スーパーに行ったら栗が売っていた。時期的には、もうちょっと待った方が安いんだろうなぁ……と思ったのだけど小人さんが「明日は栗おこわにしちゃいなよ。そうしなって」と囁くので、うっかり購入してましった。
勢いまかせで栗を買ったは良いものの、ストレートな栗おこわを作るにしては、ちょっぴり量が少なめだった。なので小豆を混ぜて「小豆・栗おこわ」を作ることに。要するにお赤飯に栗が入った豪華版ってことだ。
夕食後、小豆を炊いたり、もち米を水につけたり。ネットで検索したら栗は皮を剥いた後、砂糖をまぶして一晩冷凍するとホクホクと炊き上がるらしい。「そりゃぁ凄いや」とて、さっそく試してみることに。明日の晩は小豆・栗おこわ。ちょっと贅沢な感じが嬉しいぢゃないか。
子供の頃、乙女な母はお赤飯やおこわを炊く人ではなかったのだけど、近所にお料理の好きなオバチャンがいて、お赤飯やおこわ、チラシ寿司を作ると必ず「お裾分けよ」と言って持ってきてくれた。彼女は「少し作るのも沢山作るのも一緒だから!」と笑っていた。彼女の作るお米料理はとても美味しくて、楽しみではあったのだけど、心のどこかで「そんなに沢山作るとなると手間も材料代も大変だろうになぁ…」と疑問に思っていた。
所帯を持った今なら彼女の気持ちが良く分かる。
お裾分け魔の人は「少し作るのも沢山作るのも手間は一緒よ」とか「ついつい沢山作りすぎちゃうの」と言うけれど、あれは詭弁だと思う。料理上手な女なら「適量」というのは計算出来るはずなのだ。そして大量に作るとなると、材料を切る等の物量的な手間が増えるので「手間は一緒」なんて事はありえない。だが……しかし、彼女達は沢山作らずにはいられないのだ。
すごく手間の掛かる料理を作る時は家族以外の人間にも誉めて欲しいものなのだ。お赤飯やおこわを炊くのも炊飯器を使えば簡単に出来るとは言う物の、仕込みの手間はオムライスやカレーライスの比ではない。大量に作り、そして配り「この間は美味しかったわ。ありがとう」と言ってもらってこそ快感が得られるというものだ。
そんな訳で私も、そういう類の物を作る時は必ず実家の分も作る。仲良しの婆さまが生きていた頃は婆様の分も作っていた。今だって、近くに親戚や友人が住んでいたら、もっと沢山作って配りまくっていると思う。配らずにはいられない……これは、もう不治の病だ。
私も知らず知らずのうちにオバチャンへの階段を駆け上がっているのだなぁ。あと10年もしたら貫禄のあるオバチャンに仕上がっているかと思うと楽しみでならない。自転車の前カゴにお裾分け用の「ご飯もの」を積み込んで爆走している小さなオバチャンがいたら、それは私です……ってことで、今日の日記はこれにてオシマイ。