先週、親交の深かった叔父が他界した。72歳だった。
叔父は長年持病を患っていて「いつか…」と覚悟はあったのだけど、死の1週間前までは自宅で安穏と暮らしていたので、突然死んでしまった感が大きかった。
私は祖母の自殺以降、人の死に対して過敏だと思う。父が死んだ時は経済的にも精神的にも厳しい状況にあり、哀しむよりもむしろ「なんとかしなくちゃ」という思いが強くて泣くに泣けなかったのだけど、友人のお母さんが亡くなられた時など、色々とこみあげてくるものがあり、お会いしたことさえない方の葬儀で、恥ずかしくなるほど泣きじゃくってしまったことがある。
しかし今回、叔父の葬儀ではホロリときたくらいで、泣きじゃくることは無かった。
亡くなった叔父は小さい頃から私を可愛がってくれていたので、もうお別れなのだと思うと寂しくて少し泣いてしまったけれど、号泣するには至らなかった。自分の冷静っぷりに自分でも吃驚してしまったくらいだ。
後でゆっくり考えてみて気づいたのだが、叔父の死は過不足の無い死だったから、胸をかきむしられるような哀しみに襲われなかったのだと思う。叔父は最後まで比較的思い通りに暮らしていたし、家族に看取られて亡くなった。もう少し長生きして欲しかったとは思うし、大往生とは言えないけれど、不幸な形での死では無い。
過不足の無い死…というのは静かで穏やかで、それゆえに哀しみの度合いも少しばかり控え目なのだ……ってことを初めて知った。そして、そんな死は、ちょっと大変な死に際だった人の死よりも、ずっと受け入れやすい。
今回の事は私の中でものすごい発見だった。私が死ぬ時もまた叔父のようでありたいなぁ…と思う。そして私の周囲の人が亡くなる時も、そうであって欲しいと。人は死の形を選べないけれど、出来ることなら哀しくない死に方の方がいい。そんなことを考えてみたところで、今日の日記はこれにてオシマイ。