無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年06月02日(日) 天動説健在/『ブレーメン供截慨(川原泉)/『殉教カテリナ車輪』(飛鳥部勝則)ほか

 外出の予定が、しげ、具合が悪いと言って起きてこない。
 おかげでまた『少林サッカー』に行き損なうが、どうやらヒットしているようなので、いきなり打ち切りにあったりすることはないだろう。
 来週行ったって構わないのだが、問題はこちらの財布の中身が来週まで持ってくれてるかどうかだ(^_^;)。
 平日、やたらバカ忙しくなっているので、休日はゆっくり休みたいが、日記の更新が残っている。休日のうちにできるだけ更新しておこうと思うが、不思議なもので、平日よりも書くスピードが遅くなってしまう。やはり気分が休日モードに入っていて、集中できないせいなんだろうか。
 

 アニメ『サイボーグ009』第32話「機々械々」。
 制作がスタジオライブに外注されてるので、キャラクターがいきなり前シリーズの芦田豊雄キャラになっちゃってる。格闘シーンはそれなりに動いちゃいるけど、止め絵は崩れてるなー。もともと丸っこすぎて、石森章太郎キャラには不適切だった芦田キャラだけど、寄りによって004の登場エピソードに使うかよ。007にしときゃいいのに。
 制作態勢が少しは整って来たのか、作画のヒドイ回は少なくなったけど、同時に目を見張るような回もなくなった。しばらくは番外編シリーズが続くみたいだけど、そうなると『ヨミ編』は最終回近くまで取っておくつもりなんだろう。だったら、『移民編』や『海底ピラミッド編』を早いとこやってほしいもんだけどな。


 テレビで『行列のできる法律相談所』など漫然と見る。
 他人の家の物置の壁にラクガキをしたところ、それに500万円の値打ちが付いた、それは物置の持ち主のものか、執筆者のものか、という問題、なんかムリヤリ作りすぎてないか。現実にあった事件だと差し障りがあるのかもしれないけれど、かと言って架空の事件でっち上げても視聴者は「そんなんどーだっていいじゃん」としか思わないんだが。
 『おしゃれ関係』のゲストはオセロ。この番組もちょくちょく見てるんだけど、いちいち日記に感想は書いてなかった。なんで今日だけ書く気になったかと言うと、オセロの松嶋尚美がつい最近まで「太陽と月の区別がつかなかった」と発言したからだ。……いや、この二人、漫才師だったんだね。バラエティのゲストに出てるとこと、『サイバーシックス』の声優としてしか知らなかったから、てっきりタレントだと思ってた。
 それはそれとして、なんで太陽と月を同じものと思ってたかと言うと、昼は太陽しか出てなくて、夜は月しか出てないから、夜は太陽がぐるっと一巡りして月に変わって出て来てると思ってたんだと。
 古館伊知郎から「太陽と月が一緒に出てるとこ、見たことないの?」と聞かれて、「見たことない」と堂々と返事してるんだからすごいものだ。つまりこの人、地球が太陽の回りを回ってるってことも分ってないってことなんだよな。
 恐らくこれはモノホンの天然ボケだろう。山瀬まみや篠原ともえの「天然」に演技が相当入ってることは、それが「笑ってすませられる」範囲に留まっている点からそれと知れる。けれど松嶋尚美のボケは笑うに笑えない。言うに事欠いて、こんなナンタラと紙一重のボケは放送作家だって作るにゃ相当勇気が要ることだ。
 非常識と切って捨てるのは簡単だけど、普通は起こり得ない勘違いがどうして起こるかってことを考えると、この件はなかなか興味深い。学校で地動説教えてる時によそ見してたかサボってたか、家族や友達と喋ってるときにそんな話題が出なかったのか、テレビや本でそういう知識に触れたことがなかったのか、彼女の生活範囲の「狭さ」が原因であることは想像がつく。
 ……つまりは、太陽が地球の周りを回っていようが、地球が太陽の周りを回っていようが、そんなこと知らなくったって、生きて行ける環境が現代だと言うことだ。それって、中世と変わらないじゃん。
 知性って何なんだろうね。


