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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年02月26日(火) 伝統と革命の間/『蟲師』2巻(漆原友紀)ほか

 岡田斗司夫さんのホームページ「OTAKING SPACE PORT」の巻頭言に、歌舞伎についての書きこみがあったが、それがチョイと気になる内容であった。
 唐沢俊一さんが2月24日の裏モノ日記に、「岡田斗司夫氏は要するに、才能というものは遺伝するものではない(こぶ平を見ればわかる)から、ただ血がつながっているということだけで家元だの名門だのといって御曹子たちをもてはやすことが伝統芸能の衰退を招いている、と主張していた」、と書かれていたのを受けての発言である。

 「唐沢さん、僕は『歌舞伎は血統主義のせいでダメになった、と嘆いている』わけではありません。
 血統主義だから技術レベルが低いのは当たり前で、そのことから歌舞伎ファンは目をそらすべきではない、と言ってるつもりです。
 『面白くないし技術的にもダメだけど、でも伝統芸能だから素晴らしいんだ』というスタンス、いいじゃないですか。
 映画とか漫画とかアニメなんていう歴史の浅いメディアは、面白いとか素晴らしくなきゃ芸術的に意味はない。
 しかし伝統芸能の恐ろしさとは、『面白くなくてもダメでも、とにかく続いてるから価値があるんだ』という頑迷なようで深みのあるニュアンスまで射程に入れられる、というところではないかと」

 実際のところ、岡田さんのこの文章見て、ちょっとアタタ、と頭抱えちゃったんだけどね。
 言っちゃ悪いが岡田さん、思いっきりコトバの論理の筋を外してしまっている。
 全ての文章を引用するわけにはいかないから、要約するしかないんだけど、唐沢さんはつまり「歌舞伎ファンの神経逆撫でするような言い方じゃ、せっかくの主張が伝わんないから表現考えろよ」と言ってるんである。
 簡単に言っちゃえば「誤解を招くような書き方はモノカキならするなよ」ということ。
 もっとわかりやすく言えば、「シロウトがヘタなことを言うと、恥かくよ」(-_-;)。
 やっぱさあ、「血統主義だから技術レベルが低いのは当たり前」。
 こりゃあ、ちょっとマズイんじゃないか。
 歌舞伎ファンが激怒するのは当然だがね。
 だってね、岡田さんの表現のし方は「新劇」の立場に立っての発想なんであって、「歌舞伎」の伝統性を前提にした言語になってないんだもの。
 「面白くないし技術的にもダメだけど、でも伝統芸能だから素晴らしいんだ」。全然誉めてないって、これ(^_^;)。
 これをね、「従来の『歌舞伎』を旧劇として排斥し、西洋の心理的表現を取りこむことで成立して行った『新劇』の立場に立てば、『歌舞伎』の表現方法は大仰で古臭く、新劇的手法に慣れた大多数の現代人からはつまらなく見えるかもしれない。しかし、『歌舞伎』には『伝統』の中で培われた独特の技術があり、いわゆる『所作事』を知悉した観客にとっては、『新劇』以上に細やかかつ大胆な世界が映し出されているのである」、こう書きかえれば別に歌舞伎ファンは怒らんと思うんだがな。

 たとえば、歌舞伎には「おこつく」という動作がある。
 一瞬、舞台上でよろめいて見せる動きを言うのだけれど、これ、よろめいただけじゃなくて、そのあと、必ず「立ち直ってシャンとする」のね(ついでだけど、このときの囃子を通称「ポテチン」と言う。鳳啓助のギャグのこれが元ネタ)。
 つまり、「おこつく」ことで心理的動揺を示して観客の注意を引くわけだけれど、そのあとより整った姿勢を見せることで、その動揺から立ち直ろうとする意志すら見せる。けれど内面の動揺が消え去ったわけではない。はっきり言えば「から元気」だ。でも、その複雑な心理を観客は敏感に感じ取って、感動するのだ。そういった一連の動きまでも「技術的にヘタ」と言い切るのは、「無知」の謗りを受けても仕方ないんじゃないか。

 そういう「所作事」が、様式化というかパターン化されてしまうと、やっぱり漫才のキメギャグみたいなもので、繰り返されるうちにつまんなくなっていくんじゃないか、と思われる人もあろうが、そう単純なものでもない。
 必然性のないところで「おこつけ」ば、歌舞伎の観客だってやっぱり白けるのだ。いや、決められたところだって、ヘタな役者がやれば、舞台は確実に白ける。
 歌舞伎ファンの目は存外厳しいのだ。
 にもかかわらず、そういう歌舞伎の細やかさが、現代人の我々には見えなくて、つまらないもののように思われちゃってるってのは、例えば男が少女マンガの表現が稚拙に見えるのと同じで、「慣れてない」だけなんだよね。

 岡田さんは「歌舞伎に慣れてない」。
 それは確実だ。
 だから、御本人は「伝統芸能だからすばらしい」と誉めた気になっているようだけれど、結局、シロウトが余計な口を差し挟んでることにしかなってない。
 昨日の『アイランド』の話にも共通することだけど、「文化の違うもの」を理解することって、そんなに簡単なことじゃないのだ。「自分とこの文化ではこうだ」、「でもあそこんとこの文化はうちのと違う」「だからあの文化は間違ってる」……そんなことは簡単に言えるもんじゃないって、わかんないのかな、岡田さん。
 ある文化の尺度を絶対のものとして、別の文化の価値をダメだなんて言っちゃいけないってことは、基本なんだけどなあ。

 これが全く逆に、「歌舞伎も現代人の嗜好に合わせて変わるべきだ」というならまだわかるよ。猿之助さんの「スーパー歌舞伎」はまさにそれだし。
 その立場に立って「伝統遵守派」に対してもの申すっていうなら、納得はいくのだ。
 でも、「つまんないけど伝統だからいい」なんて立場は、結局なんなのかね?
 これ、歌舞伎に対してなにも言っていないに等しい。
 結局、岡田さんには歌舞伎に対する知識も関心もないのだ。
 それはシュミの問題だから別に全然構わないことなのだが、ならば岡田さんが歌舞伎について語る必要だって全然ないではないの。
 歌舞伎はね、面白いから続いてるの。それが普遍的ではないってだけのハナシで。
 で、歌舞伎ファンだって、世間的には歌舞伎がつまんなく思われてるってことは重々承知の上なのだ。
 だから今更、岡田さんに「歌舞伎ファンは目をそらすべきではない」と言われたって、「別に逸らしてないよ」のヒトコトで終わっちゃうのだ。
 そんなことより、今の歌舞伎がつまんないのは、その「所作事」をキチッと演じられる役者が減ったってことの方が大きいんだけどな。それは歌舞伎における血統主義が崩壊しかかっているからなんであって、岡田さんの主張とは全く逆なんである。

 どうしていきなり岡田さん、歌舞伎について語り出したかな?
 夏目房之介さんが歌舞伎ファンだから、なにか言われてカチンときたのか。
 そのへんは憶測だから、なんとも言えないし、「知識がなくても発言はできる」のだけれど、唐沢さんがせっかく注意してくれたんだから、せめて「勉強不足でした」くらいのことは感じてほしかったなあ。

 ああ、こういうこと書いてるからって、私が歌舞伎についてクロウトだなんて思わないようにね。演劇評論家の渡辺保さんの主張からのウケウリっスよ。私も歌舞伎はたまにテレビで見るくらいです。


 『キネマ旬報』2月上旬号に、アメリカ版『鉄腕アトム』の正式発表のニュースあり。
 タイトルが『Astro Boy』だってのと、アトムがCGってのは聞いてたけど、アトムだけでなく全てをCGIで制作することに変更されたとか。
 これは明らかに『トイ・ストーリー』以降のCGIアニメのヒットがもたらした結果だろう。『シュレック』『モンスターズ・インク』がヒットして、『アトランティス』がコケたとなれば、迷う必要もない。
 基本的に人間までCGで作画することを、私はどうも好きになれない。
 CGと手描きアニメの違いは、手書きアニメがコマ落としによって残像効果を出せるのに対して、CGはそれをしない、つまり、動きが「滑らか過ぎる」てしまうことなのだが、あれだけ細密な『ファイナル・ファンタジー』ですら、登場人物の動きは「人間」に見えなかった。いや、へたに細密だから、人間との動きの違いが目立つのだ。
 『トイ・ストーリー』や『シュレック』、『モンスターズ・インク』の絵コンテなどを見ても思うのだが、完成された映像より、はるかに溌剌としているのである。完成度をわざわざCGで低くしてどうするんだよって、日本の手書きアニメに慣れてる身にはそう感じられるんだが、現実問題としてアメリカじゃ、わざわざCGにしないと売れないのだろう。
 アメリカのアニメ後進ぶりはこういうところにも現われているんだよね。
 けどなあ、CGのアトムも見たくもないけどさあ、CGのお茶の水博士、CGの天馬博士、CGのタワシ、中村両警部、CGのケンイチ、シブガキ、タマオが出るのかよ。
 そいでもって、どうせ原作の絵なんか無視して、リアルな人間キャラになってよ、アメリカだから名前もビバリーヒルズ博士とか、ブラッシュ警部とか、ジョニーとかケンとか(あ、ケンイチだけは名前が同じにできるか)になるんだぜ、きっと。
 ……だったら俳優使ってくれたほうがまだマシじゃないのか?

