無責任賛歌
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2004年04月23日(金) |
今度の『コナン』は覚悟しろ!&「Aemaeth賞」受賞。……って私!? |
今日もまたチックと戦いながら仕事。 いやもう、溜まった仕事片付けるためにほぼ一日、トンガリさんの隣で仕事してたから(~_~;)。 もちろんその間、トンガリさんは独特の言葉遣いでずっと話しかけてくるんである。 実を言うと、この日記では意味が少しでも通りやすいように「意訳」して内容を紹介しているが、このトンガリさん、意味不明な言葉をしょっちゅう喋っているのである。 例えば、いきなり「おうちはいかがですか?」なんて聞いてくるので、初対面のころは、いったい私の家のことをこの人はどうして気にするのだろう、と不審に思っていたのだが、この「おうち」というのは、「あなた」と同義で、つまり挨拶のつもりで「あなたの今日のご機嫌はいかがですか?」と言っていたのであった。「おたく」と似たような使い方らしいが、あまり知らない用法である。どこかの方言なのかもしれないが(って、地元の人のはずなんだが)、少なくともこんな言葉遣いする人は職場にはほかにいない。こういう「この人だけが使っている用語」がやたら挿入されるので、意味を理解するのがかなり難しい。 更にはやたら言い間違いや用語の間違いが多いので、その点でも同僚はみんな、この人が何を喋っているのか意味を汲み取るのに手間がかがって苦労させられているのである。今日も「担当」というのを「担任」と言い間違えていたので、「担任」って誰やねん、ここは学校とちゃうぞと苦笑させられた。 たいていの場合、この人の喋る内容は、やたらと長くダラダラと続く。「こんなことを申し上げるのは余計なことかもしれませんけれど、また○○(トンガリさんの名前。自分のことを名字で自称するのである)が要らないことを言ってると思われるかもしれませんけれど、これもおうちのためだと思いますからあえて申しますが……、」と前置きがやたら長い。 短く喋るときもあるのだが、そのときは主語や目的語が省略された(そんなことはわかっているだろうと思いこんでいるのだろう)意味不明な言葉が多いので、これも意味を想像するのに骨が折れる。まあ、普通の人でも、「困りますねえ」とかいきなり声をかけて来て、何が困るんや、と相手をビビらせるというやり方をしないわけではないが、この人の場合、そのあと何を困っているのか言わないで、そのままスッと去っていったりするものだから、「だから何を困ってるの! 一人ごとかい、今のは!」ということになってしまうのである。 それから、あとは「解読不能なメモ」。これも今日の出来事だが、私の机の上にメモが置かれていて、ヒトコトただ「規則」と書いてある。いったい何のことやら全く見当がつかず、これは私が何かのルールを破りでもしていて(身に覚えはないが)、そのことを注意でもしたいのかと思って、首を捻り、さすがにこれはどうにも解読できずに、仕方なく「どういうことでしょう?」と本人に聞いてみた。そのときの返事もかなり意味不明で、読解するのにひと苦労したのだが、要するに「パソコンのマニュアルを読んでおいてください」ということなのであった。……どうやら、「教本」の意味で「規則」という言葉を使っていたようなのである。それにしても、「何の規則か」書いてくれないと、意味なんか取れやしねえ。ともかく同僚がみんなこの人を避けているのは、「何が言いたいんだか分からない」点が大きい。 でもねー、一番つらいのはねー、言葉遣いそのものよりもその内容がほぼ全て職場と職場の同僚と上司への愚痴と呪詛だってことなんだよね〜。 