無責任賛歌
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2007年02月11日(日) |
特に悲しくはない死/『轟轟戦隊ボウケンジャー』最終回/マンガ『観用少女 ―明珠―』(川原由美子)ほか |
『キネマ旬報』2月下旬決算特別号を読む。 2006年第80回ベストテンの発表号だから、ともかく分厚い。受賞結果だけは既にウェブで知っていたが、受賞理由や経過など、選考委員たちのコメントを確認するのが毎年の恒例なので、かなり丹念に読んでいる。おかげで、もう何日間も読み続けなのである。
何が疑問って、昨年は『フラガール』に『グエムル』という、まあ駄作とまでは言わないけれども、かなり陳腐で冗長なところのある2作が、あろうことか日本映画の1位と外国映画の3位にランクされてしまったという、こりゃいったいどういうわけだと首を傾げて三回転半はしなきゃならない状況が生じてしまっていたので、そのへんのところを探ってみたいと発売を心待ちにしていたのである。
さて、得点表を仔細に見てみて驚いた。 日本映画の選考委員は60人。そのうち、『フラガール』に投票したのは40人。しかし、10点満点を入れているのはわずかに2名しかいないのである。 それに対して、2位の『ゆれる』の投票者は35人だが、そのうち1位に挙げているのは7名、3位の『雪に願うこと』は31人中6名、4位の『紙屋悦子の青春』は30人中7名、5位の『武士の一分』も30人中6名と、軒並み『フラガール』よりも1位率が高い。 実は「1位に選出した選考委員の数」だけで集計すれば、『フラガール』は同率7位にまで後退してしまうのだ。 要するに合計点数方式の落とし穴というやつで、ベストワンじゃないけど、一応ベストテンには入れておこうか、という判断で得点した作品が、集計してみたら1位になっちゃってた、という現象なのである。 『グエムル』もまた、同じように細かく点を稼いで、3位にまで上昇しているのである。
そもそも、プロの批評家であっても、決して対象作品を全て見ているわけではない。それなのにベストテンを選ぶこと自体、無意味なことなのだ。だからどんな結果が出ようと泰然自若としていればよいのだが、やはりどうしても納得しがたい思いに苛まれないではいられないのである。 傑作とは言いがたい映画が、いかにも傑作であるかのように喧伝されてしまうというのは、映画界全体にとって不幸な事態を招くことになりはしないか。
1位、2位に『フラガール』を推している選考委員のコメントも、腑に落ちない。 石上三登志は「映画的に巧い」と記しているが、困った事態が生じるとタイミングよく救いの手が差し伸べられるご都合主義のどこをどう評して「巧い」と言えるのか。 襟川クロは、コメントで「アニメは『パプリカ』『鉄コン筋クリート』『ドラえもん』が最高」と書いていながら、ベストテンには一本も入れていない。アニメはまるで映画ではないとするような偏見のある態度は、既に映画を批評する資格自体がない。 大森望は「娯楽映画の王道」とまで言い切る。貧乏臭い映画が王道であったために日本映画が衰退してきた事実を認識していないのだろうか。 角谷優は「変わりゆく産業構造の背景をきちんと踏まえた娯楽作」と語る。しかし、全国的には常磐ハワイアンセンターの成功に倣ってアミューズメント施設を立ち上げ、逆に失敗した例の方が圧倒的に多いのである。九州でもネイブルランドは廃墟と化したし、スペースワールドだっていったん破綻している。成功例だけを取り上げている我田引水な映画を「背景をきちんと踏まえた」と評するのは笑止である。 木村啓子の「直球勝負で心に迫った」などは、変化球の映画は評価されにくいということか、と映画作家の努力を考慮していないかのようにすら聞こえて、暗澹たる思いにさせられる。 佐藤忠男は一番熱く『フラガール』を賞賛しており、李相日監督の『青 〜chong〜』と合わせて、「非常に正統的な作り方」「起承転結のしっかりした、折り目正しい、かつての撮影所システムの秀作のような作風」とえらい持ち上げようである。しかしこの批評は同時に「昔はこの程度の映画はいくらでも作られていた」ということをはっきり指摘してしまっている。秀作ではあっても傑作とはいえない、そんな映画を、あえてベスト2に選んでしまっているというのは、結局は古きよき日本映画の黄金時代への郷愁、つまりは感傷的な気分に浸らされているだけのことではないのか。 高橋聰は「映画的カタルシスは圧巻」と言う。カタルシスとは、いったん主人公たちが落ち込んだ逆境が大きければ大きいほど、それを跳ね除けたときに得られるものである。あの程度の逆境のレベルで「圧巻」と言えるのなら、日本人の大半は大苦労人ばかりである。実際、『フラガール』の何がイライラするかと言うと、「その程度の逆境で泣いたり悔しがったりするなよ、みっともない」という点なのだ。『フラガール』を評価した人たちはよっぽど苦労知らずの人生を送ってきたらしい。 土屋好生は「日本映画再興の象徴」「笑いあり涙あり、そして怒りあり哀しみあり。映画に必要な全てがそろっている」と言う。映画に必要なものはそういうものか? それに笑いや涙はまだ分かるとしても「怒り」を観客は何に対して感じるのか。娘に暴力を振るう父親に対してか。定型文で何も評していないに等しい駄文である。