 更に、ハリーハウゼンの『シンドバッド』シリーズの第四作製作の発表もあったけど、ハリーハウゼン、とうの昔に引退してるのに、なぜに「第四作」なんて謳ってんの? しかもやっぱりCGで作るって、ダイナメーションで作らなきゃ意味ないじゃん!
 なんだかアメリカさんのやることはようワカラン。
 ヽ(´∞`)ノ

 この冬の興行成績もどうやら出揃った模様。
 トップは今も上映中の『ハリポタ』だけれど、『もののけ姫』の記録は抜きそうだが、『タイタニック』までは届かず、という感じらしい。だいたい200億円くらいで落ちつくのかな。2作目、3作目で前の作品以上のヒットってのはなかなか難しいだろうから、記録破りはもうしばらくはないかな。
 あとは『バニラ・スカイ』が35億、『スパイ・ゲーム』が25億、『シュレック』もそのくらい、続いて『GMK』が20億。
 去年の『メガゴジ』が10億だってことを思い返すと、倍増だね。全く『ハム太郎』さまさまだ。でも、もう一本なにかアニメをつけて「チャンピオン祭」が復活してくれりゃ、正月だけじゃなくて、春・夏通じて長期のヒットも見込めると思うんだけど。 


 夕食はしげのたっての希望でガスト。
 なんでもドリンクバーのメニューが増えたそうで、「アイスココアが飲みたい!」のだそうな。
 なるほど、店に入ってみると、ドリンクバーのコーナーに、なんだか黒っぽいボックスみたいなのが一つ増えている。でもアイスココアと言ってたのに、機械はどう見てもホット用。
 どこにアイスが? と思ってよく見てみると、「氷を入れてアイスにしてください」の表示が! ……これ、アイスココアの機械じゃなくて、「ホットココアを氷で無理やりアイスにしてください」ってやつだったのね。
 これはつまりこういうことかな、初めからアイスの状態にしておくと、ココアが沈殿して薄くなってしまうんで、むりやりホットをアイスにしているとか……よくわからんな。
 けれど、こんなの薄くてぬるくて飲めないんじゃないかと思っていたのだが、実際に味を見てみると、これが意外とイケるのだ。
 初めから氷が解けて味が薄くなることを見越して、ちゃんと濃い状態にしておいたのだろう。濃さもいいし、冷た過ぎないのがノドに優しい。
 つい、3杯立て続けに飲んでしまったけれど、これ、意外にやみつきになっちゃいそうだな。


 マンガ、和田慎二『超少女明日香 式神編』2巻(メディアファクトリー・580円)。
 随分簡単にヒロインたちを殺して行くなあ、と思ってたけど、こういうオチに持っていくためだったのか。ちょっとムリヤリっぽい印象もあるけど面白いからいいや。
 なにより、タイトルの「式神編」ってこういうことだったのね……、とそのアイデアに脱帽。だってまさかねえ、チビ明日香が(もちろん変身前!)が何百人も出てくるなんて思わないってば。
 ごっつかわいい! ストーリーのちょっとしたいい加減さなんてもう気にならないくらい。
 おまけとゆーか、和田さんが竹本泉さんと雑誌で対談したときのカットを再録してくれているのも嬉しい。竹本さんの描く明日香、かわいすぎる! まるでホンモノと似ても似つかないくらいに(こらこら)。
 和田さんの描くイーナスはヘタだけど(おいおい)。
 けれど、いい加減で和也とのすれ違いネタは無理が出て来てるしやめたらどうかな。もう何度も一緒に戦ってきて「危険な目に合わせたくない」もないだろうに。
 いったん終わった作品を更に続けるってのが大変なのは解るけれど、「黄金ドクロ編」のような強大な敵はもう出しようがないし、あまり以前の作品のパターンを繰り返すのはどうなんだろう。
 それならいっそのこと第一作のウォーカー姉弟をもう一度出すというのはどうだ。たしかまだ死んでなかったし。


 マンガ、漆原友紀『蟲師』2巻(講談社・560円)。
 ああ、待ちに待った待望の2巻!
 しかも1巻にも増してハイレベルな作品群!
 私のつまんない批評なんか読んでるヒマがあったら、すぐに買って読め!
 ……常軌を逸してると思われようが、実際面白いんだから仕方ないじゃん。
 掲載誌の『アフタヌーン・シーズン増刊』でも表紙になっているくらいだから、そりなりに人気はあるんだろうけれど、珠玉の名編、という看板に偽りナシのこのシリーズ、売れてきたとは言ってもまだまだ世間の認知度は低いと思うんである。
 しかし一度読んでハマったらもう、人に伝えて「『蟲師』はイイっスよ!」と布教して回りたくなるその魅力、これは『エヴァンゲリオン』『オトナ帝国』に勝るとも劣らない。
 現に第1巻が発売された時、福岡天神の福家書店では、次々と新刊が発行され続けているにもかかわらず、増刷が入荷されるたびに必ず平積みにし、しかも「試し読み本」を用意して、「だまされたと思って手に取って読んでみてください!」のハリガミまでしてたのだ。
 だからプッシュ!
 これを読んだことがある人はすぐに自分のホームページで絶賛の感想を書き、出入りしているサイトがあったらそこでも「読め読め」と強要し、家族や一族郎党、友人知人には無理やり売りつけ、更に布教の輪を……。
 はあはあ。
 いけない、ちょっとばかし額の血管が切れちまったい。
 でも、一度読んだら、絶対そんな気分になることは保証するでよ。

 今巻で、なぜ蟲師のギンコが旅をしているのかも、巻頭の『やまねむる』で明かされる。「蟲を寄せる」体質の人間が「蟲師」になるのだね。しかしなぜ「彼ら」だけが蟲を寄せてしまうのか、その謎まではまだ明かされない。明かされなくても構わないけど。
 「蟲」は確かに人をついばむものであるのかもしれない。
 しかし、ギンコを初めとして、このマンガに登場する人々は、みなこの「世界との絆」をどこかでつなぎそこなっている人々ばかりである。
 口減らしに山に捨てられ、山に育てられた少年、コダマ。
 愛する男を里につなぎとめるために山の主を殺した娘、朔。
 蟲にその身をささげることで、里の安寧を保とうとする蟲師、ムジカ。
 満たされぬ心ゆえに蟲にその身を寄生させて生き神となる少女、あこや。
 父の見た虹の幻影を追い求めてさ迷う男、虹郎。
 蟲にとって代わられた息子を、それでも愛し育てていく母親、あき。
 彼らは、彼女たちは、原初の生命たる「蟲」に触れることでようやく自らの「心」を取り戻す。
 その様子はまるで、「悲劇」を経験せねば、人は人でいられないという諦観のようにすら見える。

 そして、『筆の海』のヒロイン、狩房淡幽。
 参った。
 マンガの中の少女に、こうまで打ちのめされることがあろうとは思いもよらなかった。
 その健気さ、そして強く、優しく、けれど儚げな憂いをその瞳に常に宿した少女。
 これほどまでに深い「思い」をリアルに描ける才というのはいったいなんなのだろう。
 蟲封じの家に、先祖の封じた蟲をその身に宿して生まれ落ちた少女の右足は、蟲のために黒く、墨のような痣に覆われていた。
 身動きすることもかなわぬその「蟲」を改めて封じるためには、彼女の「筆」で、蟲を紙に筆写し続けるだけの生涯を送らねばならない。
 蟲師たちの語る「蟲封じ」の物語だけが彼女を救うことが出来る唯一の望みだが、それはその一生にのみ終わることではなく、何十年、あるいは次の世代に生まれてくる「痣を持つ者」にまで受け継がれる宿命なのである。
 ギンコは語る。
 「蟲に体を侵食されながら、蟲を愛でつつ、蟲を封じる。そういう娘が一人いる」
 彼の言を聞いて思う。
 我々人間が持つ「心」そのものが実は「蟲」なのではないだろうか。
 我々は自らの心に侵され、それでも自らの心を愛し、自らの心を封じていく。
 我々が心と心で絆を作ることに悩み苦しむのは、まさしく「生きる」ことが、心に侵されていく過程に他ならないからのように思えてくる。
 なのに、淡幽は自らの宿命を受け入れる。
 蟲を受け入れる。
 自らの心を受け入れる。
 そして最後にギンコに語る。
 「生きているんだよ」と。
 そうだ。
 「生きる」ということは、このどうにもならない「心」を抱えていくことを憂えることではないのだ。この苦しみも、悲しみも、引き受けねばならない者たちが共通して持っている共感を持つこと。
 それが「絆」だということをこの足萎えの少女は語っているのだ。
 「蟲」は「群生」する。
 しかし、我々人間も、その儚い命を群生することにより満たしあっているのではないか。
 それは「癒し」などという適当な言葉で表せるような軽いものではなく、もっと深く、原初的なもののように思える。

 さあ、みんな、『蟲師』の2巻を買いなさい。

2001年02月26日(月) しみじみ草枕/『エクセル▽サーガ』(六道神士)7巻ほか


2002年02月25日(月) だめおんなず・うぉ〜か〜/『ネコの王』2巻(小野敏洋)ほか

 咳が出て止まらなくなり、仕事を休む。
 こないだ「もう仕事休まないぞ!」と決心したのにこの始末だ。
 ゆっくり横になって休みたかったが、しげがベッドを占領して、イビキをかいているので横にもなれない。
 ウチには奥にも寝室があって、そっちで寝られりゃいいのだが、しげが片付けないままでほったらかしてる本の山にフトンがつぶされてて、寝るに寝られない状況なのだ。本は枕元に置きっぱなしにするなと口を酸っぱくして言ってたのに、それを無視されつづけた結果である。
 仕方なく、パソコンの椅子によっかかって休むが、関節が咳をするたびに軋む。気分はさらに落ち込み、どうして家事一つしない妻にベッドを占領されたまま、私がこんなに苦しまなきゃならんのだと、その理不尽さを考えるにつけ、ますます頭痛が激しくなる。
 そんなに寝てたいなら、車で寝ろ。


