無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2004年06月07日(月) 倒れる人々。

 昨日の日記に書き忘れてたが、「ダイヤモンド・シティ」は全て禁煙で、喫煙コーナーはごく一部、しきられたボックスの中だけでしかできないようになっている。愛煙家の方には申し訳ないが、本来、これが「街」の自然な姿だろう。
 福岡市が条例で歩き煙草を禁止し、罰金を科すことにしているのに、実際には煙草を吸いながら堂々と闊歩している若者はまだまだいる(いいトシをした大人は殆どいない。この件に関しては、「大人が悪いから、子供も悪くなる」という理屈は通らないようである)。当然、煙草はポイ捨て。こういう脳がニコチンに犯されてる狂人は、どうせマナーがどうとか言ったって、聞きゃしないのだから、罰金くらいではナマヌルイ。タイホしたって構いはしないと思うのだが、そこまで主張すると「たかが煙草で」と引かれちゃうんだよなあ。でも、本当にどうして煙草が刑事罰の対象にならないのか、私はそちらのほうが不思議なのである。タバコと万引きと酔っ払いにはえらく寛容だよねえ、この国って。


 終日、雨で蒸し暑い。運動もできないから、何となくハラがだぶついてきた気がするのである。せっかくこないだ医者で誉められたというのに、ちょっとヤバイかな。
 アノ仕事コノ仕事と、次から次へと舞い込んできてくれるので、ひと息つくヒマもない。同僚が突然倒れて(文字通り、仕事の最中に倒れての休職)、代理の仕事がまた一つ増えてしまった。同僚の病気の原因も当然「過労」である。ともかく毎年のように、病人、退職者が出るので、昨年からかなりな仕事の整理を行っていたにも関わらず、今年もやっぱり病人が出てしまった。実は我々、昼休み時間も実質的に全くないのである(昼メシは仕事の合間に弁当をかきこむか、あるいは絶食が普通である)。
 昼休みも時間以上にきっちり取るわ、定時にぴったり帰るわ、余裕カマシてくれてるのはウチではトンガリさんだけである。
 ……だからよう、今度倒れた同僚だって、そのトンガリさんの仕事代行してるんだって。この仕事、自分に与えられた仕事だけコナシてれば成り立つってものじゃないのだ。慢性的な人出不足で、みんなどこかカラダを酷使し、家庭を犠牲にし、しなくていいはずのムチャだってやっちゃってるのだ。今日も残業、明日も残業、それでもみんな、愚痴一つ言わずに(ちょっとは言ってる人もいるが)頑張っている。なのにやたら休んで(一応「病院」ということではあるが、それにしちゃやたら頻繁である。私ゃできるだけ土曜を使ってるんだけどねえ)、仕事を遅らせてて、それでも平然として、文句だけは付けてくるのである。ご本人はすぐにキレて、「誰それを刺したい」と口走っておられるのだが、アンタが刺される方が先だろうがと言いたい。

 てなわけで、今日も残業。けれど今日はしげの仕事が休みだったので、迎えに来てもらえた。しげは、昨日テレビで録画を仕掛けておいた「ダンダンブエノ」公演の『いなくていい人』が、途中で切れていた、と嘆いていた。どうやらテレビタローの記載上の時間とはズレて放送されたらしい。残念だけれど、BSでの放送だから、また再放映の機会もあるだろう。
 一緒に晩御飯をジョリーパスタで。以前は、ここの前の道が工事中で、近所にあるにも関わらず、立ち寄りにくかったのだが、道が開通したおかげで来やすくなった。ただ、カロリー的にはかなりギリギリである。朝飯昼飯食うヒマなかったので、これくらいはよかろう、と食事。
 しげもここが気に入って、カルボナーラ(ハーフサイズ)を頼んだ。一応、ダイエットも考えているようである。
 しげ、ここのところは心が安定しているかと思っていたのだが、「PPの日記に、『青いこと』書いちゃったよ。はずかし〜」なんて言っている。今度の公演を最後に、本人は「引退する(第1次)」と言っているので、そのあたりのことを書いたらしい。やりたいことがなくなったわけではなく、「形態」が変わるだけなので、私はさして心配はしていない。役者は、その人が本物であるなら、引退しようが死ぬまで役者である。原節子も、高峰秀子もそうであるように。
 ……いや、しげがこの二人並の役者だと言いたいわけではなくて、「役者の心」の問題としてね。ああ、畏れ多いこと。ヾ(;´_`A``アセアセ。