『フラガール』を2位にまで入れた選者に拡大しても60人中8名で、しかもそのコメントは批評家としての資質を疑いたくなるようなあやふやなものが多い。『ゆれる』は2位にまで投票した選者を含めれば15人にまで増える。実質的な昨年の日本映画ベストワンは『ゆれる』であったと考えた方が妥当だろう。 『フラガール』は米アカデミー賞外国語映画賞の日本代表作に選ばれ、あっさり落選してしまったが、もしもこれが『ゆれる』の方であったなら……と、考えてはいけない「IF」を夢想してしまいたくなるのである。
こういう不正確な順位が生じてしまうのであるから、もっとそれぞれの順位の得点に幅を持たせたらどうだろうか。例えば次のようにするのである。 1位46点 2位37点 3位29点 4位22点 5位16点 6位11点 7位7点 8位4点 9位2点 10位1点 これで計算すれば、『ゆれる』は『フラガール』を楽々抜いて1位に躍り出る。それでも不満が生じないわけではないのだが、現行の得点制度よりははるかに妥当な結果が出ることになるだろうと思う。
『轟轟戦隊ボウケンジャー』第49回「Last Task 果て無き冒険魂」 (脚本 會川昇/監督 諸田敏) > 最終決戦を前に、全ての冒険者が揃う! 6人はそれぞれのプレシャス、それぞれの冒険を胸に、決戦の地へ向かった。 >世界のあらゆる災厄の塊である絶望=デスペラート。さらには、プレシャスを取り込む能力を手に入れた大神官ガジャ(大高洋夫)、いや、ゴードムの心臓を取り込み究極進化したガジャドム。最強最大の敵を相手に、彼らはいかに戦うのか?
という最終回。一年間楽しませていただきました♪ 当初の全50話の予定が1話減ってるけれど、別に人気がなかったわけではなかろう。風のシズカ(山崎真美)もいたし(笑)。 あー、ミスター・ボイスの正体、こいつだったか。って、誰も正体なんか詮索してなかったと思うぞ。あまり意味がない意外な結末(笑)。 一番ショックな展開は、ボウケンピンク(末永遥)に牧野センセイ(斉木しげる)がヘンソウしていたことか。体型、完全に変化させてたけど、おまいはポルターガイストかっ(by『鉄面探偵ゲン』。義手義足で身長を変化させられる怪盗)。これもサージェス財団の技術力なんですかね(苦笑)。
細かいことにツッコミ入れちゃうと、今回のシリーズ、テキ役が増えてプレシャスの争奪戦という「タイムボカン複数化」みたいな展開だったので、「悪と戦う」イメージは希薄になってたんだよね。テキ役、みんな愛敬あるやつばっかりだし。 ガジャがラスボスってことになるのは仕方ないとしても、悪の要素としては既に倒されてしまっていた闇のヤイバの方がインパクトはあった。ガジャも結局完全には倒せず仕舞い。「冒険はまだまだ続く」と言われても、若干、消化不良のまま終わったかな、という印象は拭いきれない。 もっとも、ダークシャドーと言うか、風のシズカに爆死とかは似合わないから、「今日もみんなは相変わらずのドタバタ騒ぎ」的な終わり方って、心和みはするのだけれど。でもこれって『うる星やつら』『天地無用!』ラインのアニメの手法だよなあ。そのへん、脚本が會川昇だったからだろうか。
最近は何年か置いて『〜ジャーVS〜ジャー』みたいな企画スペシャルを制作するから、殆どの敵が倒されないままに終わった(ジャリュウ一族もボスいないのにちゃんと頑張ってるし)のは、そういった「続編」構想のためなのかなあと思っていたら、もう来月、オリジナルDVDで『轟轟戦隊ボウケンジャーVSスーパー戦隊』が発売されるのが決まってるのね。はい、ガジャはしっかり出演します。長い眠りにつくどころか、仮眠しか取ってないんじゃないか(笑)。 しかも『ハリケンジャー』のフラビージョ(山本梓)も復活ってんだから、こりゃもう絶対に「買い」なんだけれども、風のシズカとフラビージョの競演が見られないのは残念。山崎真美のスケジュールが合わなかったのか、悪のヒロインが多すぎてもという判断なのか。せっかくの30周年記念なんだから、劇場版でもよかったと思うけどね。フラビージョと一緒にウェンディーヌ(福澄美緒)が復活しないのは、結婚引退されたからだそうである。 そしてこれが一番悲しいことだが、敵方に曽我町子さんがいらっしゃらない……。
『仮面ライダー電王』第3話「アウトロー・モモタロー」 (脚本 小林靖子/監督 長石多可男) > 電王として戦う決意を固めた野上良太郎(佐藤健)だったが、慣れない戦いに疲労困憊。 > そんな彼が倒れたスキに、モモタロス(桃太郎型イマジン/関俊彦)が憑りついては、勝手に体を使う。今日も今日とて、良太郎の体を借りてケンカざんまい。 山越佑(波岡一喜)。売れないミュージシャン。借金を重ねたあげく、盗みにまで手を染めてるヤバイ男……。 > そんな山越に、「面白え!」と手を貸してしまったことから、良太郎+モモタロスが裏の世界に?!
