ロンドンブーツ」の二人がどでかくペイント(70%美化+ウンコ座り)されていたのである。
 一瞬、我々は呆けた。ちょうど信号ですぐに停車したので事故にはいたらなかつたが。ようやく口を開いたのは私の方である。
 「……これもヤン車?」
 「……じゃない?」
 「あの、つまりヤンキーの人たちにとって、ロンブーってカッコイイ存在な分け?」
 「……じゃない?」
 「どこが?」
 「知らんよ!」
 お笑いでもイロモノでつまんないしキャラが立ってないという私の認識はやっぱりヤンキーとは一線を画すもののようである。ということは、ぴんでんさんがヤンキーになるためには、まず「ロンブー」を許容しなけりゃならないということなんだろうか。いや、ヤンキーの基準が奈辺にあるか分らないが、許容しなければならないハードルはまだまだかなりある気がする。果たしてオタクとヤンキーの両立は可能なのか。
 そう言うと、しげがまたとんでもないことを口にした。
 「……大丈夫。こないだもっとスゴイヤン車、見たから」
 「……なんだよそれ。やっぱりペイント?」
 「うん、バックが『ガンダム』」
 ……い、痛いなあ。オタクでヤンキー。水と油に見えながら、実は共通する何かがあるのか。彼らは若さゆえの過ちを認めたくないのか。
 「でもさ、もっと凄かったのは横んとこ」
 「そこにもなんか描いてあったの?」
 「うん、何だと思う?」
 「『ビバリーヒルズ高校白書』」。
 ……言っとくが、コレ、全然ツクリじゃないからね。世界はまだまだ神秘に満ちて入るのであったた、たたた。


 しげが仕事に行ってる間に漫然とテレビを見ていると、拉致被害者の方々が故郷に帰ったとのニュース。
 もう殆ど興味をなくしてたので、たいして耳にも入ってなかったのだが、あるヒトコトを聞いた途端、思わず椅子からコケ落ちそうになった。
 曽我ひとみさんが故郷である新潟県真野町に帰ってきたとき、出迎えた小学生くらいの子供たちが、「ひとみちゃ〜ん!」と声をかけたのである。
 先日、しげが「5人の人たちのうち、誰がアイドルになるかなあ?」と脳天気なことを言ってたとき、良くも悪くも卑近な日常感覚でしか物事を捉えることができない日本人の性状からすれば、そういうこともあろうかと予測はしてたが、それがもうここまで象徴的に現れようとは……(^_^;)。
 多分、この「ちゃん」づけに対して違和感を覚える日本人は少数派であろう。私はもちろん違和感を覚えるものであるが、別にイイおトシの女性を「『ちゃん』付けするな」などと言いたいわけではない。あの町ではまさしく曽我さんは拉致された19歳のころのまま、24年という時間は動くことなく、「ひとみちゃんはどうしているかねえ」と、家々で会話されてきたのだ。
 だから、曽我さんが帰ってきたとき、ごく自然に子供たちは「ひとみちゃん」と彼女を呼んだ。それは確かに自然な感情の流れではあった。
 だがそれが、彼女のこの24年の人生の否定であることもまた事実である。以前も書いたことだが、拉致被害者たちが被害者のままであの国で生きてこれたはずはないからだ。彼女たちはもう人生の半分以上を北朝鮮人として生きてきたのである。
 彼女たちの抱えている問題はただ故郷に帰ってきたから、で終わるものではない。北朝鮮に残された家族をどうするか、という難問が控えている。なのにあの「ちゃん」はそれらの問題を全て無視している。そしてあの子たちのこの「暴言」を町のオトナたちが誰一人たしなめず、また報道も何の違和感も持たずに放送したのだ。それがいったい何を意味しているか。
 ……なんかこれ以上は書きたくないなあ。
 いや、今後、拉致事件の報道が流されるたびに同じこと考えちゃうんだろうなあ、とわかっちゃったんで、気が重くなってるんだけどもね、つまり、もうこの国は国全体が集団ヒステリーに陥っちゃってるってことなんであるよ。
 ヒステリーは必ずしも感情の爆発という形でのみ現れるものではない。その感情の爆発を内包したまま、一触即発の状態で推移している場合もある。少なくとも、テレビを初め、マスメディアの中では、「被害者5人、北朝鮮に送り返してもいいんじゃない?」という意見は全く語られなくなっているではないか。仮に語ればその人に対してどんな攻撃が来ることになるか。「お前は北朝鮮の味方をする気か!」というのが代表的な罵倒であろう(2ちゃんねるあたりではそういう話も出てるんじゃないかと思うけど、怖いから覗いてない)。けどそれって、「日本は大戦中、朝鮮に対していいこともした」という発言に対して北朝鮮・韓国が激怒するのと同じ感情の流れの果てにあるコトバなんだけれどもね。
 北朝鮮は絶対の悪であり、民主主義を標榜する日本は絶対の正義である。そういう図式を無意識にみんなが受け容れてしまってる状態を冷静ではない、と判断することのどこがおかしいだろう? 私は別に北朝鮮の肩を持つ気はないが、日本政府が「拉致被害者の家族」を気遣ってはいても、「拉致被害者」本人たちのことを気遣ってはいない、ということは紛れもない事実であって、それを指摘をしているだけのことである。
 また単純なやつは、北朝鮮人として育ってきたアチラの家族も日本で引き取ればいい、と簡単に考えてるんだろうなあ。例えばアナタがいきなり「実はオマエは北朝鮮人なんだよ」と言われたとして、見たこともない、政治体制も環境も違う故郷に帰りたいと思うものかどうか。そのあたりの報道が全くなされていない現状は「言論統制」がされてると判断するのが妥当ではないかと思うがどうか。
 ……こんな小さな日記のみのサイトだけど、私のこの意見にもクレームつけてくるバカっているかなあ。もしいれば、逆にこの国がホントに病気に犯されてるってことの証明になっちゃうんだけれども。
 

