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2006年06月15日(木) |
岩城宏之さんの話がまだまだつづく(3) |
◆皆様からのメッセージに感激
13日の未明に岩城宏之さんが亡くなられて、4日経った。
2回、岩城さんのエピソードを書いただけだが、多くの方々からメールを頂戴して恐縮している。
どうしても、書かずにはいられないので、今日も書く。
◆岩城さんの言葉「プロの音楽家にはそう簡単になれるものではない。」
岩城さん自身が書いた本をもとに書いているのだが、大事なことを書くのを忘れていた。
岩城さんが自分の音楽遍歴を書くのは、そう簡単には、プロになんかなれないよ、と言いたいからなのだ。
あまりにも多くの若者が、「幼少期にまともな音楽教育を受けていなかったのに、岩城宏之さんはプロの指揮者として世界のオーケストラを振っている。
自分も今から本気になればプロになれるかも知れない」と安易な発想で手紙などを送ってくるのだという。
しかし、岩城さんは最初に釘をさしている。
「本当のことを言うと、僕はまぐれで音楽家になったようなもので、一般的には、プロの音楽家にはそう簡単になれるものではない。
いくらプロ野球の選手になりたくても、どんなに野球が好きでも、だからといって、なれるものではないのだ。」
「若い諸君は僕がただ、高校の頃までまともな音楽教育を受けなかったのに、音楽を好きなだけで、その後ポンと音楽家になってしまったという印象を持っているらしい。
しかし、運よくある日突然音楽家になれたわけではない。端的にいうと、まともな教育を受けなかっただけ、その分エライ苦労をした。」
と。
ただ、苦労話を延々と書くのは趣味でないし、如何に自分に才能が有ったか、を誇示するようなものでみっともないから、書かなかったのだ、という。
そうは言いながら、「ハニホヘト音楽説法」を読むと、抱腹絶倒なのだ。これでは逆効果だったのではないかと思ってしまう。
が、客観的に見て、この音楽環境で芸大打楽器科に入学し、その後指揮に転向してプロになったのは、やはり奇跡的だ。
滅多なことでは振らせて貰えないウィーンフィルの定期まで1回ではあるが、指揮している。やはりものすごく努力して、想像を絶する苦労が有ったはずだ。
そして、さすがにご自分では書きにくいから最小限の表現にとどめているが、岩城さんには人並み外れた才能があったのだ、という点を念頭に置いて頂きたい。
今は、音楽大学の指揮科というのは最も難しい。芸大や東京音楽大学の指揮科は合格者ゼロという年の方が多いぐらいなのである。
合格者がいても2人いれば、驚き。全学年を合計しても指揮科が二桁、つまり10人以上という学校はまず、無いだろう。
◆エピソードに戻ります。
前回、高校1年で初めて木琴のプロについて正式なレッスンを受けるに至ったところまでを書いた。
3年になった岩城さんはまだ、「音楽大学を受験する」ことの大変さが分かっていなかった。
何と第一志望は東大独文科、第二志望が芸大だったのである。
さらに、驚くべきは、高校三年の二学期まで、音楽部と野球部の部活動を掛け持ちでやっていたのである。
岩城さんは野球は本当に好きで、もしかすると音楽よりも熱心に練習したのではないかと思われるほどだったが、本人の弁によると、
「最後まで、本当にヘタクソだった。やはり人間には向き不向きがあるのだ」
ということになる。
◆母親が芸大受験に反対した理由
高三の二学期までクラブ活動をやっているようでは、いくら当時の東大が今よりは入りやすかったとはいえ、合格は難しい。
母親が学校の担任に呼ばれた。東大は無理だという。
母親は岩城さんにそう伝えながらかなり落胆した様子だった。
残るは芸大しかなかったわけだが、お母さんが芸大受験に反対した理由が驚くべきものだった。
「音楽家などになったら、この子は何度でも離婚をするような人間になる」
というのである。どういう根拠で、その結論に至ったのか、全く不明であった。
◆芸大の入試要項を取りに行って驚いた。
