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2007年08月12日(日) |
日航123便の事を書くならば、最後に「亡くなられた方々のご冥福を祈る」と一言添えるものだ。 |
◆日航123便墜落までの経過。
1985年8月12日月曜日、羽田発大阪(伊丹)行、日本航空123便は、18時12分、羽田を離陸。
離陸から12分後、相模湾上空を飛行中に、衝撃音と共に、123便の垂直尾翼が何らかの原因により完全に破壊された。
その際、油圧操縦システム(バカでかい飛行機だから、舵を切るにも、フラップ、エルロンなど補助翼を出すのにも、
車輪を出し入れするのも、人力では重すぎるため、油圧による補助を要する)が全部、使えなくなった。
高浜雅己機長(当時49歳)佐々木祐副操縦士(当時39歳)、福田博航空機関士(当時46歳)は、
電動で動かす事が出来るフラップを操作し、速度が出すぎたと感じたときには、手動で車輪を降ろし空気抵抗を増やし、
あとは、左右のエンジンの出力のバランスで何とか立て直そうとしたが、18時55分頃から、機体は急速に高度を下げ始めた。
機長は、「フラップアップ、フラップ」と叫び、佐々木副操縦士は必死にそれを実行したが、高度は上がらない。
18時56分00秒、機長は引き続き、「パワー!」「フラップアップ」を指示し副操縦士も出力を全開にするが、ダメだった。
日航123便は、18時56分23秒、クルーの懸命の努力も空しく、墜落した。
機長は、最後の最後まで「頭(機首)、上げろ!」と叫び続けたが、
一番終わりに、「もう、だめだ」と言っている。
私はそれを聞くと、胸が張り裂けそうになる。
事故当時、私は25歳だったので、当然、この事故の重大性は完全に理解できた。
お盆休みの週で街は空いていた。仕事が早く終わり、帰途、立ち寄った本屋のラジオからNHKの臨時ニュースが流れた。
羽田発大阪行きの日航123便が、操縦不能に陥ったと言い、レーダーから姿を消した。乗員乗客は500名を超える、
という内容だった。自分は航空関係者ではないが、あまりの大ごとに、膝ががくがく震えた。
◆1年中、「123便」「高浜機長」でアクセスがある。が好奇心でボイスレコーダーを聞いて終わりにするな。
私は過去において、何度も123便のことを書いたので、一年中アクセスがある。
最初は何故、いまだにこれほど「123便」にこだわるのか、と思った。
最近、あまりにも当たり前のことに気が付いた。今の若い人は知らないのだね。あの日に始まる長い悲劇を。
二年前、日航123便はあの30分が全てではないのだ。(ココログはこちら)
を書いた。
今日、私が言わんとすることは、そこで書いたことと同じなのだが、大事なことだから、再度強調する。
ボイスレコーダーとフラッシュをシンクロさせているサイトがある。既に見て、聞いた人も多いだろうが、
そんなに見たいのなら、ここにある。
二年前、どこかの若造がブログで、このサイトを、「面白いから、是非見るように」と書いていた。
人間、言って良いことと、悪いことがある。その区別もできないか。
それから、ココログなどを読むと事故について書いている人は沢山いるが、事故の真相は何かというような、
「好奇心丸出し」の文章が多い。
あのね。505人の乗客と15人の乗員、520人もの人が亡くなったのだよ。
遺族は今も悲しいのですよ。
事故原因の真相を推理して得意になっている奴も、どいつもこいつも、どうして
「亡くなった方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。」
と書かないんだ?常識だろう。
リンクしては悪いかもしれないから、「おすたかレクイエム」というサイトを探して、
トップページから「天国のパパへ」と「忘れない」という遺族の言葉にリンクされているから読んでご覧なさい。
この事故を、「面白いから」調べる、とかボイスレコーダーを聞いてみる、等という言葉は、
絶対に口にするべきではない、と私が強調する意味が分かるだろう。
分からん奴は問題外だ。
さらに、打ちのめされるほど辛いが、遺族の文章をまとめた、茜雲という本がある。
二年前の今日の記事で薦めた本と併せて読んで下さい。
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2006年08月12日(土) 日航123便のボイスレコーダーを面白半分で聴くな。/坂本九氏の功績。
2005年08月12日(金) 日航123便はあの30分が全てではないのだ。
2004年08月12日(木) 「マリコ 津慶 知代子 どうか仲良くがんばってママを助けて下さい」今年もやってきた。8月12日。
2003年08月12日(火) 「西部警察」ロケ中、5人重軽傷=見物人の列に俳優の車−名古屋 石原プロは解散してはどうか。