 記念日の食事は焼肉食ったからもうよかろう、と思っていたが、仕事から帰ってきたしげが、なぜかつまんなそうである。
 「あーあ。今日が終わる」
 「今日は終わるよ。それがどうした」
 「記念日終わるやん」
 「……焼き肉食ったろ」
 「ケーキ食べとらんやん!」
 式にはケーキ。いかにも精神年齢低そうな刷り込みだけれど、しげの精神年齢は実際に低いのでこれは当然の発想ではある。けれど、以前、ホール1個をペロリと食べていたしげもさすがにここまでオトナになるとショートケーキを2、3個食うのが限界である。
 「……じゃあ、ロイヤルホストに行くか?」
 昨日の今日でまたロイホかよ、とは思ったが、ファミレスでもそれなりにディナー風味が味わえる点では重宝している。どうせ食うのは肉料理だが。
 土産にショートケーキを二個ずつ買って帰る。種類はケーキに詳しくないので、とりあえず知ってる名前のものを注文する。シュークリームとモンブランである。片方はケーキじゃないな(^_^;) 
 2ヶ月後には今度は入籍記念日が来る。そのときまでに私は何かしげが満足するイベントを考えつけるのだろうか。


 マンガ、手塚治虫『華麗なるロック・ホーム』(河出文庫・819円)。
 米沢義博編による、ロック・ホームの作品集セレクト。ヒゲオヤジに続いての第2弾だが、こういう編集の仕方の作品がこれまでなかったというのが不思議だ。水木しげるには『ねずみ男の冒険』があったのに。
 手塚治虫が取ったキャラクターシステムをファンなら知らぬものはなかろうが、いったん主役を張った二枚目キャラがまた別の作品でも主役を務める例は案外少ない。アトムだって百鬼丸だってブラックジャックだって、他作品に出演するときはあくまでゲストキャラである。ゲスト以上の役割を振られたのはケン一とこのロック・ホーム(間久部緑郎)くらいではないだろうか。
 米沢氏が解説でロックの変容ぶりを詳述してくれているが、初期作品ではお定まりの正義の探偵少年で、たいした個性もなかったのである。『バンパイヤ』で悪の魅力を発現して初めて女性ファンがついたというのはもう有名。
 収録作品について詳述してったらキリがないので、今回はロックの魅力を別の角度から、つまり、マンガではなく、映像化されたロックの軌跡からちょっと探ってみよう。手持ちのビデオテープで確認できる範囲なんで、随分抜けがあるとは思うが。

