小学1年生になった娘のたまと「梅佳代展」を見に行ったところ、同時開催の「難波田龍起の具象」に展示されていた「病床日誌」31点とその後の「絶筆」を見て、「あのしゃしんのおじいちゃんがしんじゃったの?」と混乱し、「ままがしんじゃったらどうしよう」と大泣きしてしまった……と報告した昨日の日記の続き。
Facebookやtwitterで日記を共有したところ、たまの感受性の強さに驚く声、たまちゃん大丈夫?と心配する声が寄せられた。
たま自身、自分の感受性や想像力に振り回されている感がある。疲弊しないように、親が一緒に受け止めてあげなくてはと思う。
今日のたまは、もう泣くことはなくなったものの前日の衝撃を引きずっていて、「ままが、びょういんのべっどで、ずっとえをかいて、もうできませんってしんじゃったら、やだ」とべそをかいた。
「病床日誌」31点から「絶筆」の流れを小学1年生にわかる言葉に翻訳すると、「病院のベッドでずっと絵を描いて、もうできませんって死んじゃう」となるらしい。わかりやすい言葉だけれど、的確に理解している。
そして、「ままは、たくさん、えをかくから、ままもしんじゃうっておもった」のだ、と今日になって新たな事実が明らかになった。
なるほど。たまにとって、わたしは、絵を描く人なのか。
31点の連作を見て、たくさんの絵から「ままみたい」と想像していたから、その後の「絶筆」に衝撃を受けた、ということらしい。
絵を描きすぎて、力つきて、死んじゃったんだ。
だったら、ママも……と怖くなってしまったらしい。
「たまちゃん、ままに、たくさん、えをかいてもらってるけど、それでままがしんだら、たまちゃんのせいだから、もう、えはかかなくていい」とまで言い出したので、
「ままは、たまちゃんのために絵を描けば描くほど元気になるんだから、心配いらないよ」と安心させた。
ママも描くし、たまも描こうよ。
混乱や動揺や不安をくすぶらせて抱え込んでいると、トラウマになってしまう。けれど、紙に気持ちをぶつけて吐き出せば、絵なのか詩なのか、何かしら表現が生まれる。
創作すること、表現することはエネルギーを使う。
頭も体も心も使う。
時間を食う。人生を食う。
もちろん疲れる。
でも、それは作者を消耗させる疲れではなくて、生きている実感になり、もっと描きたい、もっと表現したい、と新たな力を呼び起こす。
「絶筆」で亡くなった画家にとって、31点の「病床日誌」は生きる力、励みになっていたはず。
この絵を描くまでは死ねない、と思って、筆を運んでいたのだと思う。
そういうことを、ゆっくりと時間をかけて、たまと話していきたい。
土曜日(ということは梅佳代展の前)に、たまは「とってもみじかいえほんをかいた」とノートを見せてくれた。
「かっちゃんのかなしいきもち」というタイトルで、主人公のかっちゃんの頭の中にあるのは、「あり」(ダニではない!)のこと。
「かっちゃんがあるいていると」小鳥が手紙を届けてくれる。
「それわ かっていた でもしんだ ありからの てがみだった」
てがみには「かっちゃんへ ぼくはなくなります ありのぴこより」。
それを見て、かっちゃんが「かなしいきもちになった」という内容。
なぜ、アリなのかは置いといて、「ペット(といってもアリだけど)の死」を取り上げているのは、偶然なのか。それとも、たまのアンテナは、無意識にそちらを向いていたのか。
かっちゃんのお話を見せた後、たまは「いっしょにきゃくほんをかこうよ」とわたしに持ちかけ、「りぼんちゃん」というキャラクターを編み出し、「りぼんちゃん たびにでる」という出だしをすらすらと書いた。
りぼんちゃんの横で女の子が「えーん」と泣いているのは、旅立ちの別れを悲しんでいるのだろうか。
「いまい たまえ きゃくほん」とあるのは、二人の連名クレジットのつもりらしい。
「いつもかいてます これから りぼんちゃん たびにでる を はじめます」と意気込みも十分。
出だしで止まっている共同脚本作品「りぼんちゃん たびにでる」を二人で作る時間が、衝撃を受け止めるクッションになればと思う。
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