 今晩から「BSマンガ夜話」。
 ラインナップは以下の通り。
 1、2月26日(火) 午前0:10〜『アイランド』尹仁完作・梁慶一画
   ゲスト/キム・スンヒョン、村上知彦
 2、2月27日(水) 午前0:05〜『青の6号』小澤さとる
   ゲスト/大槻ケンヂ
 3、2月28日(木) 午前0:05〜『課長 島耕作』弘兼憲史
   ゲスト/夢枕獏、北野誠
 4、3月1日(金) 午前0:10〜『おいしい関係』槇村さとる
   ゲスト/一条ゆかり
 基本的にこの番組は、私は「自分が読んだことある」マンガを扱った回しか見ないようにしている。
 となると、今回私が見られるのは『青の6号』だけってことになっちゃうのだが、今日の第1回の『アイランド』、多分『新暗行御史」にも触れるだろうな、と思って録画することにする。
 予想通り、『アイランド』と『御史』を比較対照するような形でトークは進んで行く。
 『アイランド』は未読なので、意見をさしはさむわけにはいかないが、みなさんのお話によれば、完全に日本のマンガと化した『御史』より、韓国で連載されていた『アイランド』の方がパワーはあるとか。
 いわゆる絵の技術も向上していて、きちっとした完成度を持っている『御史』よりも、なんだかわかんないし矛盾だらけだけど、勢いがある『アイランド』の方が「マンガとしてオモシロイ」と言いたいのだろう。
 リクツとしてわかりはするし、まさしく昭和40年代の「デタラメなマンガ群」に郷愁を感じる身とすれば、諸手をあげて賛成したいところだけれど、同時に「洗練された作品」ってのもやっぱりなきゃいかんよなあ、とも思うのだ。
 手塚治虫や石森章太郎は、当時としてはすばらしく「スマート」な作風だったのだ。彼らがオピニオンリーダーとなっていたからこそ、現在のマンガの隆盛はある。
 二枚舌のように聞こえるだろうが、我々はマンガやアニメを語るのに、「たかがマンガじゃないか」と卑下しつつそのデタラメさを賞揚することもあれば、「ただのマンガではない」と、その文学性を訴えることもしてきたのだ。その二律背反から弁証法的に、「マンガはマンガであってマンガだからこそいいのだ」という言い方もできるようになってきた。
 「どっちが面白いか」という単純比較だけでなく、もっと「マンガってなに?」ってとこまで踏み込んで話してほしかったなあ、と思う。それにはちょうどいいテキストだった思うだけに今回はちょっと惜しかったかなあ。
 ゲストのキムさんが、「日本化された『御史』の表情では我々韓国人は感情移入できない」と語ってたのはおもしろかった。
 日本人の「オイデオイデ」の手のジェスチャーが、西欧では「サヨナラ」になるごとく、これは「国によって通じる記号が違う」ということなのだが、それだけに留めておいていいことではない。ここにはまさに「文化の違い」が両国に横たわっていることの証拠があるのである。
 もちろん、これは別にどっちが悪いという問題ではない。「違ってるから、そのことを前提にしないと、意志の疎通はできないんだよ」ってことをお互いに認識しなきゃならないってことなのだ。
 日本人が笑っても、それが韓国人には心からのものと見えないことがあるかもしれない。それを常に考えておかないと、文化摩擦は拡大するばかりだろう。

 それはそれとして、『課長島耕作』(もう取締役まで行くみたいだが)を一度も読んだことないってのはやっぱり不勉強だよなあ。弘兼さんは『人間交差点』で飽きちゃってたし、団塊の世代だの全共闘世代だのにどっぷり浸ってたやつの書くものって概ねバカ本だったから(偏見じゃねーだろ、実際、一番どっぷりだったやつらはテロ起こしてるんだし)、全然読む気にならなかったんだけど、私たちの世代が全く興味を持たない本が今も売れつづけてるって現象はやっぱり凄いなあ、と思うのだ。
 不思議なもので、この世代の更に前の世代、戦後派だの戦中派の人たちの本になるとまた面白く読めるんだね。要するにこいつらに対して「自分たちは高度成長の中で苦労してたつもりかもしれないけど、結局はバブル引き起こしたバカの集まりじゃん」って思いがあるからなんだよなあ。
 でも偏見かもしれないし、そのうち読んでみよう。つまんなきゃ「やっぱりあの世代は」って言えるしな。


 食事を作る元気もないので、しげに弁当かなにかを買ってきてくれるように頼む。しげは私が具合の悪いときほど何もしてくれないから、本当は頼みたくなんかないのだが、実際にカラダがきつくて外に出る元気はないし、確実に病状が悪くなるとわかってるので仕方なく頼んでいるのだ。
 でも案の定、しげ、「風呂にはいんなきゃなんないからすぐには無理」とか言い出す。
 外に出るなら風呂はあとにしたっていいだろうと思うが、頼んでるのはこちらのほうだから、待つことにする。
 ダラダラダラとしげ長風呂。
 「メシ頼むよ〜」
 と再度言うけど、無視される。
 シツコク頼んで、やっと「じゃ、行ってくる」と着替えて出かけるしげ。
 「でも本屋も回るから遅くなるかもよ」
 遅くなるなら先に行っとけ! と思うが元気がないのでガマン。 
 10分。
 20分。
 ……1時間。
 いくらなんでも遅過ぎる。あと1時間でしげのバイトの時間だ。
 仕方なく携帯に電話を入れるが繋がらない。
 メッセージを入れ、しばらく待つが返事がない。
 再度呼び出すけれど同じ。
 もう時間的に、しげは仕事に出かけている時刻だ。
 日頃、人にはいろいろ食事作らせるくせに、こっちが具合が悪い時にはこの仕打ちか。
 切れて、携帯に最後のメッセージを入れる。
 「もう、お前は家に入れん」

 そのまま、玄関の鍵を締めて寝る。
 午前3時、帰宅したしげがドアベルを鳴らす。
 ドアを蹴っ飛ばしたりしてるので、何も反省してないことははっきりわかる。
 電話を掛けてくるが、これも無視。
 少し間をおいて、もうアタマが冷えたかと連絡を入れるが、謝るどころか「なんで締め出すん!」と激昂。
 電話を切る。

 しばらくして、また電話を入れる。
 しげは近所のファミレスで悠々と飯を食っていた。ますますカチンと来る。
 「まだ自分が何やったかわかってないのか?」
 「……ご飯、買ってこなかったこと?」
 「どうして頼んだこと無視したんだよ」
 「仕事の時間が早まったんだよ。買いに行く時間がなくなったから」
 「じゃあ、どうしてその連絡入れなかったんだよ」
 「……忘れてたから」
 やっぱり弁当頼まれたのを「忘れた(多分本屋回ってるうちに)」のであって、仕事の時間が早まったってのは言い訳なのだ。
 自分の失敗を誤魔化すつもりでまた見え透いたウソをつく。
 しげが今まで何十回もやってきた手だ。
 ここまで「ごめんなさい」の一言はしげの口からは全く出て来ない。
 「携帯に伝言も入れたろ? 最初に謝れば、俺だって怒ったりしないのに、どうしてすぐに謝れないんだよ」
 「伝言聞いてないし」
 「俺には携帯使えってしょっちゅう言うくせに、自分に送られたのは見ないってか。そんな勝手があるか?」
 「……ごめん。これから家事もちゃんとやるし、朝晩の送り迎えもするよ。だから家に入れて」
 どうせその場限りのウソだろうなとは思ったけど、「ゴメン」と言ったので、一応、家に入れる許可は出す。
 けど、こういうしげのウソにつきあってられるのも、まだ私の体が動くうちだけだ。しげは口では私と一緒にいたいといつも言っている。けれど、「いたい」だけで「私と一緒になにかする」じゃないのだ。子供が「パパとずっと一緒」と言ってるのとレベル的に全く変わらない。「一緒にい続けるために自分が何をしなければならないか」を何一つ考えていないのだ。
 私は別に「家事をせよ」とかそういうことを言ってるわけではない。
 別に私は一人でだって生活していけるし、実際、結婚する前の方が生活は楽だった。それをあえて「私と一緒にいたい」としげの方から言ってきた。
 なんのために?
 「世話をしたい」としげは言った。でも現実としてしげは家事をしているわけではない。
 では、代わりに何をするのか。
 しげは私のために「何か」をしたいと思っている。
 いつも自分から「これこれこういうことをするよ」と私に約束する。
 けれど、一日としてその約束を守ったためしがない。
 結局、「自分のできないこと」ばかりを考えるから、できないままなのだ。
 家事ができないなら、なぜ私に頼まないか。
 朝の送り迎え、それができないなら、なぜ初めから「タクシーで行って」と言わないのか。
 うちにカネを入れるから、メシは食わせてくれ、と言うのなら私はそれだって別にかまわないのだ。
 なのに結局、何もしない。
 それでいて、毎月の自分の生活費だけはしっかり取ろうとする。
 だから私は「おまえは寄生虫か」と怒るのだ。
 考えていない。
 結婚して十年も経つというのに、しげは未だに私と「何をするのか」を考えていない。いくら「考えろ」と言っても、アタマが悪いので、「自分のできること」が思いつかないのだろう。それはしげが、「自分を見ること」から逃げているからにほかならない。
 これでは私のほうが、トシを取ったときにしげと一緒にはいられなくなる。
 でも、同居することが物理的に不可能な状況を作ってるのはしげ本人なのだ。
 本気で反省する気があるんだったら、いい加減で気付いてほしいもんだが、とことんバカだしなあ。
 約束を破ったなら、そのペナルティをどうしたらいいか、せめてそれくらいは自分で考えてほしいのに。

 帰宅するなり、しげ、速攻で寝る。
 やっぱり、さっきの反省はウソだったなあ。
 ダメ男に引っかかる女と、ダメ女に引っかかる男とではどっちが不幸なのか、とつくづく考える。
 どっちもバカなのは共通してるけどさ。
 とほほ。
 

