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JIROの独断的日記
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2008年11月02日(日) 【差替】「情熱大陸」(TBS系列)視聴後所感 大野和士氏、名指揮者になりましたねえ。

◆日曜の夜、「情熱大陸」という番組があります。

毎回見るわけではないのですが、たまに、欧米で(日本で)活躍するクラシックの

音楽家を特集するときにみます。以前、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団首席ヴィオラ奏者の清水直子さん

を取りあげたとき、日記ブログに、

「試聴後所感」を書いたつもりでしたが、今見たら、「番組予告」に終わっていました。


◆昨日(11月2日)は指揮者の大野和士氏を取材していました。

大野和士氏をご存じない方の為に、公式HPではありませんが、ファンの方が作ったサイトがありまして、

特にリンク禁止ということもないようですので、リンクを貼らせて頂きます

大野氏は1960年東京生まれ、ということ(それだけですが)が、私と共通していて、以前から注目していました。

リンク先のプロフィールを見ると分かりますが、以前は東フィルの常任だったので、日本でもしばしば彼の演奏を聴けました。

とは言っても、私は、それほど、何度も生で聴いたことがあるわけではない。

印象に残っているのは、彼が30歳前後の時だったと思いますが、新日フィルの「名曲コンサート」(の類)を振った時です。

プログラムは、非常に一般的で、
J・シュトラウスII生:喜歌劇「こうもり」序曲

グリーク:ピアノ協奏曲(ソロ:仲道郁代)

ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

というもので、言い方は悪いのですが、所謂「お子様ランチ」風プログラムだったのですが、

この何十回も聴いた曲が、彼の棒で、いつになく新鮮に響いていたことを思い出します。

そして、当時、彼は指揮者としては、まだまだ「駆け出し」だったわけですが、オーケストラの各プレイヤーが、

かなり真剣に、大野氏の棒を見て、棒に忠実に弾いていたのがすぐに分かり、私は、
「あ、才能のある人だな」

と、素人ながら、直感的に思いました。

私はその後、何かの番組で、彼が直接発言したわけではないのですが、大野氏が、
「自分には大した才能が無いから、あと10年振ったら、キッパリ音楽を止めて、牧場をやるのだ」

と言っている、と言う話を聞いて(その発言の真偽も未確認ですし、本当にそう言ったとしても冗談だったかも知れませんが)、

随分、勿体ない話だ、と驚いたことを覚えています。


◆最初、指揮者に就任したのが内戦最中のクロアチア、ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督でした。

再びプロフィールを読んで頂くと分かりますが、大野氏は1987年(27歳ですね)、アルトゥーロ・トスカニーニ国際指揮者コンクールで優勝しました。

それは知っていたのですが、ヨーロッパで指揮者として活躍する(特に日本人が)というのは大変なことで、

コンクールで優勝した途端、次から次へとお呼びがかかる、というほど、甘いものでは無いようです。

今日、文化勲章を受章した小澤征爾さんも、亡くなった岩城宏之さんも、随分苦労したそうです。


大野氏の場合、コンクールの翌年、クロアチアの、ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任し、

結局8年(1988年から1996年まで)振ったのですが、何しろ内戦下の国ですから、真面目に生命の危険があっただろうし

(事実、練習中、防空壕に飛び込んだことが何度もある、と昨日の番組でナレーターが語っていました)、

言葉の問題(クロアチアは、元ユーゴスラビアの一部で、公用語はクロアチア語です)も当然あった筈で、

苦労しただろうと思います。その頃のことは、昨日の「情熱大陸」ではあまり取りあげていませんでしたが。

私は、とにかく、大野氏がヨーロッパのオーケストラで「音楽監督」の地位を得たのは良かったけれども、

生命の危険がありますから、そちらが心配でした。無事でなによりでした。


◆その後、暫くどのような活動をしていたか、知りませんでした。

大野氏は1992年から1999年まで、東京フィルハーモニー交響楽団の常任指揮者(一部、ザグレブと重なっていますね)だったので、

その時期に日本にいた方は、大野氏の演奏に触れる機会が多いにあったでしょうが、生憎私がそのころ(93年から97年まで)ロンドン駐在だったので、

そして、大野氏はまだイギリスでは、多分あまり振っていなかった(と思うのです)ので、聴く機会がありませんでした。すれ違いです。


◆昨日の「情熱大陸」を見て驚いたのですが、すっかり大指揮者になっていました。

「驚いた」と失礼なことを書いてしまいましたが、私が知らなかっただけで、大野氏の名声はヨーロッパではかなり広まっていたのです。

96年から2002年まではドイツ・バーデン州立歌劇場音楽総監督。

2002年からつい最近2008年6月までは、ベルギーの王立歌劇場の音楽監督を歴任し、

今年の9月からは遂にフランス・リヨン歌劇場の首席指揮者に就任しました。

ヨーロッパ(に限りませんが)のオペラハウスの音楽監督になるというのは、とんでもなく大変なことで、

オーケストラの演奏のみならず、時には歌手の歌の指導や、舞台、演出、照明にまで責任があるのです。

昨日の「情熱大陸」では、ベルギー王立歌劇場における大野氏の最終公演、ヴェルディ「運命の力」の一部を

放送していましたが、カーテンコールの時に指揮者が舞台に上がるのは普通なのですけれども、客席のみならず、

オーケストラ・ピットからも各プレイヤーから、彼の労をねぎらい、別れを惜しむ花束がステージに投げられていました。

これは、社交辞令ではなく、大野氏の努力と実力(音楽性)と、音楽監督としての業績が高く評価されている証左です。


◆リヨンへの移動の合間をぬって、日本に戻りボランティアの演奏をしていたのが立派でした。

大野氏は、激務の合間に日本に戻り、様々なところで、普段生の音楽を聴けない人々の為に、

演奏活動をしていました。リヨンへの就任前のわずか5日間で、日本の9つの病院や施設を巡回し、自らピアノを弾いて聴かせ、

歌手にオペラのアリアを歌ってもらい、自分がその伴奏をしたり、障害を持った子どもの病院では「ドレミの歌」を自ら歌い、

精力的でした。

これは、内戦下のクロアチアで棒を振っていたときに、人間はどんな環境でも音楽を必要とする。

音楽に接しているときには、別の世界にいる、ということを強く感じたのがきっかけとなり、始めた活動だそうです。

立派だと思います。


◆しかし、大野氏はどこまでも謙虚でした。

「情熱大陸」に限りませんが、あの類のドキュメンタリー番組は、見る方は勿論気楽ですが、

取材される方にとっては、ずっと、カメラと照明と音声と、画面には現れませんが、インタビューをするスタッフが

くっついてくるのですから、はっきり言ってそうとう「鬱陶しい」筈ですが、大野和士氏は終始に朗らかで人柄の良さが良く分かりました。

また、彼は音楽に関してはあくまでも謙虚でした。演奏者は作曲家が書いた作品の忠実な再現者であるべきで、先に自我を出すべきではないと。


これは、難しい議論で、作品を解釈するに当たって、他の指揮者と同じようにやっていては、その指揮者の存在意義は無い訳で、

そこには、指揮者の自我がどうしても割り込まざるを得ないのですが、それは当然で、大野氏の言わんとするところは、多分、

自我が先に見えてはいけない。自我を表現するために作品を利用してはいけない、という意味だと思います。

番組の最後の大野氏の、

「自我を出したら、ベートーベンに失礼ですよ」

という言葉に、私は大変感銘を受けました。

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