 マンガ、今市子『岸辺の歌』(集英社/EYES COMICS・720円)。
 オビに「ミステリーコミックの名手」とあるのを見て、しげが「今さんって、ミステリーの人だったの?」と聞いてくる。
 確かに『百鬼夜行抄』などは扱っている題材は狐狸妖怪の類であっても、ミステリとしての骨格を供えていることは確かなので、間違いとは言いきれないが、適切な惹句とは言い切れまい。
 ましてや、この話は中国かペルシャあたりを舞台にしたファンタジーだから(もっとも作者ご本人は「インチキファンタジーだから時代考証要らないしなんでもあり」とか言ってる)、ミステリと銘打つのはちょっと違和感がないでもない。

 水乞いの儀式のために河伯に捧げられる12歳の孤児の少女、スリジャ。けなげにもその役目を受け入れ、馬にも船にも乗らず、自らの足で遠い河伯の住む川へ旅をする彼女と、その護衛として付き従う鬼人エン。
 今さんの描くキャラにはどこか「遠い目」をした人が多いのだけれど、それは彼ら彼女らの見つめる未来が、常に一種の「異界」であることに起因しているからなのかも知れない。形骸化して、果たして本当に水乞いが叶うかどうか術を知る方士にもわからぬのに、スリジャは「誰からも必要とされなかった私に、誰かを救えるかもしれない」とただ前を見つめて歩く。そして、その大地を踏みしめた一歩一歩の足跡から草が生え、川が生まれる。
 この結末はなかなかに寓意を含んでいる。
 まるで高村光太郎の『道程』だが、彼方を見つめるスリジャには、自らが作った川を振り帰ることは決してない。
 スリジャにも幸せな未来が訪れたように今さんは物語を締めくくるが、多くの童話のハッピーエンド、「お姫様と王子様は幸せに暮らしました」というのが、実は我々の世界から遠く離れた異界へと物語の登場人物たちが旅立って行ったことを示すように、彼女は決して現世で救済されたわけではなく、視点を変えれば「死」にも等しい境遇に自らを置いたことが分る。
 スリジャは一度も振り返らなかった。かつて住んでいた街のことも、そして読者にも背を向けて。そして我々はもう二度とスリジャには会えない。エンの未来は第二話、第三話でも描かれるが、スリジャはもう登場しない。彼女は彼女で「ここではないどこか」で自分自身の物語を紡いでいるのだろうが、我々に「置き土産」として残された物語はこれで終わりなのである。
 今さんのマンガはいつも「優しい」。
 けれど、それと同時にどうしようもない「淋しさ」をも我々の心に否応なしに残していく。
 「優しさ」を感じるのは、人にであれ妖怪にであれ、「ここにいてはならぬもの」とされている者たちに今さんがきちんと「居場所」を与えてくれているところだ。けれど、彼らの住む場所は常に「遠い目」の先、遥か彼方にしかない。我々の住むところにはないのだ。
 そこに行けぬ我々にとっては、置いてきぼりを食らったような「淋しさ」を覚えざるを得ない。でも、恐らくはそれが誰もが経験せねばならない「孤独」の本質なのだ。


 マンガ、川原泉『ブレーメン供截慨(白泉社/ジェッツコミックス・630円)。
 おお! 3巻で終わってない!
 ということは本作が川原泉さんの最長作品になることはこれで決定!
 御承知のこととは思うが、川原さんという作家は、極めて繊細な心の持ち主で、もともと寡作な上に連載の中断、未完はザラで、ファンとしては連載を起こすたびに「今度は落とさないか、作者が失踪したりしないか」と半ば本気で心配しているのである。