 マンガ、小野敏洋『ネコの王』2巻(小学館・560円)。
 巨乳系とロリ系のキャラの差がこれだけハッキリしてるマンガも珍しい。
 っつーか猫女神様、ちちデカ過ぎや(^_^;)。
 今回は「巨大ブルマ」の話と、ケルベロス退治と、ちくわぶが美味しい話と、小学生のスクール水着にビンビンの話……ってなんや分らんな(っつーかエロマンガかこれは。半分そうかもしれんが)。
 まあ、話より何より、チチだのシリだのの露出度が高いからなあ。チチのない小学生の描写が、「シリ」に集中するあたり、作者のリビドーが奈辺にあるかがハッキリしてて潔いと言えば潔いのだが。
 でも私はチチよりシリより、カナガキのキャラが好きだな〜。
 セロのライバルで、世界征服を企むネコ! と言いつつ、ただの「ドジ」なとこはロケット団というかモリアーティと言うかガキオヤジと言うか、かわいいんだけど。アニメでこれの元祖たどったらやっぱり『ハッスルパンチ』のガリガリ博士あたりになるのかな……って、例え古過ぎ?
 でもエッチな絵柄だけど、昔なつかし「まんが」のムードはあるんだよ。
 猫の王にどんな使命があるか分らないけど、あまり話をでかくしないで、ご近所猫騒動モノでいってくれたほうがいいなあ。

2001年02月25日(日) 誰もいない海/『シイナのファブリオ▽』(がぁさん)ほか


2002年02月24日(日) ベスト・オブ・ザ・魔女っ子/DVD『コメットさん☆』BOX SIDE A/『ワンピース RED』(尾田栄一郎)ほか

 今日は寝過ごさず……っつーか、チャットであんまり寝てないんだが。
 で、やっと見られた『忍風戦隊ハリケンジャー』第2話「巨人とカラクリ」。
 このサブタイトルが『巨人と玩具』のパロだなってこたあすぐにわかるんだけど、もちろん話の中味とはなんの関係もない。
 なんのためのパロか。意味なくていいなあ。
 このへん、なんとなく吾妻ひでお的。
 えーっと、で、お話の方だけど、よくわからんが、今度のヒロインのねーちゃんは演歌歌手になったらしい。まあ吹替えじゃなきゃとりあえず音程は外してないか。
 敵のねーちゃん二人は片方が色っぽ系で片方が天然系らしい。
 私は天然系の子がかわいいと思った。
 まる。

 ……なに? ほかに感想書いたほうがいいかい?
 
 
 『仮面ライダー龍騎』第04話「学校の怪談2」。
 本編にはサブタイトルが出てないけど、オフィシャルサイトには紹介されている。
  ……やっぱり昔みたいに「怪奇!くも男」とはいかないなあ。
 アレもシリーズを重ねるにつれてやたら長ったらしくて、バカバカしいものに変わっていったけど、一応今回は反省してるのか、長ったらしいだけで覚えられないようなのは今んとこはない。
 この「カッコイイサブタイトルを」ってことに関しちゃ、『エヴァンゲリオン』はすっごく貢献してるね。
 「学校の怪談」ってのは……ちょっと、ギリギリの線かなあ。
 特に怪談があるわけじゃないからねえ。

 蓮にかかった幼児虐待の容疑が晴れる(^o^)。
 ライダーがいったんは疑われるってのが定番になってきてるけど、ライダーがライダーに疑われるってのはちょっと外してないか。
 本郷猛が緑川ルリ子に父殺しを疑われて感じた悲しみは、本郷が既に改造人間にされてて、人間であるルリ子との間に埋めることのできない亀裂を感じたったって設定があったからこそ、視聴者の胸にもズンと響いたんだけどな。
 なんだか今回、主役がライダーになってしとまう悲しみがないなあ。


 DVD土曜ワイド劇場の江戸川乱歩シリーズ『湖底の美女/天使と悪魔の美女/白い素肌の美女』、立て続けに見る。
 自分のホームベージに明智小五郎のコーナーを作ろうと思って、ずっと買い続けてるんだけれど、このブックレットが解説者の私的な感想ばかりで、資料として心許ないのが歯がゆい。
 ともかくキャスティングすらきちんと書かれてないってのはどういうわけなんだろうね。もっともだからこそ、「明智のページを作る余地はあるな」と判断したんだけども。いろんな人が明智のページ立ち上げてるけど、年譜にしろ研究にしろ、未だし未だしのものが多いのだ。
 でもこっちも相当調べないと対抗できないし、おかげで時間かかっちゃってるんである。
 19作を数えてマンネリ化して来たこのシリーズ、ついに脚本の宮川一郎、監督の井上梅次が降板、脚本は篠崎好、監督は村川透、長谷和夫に変わる。
 途端に美保純は脱ぐわ高田美和は脱ぐわ鰐淵晴子はボンデージるわ、エロ度一気に倍増。こんな露骨なテコ入れもないな(^o^)。
 ともかく何度か見返して、なんとかデータを取らねば。


 DVD『コメットさん☆』第1話〜4話。
 うっひゃあ、何これ、この完成度!
 本放送の時、第1話は見損ねてたんだけど、『サリー』も『アッコ』も『マコ』も『チャッピー』も『リミット』も『チックル』も『モモ』も『マミ』も『ペルシャ』も『エミ』も『ファンシーララ』も束になってもかなわない、魔女っ子アニメ史上最高の第1話だよ、これ!
 脚本、作画、演出、全てここまでのレベルのものを作ってたとは、驚天動地、返す返すもなぜ本放送のとき見損ねてたか……。
 あ〜、今まで結構『コメットさん☆』をプッシュして参りましたが、ちょっと訂正します。
 今までの私の感想、全てにおいて愛が足りませんでした。
 この第1話の設定を見ずして、『コメットさん☆』は語れません。
 改めてここに宣言します。
 『コメットさん☆』はイイ!
 2話以降の九重佑三子のナレーションはまだない。

 星国の舞踏会、華やかに踊る人々の輪から離れて、暗い廊下を走り去る少女のシルエット。
 「姫様!」
 という呼び声だけが虚しく谺している。
 突然、向こうからも走ってくる少年の影。
 すれ違いざま、暗闇の中、輝く何かが宙を舞い、廊下に落ちる。
 少女に目もくれず走り去る影。
 落ちた「輝き」に白く細い指が伸びる。
 振り返る少女に初めて光が当たって……。
 そして、オープニングソングのタイトル。
 「輝き」が宙に浮かぶ。
 「コメットさーん!」
 「はーい!」

 静謐の中の緊張、光と影のコントラスト、まさしくこれは一編の詩、いっぺんの映画!
 なによりヒロインの少女をここまで美しく登場させた例がこれまでにあったろうか! 演出によっぽど自信がないと、ヒロインを真正面から捉えずに、「見返り」で初登場させる(しかもやや俯瞰のアングルで!)なんてとんでもないこと、やれるもんじゃないぞ!

 ああ、もう、ディテールの一つ一つまで全部解説したくなるくらい「演出」っつーのはこうやるんだ! と誉めそやしたくなるんだが、そうもいかない。
 ともかくキモだきゃ書くぞ!

 『コメットさん☆』のあらすじはもう、たいていの人がご存知だろう。
 地球に逃げて行ったタンバリン星国の王子を追って、やってきたコメット、けれど実は王子様なんてどうでもいい、お母さんがかつて素敵な思い出を作ったという地球への憧れ……。
 ただそれだけのためにコメットは鎌倉の街に降り立つ。
 けれど、コメットは地球で散々な目に逢う。
 食べ物もない、住むところもない。
 雨に降られて公演のベンチで泣き濡れる。
 脚本と演出の凄さは、ここでも最大限に発揮される。
 おカネがなくて食べ物も買えないコメット。
 昔のアニメだったら、「カネもないやつにものは売れねえな!」と怒鳴らせるところだ。ちょっとした行為でも「善悪」をハッキリさせたいつもりかもしれないが、考えてみたらこんな不自然な、芝居がかったセリフはない。
 ところが、コメットにおカネがないと知った街の人たちは、ただ「困る」だけなのだ!
 街の人たちは、ごく普通の人たちだ。
 悪人であるわけもない。
 目の前に11、2歳の女の子がいて、おなかをすかしているようなら、かわいそうだと自然に思う。
 かと言って、5、6歳の子供ならともかく、ある程度大きくなってる少女に、食べ物をおごってやるほどの親切は普通、しない。
 ただ、「困る」だけで。
 うわあ、すごいよすごい、この人間洞察力! 
 紋切り型でない、こんなリアルな描写をやっていたとは!
 あのねアンタ、こんなん、『どれみ』が100話束になったってかなわん描写ですがな。
 この「リアルさ」、最終的にコメットを救うことになる藤吉家のママにも共通している。彼女がコメットさんを救ったのは、半ば子供たち、ツヨシくんとネネちゃんの懇願によるところが大きい。
 慈愛に満ちた人柄が設定されていながら、それでも初め沙也加ママはコメットさんを警戒し、いかにも家出少女っぽいこの子をどうしたらいいか、迷うのである。
 コメットさんが外人であること。
 ホームステイ先が見つからずに困っていること。
 「困ったさんは助けましょう」と日頃子供たちに教育していること。
 コメットさんのママと連絡がついて、ようやく責任の所在がはっきりしたこと。
 あくまで「お手伝いさん」として働いてもらうこと。
 これだけの事実を確認し、条件が整ってやっと、藤吉家はコメットさんを受け入れるのだ。
 ただのキレイゴトの愛情だけで行ってることではない。
 
 これだけリアルな設定でドラマを作るとは、いったい何者だと思ったら、脚本、元シンエイ動画で数々の藤子アニメを作ってきた、おけやあきらさんだったのだ。日常の中からファンタジックな非日常を描き出すことにかけちゃ、もうベテラン中のベテランではないの。
 つまりこれって、おけや版『チンプイ』だったんだね!
 ……オレ、ホントに今まで『コメットさん☆』の何を見てきたんだろう。

