「梅佳代」という写真家をわたしが知ったのは、新聞の書評欄だった。
刊行された写真集を評する文章と、そこで紹介されていた「普通っぽいのに、二度見してしまう」ような写真が目に留まった。
ありふれた日常を「どう切り取るか」で引っかかりや余韻を作る、その作家性を評者は面白がっていた。脚本にも通じるなと思いつつ写真集そのものは手にしないままで、写真家・梅佳代に関するわたしの知識は書評で止まっている。
そんな梅佳代の個展へ行ってきた。
その名も「梅佳代展」。
場所は東京オペラシティのアートギャラリー。
意外にも美術館での個展は初めてとのこと。
わたし自身も興味があったのだけど、小学1年生のたまがどんな反応をするのか、見てみたかった。子どもの無邪気さや天然さやアホさを絶妙な距離感とタイミングで切り取った写真は、子どもの目に、どう映るのか。
意外にも、たまがより強く反応したのは、少し年上のティーンエイジャーのお姉さんたち(「女子中学生」シリーズ)や、おじいちゃんおばあちゃん(「じいちゃんさま」シリーズ)の写真だった。
自分に年が近い被写体より、少し離れているほうが、興味をそそられるのかもしれない。
ティーンエイジャーが頭にブラジャーをかぶったり、股に大根をはさんだり、という写真に、親はドギマギするが、子どもは真っ直ぐ見据えて、笑ったり、感想を言ったりする。
性的なものに蓋をする感覚がないから、素直に、大らかに、鑑賞する。
おじいちゃんおばあちゃんの写真の前では、この人は誰に似ている、とそれぞれに似た人探しをしていた。
ひとつ上のフロアでは、「project N」と銘打った若手作家の育成・支援を目的とした展覧会と「難波田龍起の具象」と題した収蔵品展が同時開催されていて、そちらも見て回った。
project Nは、秋山幸という1980年岡山生まれの女性画家を取り上げていた。積み重ねた明るい色をじっと見ていると風景が浮かび上がるような作品。そのタイトルをひとつひとつ読み上げていった。タイトルは、作品との対話のきっかけ、とっかかり。たまは「そんなふうにみえる」と言ったり、「みえない」と言ったり。わからなくても、何か感じてくれれば、それでいい。
難波田龍起展に移動してからもタイトルを読み上げていくと、「病床日誌1」という作品があった。「病床日誌2」「病床日誌3」……と延々と続くので、「どこまで続くのかな」と言うと、たまが壁一面に並んだ絵の端っこまで先回りして、「ひとつだけちがうよ」と戻ってきた。
病床日誌は、31まで続いていた。
その次の作品は、明らかにタッチが違う。
それまでの色と線の重なりはなく、単色で、弱々しい線が走る中に「拝啓」と「澄」と思しき字が読み取れた。
絵というより、走り書きのよう。
タイトルは「絶筆」となっていた。
「ぜっぴつってどういういみ?」と聞かれ、「最後に描いたって意味よ」と教えた。「この絵を最後に、もう書けなくなってしまったの」とつけ加えると、「死んじゃったの?」。「きっとそうね」と答えると、「このえをかいて、すぐにしんだの? なんにち、いきてたの?」。
31枚の作品の連なりの後の力つきたような絶筆。
その落差が、たまの心をとらえてしまったらしい。
そこから初台の駅へ向かう途中、電車に乗ってからも、問答は続いた。
「どうしてしんじゃったの?」
「病床日誌って書いてたから、病気だったのかなあ」
「びょうしょうにっしってなあに?」
「病床っていうのは、病気で寝てるってこと。日誌は日記ってこと。病院に入院しながら、日記の代わりに描いたのかもね」
「なんのびょうきだったの?」
「さあ、ママも初めて知った人だから、そこまではわからない」
「あのしゃしんのおじいちゃんがしんじゃったの?」
「ううん。写真展の写真に写ってた人と、絵を描いた人は別の人。写真展の人は関係ないよ」