 しかし面白い。
 言っちゃなんだが、少女マンガ家さんの作品世界って、ムチャクチャ狭い人が多くて、私の好きな作家さんであっても、「また前と似たようなマンガだな」という印象を持つ人も少なくないんだけど、川原さんは着実に一作ごとに変容してきている。
 少女マンガにありがちな恋愛ものばかりとは限らない。
 むしろ「恋愛に留まらない人と人との心の関わりあい」に作者の視点が向けられているからではないかと思うが、その作品世界はやたらだだっ広いのである。 スポーツものは『甲子園の空に笑え!』『メイプル戦記』では野球、『銀のロマンティック…わはは』ではフィギュアスケート。もちろんも巷にありふれた熱血ものなどではなく、「のほほんと一生懸命」、と一見矛盾しているようだがまさにそう評すしかない独特の川原ワールドを展開。
 『ゲートボール殺人事件』は冗談ではなくちゃんとした本格ミステリもの。
 『中国の壷』はファンタジー、『殿様は空のお城に住んでいる』は時代もの、『バビロンまでは何マイル?』はタイムスリップSF。
 『笑う大天使』は初めコミュニケーション不全みたいな少女たちの猫かぶり人生を描きながら、SF、ファンタジーの要素を徐々に加味していき、最後は何とも言えない夢のような男女のありようを示して完結した。川原さんの才能の凄まじさを私が感じたのは本作である。
 これで作品数が多かったらまさに「少女マンガの手塚治虫」と評してもいいくらいだ。

 そして川原さんが本格的宇宙SFに挑戦しているのがこの『ブレーメン供戞
 いよいよ悪魔の科学者エルンスト・ヘルツォークとの対決が迫りつつある第3巻、新たな人物、虎のブレーメン(バイオテクノロジーで知性を獲得した動物たち)連邦捜査官シャキールが登場する。
 このキャラが最高にいいんだ!
 ブレーメン兇貌云茲垢襪海箸砲覆詒爐蓮¬宜なまでに職務に忠実、飛びぬけて優れた知性で感情を抑制し、愚かな人間たちのブレーメンに対する偏見、差別、迫害にも決して怒ることなく静かに対処し、そして現在の立場を堅持して来た。
 彼が唯一友と認めた相棒、こちらは人間のアレン・ハークネスは、ヘルツォークを追ってその組織に潜入したまま行方不明になっていた。アレンを追って、シャキールは自らもヘルツォークの潜む惑星プレリアに降り立つ。
 ……いや、これまで登場して来たブレーメンは、みんな簡略化された動物キャラだったんだけどね、このシャキール、実に細密にリアルに、モノホンそっくりに描かれてるのよ。必然的に表情は殆ど動かないんだけれど、なのに感情がちゃんと伝わってくるんだよ!
 ほんのちょっとした目の動き、顔の角度、構図、これで彼のストイックな態度の中に隠されている悲しみを表現している! これはすごい!
 捜査官としての優秀な成績が災いして、かえって相棒の見つからないシャキールの前に、アランが「新しいパートナーだ、よろしく!」と微笑みかけた瞬間のシャキールの驚きと喜びの入り混じった顔はどうだ! 白目をいつもよりほんの少し大きくしただけで、川原さんはそれを表現したのだ!
 ああ、その絵をそのままここに紹介したいなあ……。  


 飛鳥部勝則『殉教カテリナ車輪』(創元推理文庫・777円)。
 第9回鮎川哲也賞受賞作というオビのにちょっとだけ期待して購入。
 「ちょっとだけ」というのは、受賞作=傑作とは限らない例をいくらでも知ってるからでね。
 それでも江戸川乱歩賞と鮎川哲也賞は、応募者にある「拘り」があるように感じられるので、つい手を伸ばしてしまうことが多い。これがメフィスト賞や横溝正史賞になると、これまで随分と辛酸を舐めさせられて来たので(んな大袈裟な)今一つ食指が動かないんだけどね(^^)。
 つまり私の好みは「本格ミステリをベースにしたエンタテインメント」ということなんである。まあ、ごく普通のミステリファンですな。

 表紙をめくって驚いたのは、そこにカラー綴じこみで油彩画の口絵が付いていたからである。これがただの飾りではなく、事件に関係してくることは容易に想像される。事件現場の見取り図とか、登場人物の家系図が付いている例はあるけれども、こういうのは滅多にお目にかからない。これだけでもこの作者が意欲的というか、読者に果敢に挑戦するタイプの作家だということがわかる。期待は必然的に弥増すというものだ。