あー、あのイマジンの名前、「モモタロス」で定着するんだ(笑)。 前作同様、フィルム撮影だし、脚本が小林靖子さんなんで、ドラマとしてはそれなりに安心して見られはするのだけれども、かと言ってハマってしまうほどに魅力的とも言いにくい。毎回言ってるように旧ライダーファンはこのシリーズを『仮面ライダー』と認識してはいないだろう。 3話見た段階では、シリーズの方向性がまだつかめない。善の人間と悪(というかやんちゃ坊主)のイマジンとの合体って、『仮面ライダー』としては新規軸でも、まるで『デビルマン』のような『鉄腕バーディ』のような『クロザクロ』のような、要するにマンガじゃよくある設定である。ありきたりと言ったらそれまでなんだが、この基本設定をどう面白くするかが問われるわけだから、今のところはあまり目くじら立てなくてもいいかな、とも思う。 状況説明の方が先行しているので、一人一人のキャラクターもまだ充分に描写されてはいず、人物同士の掛け合いも真剣味に欠ける。 時間移動もどの程度ドラマに絡んでくるのか、別の時代は全部CGで表現するつもりだろうかとか、不安材料はいくらでもあるので、期待するようなしないような、テキトーな姿勢でキラクに見るのがよかろうか。
マンガ『観用少女 プランツ・ドール ―明珠―』(川原由美子/朝日ソノラマ) > ミルクと砂糖菓子と愛情を栄養に愛しみ育まれ、極上の微笑みで見る者の心をとらえて放さない“観用少女”――。 > その美しさに魅せられた人々の、さまざまな愛と喜びと、哀しみの物語。 > 超ロングセラーの傑作コミック、完全版・全2巻で遂に発売。単行本未収録作品を含む「観用少女」シリーズ全作品を収録! 雑誌掲載時のカラー原稿を完全収録! 一部原稿に加筆・修正、彩色! 第二巻は1月発売予定。
私には、少女マンガで最も美しい絵を描くのは川原由美子である、と感じていた時期があって――(苦笑)。 それがこの作品が発表されていた90年代前半であったので、つまりは私もプランツ・ドールの妖しい魅力にすっかり虜にされていた、ということなので、もしも本当にプランツ・ドールが売り出されていて、少しでも私に微笑みかけてくれたなら、子孫までのローンを組んででも、購入していたかもしれない(実際には結婚後のことなので買うに買えなかっただろう……って、妻の方に微笑んでいたらどうするのだ)。
ヒトガタをしていて生きてはいても、人間ではない――。プランツ・ドールのその設定に、初めは随分と悪魔的なアイデアを思い付くものだと感心と同時に畏怖も感じた、というのが初読のころの印象である。 生きていてヒトガタをしていて、しかも教育次第で感情表現もできるようになり喋れもする、大人の女にもなれる、となればこれはもう人間に他ならない。「ドール」などとはうっかり枯らしてしまった(殺してしまった)罪の意識から逃げるための欺瞞ではないか、ドールが往々にして「姫」と呼称されるように、これは自己の「姫に奉仕したい」というマゾヒズムを充足させるための物語なのではないか。そんなことを当時は考えていたのである。 プランツ・ドールは決して安い買い物ではない。しかも充分に栄養と愛情を与えたとしても、必ずしも自分の思い通りの微笑みを返してくれるとは限らない。愛情を注いだ分、自分に微笑み以上の何かを帰してくれるわけでもないのである。ペットに限りなく近いが、ペットではないのは、やはりそれが少女の形態を取っているからで――。まさしく王女に恋をしつつその王女に触れることもできない従者のごとく、男は満たされない自己の欲求を抱えながら、それでいて少女から離れることができない――。これがマゾの物語でなくて何なのか、こんなものを楽しんで読んでいる私もまた精神的マゾヒストなのかもしれない、と、自分に畏怖を覚えたというのは、そういう意味なのである。
