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JIROの独断的日記
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2011年08月12日(金) 1985年8月12日18時56分28秒、日本航空123便が墜落しました。

◆文章を書き始めるまでに2時間かかりました。

私は、1年に2回、毎年々々、全く同じ歴史的事実について書き続けています。

前後しますが、1つは、11月13日。1989年、当時の島根医科大学第二外科が、日本で初めての

生体肝移植手術を行ったのです。長い間日本の医学界でタブーとされていた「移植」手術を行う

決断をした、勇気ある医師がいた。忘れてはいけないのです。

もう一つが、今日、8月12日のあの悲惨な事故です。

勿論1945年、8月6日と9日、広島と長崎に起きたことも忘れてはならない。

これはしかし、私が言うまでもない。


123便の墜落事故の年、私は既に社会人2年目でしたが、

26年前ですから、今、既に立派な大人となっている人達のかなりが、

事故当時はまだ幼かったとか、小学生だったので、良く覚えていないとか。

そういう時間が経過しました。


当時のことを覚えている大人の多くが、敢えて123便のことを忘れようとしているように思う。

余りにも悲惨で、思い出すと辛くなるようなことを意識から無意識に排除する人がいます。

そうでしょうね。たった5ヶ月前に起きた地震とそれによる原発事故のことすら、直接被災して

いない人は、特に原発のことは、考えないようにしている。

それはさておき、123便は忘れていけないと思います。

しかし、安易に軽佻浮薄にこの事故について語るべきではない。

さきほどからPCの前で2時間も考え込んでしまいました。


◆事故当時。

1985年8月12日は月曜日でした。私は仕事が暇で、珍しく早く退社し、

自宅最寄りの駅で電車を降りた後、自宅に向かう途中、昔はよく見かけた

個人経営の小さな本屋さんで、立ち読みをしていました。

店内には、小さなラジオがいつも付けっぱなしになっていました。

突然、NHKのアナウンサーが非常に緊迫した声色で、午後6時10分過ぎに

羽田を離陸して大阪伊丹空港へ向かっていた日本航空123便ボーイング747型機が

同6時50分過ぎにレーダーから姿を消した、という趣旨の原稿を読み上げました。

航空関係に関して素人の私にも、巨大な「ジャンボ機」がレーダーから姿を消した、

ということが、何を意味するか容易に推察出来ました。知り合いが乗っているかどうか

ということには考えが及ばず(乗っていなかったことは後にわかりましたが)

あまりのことの重大さに膝が震えたのを良く覚えています。

今、8月12日の18時45分です(夕べはどうしても、書けませんでした)。

26年前の今頃、高浜機長ら、コクピットクルーは

明らかに異常が発生し(後に123便は垂直尾翼が破壊されていたことが判明しましたが、

事故直後は、コクピットクルー(機長、副操縦士、航空機関士)も管制官もそれを

しりませんでした)、「操縦不可能」となった機体と「格闘し」ていました。

しかし、18時56分28秒。飛行機は、山に激突しました。

余りにも悲しい。


事故から15年後、2000年。それまでは音声を文字に起こしたものしか公表されなかった

CVR(コクピット・ボイス・レコーダー)の音声そのものを、TBSが入手します。

どうやら国は事故資料を破棄し、事実の隠蔽を図ったらしく、それに憤りを覚えた

当時の運輸省(現在の国交省)から内部告発があったのです。

8月8日の夕方のニュース番組で、この録音が電波に乗り、高浜機長の奧さんですら、

初めてこれを聴きました。一般国民は全員、愕然としました。

文字だけでは分からなかったこと。

それは、123便のコクピットクルー、高濱機長、佐々木副操縦士、福田航空機関士は

本当に最後の最後まで、何とか乗客の生命を守ろうと、冷静に、これ以上懸命になれないほど

懸命に、あらゆる方法で機体の姿勢を建て直そうとしたのでした。


CVRの音声が公表されるまでの15年間、高浜機長らの自宅には、卑怯な

嫌がらせ電話が殺到しました。


しかし、音声をTBSが公表したことにより、皆、機長らの無念をしりました。

それまで嫌がらせをしていた人が、謝罪をした例もありました。


事故当時中学3年だったというある男性は、事故で身内を失った訳では無いけれど

空の安全を守る人間になろうと、本気で決心し、航空管制官になりました。

123便のコクピットクルーのお子さん達、つまり、

高浜機長のお嬢さん、佐々木副操縦士と福田航空機関士のご令息はそれぞれ

キャビン・アテンダントと、パイロットになりました。

彼らは、自分達が一生、安全なフライトを続けることにより、

乗客を無事に目的地に運ぶ使命を果たせなかった、

父親の無念を晴らしたいのでしょう。


どうして、こういうことを書くかというと、123便の悲劇をメディアが

取りあげるときには、どうしても亡くなった乗客とその遺族ばかりが


操縦士、副操縦士、航空機関士を運航乗務員と言い、

当時で言う所のスチュワーデス達を客室乗務員と言いますね。

チーフ・パーサー1名、アシスタントパーサー7名。スチュワーデス4名。

12人の客室乗務員も亡くなった。その遺族の悲しみは乗客の遺族のそれと

違う訳がない。しかし、表向きは日本航空の社員=加害者側とみなされ、

慰霊登山もこっそりしなければならないのです。

(今は、確認していません。少なくとも事故後暫くは、そういう状態でした)。


◆ボイスレコーダーの音声と、123便の航跡をシンクロさせた、フラッシュです。

面白半分に聴き、見るのは言語道断ですが、

今日、現実世界を見ても、ネットを見ても、今日は誰も「日航123便」のことなど

話さないし、書かない。

何でもすぐに忘れてしまう日本人です。

このフラッシュと音声は、辛くても「見て」「思い出さなければならない」

と思います。



事故調査委員会発表を元にした、CVR音声と123便の飛行経路


1985年8月12日、JAL123便CVR音声と飛行経路



最後に。

123便に関係する本は無数にありますが、

茜雲 総集編―日航機御巣鷹山墜落事故遺族の二〇年

胸が張り裂けそうになります。正直に云うと本当に辛いです。暫く動けないほど、悲しくなります。

読むには、覚悟が要ります。しかし、多くの人に読まれるべきです。


26年前に亡くなられた520人のご冥福を祈ります。

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2010年08月12日(木) 「円高対応へ臨戦態勢--首相、財務相らが緊急協議」←日銀の責任ではなく世界同時不況だと思います。
2009年08月12日(水) 【裁判員】会見で担当者が回答さえぎる 守秘義務違反の可能性/123便、Flashファイル再掲します。
2008年08月12日(火) また、8月12日がやってきました。
2007年08月12日(日) 日航123便の事を書くならば、最後に「亡くなられた方々のご冥福を祈る」と一言添えるものだ。
2006年08月12日(土) 日航123便のボイスレコーダーを面白半分で聴くな。/坂本九氏の功績。
2005年08月12日(金) 日航123便はあの30分が全てではないのだ。
2004年08月12日(木) 「マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばってママを助けて下さい」今年もやってきた。8月12日。
2003年08月12日(火) 「西部警察」ロケ中、5人重軽傷=見物人の列に俳優の車−名古屋 石原プロは解散してはどうか。

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