 美術館の事務員、井村は学芸員の矢部に、ある殺人事件の記録を見せられる。
 矢部はかつて、ふとしたことから東城寺桂という無名の画家に興味を持ったことがあるのだが、その画家はわずか5年の間に五百点もの絵を描き上げた後、自殺していたのだ。
 そして東城寺が絵を描き始めるきっかけになったのが、「同一の凶器」で、「同時に」二つの密室殺人が行われたという奇妙な事件だった。
 矢部はその謎を解くべく、散逸した東城寺の絵画の行方を追う……。

 謎の設定は実に魅力的である。
 不可能犯罪が一つ提示されるだけでもミステリファンはワクワクするものなのに、それがダブルでとはなんとサービス精神の旺盛なことか。
 しかも本作には、更に大きな仕掛けが一つ仕掛けられているのだが、これは私自身の少ない読書量では判断がつきかねるところだけれども、恐らくは古今のミステリ中、全く類例を見ない新しいトリックを創案したと言えるのではないか(ある有名作品をベースにしているとは言えるが、単なるバリエーションを超えていると判断する)。
 その解明についても、一歩間違えばトリックのためのトリックに堕するところだけれども、ギリギリの線で踏み止まって、本格ミステリとして成り立っていると思う。フェアかアンフェアか、ということを聞かれれば「フェアである」との立場を私は取りたい。

 しかしである。
 それだけプラスポイントが高いにもかかわらず、本作を傑作か、と問われれば、私はせいぜい「力作」である、としか評価しきれない。
 殺人に至った過程に無理があるし、犯人の心理も説明不足。
 なにより、私の期待のきっかけになった口絵の油彩画。
 あれが謎の解明にひと役買っていることはいるのだが、それをイコノグラフィー(図像学)の立場で心理分析する方法が、どれだけ実証的なものと言えるのか、はなはだ眉唾で、胡散臭いのである。それは解説の有栖川有栖が「象徴を解くという作業は、論理を重要視する本格ミステリの探偵に期待されていることではない」と指摘されていることなのである(創元ミステリに信用がおけるのは、ヨイショ記事になりかねない解説の文章に、ちゃんとこういう批判が載るところだ)。
 だからこそ私は初め、推理の材料としては向かない「絵画」をあえてミステリに持ちこんだところに作者の新しい「仕掛け」があるのではないかと、期待したのだ。もちろんそこに「仕掛け」はあったのだが、残念なことにそれは本格ミステリとして考えた場合、今一つ、と言わざるを得ないものであった。
 それは小説としての語り口が未熟であるがゆえのことでもあるので、もう少し感情に流されない筆致で書いておけばそういった印象は随分軽減されたのではないか、と思われる。

 全ての謎が解明されるわけではない、人の心は常に闇を持っている、という考え方を作者がしているらしいことは見当がつく。しかし現実がそうであるからこそ、本格ミステリの読者は虚構であるはずの「小説」に「真実」を求めるのである。
 本作の犯人は語る。
 「私は豪徳二を殺した。
  理由はない。
  私は佐野美香を殺してしまった。
  理由はない。」
 もちろんこの告白自体にもトリックがある。
 当たり前の話だが「理由のない犯罪」などというものは存在しない。現実の犯罪においてもたとえそれが衝動的な犯罪であったとしても何らかの「理由」は必ずある。犯人の心理に謎が残るように感じるのは、あくまで「理由をうまく言語化できない」からにすぎない。
 しかし、それをあえて言語化しよう、というのがミステリの醍醐味なのである。
 言語化できないものを言語化しようというのだから、ムチャと言えばムチャなのだが、「不可能への挑戦」は、単に作中の探偵の行動のみに限定されることではなく、ミステリ作家自身の小説を書く上での姿勢でもあるのだ。そこにこそミステリファンは感動を覚えるのだと言っていい。
 そのことをこの小説の作者は軽視している。あるいは放棄している。
 それは、つまるところ本格ミステリに対する作者の姿勢の「甘さ」を示していることになるのだ。
 惜しいなあ、あともう一歩、ディテールを考えればすごく面白い小説になっただろうに。

 ……しかし相変わらずトリックの具体的内容に触れずにミステリを批評するのは難しいよ(´。`;)。 

2001年06月02日(土) レトロポリス/アニメ映画『メトロポリス』(2001)



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