無責任賛歌
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記




ホームページプロフィール掲示板「トーキング・ヘッド」メール
藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2001年06月07日(木) MURDER IS EASY/『詩的私的ジャック』(森博嗣)ほか

 体重86.4キロ。
 昨日より1キロ増えているが、機会の故障なので気にしない。
 日記を書くのが遅れると、その日何を食ったか思い出せないのだが(これも二日遅れで書いてるのよ)、多分つけ麺くらいしか、食ってないので、太ってるはずがないのである。
 しかし、しげも私も最近買い物と言ったら必ず冷凍のつけ麺だのうどんだのを買って来てるが、そんなに調理をするのが嫌いか。
 ウチの台所、排水溝が詰まってるんだが、未だに私もしげも底を浚おうとしてないのである。……星里もちるの『いきばた主夫ランブル』にゴミの山と化した部屋に暮らす哲学者夫婦ってのが出てきたけど、あんな感じか。
 いや、笑い事じゃなくて、ウチのマンションで異臭騒ぎが起きたら、ウチらの責任かもしれない。
 じゃあさっさと片付けろと言われそうだが、いい加減しげの後始末をするのにも疲れたのだ。そこまで全部私がやってたら、しげがウチですることなど何もないのである。昼間はしげ、寝てるかゲームしてるかだけだもんなあ。

 実は、フロの排水溝ももう何週間も詰まっていたのだが、フロのお湯が流せなくて困っていたので、今日やっと底を洗い流した。
 おお、排水溝のフタが白くなったぞ♪
 ……喜んでる場合じゃねーや。で、しげは結局なんにも家事をしないわけよ。汚い所を片付けるのはいつも、私。
 トイレ掃除なんかこの10年、しげがしたことなんて、数えるほどしかない。それも余りに放ったらかしてるので私が怒ってさせた時だけだ。気づいた時にちゃっちゃとやればたいした苦労は要らないのに、いつだって逃げてるんだから、人間として何かが欠けてると言わざるを得ない。
 家事しない分、バイトの金を家に入れるかというと、それもしない。全部、しげ本人の小遣いである。もう何ヶ月も前から「少しは家に金入れろ」って言ってるのに無視してるしなあ。
 これで家ん中でしげがエラソーにしてるのはどう考えても理不尽だ。
 でも叱っても叱っても次の日には忘れてるのである。だから脳みそが豆腐でできてるってんだよ。
 ウチが家庭円満でいいねえ、なんて勘違いしてる人は多いようだが、それは単に私が諦めてるだけだということです。
 ……家政婦さん雇った方がずっとマシだなあ。でもそんな余裕はないし、せめて台所くらいなんとかしてくれ(T_T)。

 で、そのしげからいきなりメールが来る。
 「小説今日中。頼むよ、もう!」
 劇団ホームページのリレー小説の催促である。ああ、またボケたかしげ。
 シメキリは明後日だってのに。


 いろいろ仕事は溜まっているが、なんとかちゃちゃっと片付けて定時に帰宅。 しげのバイト先の人から、今日の『フォークソング大全集2001』第三夜を録画してほしいと頼まれてたためだ。
 サムシングエルスのファンだってことらしいけど、私は全然知らない。この事実一つ取ってみても私とフォークが無縁であったことがよくわかる。
 アニソンとアイドルで充分世界が語れるというのに、軟弱なフォークなど聞いてられるかとか当時は思っていたのだな。
 今はもう、そんな偏見はなくなっているので、『オトナ帝国の逆襲』でフォークが立て続けに流れてきた時も素直に泣けたのだが、偏見が消えた分、その時々で気に入った曲をテキトーに買って聴くようになったので、ウチのCDライブラリーはクラシック、ジャズ、映画音楽からアイドルポップス、アニソンまで、実に脈絡がなくなっている。
 今日の番組を見ながらも思ったことであるが、日本中を探しても、村下孝蔵の『初恋』を、三田寛子バージョンの方がいいと思ってるのは私くらいのものであろう(^_^;)。
 あ、しかしベッツィ&クリスの『白い色は恋人の色』の映像が見られたのはうれしかった。発音が変だったからもしかしてと思っていたがやっばり外人だったのだなあ。


