森達也「A」「A2」そして「A3」を読む。 そしてその勢いで、藤原新也の「黄泉の犬」を読む。
森達也と言う人は、オウム真理教のドキュメンタリー映画「A」、そして「A2」の監督である。件の本は、映画の中では表現されていない、監督としての様々な主観が書かれている。
読者の私は、1995年にタイムスリップし、そこから現在を俯瞰する。 事件当時の半分ぐらいしか関心を向けなかった裁判の経過を改めて知る。
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地下鉄サリン事件に関する著作物を、多くは読んでいない。 村上春樹のインタビューぐらいである。
そうだからあまり感想を書けない。 感想がない、ということとは別であり、むしろその逆である。 それらは姿かたちを変えて、表されることになるだろう。
でも、忘れないように少しだけここに記録したいと思う。
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社会は、地下鉄サリン事件を早々に封印して忘れたかった。 森氏に言わせると「早く吊るせと望んだ。」 気持ちが悪いから、である。
私だって、エンピツ日記に「存在をなき者とするより制裁はないだろう」なんて書いた。
そして時間短縮の結果、私達はあの事件を「宗教を背景として実行された」ということにしたままにしている。
ある同時代に生きた人間の集団が、何のために事件を起こしたのか、そのために、いかにして宗教を口実にしていったのか。
そうした、宗教的な要素を剥ぎ取るという無害化処理がなされていない。
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サリン事件が起きたのは1995年だから、今年で16年になる。 宗教を背景とした、ということになっている事件として、 これはほんのわずかの時間である。
事件から宗教性が排除されないということは、100年も200年も人の心に残り続ける。言ってみれば自然界になかなか戻らないPCBのようなものである。
その間に有害物質が漏洩するかもしれないし、変成するかもしれない。
じっさい、「A2」で記録された、事件と関わりのない信者が施設を追われ困惑する映像は、100年後の人が見れば、「おとなしい善良な信仰心のある人間が、過去の重罪のために迫害を受け流浪する物語」になるかもしれない。
「過去の重罪」の瞬間は、当たり前だが記録映像に残っていない。被害を受けた人の悲しみと苦しみの物語は、村上春樹が残したインタビューぐらいは未来に残るかもしれないが、映像に比べて極めて分が悪い。
そうだから、私は、宗教的余韻を残したまま事件を片付けたツケが、遠い未来にやってくるのではないか、と思うのである。
2010年01月27日(水) Who is My 2008年01月27日(日) 財閥温泉 2007年01月27日(土) 2006年01月27日(金) ビーフとストーブ
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