「こちらに勤めさせていただいて、初めは○○もいろいろと言わせていただいておりましたし、こちらにはこちらのやり方があるのであろうと理解はしておりましたけれども、だんだん○○も知恵がついてまいりまして、こんなことを言っても全て忘れられてしまうのだな、○○の言うことなど聞いていただけないのだな、言っても仕方がないのだな、と○○も学習いたしましたので、もう何も申し上げるつもりはございません」と前置きして延々と愚痴を言い始めるのである。 今日も出たくもない宴会に付き合いで出なきゃいけないことを仕事をしている最中の私の隣で延々と愚痴る愚痴る。だったら出なきゃいーじゃん! 「おうちならお分かりいただけるでしょう?」って、私だってわかんね〜よ! ……あなた、それをまる一日聞かされて御覧なさい、どんな気分になるか。 私も最初はこの人の言葉を「解読」するのに時間がかかったが、ヘタにある程度「解読し慣れ」てしまったために、「あの人のことは頼むよ」ということになってしまったのである。これもやはり意味不明な言葉を喋りまくる女房と長年付き合ってその言葉を「解読」してきた努力の賜物であろうか。しげに言わせると、「そりゃあんたが世間との『勝負』に『負けて』んだよ」ということになるのだが、当のお前がそれを言うか。 でも言葉の意味は解読できても、気持ちまでは理解できない。ココロの中で私は「助けてくれ〜」と叫んでいるのだが、その気持ちを「解読」してくれる人はいないのだ。 あああ、なんて楽しい職場(T∇T)。
ぶっくたびれはしているけれど、神経は高ぶっているので、仕事を終えたあとは眠いのに眼ぶたが閉じようとしないという疲れた状態。 迎えに来たしげと、姉の店まで散髪に行く。散髪してもらうのはしげだけの予定だったのだが、結局私も父からむりやり「散髪してけ!」と椅子に座らせられる。それはいいけど親父、客待ちにどでかくMEGUMIのカレンダー飾るのはやめてよ(~_~;)。 父親と例のイラク人質事件について、雑談。性格も考え方も親父譲りなものだから、意見はほぼ一致で、父ももともと自衛隊の派兵自体には反対だったのだが、あの三馬鹿に対してはかなり呆れていた。 「偏見かもしれんが、差別で言うとやない」と前置きして、父は「結局、北朝鮮のことがあるけん、アメリカの言うことば聞かなならんもんな。俺もそげんとは好かんばってん、自衛隊以外にイラクには行かれんめえが。それを人質になった人たちは何も考えとらんもんなあ」と憤る。 「本人たちはいいことしようつもりやろう、ばってん、あげん『正義』ば振りかざすのが一番好かん」 唐沢俊一さんは「裏モノ日記」で、彼ら三馬鹿への憤りの裏には大衆の、ええご身分やねえ的な「ひがみ」がある、と指摘されていたが、それが全くないとは言わないが、私自身は、それはかなり希薄なのではないかと思っている。ボランティア活動自体に反対する意図は父にも私にも、いや、世間の怒れる人々の大半にそれはさほどなかろうと思うからだ(いつも思うのだが、唐沢さんの周囲には「そういうことをロコツに感じさせる」下卑た人間が多すぎるんじゃなかろうか。職業柄、それも仕方がないのだろうが)。ネットをあちこち散策してみても、「あの3人に怒りは覚えるが、だからと言って中傷の手紙を自宅に送りつけたりするのは許せない」という意見もかなり見受けられる。 もしあの三馬鹿が、危険区域に無謀にも入りこむことをせずにNGO活動を続けていたとしたら、残された家族が「自衛隊撤退」を訴えた政治活動をしなかったら、ここまで世論が沸騰し、「自業自得」論が語られることはなかったはずだからである。 「自分が正しいことをしている」「いいことをしている」という思いこみは、一切の批判を拒絶する。マトモな神経の持ち主なら、彼ら三馬鹿を批判しつつも、それが自分にもはねかえってくる可能性を充分知っている。善意の虚偽性は自らを殺すのだ。だからこそ、彼らへの怒りは「公憤」となりえていると思うのであるが。