 
 帰宅してみると、パソコンの上に子供用の「伝言板」が置いてある。あの、字を書いてレバーをひくと、書いた字がスッと消えるというやつだ。
 「なに、これ?」と聞いたら、「会えん時、それで伝言できるから」と言う。いい工夫だとは思うが、それだけ二人の生活が離れてしまったのだなあ、と思うと、ちょっと寂しくなる。


 京都大の学内ベンチャー企業「ロボ・ガレージ」の開発した二足歩行ロボット「クロイノ」、腰の位置を低くして、軸足が外側に傾くように設計されており、軸足のひざを伸ばしたまま、より人間に近い歩行が可能になったとか。これって、「アシモ」はもう古くなっちゃったってことなのかな。あれはあれで中腰スタイルが何となく「しもべ」っぽくって、好きだったのだが。昨年のシティボーイズ公演での中村有志さんの「アシモ」演技も、わずか一年で過去のものになってしまうわけである。、これだけ科学の発展が著しいってのに、どうしてまだ宇宙ステーションの一つもできんのだ(問題が違うって)。


 佐世保の同級生殺人事件で、加害者の女子が、殺害に至る過程を詳しく供述し始めた。
 5月27日、加害者が怜美ちゃんにおんぶしてもらったとき、怜美ちゃんから「重い、重い」と言われたので腹を立て、「失礼じゃない」と文句を言ったけれど無視されたのが、殺害を決意した直接の理由だとのこと。こういう理由で殺されなきゃならんのなら、私はしげに百万回殺されている。猫だって生き返れねえぞ。
 「最初は首を絞めてやろうと思ったけど、暴れたりしたら無理だと思ったから止めた」ということで、事件のあった当日1日、カッターの刃を新たに替えて、筆箱から出したり入れたりを繰り返していた。このあたりの行動も既にキちゃってるとしか言えない。
 昼休みになって、怜美ちゃんに「ちょっとおいで」と声をかけて、現場の学習ルームに呼びだし、カーテンを閉めて、椅子に座った怜美ちゃんの後ろに回って、左手で目隠しをした後で、首の右側を深さ10センチになるほどに切りつける。このあたりの殺害方法は、明らかに映画『バトル・ロワイアル』に影響を受けている。
 これでまたぞろ、「あの本は危険だ」とか言い出す阿呆が、モグラかミミズみたいに、にょこにょこ出て来るかもしれないけれど、もう大きな運動にはならないんじゃないかな。いい加減、これだけ事件が続けば、この国の大衆も、子供を操って犯罪に走らせているものの正体が、「本」だの「アニメ」だの「ゲーム」などという、ソフト自体にあるのではなく、それを乗せているハードである「メディア」の「煽り」だってことには気が付いているだろうから。
 加害者は、その後、約15分間、現場にとどまって、怜美ちゃんが生き返らないことを確認して、血のついた自分の手をハンカチで拭いたりして過ごしたという。
 この殺害状況から、ようやく「精神鑑定」の声も出始めたようだけれど、殺人に際してこれだけ冷静な行動を取っているのに、「狂ってる」と言えるものなのだろうか。もう充分「大人」だって考えてもいいんじゃなかろうか。子供の犯罪が起きるたびに思うことだけれど、幼いからこそ、判断力が付く前に法の手で「処分」してあげるのも一つの恩情だと思うんだよ。だって、この子に「悔悟」の気持ちを植えつけたとして、この先60年か70年か80年の人生を、ずっと「監視付き」で過ごさせる気なのかね?