 ドラマ『R‐17』第3回、初めて見る。
 中谷美紀が『ケイゾク』の時みたいな惚けた役で出ているが、周りで起こる事件は教師と女生徒の爛れた愛だのドラッグ中毒だの、センセーショナリズムを全面に出しすぎていてウソっぽい。
 いや、そういうのが一つならいいけどね。詰め込み過ぎるとかえって白けるのよ。
 でも、「ドラッグと共存するのよ」と言う、ある登場人物のセリフには否定しきれない真実が含まれているのではないか。中島らもが「なんで日本じゃ毒性の強い煙草が認可されてて低い大麻が非認可なんだ」という意見についてはやや疑問があるものの、政府広報のような一般的なドラッグについての情報提供については、センセーショナリズムの方が先行しているように思うのである。
 いつだったか「ダメ、絶対」ってキャッチフレーズが出まわったことがあったが、あんなイメージのみで中身に乏しい、しかもイメージ操作としての力も貧弱というどうしょうもない標語もなかったと思う。
 実際、風邪薬でだって、トリップはできる。どんな薬だって、扱いようによっては危険だ。「ドラッグとの共存」は成人病に無縁な人間がいない現代においては、真剣に考えねばならぬ課題なのである。
 私もクスリがないと生きていけないカラダだし。
 ……いや、糖尿のクスリのことですからね。


 ZUBATさんのホームページが先月から開設されていることに、今日になってやっと気付く。
 しげがこっそりと「お気に入り」の中に登録していたのだ。あの野郎、全然教えてくれなかったんだものなあ。私にヒミツでいろいろとコトを運ぼうというクセはなんとかならないものか。
 私がしげに隠してる秘密など、アレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレとアレくらいしかないというのに。


 マンガ、和田慎二『少女鮫』1巻読む。
 しげがいつの間にか古本屋で買ってきていたもの。
 和田慎二は絵で表現すべきところを言葉で解説しちゃう梶原一騎の悪癖をそのまま踏襲しちゃってるところがある。おかげでキャラクターのセリフがまるで生きてないのが気になっていたのだが、なぜか小さな女の子を描かせたときだけはチカラが入って傑作をモノにしちゃうんだよな(『アリス』シリーズとか。このロリコンめ)。
 そのためなのか、主人公のリョーコが女子高生である第1話はイマイチの出来だが、戦場編になるとリョーコの少女時代が描かれていて俄然面白くなる。
 と言ってもトンデモ的な面白さなんだけれども。
 どう考えても、ろプロの傭兵が、戦場に10歳の女の子を連れてくなんてことはしないわな。理由が「幸運の女神だから」って、プロが神頼みしてるなよ。これでよく部下が反乱を起こさなかったもんだ。
 でもこの程度のコート―ムケイは和田慎二の味でもあるので(要するに『スケバン刑事』の変形だ)、もしかして「少女傭兵」ジャンルってものの嚆矢になるかもしれん。
 あ、史実でもアチラの国の大富豪の娘が誘拐されて洗脳され、テロリストになったって事例があったな。なんて名前だったっけ?

 森博嗣『詩的私的ジャック』読む。
 普通の意味でのミステリィを書くつもりはないと言うことが解っているので、もう特に犯人アテをしようとはしない。
 一番怪しいやつが犯人に決まってるからだ(^o^)。
 もうこの人の作品について語るためには、トリックや犯人について触れざるを得ないと思っているので、これからあとの文は、本作を未見の人は読まないように。まあ森ミステリの場合は読んだって構いはしないとも思うけど、一応、世間には気にする人もいるので念のため。






















 以前から、森ミステリのシリーズ探偵、犀川創平はハンニバル・レクターに似ている、と思っていた。
 いや、それは『すべてがFになる』の間賀田四季博士だろう、と言われる人もあろうが、間賀田博士と犀川がポジとネガの関係にあると考えれば、やはり犀川もレクター博士の末裔であると言える。
 犀川とレクターの共通点は、世界に対して徹底して無関心であることだ。
 世の中には二つの種類の事柄しかない。
 解っていることと、解らないこと。
 あるいは、解っていると思っていることと解らないこと。
 つまり本当は、世の中にはたった一つの種類のことしかないのだ。
 解らないこと。
 だとしたら、人が何かに関心を持つことに意味があると言えるだろうか。本当は我々は何かに関心を持つフリをしているだけなのではないか。
 自ら動くコトをせず、クラリスや萌絵によって事件に巻き込まれるレクターや犀川は、そのことを自覚しているのだ。
 それでも事件に関わりを持ってしまう犀川にとって、一番興味を引かないのは犯人の「動機」である。
 人の本当の心など分らない。そんなモノに関心を持ったって仕方がない。
 人に関心を持ちたい人にとっては腹立たしいことだろうが、人の心が分らないのは事実である。そういう人種にとって、人の心を解明した気になっているミステリほど愚かしいものはあるまい。