店を出しなに、近所のおじさんが私を見かけて、「随分スッキリされとりますなあ」と感心したように言った。最初、散髪したことを言ってるのかと思ったが、「前はなかなか立派な体格でござらっしゃったが」と続いたので、痩せたことかと気付いた。 けど、顔のデカさは変わってないので、「痩せた」というより「やつれた」という印象の方が強いのである。それに肉が落ちてるのは肩と腕ばかりで、腹は落ちてないんだよなあ(T∇T)。
そのまま、夜はキャナルシテイまで出かけ行って、映画『名探偵コナン 銀翼の奇術師(マジシャン)』を見る。 毎年毎年、どんどんどうしようもなくなってくる『コナン』映画シリーズであるが、今回のは特に最低を通りこし、見ている最中は脱力をはるかに越えてただひたすら「無」としか言いようのない境地でいられるほどのスバラシイ出来であった。これはもう、『アルマゲドン』とか『パール・ハーバー』の比ではない。制作者たちが何を作ろうとしているのかははっきりと見えているのだが、それが見事なくらいに「何も描いていない」のだ。この超絶脳天逆落とし大馬鹿三太郎ムービーの前では、「こんなの映画じゃない!」なんて罵倒すら甘く聞こえてしまう。ここまでひどいと、もう笑っちゃうしかないというか、世にこれ以外の駄作は存在しない、と断言してもいいくらいなのだが、私は既にこの映画を批評する言葉自体、失ってしまっているようだ(^_^;)。 隣に座っていた子連れの20代と思しいママさんが、見終わったあと、感極まったように「面白い! 面白すぎる!」と声をあげていた。口調から慮るに、「本気で」面白がっているのではないことは明白であった。いや、ある意味「本気」か。実際私もそう叫びたくなったしな(^o^)。ああ、この映画の感想、コンテンツの方にはどんな風に書いたらいいだろうか。 ともかくこの筆舌につくしがたい超ケッ作を見逃すのは一生の損である。みんなぜひ見なさい。
帰宅して郵便ポストを開けると、どこぞから書籍小包が届いている。 本を送られる覚えなどなかったし、送り先の会社にも見覚えがなかったので、どこぞのシューキョーの宣伝本か何かかと訝みつつ開けてみたのだが、中から出てきたのは、押井守著『イノセンス創作ノート』。 これは既に買ってるし、注文した覚えもなかったので、どこかほかの人への荷物が紛れこんだのかと、宛先を見てみるが(封筒を破く前に見ろよ)、間違いなく私宛てである。本の間に手紙が挟み込んであったので、表紙をめくってみて手紙を取り出そうとした途端、私の目はテンになってしまった。 こ、こ、こ、こ、これは押井守監督のサイン! 慌てて、震える手で手紙を読んでみる。
〉「このたびはイノセンス感想文コンクールにご応募いただき、ありがとうございました。公開後、短い募集期間にも関わらず、イノセンスと向き合い真剣な感想を文章にして、わざわざご応募いただいたことを深く感謝いたします。 あなたがお送りいただいた作品は、全作品を読んだ製作委員会のスタッフが特に多くの方に読んで欲しいと切に願うほどの作品でした。押井守監督も喜んでサインしてくれた直筆サイン入り関連グッズを贈らせていただきます。ご査収ください。」
イノセンス感想文コンクール。そう言えば映画を見た直後に勢いで書いた感想を、『イノセンス』の公式ホームページに「感想文募集」のコーナーがあったので、押井監督やスタッフへのエールのつもりで書き送っていたのであった。受賞することを考えて書いたわけではなかったから、そのまますっかり忘れていたのである。 慌てて『イノセンス』の公式ページを開いてみたら、発表は既に今月の14日に行なわれていた。私の文章は、確かに百選の中のNo,50に掲載されている(私のホームページの「黄泉比良坂電気館」にアップしたものを、字数の規定があるために一部カットしたもの)。 よく見ると、私のものには★印が付いていて(数えてみると29作品に★が付いていた)、「★Aemaeth賞★」という名前が付いている。これはつ、つ、つまり、なんか「賞」をもらったということ? あああ、賞なんて賞なんて、中学校のころ、H.G.ウェルズの『宇宙戦争』の読書感想文を書いて、校内コンクールで優秀賞を受賞、賞品として『二葉亭四迷・幸田露伴・樋口一葉集』をもらって以来じゃないか! 小躍りしたくなる気持ちを抑えて、前書きに書かれてある選考の経緯を読んでみる。