それでも、岩城さんの音楽への情熱は冷めず、とうとう、芸大の入試要項を貰ってきた。
中身を読んで驚嘆した。丁度前年、打楽器科が創設されたところだったので、木琴で楽勝だと思っていたら、
音大というところは、その他の実技があるのだった。
要するに何の楽器をやるにしても、指揮でも声楽でも、音楽をやる上での前提条件となる能力を試す科目がある。
まず、「ソルフェージュ」という能力がある。読譜力。譜面を見て音が頭の中で正しく鳴らせるか、を試される。
勿論頭の中の音は分からないから、歌うのである。これが出来ないと音楽家にはなれない。
英語を読めないのに英文学を専攻すると言ったらアホか?ということになるでしょう。それと同じである。
「聴音」というのは逆に、音を聴いてそれが何の音かを正しく認識し、譜面に書く訓練である。
岩城さんの打楽器などは単音だっただろうが、作曲家や指揮科を志す者なら、四声の聴音が出来て当たり前である。
即ち、4つのパートが同時に聴き取り、楽譜に書けなくてはならないのだ。
大抵、ピアノで二回弾くだけである。従って、耳が良いのは当然として記憶力も必要である。
そして、岩城さんがひっくり返ったのが(ひっくり返る方が甘いのだが)、「ピアノ」である。
音大に入るには、何の楽器を専攻するのであっても、ソナチネ(ソナタの易しいもの)ぐらいは弾けないといけないのだ。
勿論ピアノ科を受験する者より遙かに易しいのだが、それまでピアノを弾いたことのない岩城さんは大いに慌てた。
岩城さんの自宅にピアノなど、無い。
ちょうど都合の良いことに、近所に仲の良い金持ちの友達がいて、当時としては画期的な消音装置付きピアノを持っていた。
この友達の家に毎晩押しかけて、徹夜でピアノを練習したのだという。
しかし、さすがに独学には限界がある。岩城さんの友達が教わっていた、金子登先生という偉い先生に教わることになった。
金子先生は芸大の指揮科の先生だ。本当ならとんでもない暴挙なのだが、昔は世の中がおおらかだったのだろう。
◆いよいよ、受験。
芸大の入試が始まった。二次試験まである。
一次試験に行って驚いた。ソルフェージュ、聴音、ピアノがあることは、分かっていたから、
前述のとおり準備した(書き忘れたが、聴音と、ソルフェージュは独学だったというから、すごい)。
肝腎の打楽器の実技試験は1次はスネア・ドラム(小太鼓)だけだというのだ。
そんなことすら、岩城さんは、試験当日まで知らなかったというのもなかなか凄い。
打楽器の基本は木琴ではなくて、小太鼓なのである。岩城さんは学習院の音楽部でティンパニを叩いていたが、小太鼓を叩いたことはなかった。
おそるおそる、待合室のとなりの人に小太鼓のバチの持ち方を教わった。
その人がたまたまいい人で、「え?君、今頃そんなこといってるの?」と仰天したが、これは競争相手ではない、と思って安心したのか(岩城さんの弁)、親切に教えてくれた。
試験が始まり、小太鼓は、ダーッというロール(連打)が難しく、それは全然ダメだったが、
他の部分で打楽器奏者の命であるリズム感が正確であると判断されたらしい。
聴音・ソルフェージュは思ったより簡単だったというから、やはり岩城さんは先天的に耳が良いのだろう。
ピアノはモーツァルトのソナチネを弾いた。
金子先生は絶対落ちると思っていたらしいが、岩城さんは曲を思い切りテンポを落として(つまり、間違えないように)弾いた。
岩城さんによると、多分本来のテンポの4分の1の超低速演奏だった。
ピアノの楽譜の二段目に入ったところで、試験官から、もう、いい。と言われた。
その晩、金子先生に電話した。「完璧でした。」と報告したら金子先生は、試験官から既に様子を聞いていた。
「馬鹿野郎。のろ過ぎて話にならなかったそうだぞ。しかし、間違えないし、テンポが狂わないから、点の引きようがなくて50点をつけたそうだ。49点からはハネられるんだ!」
このようにして、1次試験に通った。(続く)
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