 今日の読書は、コーエン兄弟脚本、村雨麻規編訳、小説版『レディ・キラーズ』、マンガ、北条司『エンジェル・ハート』10巻、石川賢『ゲッターロボアーク』3巻(完結)、姫川明『ASTROBOY鉄腕アトム』3巻(完結)とこれだけ。残業が響くと、これくらいしか読めないのである。

2003年06月07日(土) なんだか盛り沢山な日/映画『腰抜け巌流島』/DVD『怪獣大戦争』ほか
2002年06月07日(金) 野良犬は革命ごっこの夢を見るか/映画『血とバラ』
2001年06月07日(木) MURDER IS EASY/『詩的私的ジャック』(森博嗣)ほか


2004年06月06日(日) やつぱり「亀」が好きな世代だから。

 ウチのマンションは原則としてペット禁止なのだが、金魚とか、ご近所に迷惑をかけるおそれのないものについては問題ない、ということになっている。最近ちょっと、「亀」を飼いたいなあ、と思い始めた。
 職場で亀を飼ってることは何度かこの日記にも書いたことだが、こいつがまあ、かわいいの何の。エサのことしか考えてないのは見てりゃわかるんだが、ペットというものはそういうシンプルな付き合い方ができる相手の方がラクでいい。犬、猫、あたりは妙に人間っぽい繊細な神経の持ち主もいたりするので、飼うにはかなりな覚悟が必要になるのである。
 先日、しげに「亀飼っていい?」と聞いたら、始めは「いいよ」とか言ってたのだが、あとで鴉丸嬢とおしゃべりしているときに「ボウフラが湧くよ」と言われて、急に「反対派」に回ってしまった(「派」ったって、一人しかいないが)。あまりうるさく文句をつけてくるので、応対するのが面倒臭くなって、「わかったよ、ベランダで飼わないで風呂場で飼うよ」と適当なことを言ったら、今度は「ウチのバカは風呂場で亀を飼うつもりだ」とみんなに言いふらし始めた。
 ……本気にするなよ、茹っちゃうだろうが、亀が(-_-;)。


 俳優(^_^;)、ロナルド・リーガン、別名、エルヴィス・リーガン(知らない人も増えただろうから、ヒトコト説明しておくと、「レーガン」と表記するようになったのは大統領になってのち、「そちらのほうが原音に近いから」という本人の要望があってからのことである)が、肺炎のため死去。享年93。1994年にアルツハイマー病であることを告白していたし、もう相当な高齢であったから、まさしく大往生であったと言えるだろう。「20代、40代、60代……と、偶数ゼロ番代の大統領は人気をまっとうできない」というジンクスを破ったのも彼である。
 実は60本近くの数の映画に出演している元大統領だけれど、その出演作の殆どは、戦前の二流・三流西部劇。主演もそれほど多くはない。私も、動いている「俳優」としての「“リ”ーガン」氏は、ジョン・ランディス監督のコメディ、『スパイ・ライク・アス』(1985)でチェヴィ・チェイスが見ているテレビの中に登場して、『I’ll be loving you』を歌っている姿を見ているだけである(結構いい声。吹き替えか?)。比較的評価の高いドン・シーゲル監督の『殺人者たち』(1964/これが遺作となった)も見ていない。
 じゃあ、なんでわざわざ「俳優」として取り上げようって気になったかって言うと、これはもう、ロバート・ゼメキス監督の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)で、ネタにされていたから、という、故人には実にシツレイな理由ゆえになのである。
 ご存知ない方のためにその「ネタ」を説明しておくと、1985年から1955年にタイムスリップしてしまったマーティ(マイケル・J・フォックス)は、ドク(クリストファー・ロイド)に自分が未来から来たことをなかなか信用してもらえなくて困るのだけれど、それどころか、ドクから「じゃあ、1985年にアメリカの大統領は誰になってる?」と聞かれて、うっかり正直に「ロナルド・レーガン」と答えてしまったために、ますます信用してもらえなくなったというギャグがあったのである。そのときドクは鼻で笑って、「大統領がレーガンなら、副大統領はジェリー・ルイスか?」とマーティに突っ込む。
 1955年当時、レーガンはまだ俳優を引退してはおらず、またルイスはディーン・マーティンと組んで「底抜け」シリーズを連発、若者を中心に絶大な人気を誇っていた。もっとも翌年にはこのコンビは解消してしまうから、目ざとい観客の中ては、「やや下り坂」に見えていたかもしれない。コメディアンであるルイスと、西部劇役者のレーガンとを並べてみても、私には何だかピンと来ないのだが(かと言って、名優アーネスト・ボーグナインあたりを持ってきては、レーガンとでは役者の「格」が違いすぎて比較にならない)、それはアチラの文化をよく知らぬ私の勘違いで、レーガンは「そういう役者」として認識されているのかもしれない。ルイスの人気は一時凋落の一途を辿ったが、彼にオマージュを捧げる映画人も少なくなく、『キング・オブ・コメディ』などで復活を果たしている。レーガンもまた、別の世界で見事な「役者」ぶりを示した。
 ジョン・ランディスもロバート・ゼメキスも、“役者”リーガンのことが好きだったのかもしれない。