>「多様に感じることができる「イノセンス」という映画においては、応募作品に明確な順位をつけるというのは、ナンセンスであると判断し、順位はつけておりません。掲載された作品の順序は無作為であり、作品の優劣とは無関係であることをご了承下さい。ちなみに★印がついた作品は、製作委員会スタッフが、文章の技巧の優劣ではなく、特に多くの方に読んで欲しいと切望した感想文です。」
つまり、中身の優劣ではなく、「『イノセンス』って、こんな読み方もできるんだよ」っていう「多様性」を感じさせるものを選んだ、ということだ。私は日記でも何度となく書いていることなのだが、自分の文章というものに全くと言っていいほど自信を持っていない。今回書いた『イノセンス』の感想文も、勢いで書いただけのしろものだから、読み返すだに「こいつはつまり何が言いたいのだ? 『愛』を肯定したいのか否定したいのか?」と、その論旨の曖昧さに赤面してしまう。だから、決して「優劣」ではない、このような基準で自分の文章が選ばれたということがとても嬉しいのである。 ともかく、「映画」はいろんな見方ができるから楽しいのだ。賛否両論、毀誉褒貶、様々な意見が飛び交うということは、それだけ作品に力がある証拠であり、批評とは誉めるにしろ貶すにしろ、その作品の持っている「力」を引き出してみせることにその使命がある。当たり前の話だが、「主役」なのは批評の対象となる「作品」そのものなのだ。 ところが世の中には、作品の批評や感想を、自分を語るため、世間に自分を認めさせるための手段だと勘違いし、半可通な知識で「映画論」とやらをぶつ腐れた人間が山のようにいる。これは自己宣伝のために「映画」を利用しているだけであって、映画に対する「愛」に全くと言っていいほど欠けている行為である。 宣伝されるべきは「作品」なのであって、「自分」ではない。自己宣伝をあえてせずとも、そこに「魂」が、「愛」がこもっていたならば、自然、「自分」は表出されるものだし、「作品」を壊してしまうことにもならない。「イノセンス感想文」にはその「愛」に満ちた文章が多々あった。私のようにくどくもなく、すっきりと内容の伝わってくる文章や気の利いたものも多い。その中に私の駄文も並べてもらったことは、言葉を尽くせぬほどにすばらしい果報だと思うのである。 まあ、そういうことなんで、ささやかな受賞ではあるが、浮かれちゃっているのである。数少ない読者のみなさん、もしよかったらサイトが消える前にちょっくら覗いてみてくださいませ。↓
http://www.innocence-movie.jp/comingsoon/kanso.html
リンクの色、解りにくくてすみません。
2003年04月23日(水) メモ日記/顔面神経痛の夜。 2002年04月23日(火) くましげ。/DVD『紅の豚』(フランス語版)ほか 2001年04月23日(月) 駆けて行った白い雲/DVD『ヤング・フランケンシュタイン 特別版』ほか
2004年04月22日(木) |
映画トラブルあれこれ。 |
今日は仕事が糞忙しくて、帰宅が午後9時。 仕事の中身はもう書きたくないので、ほかのことをいろいろ書く。
