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2006年11月02日(木) |
「いじめ問題」では学校の管理責任ばかりが問題となるが、まず、「加害者」とその親の責任を問うべきだ。 |
◆マスコミ報道を読むと、あたかも「いじめ」が最近始まった問題のような印象を受ける。
マスコミが競って取り上げるので、イジメの問題が深刻化したのがここ数年であるかの如き印象を受けるが、勿論そんなことはない。
多分100年前、いや、有史以来人間社会では何らかの「いじめ」は起きていたであろうことは、想像に難くないが、それは「想像」にすぎない。
記録が残っている「現代」について調べると、近いところでは、22年前、昭和59(1984)年、
大阪で二人の高校生がいじめに対する仕返しとして、相手をハンマーでめった打ちにして川へ投げ捨てるという事件が起きた。
翌年には、中学生がいじめを苦に自殺した。この当時の新聞を読むと、やはり「大騒ぎ」になっている。
だが、それで何も解決していなかったことは、最近の一連の出来事を見れば明らかである。
◆学校に責任があることは明らかだが、学校に全てを押しつけるのは正しくない。
こういう原稿を上げると、必ずと言って良いほど主旨を読まないで反論する人がいるから、最初に書いておく。
私は「学校に責任がない」と言いたいのではない。
何しろ、学校にいる間、親がずっと付き添って見張っているわけにはいかないのであるから、
学校、即ち教師にも管理責任があることは明らかだ。
管理責任とは、「いじめ」を見逃したか、見て見ぬふりをしたか、認識して対策を取ったけれども効果が無かったか、ということである。
対策を取っても効果がなかったのは仕方がないではないかというのは、甘い。
教師は職業である。教育のプロである。プロは結果責任を問われるのである。
「いじめ問題」は、いじめに対処できなかったこと自体に加え、学校がそれを隠蔽しようとすること、
つまり、責任を逃れようとすることが、世論の反感を買うわけである。
だが、マスコミの報道は学校の責任「だけ」を特に誇張して指摘するところに問題があると私は言いたいのである。
◆いじめを行った子どもは、「悪いこと」と知っていて実行したのだから本人が悪いのである。
ごく幼い子どもは、
「大勢で(或は単独でも)故意に、特別の理由もなく、特定個人(群)を攻撃するのは、いけないことだ」
という倫理観、社会的規範の存在を認識していない。
それを「してはいけないことだ」と教えるのは、親の務めである。
そんなことは今更言うまでもない。小学生でもそれぐらいのことは一度教えられれば分かる。
そして、一旦「いじめはしてはいけないことだ」と教えられた子どもは、いじめは悪いことだと知っている。
知っていて誰かをいじめたならば、「本人が悪い」のである。
繰り返す。
或る行為を「悪いこと」と認識していながら、なお、その行為を実行した場合、はじめに責められるべき人間は行為者本人である。
そして、次に責めを負うのは、いじめを悪いことだと、子どもに明確に認識させていなかった親である。
◆次に責められるべきは、加害者の親である。
「いじめは悪いことだ」と教えたけれども、子どもが他人をいじめた場合、今述べたとおり、いじめを実行した本人が一番悪いが、二次的な責任は親にある。
いじめをPTAで問題にすると、加害者の親は
「いじめられる生徒に問題があるからだ」
と主張する傾向にある。我が子を悪者にしたくないためであるが、それは正しくない。
親は教え方が悪かったと反省するべきである。学校教育法は教師の児童に対する体罰を禁じているが、
家庭においては、我が子が弱いものをいじめていると知ったなら、親は我が子をぶん殴ってでも2度としないと言わせることだ。
これは「虐待」ではない。虐待とは、本人が悪いことをしていないのに、子どもに肉体的・精神的苦痛を与えることだ。
いじめが悪いことだ、と教えるためにぶん殴るのは「しつけ」である。
子どもは「いじめは悪い」という言語情報を理解する知能はあるが、
「いじめられた人間がどういう気持ちになるか」を想像する能力を必ずしも有していない(もちろん、個人差がある)。
この場合、身体で覚えさせるしかない。
一見乱暴だが、大人が十分に言葉を吟味せずに、下手な言葉で子どもを傷つけると、人格が歪む場合がある。この方が危険である。
子どもには、「他人をいじめたら、親からぶん殴られる」という経験則が最も有効である。
「いじめ報道」で、「クラスでいじめを無くそうと話し合ったんです」と言い訳する教師が必ず出てくるが、
「話し合い」でいじめがなくなるぐらいなら、100年前に地上からいじめはなくなっているはずである。
現実を見れば、「話し合い」など何の役にも立たないことは明らかではないか。
そんなことがいつまで経っても分からない。
◆いじめられた子どもが自殺したら加害者と親の氏名、顔写真を公表しろ
極論であることは、私とて、十分承知している。
他人をいじめて、相手がそれを苦に自殺した場合、100%加害者が悪いとは限らないことも知っている。
中には「これぐらいのことで死ぬなんて・・・」という例も多分あるだろう。
しかし、死者は反論できないのだから、死んだ被害者に責任を負わせるのは卑怯である。
一方、明らかにひどいいじめがあり、自殺との因果関係が明らかな場合が確かに存在する。
だからこそ、これだけの騒ぎになっているのだろう(マスコミの煽りすぎの感も拭えないが)。
「いくら加害者とはいっても、子どもの名前や顔を公表したら、将来に関わる」との反論もあろう。
確かに将来に影響を及ぼすであろう。
だが、それだけのことをしてしまったのだから、仕方がない。
一人の人間を死に追い込んだということは、永遠に取り返しがつかないのである。
「いじめがそれほど罪深い行為なのだ」、という一般認識が社会的に存在しないから、いじめが無くならない。
言い換えれば、子どもは意外と狡いもので、
「(極端な場合)相手が自殺しても自分が退学になったり、刑罰を受けることはない。せいぜい注意されるだけだ」と思っている。
だからつけあがる。
加害者の親も、時間が経てばうやむやになるだろう、とタカをくくっている。
◆結論
結論的に繰り返す。
「いじめ問題」の責任の所在を学校「だけ」に負わせるのは、一面的な思考である。
まずは加害者が悪く、次に加害者の親が悪い。
今のマスコミ報道や世論は、この観点が抜け落ちている。
まずは、加害者とその親に社会的制裁を与えるべきである。
2005年11月02日(水) 「アジアオーケストラウィーク2005」←どのメディアも報道しない。
2004年11月02日(火) 「『宿舎直撃されても被害軽微』」防衛庁長官 「サマワは戦闘地域に当たらず…首相、宿営地着弾で」大本営発表そのものですな。
2003年11月02日(日) 「おまえは日本人か」=寮の各部屋回り次々暴行−中国・西北大事件 中国人、いい加減にしろよ
2002年11月02日(土) タバコには厳しいが、酒には寛容な社会