 朝から公演のチラシの撮影で、カトウくん、其ノ他くん、鴉丸嬢、しげ、私と、10時にパピヨンプラザに集合。やや小雨がぱらついていたが、撮影できないと言うほどではない。かえって日陰ができない分、あとでパソコンで加工するのにはちょうどいいだろう。
 一応、演出補の肩書きがあるので、付き合って行ったのだが、特にああせいこうせいと言うことはない。やることと言ったら、荷物の張り番とパシリくらいのものである。
 カトウくん、始めてパリッとしたスーツ姿で撮影に臨むが、これがなかなかの男前。しげはそれを見て「惚れるう〜♪」と嬌声を上げている。けれど、続けて「仕事に疲れて、男臭(おとこしゅう)がしてるとこがいいとよ!」なんて言うものだから、あまり誉めてるようには聞こえない。もう少し言葉を選ぼうよ。
 鴉丸嬢はずっと旗袍(チーパオ)姿での撮影。当然一番目立っているのだが、通りすがりの人がみんな振り返って行くだけでなく、隣のレストランにいた中年オヤジたちも、食事中ずっとウィンドウ越しに鴉丸嬢のことを見ていたらしい。こちとら、曲がりなりにも役者なんだからな、それだけ見たなら木戸銭払ってけってんだ。
 ……とか言いつつ、ウチの公演は未だにカンパ制で、基本的に無料なんだけどね。

 昼からパピオビールームに移動、ここでハカセも合流、練習に入る。
 ようやく私も演出らしきことを言い始めるが、あくまで「補」であって、みんなの合議制で作って行く方式だから、あまり具体的に動きを指定したりはしない。こないだ見た『ロスト・イン・トランスレーション』のカメラマン(ダイヤモンド☆ユカイ)の指示なみに抽象的である。
 例えば、「ああ、そこは声優のくせに顔出しオッケーだと勘違いしてる関智一みたいな感じで」ってな調子である。関智一ファンが聞いたら激怒しそうな指示だが、これ、あくまでタトエだから(^_^;)。
 動きもまだ付いていないし、イメージも固まっていないからギクシャクはしているのだが、アイデアをみんな出してくるので、ノリはいい。苦労するのはいつものことだが、これまでのウチの芝居の中では、一番、スムーズに流れている印象である。公演は12月だが、以外とあっという間に来ることだろう。それまでにどれだけ固めて行けるか。