今年は久方ぶりにダン・エイクロイドの出演する映画、ジョン・グリシャム原作の『スキッピング・クリスマス』が、日本にも輸入されることが決定しているが、この映画、クランクインしたばかりだというのに、ちと困ったトラブルに巻き込まれてしまっている。 でもなんかそれが実につまんない理由で、同時期に公開される予定のベン・アフレック主演の『サバイビング・クリスマス』とタイトルが似ているので、レイティング審査をするMPAAからタイトルを変更するように指導されたというのだ。 何か私にはこれがどうしてタイトル変更の理由になるのか全然理解できないのだが、タイトルが似てたらダメっていうんだったら、日本の一連の『愛と○○のなんたら』ってやつ、全部取りしまわれちゃわないか。第一、原作のタイトルは既に発表済みなんで、これを変えろってのはもっとややこしい問題を生みはしないか。何となくグリシャムを標的としたいやがらせのようにも思えて、ウラをいろいろと想像するとちょっと怖くなる。 なんだか、昔、マルクス兄弟の『オペラは踊る』(原タイトル・『カサブランカの夜』)が制作されていたときに、『カサブランカ』の制作会社であるワーナーがクレームをつけて、それに対してグルーチョ・マルクスが「賢明なる観客は、きっと、ハンフリー・ボガートとうちのハーポ・マルクスを見分けられることでしょう」と手紙を送って事無きを得たというエピソードを思い出したけれども、そんなふうに円満に治まらんものか。MPAAも、こういう下らんクレームをつけるヒマがあったら他にやることないのかと言いたくなる。 まあ、最終的に映画が完成してくれれば問題はないんだけれどね。
本家中田秀夫監督が監督することになったハリウッド版『ザ・リング2』に、前作でサマラ役を演じていたデイビー・チェイス(表記が変わったな。前は「ダヴェイ」だったのに)が出演しなくなったとか。アーレン・クルーガーの執筆した初稿に存在した生前のサマラが登場するフラッシュバックのシーンが、決定稿からカットされたためとか。 まあ、貞子っつーか、サマラは姿を見せない方が怖さは出せるから、この決定は悪くはないかもしれないけれど、前作の彼女の魅力は捨て難いものがあったから、ちょっともったいないなとは思う。でも本家『リング』シリーズも『2』以降はどんどん失速していったし、さて、ハリウッドリメイクがそれを越えられるかどうか。基本的にアレは一作こっきりにしといた方が面白いネタだと思うんだけどなあ。
友人から、あるサイトの日記に『カスカベボーイズ』について、お笑いな批評が載ってるぞ、と教えてもらったので覗いてみたのだが、なるほど、なんだかトンチンカンなことばかり書かれてある。 どうやら映画をあまり見たことはない人のようで、若い人が背伸びをしてモノを言おうとすると、乏しい知識を総動員して語るものだから、往々にして引用や例えが的外れなものになってしまうアレをやらかしてしまっているのである。 あの映画の中の世界を「時間が動かず太陽が中天に止まったままという明らかにペルシダ−を思わせる不条理世界」なんて書いているのだが、この人、本当にバローズの『ペルシダー』シリーズを読んでいるのだろうか。別にアレは地底世界ってだけで、時間がとまってるわけでも何でもない。「不条理世界」なんて表現は当たらないんだけれど、どうやら「不条理」という言葉の意味自体もよく分からずに使っているようである(それとも私の記憶違いであの世界は時間が止まってた世界だったのか? もう読んだの何十年も前なんで細かい設定忘れてるんだけど)。つ〜かね、映画の中の世界なんだから、引用するならほかにいくらでも適切な例もあろうに、『ペルシダー』ってこたなかろうよ。バスター・キートンの『探偵学入門』も見てないのだなあ、この人。半可通だとしても、かなり軽率な御仁のようである。 「悪役中の悪役たるジャスティス、彼は恐ろしくパラダイスキングを思わせる」なんてのも『クレしん』映画くらいしか見てないんだなあというのが丸分かりで、どうもジョン・ウェインすら知らないらしい。昔の映画をまるで見てないのは若い人の共通項みたいなものだから、もう今更責めたって仕方ないとわかっちゃいるのだが、『クレしん』映画を批評する例えとして『クレしん』映画を引用したって何の意味もないってことに気が付いていない。一応その人本人としてはこのあたりで『カスカベボーイズ』を誉めているつもりなのだろうが、阿呆が誉めると映画自体が阿呆に見えてしまうので、逆効果にしかなっていないのである。