無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年06月07日(金) 野良犬は革命ごっこの夢を見るか/映画『血とバラ』

 まだ月初めだというのにもう貧乏。
 仕方なく晩飯は買い置きのコンビニ弁当を食う。
 コンビニの弁当のメニュー、どこでも一定の割合で中身を切り替えてるみたいだけれど、最近は幕の内の値段が高くなってきてやしないか。
 同じ幕の内でも昔は300円くらいのと500円くらいのと、に、3種類はあったものだが、ウチの近所のコンビニでは500円程度のものばかり。けれど栄養のバランス考えると、これしか食べられるものがないんだよなあ。


 椅子の肘置きに寄りかかりながらネットを散策していたら、突然、その肘置きのネジが外れる。どうやら私の体重を支えきれなくなっていたらしい。
 慌ててねじ回しを探すが、しげが思いついた時にいきなリ間取りを変えたりしてるので、どこにあるんだか解らない。
 しげは帰宅そうそう、グーグー寝入ってしまっているので、場所を聞いても寝惚けてフガフガ言ってるだけである。
 なんとかプラスのねじ回しを探し出して、ネジを嵌めたが、なんだかそれでも椅子が心持ち傾いているように感じる。
 やっぱり体重が増加してきてるんだろうか。


 岡田斗司夫さんの「オタク日記」、4月29日(月)に、押井守についての記述があるのを見つける。
 『うる星やつら』以降、私は押井守作品はアニメ・実写を含めて、見られるものは可能な限り見てきている。『パトレイバー』や『攻殻機動隊』のような有名どころはおろか、必ずしも押井守の個性が出ているとは言い難い『ダロス』や『ニルスの不思議な旅』や『レムナント6』あたりまでチェックしているから、一応、「押井フリーク」と自認しても構わないだろうとは思っている。
 ただし、「ファン」ではあっても、「信者」じゃないことは先に明言しておく。でないと、あとあといろいろとモンダイが生じそうなんで(^^)。
 さて、やたらテツガクしたがる押井作品が、オタク的エンタテインメントに徹するアニメを作り続けてきたガイナックスの元社長である岡田さんのシュミに合わないことは予め容易に想像がつくことである。果たしてどんな悪口を展開してくれてることやら、とワクワクしながら読んでみたら……。
 うーむ、意外にもある程度感情が抑制されてるきちんとした批評。押井守信者から攻撃されることを懸念して舌鋒を緩めたのか、まだなにか含むところがあるけれども口に出せない事情でもあるのか。
 ちょっといくつが疑問もあるので、引用しながら考えてみる。 

 >「僕はオシイストではない。かと言って、自分をアンチ・オシイストとも思わない。」

 立場を最初に明確にしなければならないと言うのが、ファン(あるいはファンでない人)に「気を遣っている」んじゃないかと感じるところ。
 いや、特に気を遣ってるわけではなくて、単に「私は押井作品を完全否定するような偏狭な人間でもないし、かと言って絶賛するほどのバカでもないよ」と言いたいだけかもしれない。けれど、私自身の経験から言っても、「信者」のいる人に対して、自分の立場を明確にせずに何かを語ると、それがちょっとした否定(肯定でも同じだけど)であっても、肯定派否定派の両方から拡大解釈されてヒステリックな攻撃を受けてしまうのである。
 わかりやすい例が「小林よしのり」について語ること(^_^;)。「いくらなんでも三十万は殺してないよな」と言っただけで、私ゃ職場で「南京大虐殺否定派」の「軍国主義者」と見なされた経験があるからね。
 要するにノンポリがウヨクサヨクの対立に巻きこまれる苦労を想定していただければいいわけなんである。アニメファンにとって押井守はなぜか「思想」を語るための作家になっちゃってるのだな。だから「押井のどこがいいんだよ。似たような映画しか作れねえクセに」とか言おうものなら、ヘタすりゃ一時間がかりで読まなきゃならないようなメール送りつけられちゃうことになるのである。世の中、粘着質の人も多いから。
 私ももう一度繰り返しますが、押井「ファン」ではあっても「信者」じゃありません。だから、私が誉めたり貶したりしたことに対して、過剰な同意、ないしは反論を寄せられても返事のしようがないからね。