 芝居につかうCD、まだ数曲足りないので、其ノ他くん、鴉丸嬢を送ったあと、「ダイヤモンドシティ・ルクル」の「フタバ図書」に行ってみる。
 鳴り物入りでオープンした「ダイヤモンドシティ」、もう夜も9時を回っていたので、空いてるかと思ったら大間違い。まだ三日目だと、大々繁盛の込み具合である。家から車で15分の距離なので、下手をしたら博多駅に行くよりも近いのだが、少し「落ちつく」までは、休日を避けて行った方がよさそうだ。ワーナーの映画館、17館あって、トリアスの20館よりは少ないものの、前の福岡東より増えている。結構行きつけになりそうである。
 探しものは見つからなかったが、しげがバレエの本を見つけて、芝居の振り付けに使えるからと購入。踊るのはもちろんカトウくんであるが、はてさて、どんな振付を考えるつもりやら。とりあえず、来ただけの甲斐はあったか。


 今日の読書、永井豪原作・鴉紋洋著『映画「キューティーハニー」小説版』、マンガ、流水りんこ『インド夫婦茶碗』3巻、横溝正史原作・長尾文子漫画『本陣殺人事件』、さべあのま『マービーとギジェット』、桂正和『ZETMAN』3巻、牛田麻希原作・木村文漫画『問題のない私たち』1巻、石ノ森章太郎原作・村枝賢一漫画『仮面ライダーSPIRITS』6巻。
 練習はあったけれど、休日はやはり集中して本が読めるのがいい。

2003年06月06日(金) ココロさみし/映画『愛してる、愛してない…』
2002年06月06日(木) つまりシロクマって保護色?/『愛はめんどくさい』(まついなつき)/映画『原子怪獣現わる』ほか
2001年06月06日(水) フォークって民謡って意味なんだが/『メトロポリス』(手塚治虫)ほか


2004年06月05日(土) 通りすがりさんはどこをどう読んでるんでしょうか。

 ここ数日で、一気に日記のカウンターが回ってしまい、76000、77000のキリ番もアッという間に過ぎてしまいました(^_^;)。
 掲示板にも書いていたことだけれども、キリ番報告のあった人には、「福岡限定・ハローキティのミニタオル詰め合わせ」(3点セットくらいにしようかと思う)をお送りしようと思っていたのだけれども、これだけ「通りすがりさん」がいっぱいだと、住所を教えてくれそうな人に当たる確率はかなり低くなりそうだ。さすがに同級生殺人事件直後の800人近くのアクセスは記録しなくなったけれども、それでも今日だけでもまだ300人以上の人が覗きに来ているのである。
 けれど、どうやら「見つからない」と騒がれていた加害者のホームページも発見されたようだし(親、消しとけよ)、私のホームページをきっかけにそこを探しあてようというヤカラも減って行くとは思うのである(だから私ゃ事件の関係者でも何でもないんだから、探そうとしたってムダだってば)。
 もう少ししたら、この状況も大人しくなっていくだろうから、そうすればキリ番もゲットしやすくなりましょう。実はキティちゃんの隠れファンで虎視眈々と狙っていらっしゃるお方も、もうしばらくお待ち頂けたらありがたいです。