どうにも困ったちゃんである。 極め付けのトンチンカンな文句は次の一節である。 「ただ、どうしても私としてはこの映画を良作であると結論づけながらも、前作『ヤキニク』にシンパシーを感じざるを得ない。『ヤキニク』のごとく、シチュエーションコメディよりもギャグ映画を目指した作品は“映画”として“奇形”にならざるを得ず、その“奇形”こそが私のような人間をひきつけるのだ。同時に、それが『ヤキニク』があれほど世間の理解を得られない理由の最たるものであるのだけれども」 ああ、この人は喜劇映画を殆どマトモに見たことがないのに喜劇映画を語っているのだなあ、と脱力してしまった。「シチュエーションコメディ」に対置する概念は「スラップスティック・コメディ」であって、「ギャグ映画」などというものではない。説明するのも馬鹿馬鹿しいが、「ギャグ」は喜劇を成立させる要素であって、それはシチュエーション・コメディにもスラップスティック・コメディにも存在する。このあたりの用語の間違いも文意をかなり意味不明にしてしまっているのだが、更にアタタなのは、コメディが「映画として奇形にならざるを得ない」というくだりだ。この人はキーストン・コップスからバスター・キートン、ハロルド・ロイド、チャーリー・チャップリン以降のもろもろのコメディアンたちの映画を全て「奇形」と切って捨てる気なのだろうか。見てないからこそこんなことが言えるのだろうが、見ていてこんな発言をしているのであれば、これは相当な阿呆である。全くいったいいくつなんだ。中学生くらいか? この人。 前作『ヤキニクロード』が世間の理解を得られない、というのも、いったいどこの「世間」の話なのだろうか。昔から『クレしん』映画は認めている人は認めていたし、観客動員も決して落ちこんではいない。無知にもちょいと程があるというか、どうも自分の妄想だけでモノを語るタイプのトンデモさんのようである。 映画の歴史も知らず、映画自体もまるで見てないのは、その人がそういう巡り合わせだったのだろうから仕方がないとしても、そんなんでヘタに「映画論」を偉そうに語っているのがお笑いなのである。……にしても、ここまでの馬鹿はちょっと珍しいぞ。どこの馬鹿サイトか紹介してもいいのだが、往々にしてこういう手合いは粘着さんだから、逆恨みでヒレツなことをされてもめんどくさいのでどこかは書かない。 ネットが一般化して以降、こういうぱーぷーな猿言が横行するようになってしまったが、つくづく思うのは「日本にはもう批評は存在しえない」という小林信彦の箴言である。昔は高校や大学などでもクラブやゼミやサークルとかが少しは機能していて、阿呆な意見が飛び出してもセンパイたちからたしなめられていたものだったが、年齢不詳経歴不詳なネットからはそういう機能が全くなくなってしまった。 それはまあ、憂えるべき事態ではあるのだけれども、ネット上の発言は今や全て拡散して、一つ一つの意見は重みを失ってしまっている。こういう馬鹿な意見ばかりではなし、『カスカベボーイズ』に関しては快楽亭ブラックさんや唐沢俊一さんのようにプロの方がちゃんとした批評をしてくださっているので、我々はこういう泡沫猿言を目にしたら嗤ってやってればよいのであろう。 ……でもだからってわざわざ教えてくれなくてもいいんだけどな。