 >「UFO信者は、信じない人をすべて『否定派』と括ってしまう。しかし実際に議論してるのは『信者』『否定派』『懐疑派』の3種であろう。この意味で僕自身は『押井懐疑派』だと思う。押井作品の素晴らしい部分を褒め称えるにはやぶさかではないけど、だからといってダメな部分までも『確信犯だから』とイイワケしてやる気にはなれない。

 ああ、私も「押井さんのアレは『確信犯』だから」と擁護することあるなあ(^_^;)。
 例えば、いつものあの「もしかしたら、今、私がここにいる現実の世界は現実の世界ではないのかもしれない」というヤツだけどね。一度や二度ならともかくも毎回に近いからねえ。「しつけ〜ぞ」という声が出てくるのも判る。
 ただ、ここで考えておかなきゃならないことは、批評するにあたっては二つの立場があり、批評者自身、自分がどちらの立場でモノを語っているのか、ハッキリと自覚しておかねばならない、ということだ。
 一つは、自分に確固とした思想信条があり、その視点で対象を批評する立場。
 もう一つは、自分の思想はともかく、作者の意図を分析して、その意図通りに作品が成立しているかを批評する立場。
 どちらが批評として有効性を持つかというのは一概には言いきれない。
 しかし大事なことは、片方の立場のみで対象を判断すれば、それは明らかに「方手落ち」な批評になってしまうということだ。
 前者のみの立場でものを見ると、極端な話、「私はアニメが嫌いだから全てのアニメを否定します」「私はSFなんてクダラナイと思うから」「私はミステリなんてツマラナイと思うから」なんて偏見が「批評」として成り立ってしまう。
 後者のみだと、ヒトラーの『わが闘争』なんかも全面肯定しなければならなくなる。文章の論理性、という点でのみ評価すれば、あれも「名著」と評価しなけりゃならなくなるからねえ。
 特に前者の批評方法は、まずもって作者の心には響くものではない。
 「そりゃアンタは自分の見方でモノを言ってんだろうけど、俺には俺の見方があるんだから」で一蹴されてしまう。押井さんが同じような作品ばかり続けていること自体を批判したって、屁とも感じられはしないのだ(誰かスタッフが「また犬か鳥を出すんでしょ」って言ったら怒ってたそうだが)。
 私は、押井さんが「似たような」モチーフばかりを使ってはいても、その表現効果については『うる星2』のころと『アヴァロン』とでは格段に上達してるなあと思ってるので、全く気にはならないんだけども。岡田さんの言う「ダメ」な部分には多分に前者の見方に偏ってる気がするな。

 >「映画作家としてみれば、僕にとっての押井守は『バランスが悪いけど才能が凄いので、そんな欠点は無視できる』というあたりだろうか。才能、というのはケレンみのある、ハッタリのきいた絵を作らせればおそらく世界一、という部分だ。ハリウッドの監督たちがインスパイアされるのもムリはない。とにかく『圧倒的にカッコいい!』のが押井作品の特徴だ。
 バランスの悪さ、というのは、たとえば音響設計のセンスが悪いというところ。『攻殻機動隊』のタイトル見たときは笑った。超精密機械であるはずのアンドロイド組み立てシーンで、鳴るSEが『シャキーン』『ガシャコーン』だもんなぁ。」

