無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年06月06日(水) フォークって民謡って意味なんだが/『メトロポリス』(手塚治虫)ほか

 体重、85.4キロのまま推移。
 全然つまんねーぞ、とみなさんもお思いだろうが、それは私も同じだ。
 先週、食事をかなり制限したせいか(なのに体重が変化していないが)貧血で倒れそうになったので、今週は食いすぎこそしていないが、きちんと食事をとるようにしている。
 それでも腹が減ってグーとなるのだ。決して食べすぎているわけではない。普通に食事するだけで太るってのは理不尽だ。きっとユ○ヤかフ○○メイ○ンの陰謀に違いない。


 新聞で社民党の辻本清美議員が小泉内閣批判。
 私はピー○○ートに乗っていた人間というものはどうかと思っているので(どう思ってるんだよ)、日頃のこの人の言動も「アイデンティティの基盤が薄い人だなあ」と思っていたのだが、やっぱりというか、あーあやっちゃったというか、「人気だけの政権は危険だ」と言い出しやがった。
 もちろん、人気だけの政権は危険である。従って小泉首相をヒトラーにたとえるのも故なしとは言えない。
 しかし人気のない政権はもっと危険なんだけど? 前の森政権の方がよかったとでもアンタは言いたいのかな? 政権の危険性は人気とは関係ないんだよ。
 人気がある分、小泉政権にはチェック機能が自然に働く。別に野党だけにそれが任されてるわけではないので、「今、社民党がやらなければ」なんて意気込んでもらわなくてもいい。
 結局、辻本さんの言ってることはただの揚げ足取りにしかなってない。
 記事によれば辻本さんとこには、脅迫メールみたいなのも届いてるようで、そのこと自体には私も憤りを覚えるが、それを言う前に自分の政治構想を先に語るべきじゃないのか。
 結局そんなもんがカケラもないから「イジメられてる」ことを主張することで反作用的に自己の正当性を訴えようとしているのだ。
 でもねえ、日頃のこの人の言動からは、どうにも「オッチョコチョイのあわてもの」というイメージしか浮かんで来ないんだけどねえ。言っちゃなんだが「苛められてもしかたがない」と思わせる要素がこの人にはあるのだ。社民党内でも大喜利の前の色モノ扱いされてる気がしてならない。

 エンピツ仲間の少女マンガ家、安奈さんが新しくHPを立ち上げているのを発見。
 ピンクで可愛らしくって、私のような中年オヤジが覗いているのは端から見たらさぞやキモいであろうと思われるほどである。
 ああ、私もHPを開設しようと準備してたのになあ。
 先を越されちゃったなあ、と言っても、私の作ろうとしてるHPは全然コンセプトが違うんで比較したってしかたがないんだが。
 ウチの日記もそろそろカウンターが4000に近づいてるってのに、HPの準備はストップしたままである。早いとこ原稿を揃えて開設せねば。

 マンガ、手塚治虫『メトロポリス』読み返す。
 初期作品であるために、稚拙で、お世辞にも面白いとは言えないが、それでもアニメ版よりプリミティブな魅力がある。
 「太陽黒点が増えている間だけ、ミッチィは生きられた」という設定、アニメ版では無視されていたが、こういう手塚マンガの核と言ってもいい設定をことごとく外している点がアニメ版をつまらなくしている最大の要素だろう。
 りんたろう、『火の鳥』作った時も手塚さんから「これは僕の『火の鳥』じゃないね」と酷評されてたのに結局同じ轍を踏んでるんだよなあ。
 ここで手塚治虫のキャラクターシステムというものについて考えてみたい。
 手塚治虫が自分のマンガのキャラクターを映画俳優になぞらえて何度も再使用するこの手法だが、果たしてマンガ的効果が高いと言えるだろうか。
 当たり前の話だが、他のマンガ家でこの手法を使っているものは非常に少ない。石森章太郎や永井豪が時折行うが、それでそのマンガが面白くなっているかというと考えものだ。
 俳優と違って、マンガのキャラクターはそのマンガの世界観と密接につながっている。例えばアトムはあくまでロボットであるし、ブラック・ジャックは医者なのである。それが他の手塚マンガにゲスト的に出た場合、極端な場合アトムが「人間」として描かれていると、余りにも違和感が生じてしまう。
 アセチレン・ランプ、ハム・エッグ、スカンク草井等の悪役に使いまわしが利くのは、彼らがステロタイプの悪役で無個性だからであって、それは『メトロポリス』のレッド公にも言えることだ。
 『メトロポリス』にはこれが初登場のレッド公とミッチィという二大キャラクターがいるのだが、レッド公がこのあと何度も役を変え、ある時は善玉、ある時は悪玉と幅広い役を演じるのに対し、ミッチィはこれ一作で消える。
 しかし、それはミッチィのキャラクターがこの『メトロポリス』世界観と不可分なためで、本来マンガのキャラクターはそうあるべきなのだ。
 私だってハム・エッグや丸首ブーンはご贔屓だけれど、キャラクターシステムには「ミスキャスト」だってあり得ることを忘れてはならない。で、手塚作品って、マンガもアニメもこのミスキャスト、やたらと多いのだよねえ。