 「興味がない」とか何とか言いながら、「日記がそこにある」ことがわかれば、覗いてみたくなるのは人情である。
 私も一部、その加害者少女の日記(らしきもの)を見てみた。散見してみただけだが、コジツケようと思えば、事件にコジツケられる文章がないわけではない。しかし、事件を全く知らない人に、「この日記どう思う?」と聞けば、「別に普通じゃん?」と答えるだろう、と思われるくらいに普通の、小学生の文章である。
 事件前日は大久保小学校の運動会だったようだ。加害者少女は「今日運動会だったんだけど、バナナの皮で滑ったら・・・・・(ウソ)移動中にこけました。ギャグ漫画並みにずるっと。」と書いている。殺意を心に秘めながら、こういう普通の文章をサラリと書ける恐ろしさ、というよりも、少女にとっては、「殺人」もまた日常の延長線上にあったのだろう。あるいはせいぜい「運動会」と同列の「ハレ」のものか。まさしく、こういう子供たちはいくらでもいるし、彼女だけが特別ではない(「異常者」だという意味では明らかに「違っている」のだが、こういう子は平凡に遍在しており、決して少なくはないということである)。
 ニュースで報道された日記の一部、「苦汁、絶望、苦しみが私を支配する」という部分だが、これも全文を読むと、「けれど、全てと戦い、闇を葬り光とこの身の有り難さをそのぶん欲したい。」と前向きな言葉があとに続く。しかしその「前向きさ」は、「殺人」という行為と全く矛盾なく少女の心の中に存在している。「光と闇の戦い」という、ありきたりなファンタジーのタームが、現実的な検証もなされずに日記の文章に綴られるあたりは、彼女の人生が未だ「借り物」に過ぎなかったことを思わせる。「借り物」だから、それが大人の眼から見れば言動不一致に見えても、彼女の心の中ではさしたる葛藤も見せずに存在しえていたのであろう。けれど、「借り物の言葉」しか喋れず、数々の自己矛盾にも気がつかない人間は、大人だろうと子供だろうと、今や当たり前になって来ているのだ。
 昨日までの日記にも書いたが、彼女のような存在を「排除」しようとすることは事件の再発を防ぐことにはならないし、そもそも不可能である。あなたの隣にいるいたいけに見える女の子もまた、ひとつ道を違えれば、あの子のようになってしまう……どころか、あなたが「彼女」になってしまう可能性だって、否定はできない。確かに一生、何の事件も起こさずに一生を終える人間もいるし、そういう人間と、犯罪者との間の距離は果てしなく遠いとは言えるのだが、同時に限りなく密接してもいるのである。
 加害者少女はまた、自分には親が死んでいない旨の詩を書いてもいる。もちろんこれは事実に反している。まさか寺山修司に影響を受けたわけでもないだろうが、そのように自らを仮構した少女の心理に、ある種のヒロイズムを見出すことは簡単ではある。しかしそういう分析が事件の本質を解析できるかどうかという点について言えば、私にはさしたる意味があるようには思えない。分析とは基本的にその対象の「特殊性」を浮き彫りにすることであるが、となれば分析が最も困難なのは「平凡」ということであり、彼女の最も明確な「特徴」がまさにそれだからである。