それから10年以上も経っているので、私ももう、プランツを衝動買いしてしまうような無分別ではなくなっていると思うが(笑)、世間的には「プランツを欲する潜在的な欲求」はむしろ高まっているように思えて、別の意味での畏怖は感じざるをえない。 プランツ・ドールとの交情はやはりいびつである。「予め微笑むだけの姫」を求める心理というのは、一見、相手を自由にさせているように見えるがそうではない。逆に「微笑む以外のことを求めない」不自由の檻の中に閉じ込めていることである。プランツ・ドールに羽が生えることを、涙を流すことを望む客はいるだろう、しかし、大人になって自立し、自分の力で働いて新しい家庭を持ち、子を育む客はいない。いかに姫に奉仕しているように見えても、やはり主人は購入者であり、プランツは「飼われている」のである。もちろんそのことに不満を抱くプランツもいないわけで、これもまたある特殊な趣味の男の欲求に答えただけの存在であり――。 そして生身の女性にもプランツ的要素を求める男たちが現実に存在していることを思えば――。 やはり10年まえより男たちは病んできていると思わないではいられないのである。
夕方から、父と待ち合わせて天神へ。 車上で、大叔母が先月亡くなったことを聞かされる。生前、習い事だの遊び事でしこたま借金をこさえ、母にもしばしば借金を頼んでは踏み倒し、母の死後はお定まりのように街金から返せもしない金を借りまくってローン地獄、結局自己破産してしまい、それでも借金して遊んでの生活は改まらなかったという、私の知る限りでもかなりろくでもない部類に属する人間だったが、父も結局は葬式には参列しなかったそうである。 大叔母の死を知らせてくれたのはやはり借金まみれの大叔父からだったということである。 「縁を切っとるから、知らせてくれんでもよかったとばってん」 と父は言っていたが、確かに母の死後、いったん縁を切ってはいたが、数年して 「いつまでも昔のしこりを残してもいかんな」と言って、再びやりとりはしていたのである。父も脳梗塞以来、記憶がますます怪しい。 こないだ、「店の本が盗まれとる」と憤慨していたが、そんなのはもう何年も昔からだ。トシもトシだし、引っ込んで養生していたらとも思うが、儲からなくても少しは働いていないと、ますますボケていくかもしれない。 しかし、親戚が死んでも、その人に何の思いいれもないと、涙の一つも出ないものである。
天神東宝で、映画『DOA/デッド・オア・アライブ』。 客が数人しかいなくて、父が「この映画館は大丈夫か」と心配していた。 『DOA』を上映しているのはこのあたりでは天神東宝だけなので、単に映画に人気が無いだけだと思う。 でもこういうバカ映画を楽しんで見る感覚がないと、人間、マジメになりすぎてかえって歪んじゃうと思うけどね。 ついでだが、この映画を一番見たがったのは71歳になる父で、目的は当然きれいなねーちゃんたちのむちむちボディであろう。それでいいのだ(笑)。
映画を見たあと、いつの間にできたのやら、天神東宝の一階の天ぷら屋「ひらお」で食事。 空港横の店が本店だと思うが、いつの間にこんなチェーン展開をするようになったのか。いかの塩辛や漬物の食べ放題が売りの店だが、なんとこの支店ではかぼちゃまで食べ邦題になっていた。 食事代を安く済まそうと思えば、500円程度で腹いっぱいになる感じである。父もいささか食べ過ぎていたようだった。
父をマンションまで送った後、しげ。が「もう一本映画が見たい」と言い出したので、取って返すように今度はキャナルシティへ。映画『となり町戦争』を見る。 公開二日目だと言うのに、先着者サービスの江口洋介・原田知世サイン入りブロマイドがまだ余っていた。劇場内にも客は数えるほどしかいない。これも一、二週間で打ちきりだな、と見当が付いたので、早めに見に来てよかったな、というところである。
どうして映画の感想を書いていないのかと言うと、2本とも感想を書きはしたのだが、いつものように枚数制限をオーバーしてしまったのである(苦笑)。 というわけで、それは明日の日記に。 って、明日も映画を見る予定なのだが、またはみでちゃうんじゃないかな(苦笑) (続く)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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