ぽけっと道を歩いていて、ふと、おばあちゃんのことを思い出した。父のお母さんで、わたしが生まれてから幼稚園の一年目まで、すぐ近所におじいちゃんと住んでいた。わたしの一家が引っ越して、少し遠くなってしまったけれど、わたしの高校がおばあちゃんちからバスで5分程の距離にあり、高校生になってからはちょくちょく遊びに行っていた。
高校2年の夏から留学することが決まり、おばあちゃんに告げた日のこと。一年間会えなくなるのを淋しがるのではないか、アメリカなんて危ないと心配するのではないか、そんな思いから、切り出すときには少し勇気が要った。「おばあちゃん、わたし、アメリカの高校行ってくる」と言うと、「それはええことやな」とおばあちゃんは心から喜び、応援してくれた。それから一年間、おばあちゃんはわたしに、わたしはおばあちゃんに何通も手紙を書いた。おしとやかであまり自分の意見を言わない印象があったおばあちゃんが、手紙ではよくしゃべった。
そして、わたしが大学4年の冬、おばあちゃんは肺炎をこじらせて、あっけなく亡くなった。お葬式で、わたしは自分でも驚くほど泣いた。それから間もなく温泉旅行へ行き、大浴場の湯船に一人で浸かりながら、おばあちゃんはもういないんだなとしみじみと思った。
おじいちゃんに会えば、おばあちゃんを思い出したし、家族と昔のことを話せばおばあちゃんが登場したけれど、おじいちゃんが亡くなり、家族とも離れて暮らすようになり、おばあちゃんにつながる手がかりがまわりから消えていき、おばあちゃんのことを思い出さない日がふえていった。気がつけば、今年は、おばあちゃんが亡くなった12月にも、おばあちゃんの誕生日の2月にも、おばあちゃんのことが頭をよぎらなかった。その分を取り戻すように、今日、おばあちゃんの記憶が顔をのぞかせたのかもしれない。
亡くなった人のことを心にとどめておくことが何よりの供養であり感謝だと思うけれど、時間が経つと、思い出の玉は記憶の底に沈んでいき、きらめきは錆びついていく。それが淋しく、悲しい。年に何度か、そのことに思い当たって立ち止まり、きゅうんと宗を締めつけられる。その息苦しさには、いつか自分が誰かの心の中に引っ越し、やがて忘れ去られることへの恐怖が加担している。
そのとき、古い記憶を引っ掻き回した勢いで、ずっと前に新聞で読んで目に留めた詩のようなものが蘇った。「私が死んでしまったら、私の中にいるお父様はどこへ行ってしまうのだろう」。うろ覚えだけれど、そのような内容で、わたしが漠然と抱えている不安や怖れを言い当てていた。わたしは山頭火の言葉だと記憶していたのだけれど、山頭火の遺した句などを調べてみても、それらしきものが見当たらない。どなたの言葉で、正確には何と発したのだろう。
(後日談)
日記を読んだ妹より「『おじいちゃんに会えば、おばあちゃんを思い出したし』となっているけど、おじいちゃんはおばあちゃんより先に亡くなってるよ。たしか2年くらい早い。おじいちゃんが亡くなってから、おばあちゃんはカラオケやって生き生きしてたよ」と指摘があった。おばあちゃん亡き後のおじいちゃんがどうもうまく想像できないと思ったら、おじいちゃんのほうが先だったのだ。ほんと、記憶って頼りないとあらためて思った。
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