ここんとこ散々イラクの三馬鹿について書いてきたのだけれども、ネットの某掲示板に(^o^)彼らの住所が掲載されて、3人の自宅に大量の中傷の手紙が送られてきたとか(現在は札幌法務局の指導により削除ずみ)。多分その殆どは無記名で送られてきたものだろう。 あそこまでの馬鹿は近年つとに珍しかったから、弱いものイジメが大好きな日本人がいっせいに叩きたくなった気持ちもわからなくはないが、無記名の中傷の手紙は彼らを「被害者」に仕立て上げることになるから全くの逆効果である。批判をするならちゃんと記名入りで反論受ける覚悟でやんなきゃ。こういう「批判の尻馬に乗った中傷」をしたがる手合いは、結局は「自己責任」を果たしてはないわけで、あの三馬鹿以下の糞である。全く、人のことが言えた義理かね。 もちろん、中傷されてるからと言って、彼ら三馬鹿を擁護する気などサラサラないのだが、あれだけ堂々と批判できる相手に対して、何を陰湿な方法を取っているのか、馬鹿じゃねえか、ということなんである。まあこの日記読んでる人で、彼らんちに中傷メールや手紙送った人はいないと思うけれど、もしいたらアンタ糞だから蝿にたかられて死になさい。
仕事帰りに寄った紀伊國屋で買った、DVD『クレヨンしんちゃん 雲黒斎の野望』と『爆発!温泉わくわく大決戦』を見ながら寝る。この映画シリーズもコンテンツに書きたいこといっぱいあるんだけど、書き出したらキリがなさそうだから、手をつけるのが怖いのであった。
2003年04月22日(火) メモ日記/待ちぼうけの夜。 2002年04月22日(月) 全国の○○はみなアホか?/『てけてけマイハート』2巻(竹本泉)ほか 2001年04月22日(日) おしゃべりラブ/DVD『キングコング対ゴジラ』ほか
2004年04月21日(水) |
『イノセンス』、カンヌ映画祭ノミネート! |
イラク関係のこと日記に書き出してから、アクセス数がどんどん増え出して、一時期は一日百件近くも覗きに来られてしまった。たかが無名人のサイトにはちょっと過ぎた数字である。お客さんが増えるとまた心配性の某友人が「荒らしが来るんじゃないか」とか神経過敏になっちゃうので、まあその不安を取り除いてあげないといけないんだが(^o^)、ヒトコトで言っちゃえば「取り越し苦労だよ」ということである。 いろんなサイトをネットサーフィンしてて思うのは、基本的に「荒らし」なんてのは無名人のところには来ないということである。荒らしさんには荒らしさんのプライドらしきものがあるようで、噛みつく相手ははっきり選んでいる。「あんな有名人を怒らせてやったぞ」とか、「イタいねーちゃんをからかってやった」とかいうのは快感に繋がるが、どこの馬の骨とも分からぬ中年男の藤原某などと諍いをしたところで、誰かが注目してくれるわけでもない。かえって、そんなネットの隅の隅のかすっペたで下らん喧嘩をしているのを誰かに見られたら、馬鹿と阿呆が何かやってるとせせら笑われるだけである。それでは荒らしさんの自己顕示欲はいっかな満たされない。必然、無名人が「荒らしさん」に狙われる危険なんてのは殆ど考慮する必要もないのである(無作為に送られてくる迷惑メールの類は除く)。 つか、そんなん心配していたら、それこそ「何様のつもり」ですがね。どうも私の友人には私のことを過大評価してくれる人が多いのだが、自分がそんなたいそうな人間じゃないことは私自身が一番よく知っている。「もっと有名になってほしい」旨のことを何人かから言ってもらったことはあるが、中身のない人間がそこかしこに偉そうにしゃしゃり出たって、お寒いばかりである。人間、「身のほどを知る」ってことは大事だよなあとは、今度のイラク人質事件でも痛感したことだ。友人、知人に気にかけてもらえていること自体はありがたいことなのだが、疑心暗鬼に過剰反応して、自分がさも大物であるかのように錯覚してしまうようでは情けないだけである。結局、一番の「荒らし」対策は、「ネットで書きものをすることをやめる」ことだってことになってしまう。 でまあ、そうなったらなったで私にネットに対する執着はないことは何度か日記にも書いてきたとおり。荒らしさんが喧嘩売るには一番張り合いがない相手ではないかと思うんだが、それでもまだ友人諸兄は心配してくれるのであろうか。それに、人質解放で世の中もすっかりおとなしくなり(まだやっきになって騒いでるのはあくまで自衛隊撤退を唱えているサヨクくらいのものである)、昨日今日はもう、アクセス数が一気に40くらいまで減ってきているのである。新しく定連さんが居付いた様子もない。通りすがりさんがいきなり荒らしさんに変貌することなど、そうそうあるこっちゃないということである。 ま、これからもこんな感じで好き勝手書きはするけど、細々とやってくつもりなんで、私にあまり過剰な期待はかけないでほしいのである。
