訃報ってヤツは唐突に訪れる。昨夜、ネットで知り合った年下の知人が亡くなったとの知らせを聞いた。しかも、あまり良い形ではない死だった。昨夜はまんじりともせずに夜を過ごした。
彼女は私とFと共通の知人で、何度か会い、飲み、そして数回個人的なメールのやり取りをしていたが「年下の友人」と呼ぶには希薄な関係だった。何故だか私のことを慕ってくれていて大型のワンコみたいに可愛らしい女性だった。7月から日記の更新が止まっていて「ネット以外の居場所を見つけたか、別の興味の方へ走っていったんだねぇ」と勝手に思っていたのだけれど、どうやらその時に亡くなったらしい。
「せめて、もう1度メールをしておけば良かった」なとど悔いは残るが、すべて「いまさら」である。それに私は彼女を抱え込んであげるだけの覚悟は無かったのだ。精神的に弱っている人と係わる時は全身全霊で対峙出来ない限り、中途半端に首を突っ込まない方が良い……と思っていたのだけど、果たして本当にそうだったのか……。それも、これも「いまさら」である。
彼女は、この場所ではないところでの知り合いで、そちらの繋がりの中で「せめてお線香を…」という話が出ているのだけど、まったく乗り気になれずにいる。ちょっと複雑な形で娘を亡くした親御さんの気持ちを……いままで彼女の死が知らされなかった事を考えるだに、そっとしておくのが優しさのように思ったりしたのだ。
「仏壇の前で手を合わせたって故人に通じる訳じゃない」って想いもある。「遺族の気持ちより自分の気持ちを優先させるのは自己満足に過ぎない」って考えもある。そんな話をFとメールでやり取りしたらばFからは「そういう問題ではないし、それを言い出したらお墓参りの意味だって無くなる」と言われて、それが普通の感覚なのだろうなぁ……と、ぼんやり思った。
お葬式も、お墓参りも生きている人を慰めるためにある行事だと思う。そう言えば私は実家に行っても父の仏壇には手を合わせないけれど、夫の実家の仏壇には手を合わせる。自分の亡父と夫の亡父に差を付けている訳ではなくて、乙女な母は、その類のことに執着のない人だけど、義母はそういう類のことを大切にする人だからに過ぎない。死んじゃった人よりも、生きている人を…って気持ちがどうしても強い。
信仰心が無いので「あの世」とか「仏」とか「神」の存在が信じられないのだ。死んでから手を合わせるよりも、生きている時に精一杯しておかねば……と思う。せめて自分が大切だと思う人には気持ちを出し惜しみしないようにしたい。
あれこれと思うことが多過ぎて1日中考えがまとまらずにいた。若すぎる知人の冥福を祈りつつ、今日の日記はこれにてオシマイ。