 特典映像で三代に渡る各コメットさんのインタビューを収録しているのだが、これがもう、普段の喋りが舌足らずで聞き取りにくいこと。
 大場久美子は「あのー」を「あにょー」と発音するし、前田亜季は「〜じゃないですかァ」と普段の喋りはホントにただのコギャルだ。
 それが本編となるとどうしたことか、二人とも声がはっきりと涼やかに聞こえるのだから、あれはやはり演技力なのだ。
 うう、やはりDVDで見返すといろいろ発見があるよう。高かったけど買った甲斐があったよう。オタクにはブックレットのあさりよしとおの解説および脚本家インタビューが読めていいぞ。皮肉を込めないあさりさんの文章が読めるって、『コメットさん☆』に関してだけではなかろうか。


 アニメ『サイボーグ009』第19話「悪の化石」。
 原作の「ディノニクス編」のほぼ忠実なアニメ化……のはずなんだけれど、こ、これは今までで最低、最悪の出来!
 いくらなんでも、全編外注とバンクだけで一本作るかあ!?
 どれだけヒドイって、007がヒマラヤの雪男に変身するシーン、SEが「ポン!」と音を立ててるのに、007の絵はバンクなので、変身してない。
 ……DVDのリテイクで、本編を作る余裕がなかったのかなあ。
 これはさすがに、発売する時はほぼ全編、作画しなおしだろう。
 このままで売ったりしたら、買い手が暴動起こしちゃうぞ。
 来週の「ああ、クビクロ編」は結構動いてるなあ。
 とりあえず来週一回はなんとか持つってところか。次でまた崩れるだろうけど。


 夜は「一番カルビ」で食事の予定だったが、予想外に混んでいて、しかも「30分待ちです」なんて軽く定員さんに言われちゃったもんだから、ちょっと腹を立てて、ちかくの「浜勝」で、食事。
 どっちにしろカロリー高いぞ、控えなくていいのか。
 でもここでも結局20分待たされた。
 麦飯にとろろで何杯でもご飯がイケる。


 しげ、腰が痛いとかで、本当は映画を見に行く予定だったが中止。
 おかげで最近は見たい映画も見られずに終わることが増えている。
 ああ、『ジェボーダンの獣』ももうすぐ終わっちゃうなあ、結局、見られずじまいか。
 実は私の体調の悪化より、しげのワガママのせいで映画見られないことの方が多い。
 そのくせあとで「あ〜あ、見られんかった」とかブチブチ文句言うのがしげに腹の立つところである。
 もう、いつかヒマ見てひとりで映画に行っちゃおっかなあ。


 夜、ちょっとだけチャット。
 某サイトにおいては、私はまあ何やら謎の文章を書いたりもしているのだが、意外なことに結構読者の方がいて、面白がってくれているようなのである。
 根が単純なので、誉められるとそのまんま素直に受け取って嬉しくなる。おかげで筆が進む。
 もし貶されてても、「なにクソ!」とまた筆が進む。
 結局、“書く”ことが好きなんだよなあ、私。
 楽しんでいただけてるようでありがたいこってす。
 私はある理由でとっても辛いんですが(^_^;)。

 
 マンガ、夏目義徳『トガリ』7巻(小学館・410円)。
 どうやらあと1巻で終わり……ってのは「打ちきり」と考えていいんだろうな。
 トウベエが、全部の「咎」を集めきれずに終わるのか、『どろろ』みたいに一気に現れるのか分らないけど、終わることはどうもこの7巻あたりから予告されてたんだろう。
 せっかく登場させたばかりの「EX」のメンバーをどんどん殺している。……連載が続くんだったら、生かしといて再登場させたところだろうけど。
 ああ、でも結構面白かったのにありきたりな結末に落ち付きそうな気配だなあ。心の中の「悪」も飲み込んで一つの統合された人格になる……ってビリー・ミリガンか。
 でも絵は、華がないわりにだいぶ安定してきていて、もう一息でバケてくれるかもなあ、程度にはうまくなってきている。とりあえず最終巻に期待。


 尾田栄一郎『ワンピース RED』(集英社・600円)。
 ……ああ、コミックスサイズだったから新刊と間違えて買っちまった。
 キャラクターブックだったか。
 あ、でも『ロマンスドーン』が読めたからいいか。
 『ワンピース』第1話の原型作品ってことだけど、マンガとしての演出技術は、その第1話のほうが格段に上達している。
 とゆーか、アレが尾田さんの頂点だってのが淋しいんだよな。
 『ダ・ヴィンチ』の読者評がちょうど『ワンピース』だったけど、やっぱり「最近のは面白くない」って意見が多いんである。完全に『ドラゴンボール』の悪いパターンにはまっちゃったな。尾田さん、今のうちにキチンと貯金しといて、連載終わったあとに備えといた方がよくないか。あるいはイラストレイターに転向するとか。
 マジで考えといた方がいいと思うがなあ。

2001年02月24日(土) それはせんせい/アニメDVD『エクセルサーガ』への13巻(完結)ほか


2002年02月23日(土) トンデモさんが一杯/映画『カタクリ家の幸福』ほか

 しまったしまった。
 昨日NHKBS2で見た映画『姿三四郎』の感想を書くの忘れてた。
 と言っても黒澤明の有名なデビュー作ではなくて、岡本喜八が三浦友和主演で1977年に映画化したもの。
 公開当時は見に行こうかどうか迷った末、上映時間が2時間半で、しかもヒロインが秋吉久美子ってんで止めたんだが、止めて正解だったかな。
 いやね、秋吉久美子も悪い女優じゃないけど、芝居に幅がある人じゃないからね。乙美はダメだよ乙美は。可憐で健気でだけと心は強くってってクラリスみたいなキャラだからな乙美は。
 70年代のよ、シラケ派女優の代表だった秋吉久美子に演じられる役じゃあないのだ。
 ヅラは合わねえわ、セリフは棒読みだわ、拗ねた顔も現代っ子で明治の空気はまるで出せてねえわ、かわいくもなんともねー。
 こんなブスな乙美を私は認めん!(`‐´≠)凸
 あ、特撮ファンには三四郎の最後の敵、檜垣兄弟が矢吹二郎と宮内洋ってのがキモです(滝和也と風見志郎の共演!)。
 特に宮内さんの「あきゃきゃきゃきゃー!」って叫ぶ既知外演技が必見(いや、ホントに基地外って設定なんです。よく放送したな、NHK)。


 誰か期待してる人がいるかもしれないので(^^)、『千と千尋』金熊賞に関わる続報。
 どうせこの受賞で、誉めるにしろ貶すにしろ、トチ狂ったことを言うヒョーロンカが出るだろうなあと思ってたけど、期待に答えて早速出たよ。
 しかもお約束の人がねえ。
 まずはオタクアミーゴス会議室で紹介されてた毎日新聞の記事を抜粋。

 東浩紀氏の『千と千尋』評でありんす。

 僕はもともと宮崎アニメが好きだし、「風の谷のナウシカ」以降は全作品を見ています。ただ今回の「千と千尋」には、僕は否定的なんですよ。これまで宮崎監督は繰り返し、「少女の成長物語」を描いてきました。しかし今回の「千と千尋」だけは違う。主人公の少女「千尋」は物語の中でちっとも成長しない。

 異世界に迷い込んだ「千尋」は、常に指図されるがままに行動する。指示通り新しい場所に向かい、人に会い、次々に襲い来る困難をクリアしていく。このプロセスはロールプレイングゲームとそっくりです。

 「千尋」自身はその過程で、迷いもしなければ、悩みもしない。主体的な決断を下すこともほとんどない。「自分は本当はどうしたいのか」と自問する場面がない。主人公の内面の葛藤(かっとう)が一切描かれていないのです。

 これまでの宮崎映画では、主人公は悩みに直面し、自分の人生を主体的に選び直す人物として描かれてきました。ところが「千尋」は、迷いや悩みの契機となるはずのさまざまな困難を、幸運なハプニングやアイテムだけで解決してしまう。
(中略)
 この20〜30年の間、社会は徐々に変質してきた。面倒くさい内面を必要とせず、適切に役割分担(ロールプレー)することで円滑なコミュニケーションをはかる社会へと変わってきた。誰も「自分の本当の願い」などに直面しなくても生きていける。僕はこの変化を「動物化」と呼んでいます。人間も、文化も、社会のあらゆる領域が「動物化」してきていると言っていい。

 ああ、のっけからなんて恥ずかしいこと言ってるかな。
 「『風の谷のナウシカ』以降は全作品を見ています」
 ……そんなんジマンにもなんにもならんて。
 知識量なんて、常に上には上がいるんだから、「これだけ見てる」って威張るやつくらいアテにならないものはない。
 っつーか、恥ずかしい行為だぞ。それは。
 しかも威張るにコト欠いて『ナウシカ』以後……。それ、宮崎監督のフィルモグラフィーの1/10も見てないじゃんか。マニアは『わんわん忠臣蔵』で宮崎駿がどこの動画を担当したかまで知ってるぞ(私は知らんが)。
 知識がなければ批評ができないというわけではない(もっとも東氏の無知ぶりは「これでよう『千と千尋』を評論しようなんて考えたなあ、と言いたくなるくらい低いが)。
 批評の主眼となるのは知識よりも分析力、洞察力であるからだ。
 けれど、その分析する力も、東氏の場合、ちょっとトンチンカン過ぎるんじゃないかという気がしてならない。
 「これまで宮崎監督は『少女の成長物語』を描いてきました」
 「主人公の少女『千尋』は物語の中でちっとも成長しない」
 半可通がよく言うセリフ……というか、これ、宮崎監督自身が言ってるセリフとか、他の批評家が言ってたことをを鵜呑みにしてるだけなんだよね。
 宮崎さんは、『ナウシカ』を作った時に、「なぜ少女を主人公にするのか?」と聞かれて、「現代では男に力がなくなっている、女をヒロインにするしかないでしょう」と語ってたり、今度の『千尋』についても、「今まで私が描いた少女は映画の中で成長したけれど、今度の千尋は成長しない」と語っている。
 東さんは、実はそれを「何の批評もせずに」ただ「それがよくない」と語ってるだけだ。
 でも、『ラピュタ』でも『もののけ姫』でも主役は男だし、千尋が本当に「成長していない」と言えるのかどうか。
 いや、そもそも少女にとっての「成長」とはなんなのか。
 人間にとって「成長」とはなんなのか。
 単に体が「おとな」になる、ということを指しているのではあるまい、ならばそれが「精神的成長」を指すのだとすれば、どのような状態に変化することが「おとな」だと言えるのか。
 そのあたりの基本的な洞察がなされていないから、結果的に東さんの文章は全て勘違いの連続になってしまう。
 