 今日は休日出勤で、半日仕事。
 昼、しげに迎えに来てもらって、昼食は久しぶりの「ジョリー・パスタ」。カルボナーラとたらこスパゲティ、それぞれハーフサイズなので、量的にはたいしたことがない。イタリア系の料理は油をたっぷり使っているので、このあたりの配慮も必要になってくる。
 食事中、今度の公演の話をダラダラとしたのだが、一応、しげは今度の公演を最後に「引退」するつもりでいる。と言っても、芝居をやめる、という意味ではなく、「もう好きなことしかしたくないので、劇団内に『自分同好会』を作る」ということらしい。今までと何がどう変わるんだか私にはよく分らないのだが。
 芝居は一人で作れるものではないのだから、当然しげは、「これはこうしたらいいんじゃないのかな?」と意見をみんなに求める。それに対して、賛同する人もいれば反論する人もいる。何も言わない人だっている。しげだって、自信をもってものを言っているわけではないけれども、言うときは言わないといけないと思う。だから、懸命にないチエを振り絞ってモノを言うのだが、そういう自分から見ると、「意見を言わない人」は、どうして何も言わないのか、その理由が分からない。「意見はないの?」と聞いても「ないです」と答えられてしまっては、それから先、どう会話を続けていけばいいのか。そういうやりとりにはもう疲れてしまったから、これからは話がツーカーで通じる相手だけ誘って、芝居を作りたい、ということだとか。もちろん、劇団として何か芝居を作る相談があって、それに誘われれば参加してもいいと考えてはいるのである。
 自分がうまくことを運べないのは、しげ自身、頭が悪いからだと思っている。それで私にこう聞くのである。
 「アタマがいいってどういうことなのかなあ?」
 頭の悪い私にそれ聞いてどうするかねえ(^_^;)。
 けれども、「会話ができる」という視点でものを考えれば、「頭がいい人」というのは、相手のレベルに合わせて言葉を選べる人である。
 「コトバ」は一般的に考えられているような、「意味を伝達する道具」ではない。「コトバ」によって規定された「意味」は、語り手から放たれた途端に揺らぎ、常に「誤解」される運命にある。だからその意味をより正確に受け取るためには、受け手のキャパシティーが広いことが前提条件となる。でもこのキャパの広い人間がなかなかいないから、会話が成立しない、という現象は実に頻繁に起きてしまうことになる。このあたりのことを分かりやすく説明するのがまた難しい。
 「たとえばさあ、『完全な人間はいない』ってよく言うじゃん。このコトバ自体は間違ってないよね」
 「うん」
 「『医療にミスは許されない』というコトバもある。これも納得するよね」
 「まあね」
 「じゃあ、医療ミスを犯して患者を死なせた医者を『完全な人間はいない』と言って擁護できるかってことなんだよね」
 「それは……」
 「つまりコトバってのは、それが語られる背景となる前提条件があって、それは実は全て全部違う次元にあるものなんだよ。だから違う次元のコトバをつき合わせたって、矛盾が起こるばかりなわけ。だから『アタマがいい人』ってのは、相手がどういう次元でそのコトバを発しているのか、理解できる人ってことになるんだな」
 「じゃあ、何も喋れないっていうのは?」
 「厳しい言い方になるけど、『語るコトバがない』ってことは前提となる条件を共有してない人なんだよ」 
 とっさの質問で、私の言い方もかなり乱暴になってしまったが、要するに相手と会話する気があるのなら、相手がどういう前提に基づいてモノを語っているか、類推する能力が受け手側に必要になってくるということである。極端な話、「以心伝心」が成立するのは、語り手が何も言わずとも、受け手が語り手の(語ってないのだが)ほんの些細な仕草などから、「意味」を類推してしまうからである。
 ネットなどの論争で話が噛み合わなくなるのは、たいていある次元のコトバを、別の次元のコトバで反論しているからである。「ウソつきは泥棒の始まりだぞ」「でもウソも方便って言うじゃないか」このような反論は、それぞれの言葉が成立しているフィールドが異なっているのだから、突き合わせるだけ無意味なのに、そのことに一向に気がつかない人があまりに多過ぎる。
 この「次元の違い」は具体的にいちいち説明し出すと膨大な時間がかかってしまうし、説明して分かってくれるような相手なら、そもそもトンチンカンな誤解はしないものだから、説明してみたところで徒労に終わることが多い。ほんの数年前まではネット環境の広がりが、そういう齟齬を軽減してくれるようになるかと思っていたのだが、全然そうはなっていないのは、そもそも「アタマの悪い」(=心の狭い)人間が多過ぎるからなんだろうね(-_-;)。


 帰宅してひと寝入り、夕べあまり寝ていなかったせいか、夕方過ぎまで寝てしまった。起きてからは読書何冊か、『トンデモ本の世界S&T』、『山田風太郎忍法帖短編全集2 野ざらし忍法帖』、マンガ、青山剛昌原作『名探偵コナン特別編』21巻、石川賢『神州纐纈城』1巻など。
 CSでアニメ『ファイブスター物語』、『ゆめりあ』第1話、映画『地獄』など。
 数時間でこれだけの本が読めるのは、速読に慣れているからである。その分、内容はすぐに頭から抜けていくが(意味ないじゃん)。

2003年06月05日(木) なんかタイトル思いつかん/『キカイダー02』5巻(石ノ森章太郎作・MEIMU)/『ヒカルの碁』22巻(ほったゆみ・小畑健)ほか
2002年06月05日(水) 人間失格かな、やっぱ/『『鉄人28号』大研究』(飯城勇三)/『ちょびっツ』3・4・5巻(CLAMP)
2001年06月05日(火) 一日本しか読んでません/『サザエさんうちあけ話・似たもの一家』(長谷川町子)ほか



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)