「かんけいなくなんか、ないよ」
そう言うと、たまは突然泣き出し、わたしにしがみついてきた。電車の中で。
絶筆の画家と梅佳代の写真は、たまの中では無関係ではなく、つながっていたらしい。
精力的に作品を重ねていた画家が力尽きて亡くなってしまうように、家族写真に納まっていた笑顔のおじいちゃんも、いつかは、いなくなってしまう。
そして、自分の大好きな家族も……。
たまの想像力は、そこまで先回りしてしまったのではないか。
そう見当をつけて、「パパやママがいなくなっちゃうと思って、こわくなったの?」と聞くと、泣きじゃくりながらうなずき、「ママがいいよう」といっそう強く泣いた。
ひと駅手前で降りて、スーパーで材料を買って、おやつにパフェを作ろうという計画だったのだけど、とにかく家に帰りたいと言うので、まっすぐ帰宅し、涙を落ち着かせた。
パフェの材料を買いに出かける道で、「ママがいなくなったら、やだ」。
パフェを食べてひと心地ついてからも、「ママがいなくなったら、どうしよう」。
思い出しては泣くので、目のまわりが赤く腫れてしまった。
「ママがいなくなったら、たまちゃん、ごはんつくれない」と現実的なことを言って、脱力させてくれた後に「ママがいなくなったら、ママに、ぎゅう、してもらえない」と言うので、わたしまでせつなくなってしまった。
これまでも、死というものについて考えたり話したりする機会はあった。ご近所さんが亡くなったときは、死ぬと体はどうなるのかと知りたがり、焼かれると聞いて、では心はどうなるのかと聞いてきた。
怖がらなかったのは、どこか他人事で、自分の身近な人にはふりかからないもののように思っていたせいかもしれない。それが、今日、梅佳代の家族写真と難波田龍起の絶筆が頭の中で化学反応を起こし、死が他人事から我がごとになってしまった。
難波田龍起の紹介リーフレットを開くと、〈高村光太郎との出会いによって詩と絵画の境界線がなだらかにつながった。〉〈高村光太郎によれば「芸術のよりどころとなる一点はいのちの有無にかかっている」。〉〈「いのち」とは目に見えない自然のエッセンスであり、ものの本質を言い表す言葉である。とすれば、デッサンとはそれらと魂を通わせながら手で捉えること―内と外の世界を結ぶことにほかならない〉といった言葉があった。
たまにとっては、写真と油絵の境界線はなく、両者はなだらかにつながり、「いのち」を訴えかけてきたのかもしれない。年月をかけて思索を深める芸術家の境地に近いところで、子どもは作品と対話しているのかもしれない。
自分と同じような子どもの写真を見て、無邪気に面白がる姿を予想していたら、思いがけない反応になった。
でも、梅佳代の写真が「家族」の「生」をはっきり写し取っているからこそ、そこに「愛」が宿っているからこそ、絶筆の意味を知ったときに「失うもの」の大きさを感じてしまったのではないか。台詞や生活音が聞こえてきそうな、汗や息のにおいが漂ってきそうな、一瞬をわしづかみしたような写真だから、たまはいつも以上に感応したのだ。そんな気がしている。
梅佳代がおじいちゃんを撮り始めたきっかけは、高校時代に「じいちゃんは撮っとるうちは死なんと思った」ことらしい。もちろんそんなことをたまは知らないのだけれど、シャッターを切る梅佳代の念のようなものが、写真からにじみ出ていたのかもしれない。
今回の展示では、その後のじいちゃんのショットも加えられているという。じいちゃんは長生きしているようで、良かった。
こうして、書評止まりだったわたしの知識に、新たな梅佳代評が刻まれたのだった。
「梅佳代展」と所蔵品展「難波田龍起の具象」そして「project N 秋山幸」は、いずれも6/23(日)まで。
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