 「ケレンみのある、ハッタリのきいた絵」というのがどのあたりを指してのモノイイか分らないから、「世界一」と言われても、逆に「そりゃどうかな?」という疑問が湧く。
 映像作家は基本的にみんなそういう絵を作ろうとしてるんだからねえ。バスター・キートンは? オーソン・ウェルズは? スタンリー・キューブリックは? フランソワ・トリュフォーは? 黒澤明は?(キリがないからやめよう)そういう人たちは「ハッタリの利いた絵」を作ってきてはいないの? それともこれは「現役作家」に限定されてのモノイイ?
 それなら、ジャン・リュック・ゴダールは? リュック・ベッソンは? 宮崎駿は? 
 私は「押井さんらしさ」が出ている「絵」と言われると、『御先祖様万々歳』や『パトレイバー2』他でも頻繁に使う「凸レンズ越しの映像」が真っ先に思い浮かぶんだが、あれは「圧倒的にカッコいい!」かね。覗いてる方が実は覗かれてて(映画の中での役者と観客との関係が置換される)そのおかしな姿が曝け出されてる状況が面白いのである。そういうのって、どっちかっつーと、「適度にダサくて情けない」からイイと思うんだけどね。
 だから、『攻殻』のSEが「ガシャコーン」でも一向に構わない(もっとも私には「チュイーン」と聞こえるけど)。いや、「ガシャコーン」のほうがずっといい。押井作品ではリアルに見えるもの全てが実は現実じゃなくて、寓意なんだから。でなきゃ、それこそ近未来SFのテーマソングに「祝詞」なんて古臭いモノを使うわけないし。
 押井さん自身が巧む、あるいは巧まざるに関わらず、押井作品においては、現実との「違和感」はあったほうがいいんである。


 >「これは個人的な好き嫌いになるけど、押井作品の小児的なところは苦手だ。
 たとえば『パトレイバー2』というアニメ。
 映像は素晴らしい。もうセルアニメの頂点じゃないか,と思う。
 しかしシナリオというかキャラクター造型がいただけない。柘植という登場人物は映画冒頭、『部下を見殺しにしなければいけなかった』という事件で、心に傷を負う。しかし彼は『日本に復讐する』なる心情的というかロマンチックな革命ごっこを実行し、当然ながらそれは破綻して逮捕される。行動原理がダダっ子というか、全共闘世代特有の『甘え』に満ちているので、僕は感情移入できなかったのだ。
 (彼の主張を良し、とできるなら、上層部の理不尽な命令でリストラをしている人事課長には,すべてテロルの権利があることになる。バカな。甘えるのもいいかげんにしなさい。こういう理屈をこねるヤカラと、それに同調する自称『弱者の味方』があんがい多いから、ゆうきまさみ版『パトレイバー』では、内海課長は倒れなければならなかったんだけどね)」

 柘植、主役じゃないから感情移入できないって言われてもなあ。
 だいたい「小児的」だからこそクーデターなんてことを起こすわけで、そんなこたー、三島由紀夫や麻原彰晃を見てればよく分る。
 この雑然としていて混乱の象徴でもある東京って街を、いっぺんぶっ壊してみたいってのは、多分いろんな人が思ってることで、それは例えば怪獣映画という形になって表れているわけだ。『ガメラ』シリーズの脚本家である伊藤和典さんは、『パト2』を明らかに「怪獣のでない怪獣映画」として構成している。
 東京を破壊したい。
 破壊できるものがあるとすればそれは自衛隊である。
 自衛隊にクーデターを起こさせる動機はなにか。
 そう考えていった結果があの動機なわけで、脚本としては全く問題がない。
 もっとも、この部分の感想は岡田さんも「個人的な意見」と断ってるから、物語上の人物造型としてはあれでいいってことはご理解されているのだろう。
 確かに感情だけで言えば、私も「南雲さん、アンタ男を見る目ないよ、柘植見たいなバカより後藤さんのほうがよっぽどイイじゃん」と言いたくなるけどね。もっとも「南雲さんに男を見る目がない」というのも、設定にあることだから仕方がないんだけど。
 だからあの映画は後藤さんと荒川さんを見て楽しまなきゃ(^^)。

 >「僕の感じる違和感は『なんか尾崎豊みたいでイヤ』、といえばわかってもらえるだろうか。
 『中間管理職の恨みをロマンチックな革命ごっこでウサ晴らし』、というのと、『管理社会が嫌だからといって、夜に校舎の窓ガラスを割る』というのは、同種の小児的甘えである。熱狂的な『信者』が多いのも共通している。
 いや、尾崎の音楽や押井の映画を全否定しようとは思わない。そういう音楽や映画が必要な時期は誰しもあるし、そういうものに傾倒する人は人一倍感受性の強い人だというのも理解できる。しかし、周囲に迷惑をかけることによってのみ自己をアピールし、しかもそのダメさ加減を『確信犯』と言い繕うことでなにか弁明した気になっている。そういうメンタリティを僕は共有できない。要するにそのあたりで僕は『押井信者』になりそこなっているのだろう。」

