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JIROの独断的日記
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2006年03月12日(日) <パラリンピック>苦難を乗り越え金メダル 小林深雪選手←障害者を特別扱いする必要は無いが、軽視するのは不公平だ。

◆記事1:<パラリンピック>苦難を乗り越え金メダル 小林深雪選手(毎日新聞) - 3月12日0時8分更新

【プラジェラート(イタリア)飯山太郎】当地で11日に行われたトリノ冬季パラリンピックのバイアスロン女子12.5キロの視覚障害で、小林深雪選手(32)が2大会ぶりの金メダルに輝いた。

ゴール地点では、負けを覚悟したライバルのフランス選手が、日の丸を掲げて待ち構えていた。ガイドの小林卓司さん(47)とともにゴールすると、

チームの荒井秀樹監督から「1番だよ、深雪」の声が飛ぶ。小林選手の目に涙があふれ「うそみたいな感じ。うれしい」と喜びの言葉がこぼれた。

この日獲得したメダルは「長野の金とは全く別物」という。98年長野大会で、日本人として冬季初の金メダルを獲得した有力選手。だが、その後は、厳しい経験をしてきた。

02年の前回大会では出場種目のうち6位が最高。経済的な問題もあって競技を続けるかどうか悩んだ。老人ホームのパート業務で収入を得ながら、

貯蓄を取り崩して遠征などを重ねていたが、それも底をついてきた。

そんな時期の04年11月に、日立システムアンドサービスが設立した障害者スキーの実業団チームに入社。マッサージの技術を生かして健康管理の仕事をしながら、

競技にも十分に集中できる環境を手に入れた。

だが、昨年8月に、視力のハンディが原因で転倒し、右足首を骨折した上、12針も縫う重傷を負った。

トリノを前に気持ちがくじけそうになる中「だめだったら支えてくれた方々に申し訳ない」というチームへの思いが復帰を強く後押しした。練習再開まで2カ月かかり、痛みは今も残る。

だが、コースに出ればリズムを崩すことはなかった。

病気で光を失い始めたのは小学2年生のころ。盲学校の恩師の勧めで競技に取り組み、苦難を乗り越えたベテランが、3度目の大舞台で返り咲いた。

「自分の力と支えてくれる皆さんの力が合わさって金メダルが取れた」との声が弾んだ。


◆記事2:37歳弘山、悲願の初優勝=残り約1キロで渋井を逆転−名古屋国際女子マラソン

12月のアジア大会(ドーハ)代表最終選考会を兼ねた名古屋国際女子マラソンは12日、名古屋市瑞穂陸上競技場を発着点とする42.195キロのコースで行われ、

マラソン挑戦10度目で37歳の弘山晴美(資生堂)が残り約1キロで渋井陽子(三井住友海上)を逆転し、2時間23分26秒で悲願のマラソン初優勝を果たした。

レースは前日本記録保持者の渋井が序盤から前に出た。渋井は約8キロで後方集団に吸収されたが、その後、再び前に出て独走。

だが、30キロ以降、ペースの落ちた渋井を弘山が追い上げ、終盤で抜き去った。渋井は2時間23分58秒で2位、3位は堀江知佳(アルゼ)。大南博美(トヨタ車体)は8位に終わった。

(時事通信) - 3月12日17時30分更新


◆コメント:二つのニュースは同列に扱うべきである。

私の結論は、タイトルに記した一文が全てだ。

「障害者を特別扱いする必要は無いが、軽視するのは不公平だ。」

「バイアスロン女子12.5キロの視覚障害で、小林深雪選手(32)が2大会ぶりの金メダルに輝いた。」

視覚障害者のバイアスロンでは伴奏者がいるわけだが、視覚に障害が無くとも、普通の人間はスキーを履いて、いきなり12.5Kmを走ることなどできない。

これは、彼女が、視覚障害を持たない「普通の人々」よりも、高い身体能力を有することを意味している。それだけでも尊敬に値する。

云うまでもなく、パラリンピックの記録を単純に普通のオリンピックの同種目と比べるのは、意味を為さない。そもそもハンディを背負っているのだから。

しかし、小林深雪選手が世界一になるまでには(彼女は2回目だ)、想像を絶する努力が有ったことは、考えるまでもなく明らかだ。

その努力を可能ならしめた精神力は、本日の名古屋国際女子マラソンで、37歳にして、漸く初めて優勝した弘山晴美選手のそれと同等に称讃されるべきである。

弘山晴美選手と、小林深雪選手の偉大さは、同一である。


◆いたわることと、憐れむことを混同してはいけない。

単純バカが誤解をすると困るので、申し添える。

いたわることと、憐れむことは別の精神作用である。

障害者を特別扱いする必要はない、とは、「憐れみ」の気持ちで見たり接したりするべきではない、という意味である。

障害者を無闇に可哀想だ、という人がいたら、それは、ほぼ間違い無く優越感に浸っているのであり、それは障害者に対する「侮辱」である。



但し、実際に身体に障害があり、車椅子での移動を余儀なくされる人や視覚障害者は、客観的に見て、健常者よりも運動能力(移動能力)がおとるわけであるから、

例えば電車の乗降に際して他人の助けを借りるのはやむを得ない。これは弱者をいたわることで、憐れみではない。


◆これこそ、「惻隠の情」だ

以前紹介した、藤原正彦氏の「国家の品格」が売れているので、最近、私のサイトにも「惻隠の情」で検索して来る方が多いが、

上述した例は、正に、「惻隠の情」である。



私は、ひどい光景を目撃したことがある。JR東日本、中央線の某駅でのことだ。

車椅子に乗った障害者が駅員の助けを借りてエスカレーターに乗っていた。その間、一般乗客は階段を使うことになる。それぐらいはやむを得ないと思う。

ところが、ひどい奴がいた。余程急いでいたのか、事情は知らないが、その男は障害者に向って叫んだ。

「こんなところをウロチョロするんじゃねえよ。邪魔なんだよ!」

家にこもっていろ、という意味である。ひどいことを云う。こういうのは、一種の人格障害者ではないかと思う。「いたわる」という感情が無い。



好きで障害者になった人はいない。誰もが明日、交通事故に遭い、脊椎損傷により、同じ立場になるかも知れない。

このような想像力を働かせれば、エスカレーターをたまたま、一度使えなかったぐらいの不便は、甘受すべきであることが分かる。

一昨日の日記と同じ締めくくりになるが、いたわる心、「惻隠の情」もやはりその源は、「もし、自分が相手だったら」と考える能力、つまり、想像力である。


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