 「常に指図されるがままに行動するプロセスはゲームとそっくり」
 出ましたねー、「ゲーム」論。
 でもこの「ゲーム」って言葉を「会社人間」とか「全体主義国家の人間」とか「家長制度」とかに置き換えたって通用しちゃうんだよな。
 要するにいつの時代、いつの社会であっても誰かが誰かを支配し、虐げようという構図は存在するんで、別段「ゲーム」に例えなきゃならない必然性なんてないのよ。
 第一、千尋は「あの世界から脱出する」ために、まずはハクの言うことを聞かざるを得なかったわけで、最初の段階で反逆してたら千尋死んでるでしょうに。
 アホな批評。
  
 「主人公の内面の葛藤が一切描かれていないのです」
 「さまざまな困難を、幸運なハプニングやアイテムだけで解決してしまう」
 千尋がみんなが嫌がるヘドロだらけの河の神を洗ってやったり、淋しそうなカオナシを中に入れてあげたり、勇気を奮い起こして銭婆のところへ旅立ったり、の描写は、全て心の葛藤なしに、しかもただのハプニングで行ったことなのかねえ?
 第一、千尋、何度も泣いてるじゃん。
 そりゃ、心にどうしたらいいかわからないっていう「葛藤」があるからでしょ?
 宮崎さんが「千尋は成長する子じゃない」と言ったのは、「もう、あの年頃の女の子には、おとなの力が心の中に眠っていて、それが目覚める物語だ」という意味で言ったんだけどね。
 読解力のないアホが言葉を言葉通りに受け取ると、東さんみたいにトンチンカンな解釈をしちゃうことがある。
 他山の石、他山の石。

 「面倒くさい内面を必要とせず、適切に役割分担することで円滑なコミュニケーションをはかる社会へと変わってきた」
 それ、ここ最近じゃなくて、近代以前の社会もずっとそうだよ。
 日本も世界も、「人間の内面」が生まれて来たのは、「職業選択の自由」が生まれた産業革命以降だってことはハッキリしてるよ。「親の職業を継がなくてもいい」自由が生まれたから、「自分はどう生きたらいいか」ってことが人間共通の命題になったってことは社会学の基本中の基本じゃん。
 中学生以下の知識しかないのか、こいつは。

 なんだかここまでレベルの低い批評を読んだのも、例の『エヴァ』騒動以来かなあ。
 こんなアホ批評を載せた新聞の方もやっぱりアホばっかってことなのか、それとも「どうか笑ってください」ってことなのか。
 なんにせよ、こういうトチ狂った批評が生まれて来るのも、『千と千尋』が国民的なヒットになったって証拠だ。なにを言われたって、一度培った評判は、宮崎さんが少女にイタズラでもしない限り落ちはしないんだから(^o^)、どうかもっともっと、宮崎監督には大ヒット作を作っていってほしい。
 そうすりゃもっともっと世界中からトンデモ批評が寄せられて楽しいから。


 作家の山本弘さんが、『山本弘のSF秘密基地』というHPを16日から開設している。
 わずか数日で4000人を突破するという盛況振りだが、人気者の宿命っていうか、早速、掲示板に荒らしが入って来ている。
 例の「ホロコーストはなかった」とやらかして、花田紀凱さんの『マルコポーロ』を廃刊に追い込んだ御仁の書き込みである。
 トップページに「トンデモさんお断り」とハッキリ書いてるのに、全く効果がなかったようだ。つーかねー、最近のと学会本読んでてもねー、「この物件がトンデモです」って紹介してる人の方がちょっとトンデモっぽい気がしてててねー、こんな「お断り」文なんか掲げてたら、かえって「自分はトンデモじゃないぞ」と思いたい人々が大挙して押し寄せてしまうのではないかという懸念があるのだ。
 というわけで私も掲示板に書きこみ(^^)。
 一生懸命自分がトンデモでないふりをして、小林よしのりを貶したりするのであった(あ、でも私本当に「南京虐殺」はちっとはあったと思ってるからね)。 面白かったのは、高木彬光のトンデモ本、『成吉思汗の秘密』を紹介したら、ある人から、「どうしてこの本がトンデモ本なんですか?」とレスがついたこと。
 30代後半以上の人なら知らない人もあまりいないと思うけど、これ、あの源平合戦のヒーロー、源義経が実は奥州平泉で戦死してなくて、大陸に渡ってジンギスカン(チンギス・ハーン)になったってことを証明しようとした小説なのね。
 この義経=ジンギスカン説ってのは、中国大陸の覇権の正統性を謳うために、近代になってやたら語られ始めた説なんだけど(説そのものは近世から庶民間にあったが、これも清朝に対抗する意識があったと思われる)、ともかくその推理の証拠ってのが、「義経がジンギスカンにならなかったという証拠がないから、義経はジンギスカンだ」というアホなもの。
 ……んなこと言い出したら、私が小泉純一郎でないという証拠がないから、「私=小泉純一郎」だってことも証明できちゃうぞ。田中真紀子でもいいな。
 しかも小説のラストで更に決定的な証拠として挙げられた理由がもうただのオカルトで……。まあ、後は自分で読んでみてください。ミステリなんで、結末だけは隠す(必要ない気はするけど、一応の礼儀)。
 昔は角川文庫だったけど、今は「ハルキ文庫」で復刊されてます。
 この『成吉思汗の秘密』や、架空戦史の元祖、『連合艦隊ついに勝つ』、更にはヘタレSFの『ハスキル人』と、高木さんには「三大トンデモ本」があることはミステリファンのあいだではつとに有名だったんだが、若い人たちはもう全然知らなくなっちゃってるんだろうなあ。
 やっぱりこのHP、トンデモさんが寄ってくるページになりそうだな。


 芝居の練習帰りのしげと待ち合わせて、シネリーブル博多駅で、映画『カタクリ家の幸福』。
 以前見た韓国映画、『クワイエット・ファミリー』の三池崇史監督によるリメイクだけれど、あまりの意味不明さにぶっ飛ぶ。

 オープニングがいきなり粘土アニメ。
 レストランの皿の中から突然現われたキューピーちゃん、悲鳴を上げたお客さんのノドチンコを見て一目ぼれ、思わずちぎってプロポーズするけど、チンコちゃんはキューちゃんの腕をすりぬけて空の彼方へ。
 追いかけたのはいいけれど、カラスに食べられ、キューちゃんは哀れ糞に。
 けれど不屈の闘志で復活! でもやっぱり、カラスに食べられる(^o^)。
 そのカラスめがけて飛んで来るまきざっぽう!
 パカーンと当たって、カラスくんはひゅるるるると地面に落っこちたのでした。
 ……って、何? このオープニング。
 あーこれが本編に何か関係するかっつーと、しません。全くしません。
 強いて言えば、これから起こる全ての不幸はキューピーちゃんを飲んだカラスを殺したタタリか?

 このまきざっぽうを投げたのが、カタクリ家のマイペースお爺ちゃんニヘイ(丹波哲郎)なのでした。
長年勤めたデパートをリストラされたカタクリマサオ(沢田研次)、知り合いに「ここにもうすぐ大きな道路が通るから」とそそのかされて、つい建てちまったペンション「白い恋人たち」。
 でも火山の中腹の荒野に経ったペンションになんか、客は来るはずもない。
 テレビはどこのチャンネル回しても竹中直人しか映らないし(^o^)。
 たまに通りかかるのは死出の旅かの巡礼さん。
 お気楽なマサオの妻テルエ(松坂慶子)、子連れで出戻りしてきた娘のシズエ(西田尚美)、ヤバい事件で会社をクビになった息子マサユキ(武田真治)、シズエの娘ユリエ(宮崎瑶希)、そして愛犬ポチ(ガタピシ!)。

 家族の間に険悪なムードが流れる中、ついにやってきたお客様第一号!
 けれどやけに陰気なこの男、部屋に入るなり、「たどりついたら行き止まり〜♪」と踊り出す。
 ……そう、予告編で知ってはいたが、これは「和製ミュージカル」だったのだ!
 それにしても、一曲目をいきなり「自殺の歌」で始めるか?
 このミュージカルのセオリーはずしてるところがいかにも怪作。
 翌朝、家族で起こしに来てみると、男は部屋のキーを首に突き刺して死んでいた! なんでそんな難儀な死に方を。
 驚いてミュージカるマサオ・ニヘイ・マサユキ・テルエ。
 ……踊ってる場合かよ(ーー;)。
 ここで警察沙汰になっては、二度とお客が来なくなってしまう!
 悩んだカタクリ家の面々は、裏山に死体を埋めることに……。

 それからというもの、やって来る客来る客、死んだり死ななかったり。
 人気絶頂の力士・歌の海は女の子連れでやって来て腹上死。
 女の子は歌の海の下でぺちゃんこになって腹下死(^_^;)。
 またまた裏山へ埋めに行くカタクリ家。
 でも、次に泊まったいかにも行き詰まった貧乏そうな一家四人は「あの……ヒモを貸していただけますか? 丈夫なやつ」とか言って期待させときながら(おいおい)、期待に反してそれは切れたベルトの代わりなのだった。