 今回のアニメ版、アトラスは完全にミスだと思うが(だからロボットを人間にするなってば。途中まで実はロボットなのに人間のフリしてるのかと思ったぞ)他の手塚ファンはどう見るかな。

 マンガ、青山剛昌原案・太田勝と江古田探偵団まんが『名探偵コナン特別編』13巻。
 読みはしたがもう今更感想書くほどのことはないな。あっそうってなもんで。
 コナンに関してはここの推理が穴だらけとも言いたくないし。特別編で子供向けだからとは言え、少しはコナン以外のキャラクターも立ててほしいと思うけど。

 夜、テレビで久しぶりに『パワーパフガールズ』を見る。
 モジョがPPGのところにベビーシッター(のフリして世界征服の手伝いをさせ)にやってくるが、逆に降りまわされちゃう話。
 ああ、そうか、この三人、考えてみれば生まれたばかりなんだよなあ。通ってるところも小学校ってより幼稚園に近い感じだった。
 この子供にオトナが降りまわされるってコメディのパターンってのも古いよなあ。ルーツはチャップリンの『キッド』あたりか?
 親の留守中に子供が大暴れってんなら『トムとジェリー』にもそんな話があったなあ。

 NHK衛星第2、BSスペシャルで『日本フォークソング大全集』第2回見る。
 しまった、昨日第一回を見損ねた。
 でも実は私って、フォーク全盛期より若いんだよね。
 そりゃ確かにガロの『学生街の喫茶店』や平田隆夫とセルスターズ『ハチのムサシは死んだのさ』、ソルティーシュガー『走れコータロー』、フォーク・クルセイダーズ『帰ってきたヨッパライ』、はしだのりひことシューベルツ『風』、カルメンマキ『時には母のない子のように』、かまやつひろし『わが良き友よ』、ばんばひろふみ『「いちご白書」をもう一度』、風『22才の別れ』、かぐや姫『神田川』、みんな好きだったけど、特に入れこむほどじゃなかった。陽水には全く引っかからなかったし。基本的に70年代フォークってムサイ男が歌ってたもんだったから、小中学時には共感しようもなかったのだ。
 ぶっちゃけた話、高校の半ばくらいまではフォークより、アイドルに夢中だったのだな。
 ……だからアグネス・チャンと石野真子と薬師丸ひろ子が私の青春だったんだよう(T_T)。
 フォークをもうちっと熱心に聞くようになったのは、やっばり女の子の影響である。イルカの『名残り雪』もリアルタイムでは特に好きでなくて、親戚の女の子から「いいでしょ?」と言って聞かされたのが最初だった。で、付き合い始めた彼女もやっぱりイルカのファンでって、イルカとの縁が続く。
 でもそれも当然と言えば当然で、女の子の三人に一人はイルカのファンだった時代なのである。
 今じゃ考えられないよなあ。
 浜崎あゆみの女性ファンが今は多いようなもんかね? それにしてもなぜあのころあれほどイルカが流行っていたか、理由は謎だ。ともかくイルカのファンにあらずば女の子と話をすることもできなかったので、必然、聞くようになっていたのである。
 不純な動機だ(-_-;)。
 さらにその彼女の影響でNSP『夕暮れ時はさみしそう』とかマイペース『東京』とか谷山浩子『カントリー・ガール』なんてマイナーかつダークなフォークにまでどっぷり浸ることに(^_^;)。覚えてる人いるかな?
 でも最近のポップスって、アレンジはともかくメロディーラインはフォークっぽいものが増えてる気がするんだがなあ。時代は巡ってるんだろうか。

 同じくBSで映画『エイリアン』、シガニー・ウィーバーのインタビュー見る。
 「自分の望んだ役につけたためしがない」というのはホンネなんだろうな。にもかかわらずあれだけの熱演ができるというのはさすがだなあ。
 特に好みのタイプの女優さんではないのたが、気がついたら結構な本数の映画を見ていて、演じるタイプが全部違うのである。アメリカの岩下志麻って言ったらファンが怒るかな?(^^)



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