無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2007年01月04日(木) インモラルの剥奪/映画『劇場版 BLEACH MEMORIES OF NOBODY』/ドラマ『佐賀のがばいばあちゃん』

> <切断遺体>殺害された女子短大生の兄を逮捕
> http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070104-00000098-mai-soci

> 東京都渋谷区の歯科医、武藤衛(まもる)さん(62)宅で長女の短大生、亜澄(あずみ)さん(20)の切断遺体が見つかった事件で、警視庁捜査1課と代々木署は4日、兄の予備校生、勇貴(ゆうき)容疑者(21)を死体損壊容疑で逮捕した。「妹から『夢がない』となじられ、かっとなって殺した」と殺害も認めている。(後略)

 さて、久方ぶりのいかにもな猟奇事件である。

 テレビのニュースでは、殺害された妹さんの写真ばかりを流していて、犯人の兄の写真は全然写されない。これも加害者の人権に配慮して、という措置なのかどうかは知らないが、こういう報道のされ方では、勢い、「兄に殺害される要素が妹にはあったのかどうか」という関心を喚起する形にならざるを得ない。
 要するに、兄は妹に近親相姦的熱情を抱いていて、その発露として殺害に至ったのだろうか、という関心なのだが(はい、今回、かなり内容、どぎつくなりますよ。キレイゴトだけがお好きな方は読むのをご遠慮ください)、妹さんの顔を拝見する限り、まあ、私の好みではない。

 いや、私の好みじゃないからと言って、兄が妹に熱情を抱いていなかったとは言えないことは当然である。
 少なくとも「頭部、両肩、腹部、両足などを関節部分で十数個に切断」という行為を、性衝動の発露でないと見ることの方が難しかろう。
 兄は「『私には夢があるけど、勇君(勇貴容疑者)には夢がないね』となじられ、頭にきて殺した」と供述しているそうだが、それをそのまま鵜呑みにはできない。
 ここまで「丹念に」切断しているのは、遺体を隠す意図があったと言うより、切断という行為それ自体に兄の関心が向いていたと判断する方が妥当だからである。

 死体をポリ袋に入れてクローゼットや物入れに隠したまま放置、予備校の合宿に参加していたというのも、死体隠匿の意志が希薄であったことを感じさせる。
 何やら臭気がすることについて、親には言い訳をしていたようだが、発覚しないと考えていたとしたら、兄の理性に信頼を置くわけにはいかない。
 死体をあとで捨てるつもりだったというよりは、帰宅してなお腐敗した妹の死体がそこにあり、「愛するものが腐っていく状態を鑑賞したい」という衝動を抑えることができなかったのではないかと見た方が、ずっと自然なのである。

 ニュースはこの典型的な猟奇事件を、なんとか穏便に報道しようとしてか、「『夢がない』となじられた」点ばかりを強調しようとしているが、兄にとって、夢のあるなしは実際にはどうでもいいことであったろう。
 妹に対して常日頃嗜虐的欲情を抱いていながら、その思いを果たせず悶々としていたところに、逆に妹の言によって被虐的立場に立たされようとしたことに対する衝動的な反発が、兄をして凶行に及ばせたと見れば、兄の一連の不可解な行動は全て納得がいくのである。
 あるいは。

 これほど明瞭な変態的猟奇事件が、ただの兄妹間の諍いのように、あるいは過剰な教育による強迫観念の爆発であるかのように「矮小化」されて報道される事態の方に、私は憂慮を覚えるものである。
 性の開放が進んでいるように見えながら、全体主義的なモラルの無意識的な強要はこの社会に蔓延している。ホモセクシャルはやはりカミングアウトすれば何らかの形で迫害を受けるし、サディストやマゾヒストはその伴侶を求めるのには特定の会員制の秘密クラブを利用するほかはないだろう。
 相手を殺してしまえば確かにそれは犯罪なのだが、性愛の究極の形が殺人に行き着くことは決して珍しいことではない。恋愛至上主義を信奉していながら、法律的にはともかく、心情的には陵辱を嫌悪し、情痴殺人を否定するというのは、とんでもない矛盾なのである。
 もっと端的に言ってしまえば、殺意を伴わない性愛は性愛として機能しているとは言えないのだ。相手を傷つけるということは、傷つける資格を自分が相手に対して有している、即ち相手がまさしく「自分のものである」と認識するための具体的な行為なのだから。
 もちろん、実際に殺害という行為に走れば、この愛は結末を迎えてしまう。殺したくとも殺せない、このアンビバレンツの中で、男女は自らの性愛を育てていくしかないのである。

 殺害された妹は果たして処女であったか否か、そのことを兄は知っていたか否か、いや、先ほどはつい書くことを控えてしまったが、この二人の間に既に近親相姦が成立していたか否か、そこがこの事件を読み解く重大な鍵となろう。
 しかし、兄がそれを告白するかどうかは分からないし、告白したとしてもそれが報道されるかどうかは分からない。
 いや、既に兄は何かの告白をしていて、全てを報道できないがために、あの「なじられた云々」という何とも腑に落ちない動機だけが強調されているのかもしれない。