 押井守が死んでも、葬式に長蛇の列はできんと思うが(^o^)。
 「中間管理職」ってのがつまりは「犬」ってことなんだろうけれど、さて、押井さんは「犬」であることにウラミを持っているのかな。押井作品の大半が「革命の挫折」から物語は始まっているので、「革命」自体がまさしく「ロマン」というか「幻想」に過ぎなくて、そんなものじゃウサバラシにもならないってことを描いてるのが、押井作品だと思うけどな。
 『紅い眼鏡』でも、繰り返される百々目紅一の「帰還ごっこ」に対して、「全くいつまでこんなことが続くんだ」と室戸文明に言わせてるし、『人狼』でも革命家の「赤ずきん」は二人とも狼に食われるし、「革命ごっこ」してる連中への「制裁」は厳しい。
 もちろん、イマドキ「革命」を描こうとしている作家活動自体、押井さんの心の隅のどこかに、チラリと「この平和ボケの日本で革命が成功したらいいな」という「甘え」があることは事実だろうけれど、形の上で一応は否定しているものを「実はホントは革命好きなんだよな、押井さん」と言っちゃうのはどうか。
 それに「心の隅」ということで指摘するなら、「犬でいいじゃん、革命なんかしなくっても」って相反する思いも押井さんの中には確実にあるんで(っつーかそのアンビバレンツが押井作品のモチベーションになっている)、そちらの方を無視して、一方だけを掬い上げるのは、批評としてはどうだろうか。
 そんな中途半端な批判のしかたが成り立つなら、「岡田さん、ホントはあなた、押井さんが羨ましいだけなんでしょ」ってのも批評としてアリになっちゃうけど。
 「周囲に迷惑をかけることによってのみ自己をアピール」というのも、果たして本当に「迷惑」かけてるのはどっちなんだってことを考察しないと、意味ないと思うけどね。既成の概念に疑義を差し挟む(あるいはひっくり返す)のがSFの普通の手法なんだし。

 >「じぶんなりにまとめると、押井監督はアニメ監督としてはベスト3とは言えないだろうが、充分ベスト5に入る、と思う。りんたろうより上だけど、富野カントクより下、というあたりだろうか。」

 押井さんはアニメより演劇やったほうがいいよな、とは私も思う。
 けれど「オウム真理教は自分が生み出した」と責任感じてる人よりも下かねえ。
 いや、作品と作者の信条は別、とご批判される向きもあろうが、『ブレンパワード』みたいなノーテンキ「話しあいましょう」アニメを誉めるくらいなら、私ゃ押井アニメの方をずっと見たいぞ。まあトミノさんが壊れてく様子を追っかけるのはそれはそれで楽しいけれども。『∀ガンダム』、途中までしかまだ見てなかったなあ。DVDは全巻揃えてるのに。

 >「ああ、こんな金にもならない原稿を延々と書けるなんて、本当に鬱が治ったんだなぁ。」

 そう言えば個人のHPって、みんなホントにカネにならないのに気を入れて書いてるよなあ。
 私もこれだけ書き続けてる以上、口が裂けても自分が「鬱」だとは言えない。時々言ってるけど(^_^;)。


