白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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2007年11月29日(木) 片思いのような

最近、娘がやっと私のことを好きになってくれつつあるような気がする。

娘が産まれて49日。彼女がこの世に産まれ落ちた瞬間から、私は彼女が大好きだし、せっせと愛情を注いでいる訳だけど、彼女も同じような愛情でもって私を見ていたか……と言うと、それは違うと思う。「赤ん坊は母親が1番よね」ってのは、ロマンティックなドリームではあるけれど、現実問題として赤ん坊が「母親が1番」と感じるのは、ある程度成長してからの事だろう。

娘にお乳を与えながら「きっと、このお乳が違う人のとすり変わったって、この子は何にも困らないんだろうなぁ」と何度となく思った事がある。新生児って、お腹を満たしてもらったり、抱っこしてもらったり、お尻をサッパリさせてもらったり……と言う原始的な要求を満たしてくれる人であれば、母親でなくても良いようだ。ぶっちゃけ、娘はちゃんと世話をしてくれる人であれば、私ぢゃなくても……たとえば彼女の祖母だったり、もっと過激に言うなら「知らないオバチャン」でも別段、困りはしなかっただろう。

しかし……だ。それだと私は困るのだ。何しろ私は娘が可愛くて仕方ないのだから。

まだ自分のことを母親だと認識していない娘を抱きながら「これは強烈な片思いに似てるなぁ」と思っていた。「想い・想われ」って形の愛は楽チンだ。恋人や夫婦なら、そういう間柄でいられるのだけど、親子間だとそうもいかないようだ。よく「親の愛は無償の愛」と言うけれど、今までピンとこなかった。あれは「無償」と言うよりも「一方通行」って事だったのだなぁ。

片思いが1人でも成立するように、一方通行でも愛の形は成立する。

そんな中で娘が私のことを好きになってくれている節が伺えるようになったのだから、嬉しくってたまらない。もう少ししたら「母親が1番」になってくれるのだろうか。今から楽しみで仕方がない。

……とは言うものの、娘が「お母さん大好き」なんて言ってくれるのは、かつて私がそうだったように、わずかな歳月に過ぎないのだろうなぁ。今のうちに、しっかりベタベタしておこう。とりあえず、今は「お母さん大好き」となってくれるのを楽しみにしていよう……って事で、今日の日記はこれにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
2006年11月29日(水) 待っている時間
2002年11月29日(金) 先が見えてきたかもね〜
2001年11月29日(木) 真剣に「馬鹿」と取り組む大人

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