 確実に言えることは、兄は妹を切断している間中ずっと、快感に打ち震えていただろうということである。
 「死体をバラバラにする」とは、どういう行為なのか。それは人体の人形化である。パーツ化である。人形とは即ち愛玩物である。そして人形に魂を吹き込むことができるのは、その人形の「主人」だけである。
 兄は妹の主人になりたかった。妹を自分の自由にしたかった。だから妹はバラバラにされなければならなかった。バラバラ殺人という行為が、兄のそういった意志を象徴しているのだ。
 “そんな行為を妹に対して行えた者は自分以外にいない”。
 この認識は処女を犯した男に共通する快感と同種のものである。即ち、このバラバラ殺人は、妹に対する兄の独占欲を満たすことになったに違いないのである。

 誤解を招くかもしれないことを承知であえて書くが、この事件は、兄にとって、「ハッピーエンド」であった可能性すらある。
 妹は果たして兄の自分に対する欲情に気付いていたかどうか。
 いや、もしも二人の間に交情があったと仮定すれば、妹の「自分には夢があるが、兄には夢がない」という問い掛けは、全く別の意味すら持ってくる。これはもしや、妹の、兄からの決別宣言ではなかったか。
 兄は、妹の別離を、まさに命を懸けて阻止したのである。
 これは私の個人的な妄想とは言えない。「死体を切断する」という行為に性的意味があることはこれまでのバラバラ殺人事件で常に分析されてきたことである。今回だけが例外であるとどうして言えるだろうか。
 人間を理解しようとする者なら、その行為の異常性がどう分析できるかは、常に意識しておかなければならないことだろう。

 あなたが真に恋人から愛されているという自覚があるなら、やはりいつかは殺されるかもしれない可能性があるのだと覚悟する必要があるだろう。
 愛とはそれくらい激烈なものなのである。

 ひと昔前なら、居酒屋などでテレビを見ながら、客同士でこの事件を話題にするとしたら、開口一番、誰かが「この兄ちゃん、妹とヤッてたんかな?」と口にしていたことであろう。
 しかし果たして現代はどうだろう。「ひどい犯罪もあったもんだねえ」で終わるか、下手をすれば「兄が妹を殺すなんて世も末だねえ、信じられない」などという「常軌を逸した」発言すら出てくるかもしれない。
 たとえそれが犯罪であったとしても、人間の性愛の可能性を簡単に否定するような社会は、決して健全には機能しない。去勢された社会だと言ってもいい。しかし、全ての性愛は基本的にインモラルなものなのである。
 即ち、インモラルな話題を口にできるということは、それだけモラルが形骸化しておらず、ちゃんと機能していることの逆証明になるのだ。表面的なモラルにすがりたい人々が多いということは、実質的にはインモラルを助長することにしかならない。
 「差別をなくそう」というスローガンが差別を増大化させるのと同じ現象が、性愛に関しても起きているのである。

 某SNSで、この事件が話題になっていたが(そこにいる人がここも読んでいることを承知の上で書くが)、やはりというか、誰も兄妹の心理までは踏み込めず、新聞報道の誘導に引っかかって「夢がないのがいけないのかどうか」みたいな暢気な話題に終始していた。
 SNSは「仲間うち」の世界であるから、“そういう視点での会話”が行われていれば、“それ以外の視点での会話”は荒らし行為にしかならない。
楽しい会話を邪魔するつもりは毛頭ないので、放置しておこうかとも思ったのだが、その暢気ぶりは前述した通り、人間の可能性を否定することに繋がる可能性すらあったので、遠回しに認識の甘さを指摘しておいた。
 遠回しすぎて、気付かれなかったかもしれないけれど。


 今日が仕事初め。
 やらなきゃならない仕事は実はたくさんあるのだが、休みボケが続いているので、適当にこなして、定時に退出。
 どうせ次に出勤する時は早起きして行くので、時間の余裕はあるだろう。多分。

 仕事と知らない父から、夕方電話がかかってくる。
 「散髪でもせんかと思って電話ばかけたとやけどな」
 父は今日まで仕事休みだが、世間はみんな働き始めているのですよ(苦笑)。
 仕事を引けてから妻と合流、父と食事をする。
 「脳梗塞からこっち、客が十分の一に減ったなあ」と嘆息する父。
 しかし、ということは倒れる前は父は私の数倍、稼いでいた計算になる。
 それだけ稼いでてその殆どを散財してたんだから、どれだけ遊んでたか、ということになろうかと思うが。


 父と分かれて、妻とダイヤモンドシティへ。
 映画『劇場版 BLEACH(ブリーチ) MEMORIES OF NOBODY』。

 原作 久保帯人/監督 阿部記之/脚本 十川誠志/キャラクターデザイン 工藤昌史/音楽 鷺巣詩郎/主題歌 Aqua Timez「千の夜をこえて 

 出演 森田成一/折笠富美子/伊藤健太郎/置鮎龍太郎/朴璐美/三木眞一郎/立木文彦/石川英郎/塚田正昭/川上とも子/大塚明夫/中尾隆聖/櫻井孝宏/西凛太朗/松谷彼哉/望月久代/檜山修之/福山潤/奥田啓人/斉木美帆/梁田清之/本田貴子/松岡由貴/安元洋貴/杉山紀彰/真殿光昭/森川智之/瀬那歩美/釘宮理恵/小阪友覇/松本大/安田大サーカス/森下千里/斎藤千和/江原正士