 録画ビデオで映画『血とバラ』(1960・仏=伊合作)。
 言わずと知れたジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュのゴシックホラー『吸血鬼カーミラ』のロジェ・ヴァディム監督による映画化である。
 ゴメン、こんな有名な映画、今まで未見でした(^_^;)。小説の方も実は子供のころにダイジェスト版でしか読んだことない。あとは『ガラスの仮面』の劇中劇か? 姫川亜弓がカーミラだったねえ(鴻上尚史はこの乙部のりえがとっちめられるエピソードが大好きらしい)。
 「カミーラ」とか「カーミラ」とか、日本語表記は一定してないけれど、発音を聞いてみると、「カ(ル)ミーラ」(アクセントは「ミ」にあり)って感じ。
 こりゃ表記不可能だわな。フルネームはカーミラ・フォン・カーンシュタイン(カーミラ・フォン・カルンスタイン)。なんだか名前だけ聞くと吸血鬼の系列より人造人間の系列みたいに聞こえるね。
 冒頭、いきなり飛行機の滑走路か現れて度肝を抜かれるが、これ、なんと現代(第2次大戦後のローマ近郊)の物語にアレンジしてあるんだね。けれど、古いカーンシュタイン家の描写が始まると、これってホントに現代? と言いたくなるような屋敷、衣装、風俗がバンバン登場してきて、監督がやはりこの映画を現代の「御伽話」として描こうとしているのだということが伝わってくる。
 語り手はカーミラ(アネット・ヴァディム<ストロイベルグ>)自身。このあたりも原作を脚色。原作はローラという少女の一人語りなんだけれど、これが映画ではジョルジア(エルザ・マルティネリ)という女性に置き換えられて、彼女の婚約者・レオポルド(メル・ファラー)を、この二人の女性が奪い合う展開になっている。
 カーミラはこの争いに敗れて、失意のうちに先祖のミラーカの墓に赴くのだけれど、ここでかつての吸血鬼の悪霊に乗り移られる……ということになるのだね。「表面的」には。
 「表面的」と言ったのにはわけがあって、実はこの映画、明確な吸血シーンは全くないのだ。
 カーミラが「血が欲しい」と言って召使の少女を追いつめる。迫るカーミラのアップで画面は切り替わる。あとで崖から転落して死んでいる少女が発見され、首筋に傷が残っていることが確認されるが、「崖から落ちた時に付いたのだろう」と判断される。
 作男は、森で「自分の体をすりぬけて行った女の幽霊を見た」と騒ぐが、実際はカーミラは横を通りすぎただけだ。
 カーミラは自らの衣服についた血に恐怖するが、それは鏡に映った時にしか見えない(つまり、本当は血などついていなくて、それが見えるのはカーミラだけ)。
 つまり、カーミラが吸血鬼であった証拠はどこにもないのだ。主治医は、最後に判断し、レオポルドに告げる。「君が彼女の気持ちに答えなかったことが彼女を追いつめ、自分を吸血鬼だと思いこませた」と。即ち「吸血鬼」とはカーミラ自身の妄想だったというのである!
 しかし、カーミラは最後に語る。信じようと信じまいと、自分はこうして長い年月を生きて来たのだと。新婚旅行に旅立つ飛行機の中で彼女はそう呟いたのだ。ジョルジアのカラダに乗り移って。
 この結末も、心理学的には「カーミラを死に追いやった罪の意識から、ジョルジアは自分がカーミラ自身だと妄想するになった」ということなのだろうか。そう取れなくもない結末ではある。しかし、だとしたら女はなぜ永遠の命を夢想してしまうのか。それは女が「愛」という「無形」のものに自らの命を賭けているからだろう。少なくとも、カーミラとジョルジアという二人の女性に関してはそのようにしか見えない。
 ジョルジアは、カーミラがレオポルドを愛していると知りながら、「でも、私、カーミラのこと嫌いになれないの」と呟く。果たしてそれは真実の言葉であったか。もしや、無意識のうちに発せられた勝者の余裕の発言ではなかったか。
 その言葉を聞いたカーミラがどのような思いに駆られるかを想定すれば、到底口に出せないはずの言葉であるからだ。
 一つだけ、「吸血鬼=妄想」説に疑問を抱く余地のある描写があった。カーミラの持ったバラが、一度だけ色褪せ、散ったのだ。……これだけは「妄想」では片付かない。それとも、これはただの偶然なのだろうか。

2001年06月07日(木) MURDER IS EASY/『詩的私的ジャック』(森博嗣)ほか



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