会議に出ないトンガリさんに対して、ついに上司が直談判をすると宣言。 宣言するのはいいけど、実行できるんかいな。相手はマトモな神経の持ち主ではないということは充分わかってるだろうに。もっとも上司がそういう態度を示すようになったのは、多分私が殆どトンガリさんとの渉外を担当するようになったものだから、上司として手をこまねいたまま、何もしないでいるわけにはいかないと判断したものだろう。 実際、トンガリさんとのやりとりを一手に引き受けるようになって以来、私がかなり疲労していることは周囲も気付いていることである。ここ数日、チックがまた激しくなっていて、ちょっとごまかしきれなくなっているのだ(仕事が終わった途端に痙攣が収まっちゃうから、原因はもうソレ以外にないんである)。 上司が本来の仕事をしてくれるのなら私は大いに助かるのだが、かえって傷を広げるようなことになりゃしないかと、それが心配なのである。願わくば、ホンモノの「傷」をつけあうような事態にはならないことを、ひたすら、切に。
夜、しげと待ち合わせて、キャナルシティで映画『ピーター・パン』。 ディズニーよりはマシだったけれど、原作を読んでる身にはちょっとツライものがある映画であった。しげがラストで私が泣いたかどうか、確かめようとして顔を覗きこんだけれど、私ゃつまらん映画では泣きません。 帰りにロイヤルホストで遅目の食事。だもんで注文したのはお粥。しげはステーキ膳を頼んだが、一緒に付いていたカキフライを要らないというので、それをおかずに食べる。これでもせいぜい500kcalくらいであろう。昼はカレーだったけれどご飯は残したし、一日で1000kcalくらいしか取ってはいない。 とりあえず、ずっと体重80キロを越える事態だけは避けられているし、体脂肪率も17%と、完全に正常値なのだけれども、東京行きまでにせめてあと1、2キロは減らしときたいのである。ずっと外にいるとどうしたって食っちゃうからねえ。
5月12日から開幕する第57回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に、押井守監督『イノセンス』と、是枝裕和監督『誰も知らない』の2作品が正式にノミネートされた。 ご承知の方も多いと思うが、カンヌを始め、国際映画祭のコンペというのは、推薦したから即ノミネートされるというものではなく、やはり事前に選考された上で出品が決まるのである。つまりは『イノセンス』は立派に世界に通用する「映画」として認められたわけで、こんな重畳なことはない……と言いたいとこなんだけど、審査委員長がクエンティン・タランティーノだから、ちょっとヒイキが入ってたんじゃないの? という気がしないでもないな(^o^)。 押井監督のコメントは実に淡々としていて、まるで宮崎駿のようである。 >「アニメーションのノミネートは、史上5本目だとか。日本のアニメが映画として認知されたことの証明だとするなら、喜ぶべきことだと思います。タキシードを着るのはイヤですが、これも監督の仕事です。行ってきます」 もっとも宮崎さんはベルリンのときはケツ割ってたけど。
2003年04月21日(月) メモ日記/南洋の夜。 2002年04月21日(日) えっちな話をしても中身は書きません/アニメ『サイボーグ009』27話 2001年04月21日(土) 帰り道涙道/映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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