 ストーリー

 黒崎一護の前に死神少女・茜雫(センナ)が現れる。
 空座町(からくらちょう)を舞台に大量発生した認識不能の霊生物・欠魂(ブランク)。
 尸魂界(ソウル・ソサエティ)の空に映し出される“現世の街”。
 巌龍(ガンリュウ)率いる闇の勢力・ダークワンたちの恐るべき謀略が動き始める。
 世界の崩壊まで残り1時間。
 一護は、この世界を守りきることができるのか?
 そして明かされる茜雫との関係とは?

 ジャンプアニメはジャンプアニメというだけで貶せる欠点があるが、それにはもう今更触れても仕方がないような気もしている。
 宝塚の舞台に「なんで女が男役やってるんだよ」と突っ込むようなもので、どうしてジャンプマンガは話が全部「天下一武闘会」になるんだ、と腹を立てたところで、「それがセオリーだ」と言われれば反論のしようもない。

 しかしそれで話が面白くなっているのならばともかくも、とてもそうは思えないのだから、劇場版の時くらい、「もう何度も見たことのあるパターン」やら「聞いたことのあるセリフ」を連発するのはそろそろやめてほしいものだ。
 「俺は絶対あいつを助け出す!」と主人公が叫んで、ヒロインを助け出せなければこれはただのバカである。こんなセリフは、予定調和のドラマを説明する意味でしかない。黙って行動しろ、くらいのことは言いたくなる。

 いや、そもそも物語の骨格自体がふにゃふにゃで、人物造形もへろへろだ。
尸魂界と現世の崩壊に、茜雫の存在が関わっているのだろうということはすぐに分かる。
 しかし、この茜雫が、自分の存在の曖昧さについてさほど悩みもしていないのがそもそも不自然だ。「複数の生前」を記憶していながらアイデンティティ・クライシスも起こさずに享楽的に過ごせるというのは、ただのバカではないのか。ヒロインに感情移入させる具体的な演出が一切見られない。
 一護の茜雫への思い入れがどうしてああまで高まるのか、その描写も不十分なので、観客は完全に物語の展開に置いてけぼりになる。作画は頑張っているが、一度、置いていかれて白けてしまった心を高揚させるにまでは至らない。

 ともかく、登場人物が多すぎるのだ。劇場版ということでオールスターキャストを揃えなければならなかったのだろうが、無駄な描写を増やすばかりである。
 所詮はジャンプファンのイベント映画に過ぎない。まともなドラマとしての評価は下しようがないのである。

 それにしてもタイトルが既にネタバレになってるってのはどういうことかね。
 茜雫が登場したら、すぐに正体分かっちゃうじゃん……と思っていたけれど、ネットで調べてみたら、「サブタイトルの意味は最後に分かります」とか書いてる人、結構いるんでやんの。
 ……もうちょっと読解力持てよなー(苦笑)。


 帰宅して、ドラマ『佐賀のがばいばあちゃん』。

 泉ピン子のばあちゃんは、当然のことながら映画版の吉行和子よりも島田洋七のおばあちゃんに似ている。と言うか、吉行和子は演技がまずいわけじゃないんだけれども、ばあちゃんにしてはきれい過ぎるのだね。
 「泉ピン子もばあちゃんやるようになったんやね」としげ。が感嘆していたが、相応な年齢だろう。佐賀弁もそう不自然ではなかったし、映画よりもこちらの方が決定版、ということになるのではなかろうか。
 ラストで主人公の駆け落ち編的なエピソードが挿入されたので、続編も作られそうな気配である。

 それにしても原作が同じとは言え、映画とテレビドラマと、内容が殆ど同じであったのには驚いた。
 いや、セリフや演出、場合によっては画面の構図まで似通っているシーンがやたらあったのだ。リメイクというよりは、殆ど「キャストを変えた撮り直し」といった印象で、『犬神家の一族』を彷彿とさせたが、一応、実話なんだから、へたに変えようがなかった、ということもあるのだろう。

 けれど、英語について「私は日本人だから外国のことは知りません」、歴史について「過去のことには拘りません」という言い訳、いつの時代からあるんだろうね。この伝統だけは成績の悪い生徒の先輩後輩間で、脈々と受け継がれているような気がする。

2005年01月04日(火) 2004年度映画勝手にベストテン
2003年01月04日(土) めかなんて、こどもだからわかんないや/『眠狂四郎』6巻(柴田錬三郎・柳川喜弘)/『ああ探偵事務所』2巻(関崎俊三)
2002年01月04日(金) 消えた眼鏡と毒ガスと入浴シーンと/『テレビ「水戸黄門」のすべて』(齋藤憲彦・井筒清次)
2001年01月04日(木) ああ、つい映画見てると作業が進まん/『快傑ライオン丸』1巻(一峰大二)ほか



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