 一方、町に出たシズエは、自称イギリス王室出身アメリカ軍人のリチャード佐川(忌野清志郎)と知り合う。
 ひと目で恋に落ちた二人は急接近。
 で、やっぱり踊るのよ。
 「らりるれ ローズ色の世界〜♪ たちつて ときめきながら〜♪」
 私は〜今までぇ、これほどぉ〜、いい加減な作詞を〜、見たことがなぁい〜♪(『悲惨な戦い』のメロディーで)。
 書いたのは脚本の山岸きくみさんだそうだけれど、何者だ。パンフにプロフィールが書いてないぞ。ネットで検索しても、あとは『つげ義春ワールド「やもり」』しか書いてない。謎だ。

 すっかり妄想のトリコになったシズエに、リチャードは、「シィズエのこぅとぅ、エぃリザベスおぅばさんにセッツメイするたぁめにィ、イぃギリスへ行ッかなくてぇはぁ。でもミーにはおカネが今ないディス。飛行機代、貸してくゥれマスかァ?」と借金の申しこみ。
 ……イギリス系アメリカ人(ってなんだよ)が「イィギリス」なんて発音すんなよ(ーー;)。
 実は、リチャード佐川は名うての結婚詐欺師だったのだ!
 ……バレバレやがな。
 ペンションまでやってきたリチャードを怪しいと見破ったニヘイは、格闘の末、リチャードを崖から突き落としてしまった! いや、トドメさしたのはシズエだけど。
 ついに殺人か!
 しかも、てっきりガセだと思っていた道路が、ペンションの前から裏山にかけて開通することが決まったのだ!
 ……え? 裏山……?!
「……移し変えなくちゃ! 死体!」
 ペンションへ向かってやって来るパトカー!
 突然乱入する殺人犯!
 脈絡なく爆発する火山!
 踊るカタクリ家の面々!(だから踊ってる場合か!)

 ……あ〜、この映画の超絶的かつ、信じられないラストをご紹介したいところですが、さすがにそこまでバラすと映画を見る楽しみが殺がれると思いますので、隠しておきます。
 ともかく、この日記を書いてる今でも、あのラストはもしかしたら私の妄想か白昼夢ではないかと疑っております。
 アレは確実に『シベリア超特急』『ちんちろまい』を越えました。
 もう三池監督にかなう人は世界に存在しないと断言していいでしょう。
 ……誉めてんのか、これ。

 ああ、でも、惜しむらくはムダなカット、ムダなシーンがちょこちょこあること。あと10分短くしたら、シマリのいい映画になってたのになあ。
 沢田研次と松坂慶子のデュエットがヘタクソにしか聞こえないのはワザとそう歌ってるのか、ダンスが『勝手にしやがれ』&『愛の水中歌』のヘタなパロディにしかなってないからか。
 なにより、これだけのキャスト揃えてて、ホントに踊れるのが武田真治ただ一人というミュージカルにあるまじきものすごさが、この映画の全てを語っているだろう。
 ……ニッポンにもラジー賞作ろうよう。
 お客に投票させるんだったら、票集めしてやるから(^^)。


 帰りにUFOキャッチャーに寄ったら、一発で「ガメラ3」のソフビをゲット。これがまたリアルに出来てて、高さも20センチくらいあって、ごっつカッコエ〜んだわ。
 カタクリ家の幸福のオスソワケだろうか(^o^)。


 しげ、車の中で、今日、其ノ他くんが練習に遅刻したことに腹を立てたことを話す。低血圧がひどい其ノ他くん、しょっちゅう練習に遅刻しているらしいのだ。
 「でも、腹は立てたけど、嫌いになったわけじゃないんだよ。なのに、鴉まっちがビビって、『間に立った私はどうすればいいの!』ってハラハラしてんの」
 「……間に立たなきゃいいんじゃん」
 まあ、それでもうっかり立っちゃうのが鴉丸嬢の心配性なところだろうが。
 「あんまりビビらせるなよ。だって実際に怒ってりゃ、いくら『嫌いになってない』って言ったってそうは見えないだろ?」
 だいたい私がしげを怒った時は、しょっちゅう「嫌いになった?」と聞いてくるのだ。自分だって人に怒られたらビビるくせに、他人のちょっとしたミスを許せないとはココロが狭い、狭すぎる。
 ……不満そうな顔してるなあ、しげ。
 やっぱり分かっちゃいないんだよな。
 
 またまた「びっくりドンキー」で食事。
 珍しいものが食べてみたくてパインハンバーグを頼む。肉と果物って意外と合うよな。
 しげ、カフェオレを頼むがこれが苦かったらしく、泣きそうな顔になる。
 こんなこともあろうかと、私は例のコーラ三本分は入ってんじゃねーかという「びっくりコーラ」を頼んでいる。
 カフェオレをもらって、コーラを二人で分けて飲んだが、たまにこういうカンが働くところが自分でもコワイ。
 大学時代、「なんでオマエに彼女がいる!」と散々文句つけられたが、まあ、要所要所で女の子のツボを押さえてたせいだろう。大層なことでなくってさ、ささやかでいいのよ、たまにその子がほしいものを先読みしてあげる程度でね。
 でも、しょっちゅうやってると期待されるっつーか甘えられるようになるからやらない。女の子はある程度飢餓状態に置いておいた方が付き合い易いんである。
 そういうインケツなところが人間としてどうかと言われそうだな(^_^;)。


 夜はまたチャット。
 別に示し合わせたわけでもないのに16人も集まる。
 けど、残念ながら身近なネタばっか喋ってたんで、詳しく書くとさ、見られたくない人に見られた時、とっても困る状態になりかねないので書けんのよ。
 悪しからず。

2001年02月23日(金) 哀愁列車/『ちょびっツ』1巻(CLAMP)ほか


2002年02月22日(金) また買ったぞDVDBOX/『墨汁一滴』『ボクのらくがき帖』『石ノ森マンガ学園』(石ノ森章太郎)ほか

 年がら年中風邪引きまくってる感じだが、今日もノドが痛い。血便は薬がやっと効き始めたのか、ここ数日は止まっているのだが(やっとかよ)、今度はノドに来やがった。
 一つが終わると次のが来るって、までローンがローンを呼ぶようだな(借りたことあるのかよ、おめーは)。

 仕事もひと段落ついてるので、半日で帰ろうとしげにメールを入れるが、「ごめん。ムチャキツイから、一人で帰って」とのこと。
 ……確かに私もキツイが、かといって、またタクシー使うのも散財だしなあ。
 せっかく時間があるのだから、と、そのままバスと地下鉄を乗り継いで天神へ。
 今日は『コメットさんBOX(上巻)』と『仮面の忍者赤影/第三部根来編』というデカイのが二つもあるので、他にもほしいDVDがあるのだが、泣く泣く諦める。……と言っても、悩んでいるのは『シベリア超特急2 完全版』(劇場公開版に更に「どんでん返し」を付けたとよ)とか『クイーンコング』だったりするのだが。
 ……AIQのどなたかが買わないかなあ……と言っても、みなさんが既に「あのBOX」や「かのBOX」をご購入の予定であることも知っているので、押しつけるように「買ってくれよう」なんて言うことはできない。
 劇団の連中はそろって貧乏ときてやがるし。
 ……そういえば東京のこうたろうくんにも「『シャーロック・ホームズの冒険BOX』(NHKの実写版の方ね)買ったかよ」と聞いたら泣いていたっけ(^o^)。
 家族がいるとなあ、どうしても泣く泣く諦めるって事態になるからなあ。
 けど、家族がいなけりゃいないで、今度は歯止めがなくなってカネもないのにBOX衝動買い、なんてことになりかねないのだ。
 そうなると今以上に生活が逼迫するのは必然なので、これでもガマンしているブツがゴマンとある。
 私だって、『コメットさんBOX』をゲットするために、『どろろ』BOXと『悟空の大冒険』BOXは諦めたのだよ。
 服なんて買わなくていい!
 食事は毎日カップラーメンだ!
 タクシーなんか使うな、歩くか自転車だ!
 溜めたカネは全部イベントかハード・ソフトに回せ!
 オタクたるもの、こう行きたいとこだね。

 「LIMB」を回ると、ちょうどこの連休限定で「石ノ森章太郎版画展」をやっている。
 たいてい「松本零士」とか「天野喜孝」とか、この手の「版画展」は、法外な値段で複製リトグラフなんかを売りつけようってのが殆どなんで、あまり足を踏み入れることはしないのだが、今回は『サイボーグ009』の原画展示があるというので、つい覗いてしまう。
 う、うわああああ!
 まさしくナマのナマのナマ原稿、しかも「009誕生編プロローグ」に「地下帝国ヨミ編」最終回!
 あの、「ジョー、君はどこに落ちたい?」のシーンが石森さんが今描いたばかりのような筆致で筆致で筆致で!
 原画には、印刷されたものでは防護服なんかに貼られてたトーンが一切ないのね。代わりに薄く色鉛筆で青く塗ってある。たしか出版社によって、トーンがあるものとないものの異動が激しいから、この「鉛筆」は色の指示で、その時々で版下作ってトーン貼ったり貼らなかったり、色塗ったり塗らなかったりしてるんだろうな。
 白黒マンガをカラーマンガに描き換えたりする機会があることを考えての処理だろう。たしか『009』、オールカラー版が出たことあるし。
 斜線はやっぱり時代が時代だから、全部手描きだなあ。
 この辺はアシスタントだろうけど、そう線に乱れがないのはさすが。なのにちゃんと温かみがある。定規で引いた線じゃ、この味は出ないんだよね。
 ああ、見に来てよかった。
 やっぱり売り子が「スーツケース買いませんか?」と寄って来たけど(^_^;)。