 初めて映像化されたロックは何かと言うと、実写版『鉄腕アトム』(1959)の第1部『ZZZ団の巻』に登場するリヨン大統領の息子、ロベール役、と言いたいところなのだが、コレがちょっとマズイのである。
 というのも、映像化にあたって、これが息子から娘に変更されているからだ。なんとロックの初映像化は女役だった! ……いや、『バンパイヤ』で女に変装したこともあるロックだからおかしかないんだけどね。「ミシェール」(字幕にはそう表記されてるが、本編では「アルベール・ミッシェル」と呼ばれている。リヨン大統領もなぜかアルベール・リヨン博士に変更)という名のその少女を演じているのは、字幕によればサディア・アルテンバイ。
 GOOGLE検索かけても全くヒットしないから、プロフィールが分らないんだが、同話に出演していて『スーパージャイアンツ』シリーズにも出演していたジャック・アルテンバイ氏の娘さんではないだろうか。いや、これがちょっと鼻は大きいけれどなかなかの美少女なんだよね。「天国のママ、パパを守ってくださいね」と祈るあたり、正統派「可憐な」美少女、と言った雰囲気でヨイのですよ(* ̄∇ ̄*) 。もちろん声は吹替えだろうが、口パクが合ってるから、一応、日本語は喋れるようだ。
 ついでだけれど、『アトム』のアニメ化は1963年1月1日が初めて、と思われているが、この実写版のオープニングで実は『アトム誕生』がアニメ化されてるのである。

 実写ではなく、アニメの初出演はモノクロ版の『鉄腕アトム』(1963〜1967)の第16話『白い惑星号』の星野光一役ということになりそうだ。
 声優は『ウルトラQ』第一話『ゴメスを倒せ』の次郎少年の声や、『少年忍者風のフジ丸』のフジ丸、『サザエさん』の三平(初代)を演じた小宮山清。テロップは失われていて、耳で確かめたから本当は断定はできないのだが、特徴のある声だからまず間違いはなかろう。けれど、アニメ用にキャラデザインに若干変更が施されているので(髪のカールがやや直線的)、これをロック初出演作と言っていいものかどうか、ちょっと異論はあるところだろう。ほかにもこのテレビアニメ版は原作が短いためにいろいろな改変がしてある。原作にはないライバルに佐々木小次郎を起用したり、悪役にロンメルやアセチレン・ランプを配してドラマに厚みを持たしてある。
 同様に、第30話『ZZZ総統』でのロベールもキャラデザインが全く変えられていて、『罪と罰』のラスコルニコフみたいなキャラになっている。声優は『エースをねらえ!』愛川マキや『忍者ハットリくん』ケン一の菅谷政子(これも耳での確認)。もしかしたら『アトム』の全話を見るとどこかにロックが出て来ているかもしれないが、さすがに全話を見返す時間と気力はない(^_^;)。誰か熱心なファン、調べなさい。

 ハッキリとロック初出演作と言えるのは『リボンの騎士』(1967〜1968)のフランツ・チャーミング王子(声・喜多道枝)だろう。ジュラルミンだのナイロンだの、『リボンの騎士』のキャラクターには鉱物や加工品の名前が付けられてたのに、サファイヤの相手たるフランツが普通の名前だったのはちょっと不思議に思っていた。ホントは好きなくせによくサファイヤと口ゲンカしていたのは、高橋留美子の『らんま1/2』の乱馬とあかねにまでしっかり受け継がれている黄金パターン。でも、やはり初期のロックは映像化作品でも正統派二枚目であって、ちょっと物足りない。

 さて、他の役でなくまさに極め付けロックとして登場したのが実写とアニメの合成作品、水谷豊主演作としても有名な『バンバイヤ』(1968)。ロックを演じたのは佐藤博(後半は梶健司)という俳優さんだが、どうも私には記憶が薄い。戸浦六宏の熱海教授の印象のほうが強かったせいかも。「佐藤博」で検索しても同名異人が多すぎてプロフィールが解らない。大島渚の『日本春歌考』に出演していた佐藤博と同一人物なのだろうか。
 佐藤さんはエンディングの「ロックのバラード」も歌ってたそうだが、さて、どんな歌だったか。毎回楽しみに見てたのにこんなに記憶というものは消えるものなのか。ファミリー劇場あたりで再放送してくれんかなあ。

 枚数オーバーしたので続きは明日の日記にて。

2001年10月21日(日) もう6年/『背後霊24時!』3巻(がぁさん)ほか
2000年10月21日(土) 仔牛のテールは美味かった。♪ドナドナ/『火星人刑事』4巻(安永航一郎)



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藤原敬之(ふじわら・けいし)