 つまり、森ミステリは、もともとミステリを否定する主人公を主役に持ってきているのである。

 芥川龍之介の『藪の中』、坂口安吾の『顔のない犯人』、犯人も動機も解らないミステリの先駆作品はあったが、一応の結末をつけながら、「その結末自体に意味がない」と言ってのけるミステリは森作品をもって嚆矢とするであろう。

 本作の密室トリックも前作までと同様、実にチャチである。
 もちろん、それはワザとだ。ミステリそのものを否定するミステリに、リアリティのあるトリック、整合性のあるトリックなど逆に無意味だろう。現に、作者は犀川の口を借りて「密室なんてどうにでも作れる」と言わせている。
 つまり読者は、「密室がどのように構成されたか」と、従来のミステリならばメインの謎となったであろうトリックを解明しようと頭を痛める必要がないことになるのだ。
 だからこそ、セメントを利用した物理的な密室トリックは、あっという間に西之園萌絵によって、解かれてしまうのである。ワトソン役たる萌絵によって、というところが、この密室トリックがさして重要ではない、ということの暗示にもなっている。

 では、読者に提示された「謎」は本作にはないのか?
 ホームズ役(というか、人を食わないハンニバル・レクター)の犀川創平は、「なぜ無意味な密室が作られたのか?」と語るが、実に驚くべきことに、物語の5分の1ほどで、早々と本作のトリックが、ディクスン・カーが散々多用して批判された「密室のための密室」であると、彼によって説明されてしまうのだ。  
 古今東西のミステリを見ても、予め「なぜ犯人は無意味な密室のための密室を作ったのか?」なんて提示がされた謎があり得ただろうか?

 そして、それは、最終的に、4番目の殺人が、実は密室殺人ではないのに密室殺人だと錯覚させるための心理トリックだったということが説明される。そのことによって、犯人にはアリバイが成立する仕掛けになっているのだ。
 つまり高木彬光の『刺青殺人事件』の応用である。しかし、この応用の仕方には意味がない。そうやって作った4番目の密室モドキも、結局はトリックのためのトリックにすぎないからだ。

 森ミステリに拒否反応を示す人はそこで思うだろう。
 「トリックのためのトリック」を使う犯人なんてリアリティがないと。

 最後に犯人の動機が語られるが、恐らくマジメなミステリファンは更に激怒するだろう。
 最初の殺人は実は真犯人の妻の犯行だった。
 殺人犯の妻を持つことは潔癖症の犯人には許せなかった、だから殺したと。
 横溝正史『本陣殺人事件』の動機の応用である。
 もう真面目に読んでたらツッコミ入れて下さいと言わんばかりの説明である。しかも本作では、オソロシイことにそのような動機を暗示させる伏線、ヒントというものが事前に全く提示されていないのである。

 読者はまた思う。
 伏線張らずに謎と結末だけ提示するミステリなんてあり得るものかと。

 ……だからそこのミステリファンのみなさん、森作品はミステリでも推理小説でもないんですってば。
 パッケージに騙されてはいけない。この事件の犯人は、トリックのためのトリックが好きな人間で、殺人犯の妻を簡単に殺してしまう程度のメンタリティしか持たぬ人間なのである。
 そんなやつはもともと小説に描くに値するようなヤツではない。でも、そんな程度のヤツは現実にはいくらでもいるのである。
 人と葛藤することも知らず、短絡的に、しかし犯罪をカモフラージュする程度の知性はあるイビツな人間。
 そんなやつのことなど、理解出来るはずがない。謎が、そこにあるだけ。そして最後に「彼がやった」という事実だけが。
 だから、伏線も描けない。

 では森作品は純文学か? と言われれば、それも違う。
 強いて言えば、これは「伝奇小説」なのです。
 
 犀川創平が言うように、「要は幻想の有無」である。言葉は意味を伝えるためにある。しかし言葉で説明出来ることがどれだけあるだろう。結局は全て不可知の海に沈む。
 その事件の先に何があるか判らず、一応の解決をつけても結局は何も解ったことにはなっていない。純粋なリドル・ストーリー、それが森ミステリの正体なのだ。
 「伝奇小説」は未完をもって基本となすように。

 森ミステリを読むのもこれで5冊目。
 犀川と自分の共通点を感じるたびに苦笑いをせざるを得ない。こういう人間に無関心な人間は必然的に非道になってしまうものだが、犀川が犯罪者とならないのはひとえに西之園萌絵の存在による。
 で、私が犯罪者にならないでいられるのも……おっと、タイムアウトだ。余り誰かさんばかりを喜ばすことまで書いてやっても仕方ないのである。



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ昨日の日記明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)