 スーツケースは買わないで、ネクタイと、『墨汁一滴』と『ボクのらくがき帖』の2冊を買う。
 ネクタイはちょっとシックな薄いグレーか銀色の(色弱なんで細かい色の区別は分からん)地に、うっすらと009の柄が浮かんでいる。ポツンと何ヶ所かだけ、赤い防護服を着た009が。
 これくらいならたいして派手じゃないし、職場にもしていけるな、と購入。ほかにちょっとほしいもので、抱き枕があったんだけど、お値段がちょっとお高めだったので断念。
 やっぱり売り子が側に寄ってきて、「あっ、この絵柄が私も一番好きなんですよ!」と見えすいたおべんちゃら。だから、版画は要らんてばよ。
 そんな手にやすやすと乗るほど、私が若いムスメに弱いように見えるのかねえ。
 まあ、タマには弱いのは否定せんが(^o^)。


 福家書店に回って新刊の小説やマンガなどを購入。
 歩きながらでもげほげほと咳が出るのでだが、あと映画『カタクリ家の幸福』の前売券を買わねばならないので、博多駅に回る。
 つい、紀伊國屋書店に足を向けたのがウンの尽きで、扶桑社文庫から山田風太郎の『妖異金瓶梅』の完全版が出ているのを発見。今までの版は『銭鬼』と『人魚燈籠』の二編が未収録だったのだ。
 ……全部読んではいるからまた買うのもなあ、と思ったが、考えてみたら、細かい内容は忘れている。すぐには読まないだろうが、「保存用」と自分を騙して購入。
 既に角川文庫や廣済堂文庫で買ってる、という人もおられようが、これはもう一度買いなさい(^^)。値段は820円とお高いが、江戸川乱歩、高木彬光が「山田風太郎本格探偵小説の最高傑作」と絶賛したシリーズなのだ。

 考えてみたら昼飯もまだ食ってないや、それで力が出ないんだと、バスチカのラーメン屋で遅い昼飯。
 博多のラーメンではここが標準のようなもので、可もなく不可もなし。
 食べ終わってバス停に上って行くと、ちょうどグッドタイミングでバスが来る。タクシー代を使わずにすんでよかったよかった。

 帰宅して後は夜まで泥のように眠る。


 今夜もまた某チャットで『グインサーガ』話。
 「某」「某」となんではっきりどこのサイトか書かないんだと文句を言われそうだが、書きたくっても書けない事情があるのよ。わかってる人にはバレバレなんだけどもさ。
 初めは、『グインサーガ』の第1巻、『豹頭の仮面』が、ある病気の方を差別する表現があったということで、改訂された話から始まって、「差別とは何か」ってな話題、引いては「現代教育論」みたいなマジメな話に移って行く。
 「現代のサラリーマン教師に、本当に教育改革ができるのか」とかいう話になるものだから、昔っから学校否定論者である私は、「できるわけねぇベ」と茶々を入れる。
 そこでつい、断定的な言い方をしてしまったものだから、おかげでチャットに参加した何人かの人を怒らせてしまった。
 言葉遣いには気をつけなきゃならないなあとは思うが、でも、言葉で伝達できる情報量なんて実はすごく少ないのである。本気で相手と心と心をつなぎ合わせようと思ったら、諍いくらいは覚悟して当然なんである。
 誤解は必ずあるのだから、何が誤解かをハッキリさせていこうという会話こそが、一番していて楽しいのだ。
 こーゆーマジメな話がここのチャットで展開されることは珍しいのだが、日頃はシモの話とかシモの話とかシモの話とかしかしない人間が、その底のとこではマジメなんだなあ、ということがわかってオモシロイ。
 根っからフザケタ野郎ってのはもしかしたら私だけなのかも(^_^;)。


 石ノ森章太郎『墨汁一滴』『ボクのらくがき帖』(H2O・2500円)。
 説明の必要もないほど有名な、若き日の石森さんほか、赤塚不二夫、長谷邦夫、徳南晴一郎、高井研一郎ほかが集結して作っていた肉筆回覧誌、『墨汁一滴』。その中から石森さんの執筆した分だけを集めたものと、石森さん個人のスケッチブックや絵コンテ帖から抜粋したデッサンや未発表マンガを集めたもの。
 トキワ荘グループの中で、「天才少年」と称されていた石森さんだが、絵自体を見ると、「これくらいのデッサン力なら、今日びの美術学校に通ってる学生でも描けるんじゃないか、と誤解されてしまうのではないか。
 けれど、石森さんの凄さは、その描く「スピード」にあったと伝えられる。
 「よほど自信がないとあの線は描けない」と評したのは藤子Fさんだったと思うが、マンガのみならず、生物や人物の素描においても、その直観的な対象把握能力は発揮されたのであろう。
 オードリー・ヘプバーンや、ジャン・ギャバンの素描など、精密なデッサンもあればラフなやつもある。実際にマンガに使えそうなキャラクター化したものもあれば、アート風なものもある。まるで一つの対象からどのようなデフォルメが可能であるか、あらゆる方法を試そうとしているかのようだ。
 ……私もやったのよ、へプバーンは何枚も。
 やればやるほど、似ねえ似ねえ(^_^;)。
 必ずしもうまいとは言えないデッサンも多いが、その全てに感じられるのはマンガに対する情熱だ。
 線を一本引く。その線がつながる。やがて線が形をなし、人になる、家になる、山になる、風になる。
 この無から有が生まれて行く過程が、まさしく自分の手によって紡ぎあげられているのだという快感を一度味わったら、絵を描くことが(たとえヘタでも)好きでたまらなくなる。
 その思いが伝わってくるのだ。この画集からは。
 ちょっとくらい値段が高くたって、へっちゃらだい(ホントか?)。


 今日は石ノ森三連発。
 石ノ森章太郎『石ノ森マンガ学園』(集英社/ホーム社漫画文庫・700円)。
 石森章太郎は、マンガ入門書を何冊も描いている。
 もちろん、それは手塚治虫の『漫画大学』などの顰に倣ったものだろうが、昭和40年代までの一時期、マンガ家を目指す者にとって、石森さんの『マンガ家入門』、『続・マンガ家入門』は、手塚さんの諸作以上の「バイブル」であった。
 もちろん、私も、学校の図書館にあった『マンガ家入門』をページが破れるほどに熟読した(破んなよ)。
 私も手遊びにマンガを描いたりするが、よく「高橋留美子に似てる」とか言われてるけど、ベースにあるのは石ノ森章太郎であり、永井豪なんである。
 藤子・F・不二雄さんが当時マンガ家入門書を描いていたら、そちらにもハマったと思うが、残念ながら『藤子不二雄漫画ゼミナール』を藤子さんが描くのは昭和50年代に入ってからである。しかも、質・量ともに、とても石ノ森さんの労作に及ぶものではなく、ガックリしたものだった。
 何より、情熱が違った。
 単に「マンガの絵が描ける」というレベルの問題ではない。
 プロットの立て方、ストーリーの組み立て方、構図、コマとコマの間、後に夏目房之介・竹熊健太郎が分析していくマンガの心理的効果を、自作の『竜神沼』などを例に使って、微に入り細に入り詳細に説明してくれていたのだ。
 今でも、マンガ家入門書みたいなものは色々な形で発行され続けている。けれど、例えば私が『コミッカーズ』にいまいちハマれないのは、そこに「テクニック」重視のあまり、マンガにおける「ドラマ」とは何かって要素が欠落してることが多いからだ。
 石森さんの技法は、今の眼で見ると稚拙に見えるかもしれない。
 けれど、我々マンガ少年は、何よりあの昭和40年代、石森さんの「新しき人目覚めよ」のコールに魂を揺さぶられたのだ。
 「この本を読めば、マンガ家になれる」、ではない。

 「この本を読んで、マンガ家になろう」、みんな、そう思っていたのだ。
 実はまだ思い続けている(^_^;)。

 この本は、『マンガ家入門』のさらにその後、「少年キング」に連載されたものを単行本化したものを、30年ぶりに新編集して再刊したものだ。前著ほどにページが与えられていないせいか、やや薄味の印象があるが、それでも『佐武と市捕物控』や『さるとびエッちゃん』など、自作を使った作品分析は貴重である。
 特に『サイボーグ009』ファンには、その設定資料が紹介されているのが必見だろう。


 マンガ、水木しげる著、京極夏彦監修・装幀、ラルフ・マッカーシー訳『バイリンガル版 ゲゲゲの鬼太郎』2巻(講談社インターナショナル・998円)。
 今回はバラエティー編というところか、セレクトされたのは『水虎/THE H2OGRE』『妖怪城/GOBLIN CASTLE』『おばけナイター/NIGHT GAME WITH MONSTERS』『磯女/THE BEACH WITCH』『猫娘とねずみ男/CATCHICK AND RATMAN』『夜叉/THE YASHA』の6本。
 「妖怪」を、一つとして同じ訳で表してないのはスゴイが、だとしても「水虎」が「エイチ・ツー・オーグル」ってシャレはちょっとふざけてるよなあ。もっとも水木さんのマンガには怪奇ものでありながら天然のユーモアが混じっているから、何となくピッタリしてるような気もする。
 「カマイタチ」を“PSYCLONE”と訳すのは迷ったんじゃないかなあ。確かに風が真空を作って人の体を切る現象だけれど、言葉を直訳すれば、“SICKLE WEASEL”だし、こっちのほうが妖怪っぽくはある。
 けど、「鎌を持った鼬がどうして旋風のことなのか?」って説明はできないから仕方ないかな。
 あちこちよく見ると、意外と訳しかたが適当である。
 猫娘がねずみ男に飛びかかる時の音「ぴょん」が、英語では“PYOING”……こりゃいくらなんでも造語だろう。ほんとに外人さんに伝わってんのかって気もするけど、その適当さも水木さんのマンガらしいのかな。
 どうせ異文化の産物、根っから理解できるわけもないんだから、ヘンな言葉が出て来て混乱するのも、読む楽しみの一つと考えてもらおうかな。『時計じかけのオレンジ』みたいに(^o^)。

2001年02月22日(木) 霧の摩周湖(行ったことない)/『スレイヤーズすぺしゃる』2巻(神坂一・トミイ大塚)ほか



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