無責任賛歌
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2004年04月17日(土) |
映画『クレヨンしんちゃん』とイラク人質事件解決(一応) |
今日あたりから、見たい映画が目白押しで公開。正直な話、今月から来月にかけては恒例の東京行きも控えているし、いくらおカネがかかるかわからないのである。ホントに毎日うどん生活するしかないなあ。 まずはこれだけは見逃してはならない、『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ』を天神東宝まで見に行く。第1回の始まりは10時から。確か去年までは休日は7時半なんて早朝上映やってたと思うんだけど、人件費や光熱費がもったいないってことにでもなったんだろうか。到着したのは9時20分。何でそんなに早目に、というのは今更で、相変わらずのしげのせっかちさんのせいである。まあど真ん中の席に座れたからいいけど。 『名探偵コナン』は2館上映なのに、『クレヨンしんちゃん』は1館のみ。まあそこで愚痴を言ったって仕方がないけど、なんだかなあ、映画のレベルと人気は必ずしも一致するもんじゃないとわかっちゃいるけど、『コナン』に「大人の鑑賞に堪える」なんてこと言うのやめようよ、『週間文春』。 お客さんの入りは天神東宝一番の大劇場での上映だから(一応実績は評価してもらえているようである)、200人くらいは入ってたと思うけれど、やや空き席が目立つ印象。思ったほどオタクな大人は目立ってない。初日の一番に来ないとは、福岡のオタクも薄いことである。今に始まったことじゃないけど。 子供嫌いのオタクって多いけどさあ、劇場に足を運ぶってのは、お客さんの反応を見たり、劇場での一体感を味わうってことにも重要な意味があるんだから。それがやれないと結局オタクは「引きこもり」って烙印を圧されちゃうのである。そこでまた「引きこもりで悪いか」なんてアホな開き直りはしないでほしいんだけどねえ。病気の「引きこもり」とは違う意味で使ってるんだから。 ワーナーマイカル大野城でも上映してるのに、わざわざ天神東宝まで足を運ぶのは、直営館だけあってグッズ類が一番充実してるからなんだけど、これも初日の第1番に行かないと売り切れも多いのである。こちらもさすがに子供掻き分けてゲットする訳にはいかないから並んで待つが、記念メダルはあっという間に売り切れていた。 しげの注文で、キーチェーン、お名前ワッペン、体操着袋、夕陽のバンダナ(^o^)、クリアファイルセットを買う。バンダナやら袋は芝居の練習の時に携行して行けるとしても「お名前ワッペン」って何に使うんだ、と聞いたら、二人ペアで名前を書いてカバンに付けようと言うのであった。カバンはさすがにアレなので、携帯に付けさせることにする。高いう時は女房に逆らっても無駄である。察せられよ、読者諸兄(T∇T)。 予告編は『ゴジラ FINAL WARS』の速報や『ポケモン』『ハットリくん・ザ・ムービー』など。香取慎吾、意外にうずまきほっぺが似合うが、特筆すべきは伊東四朗の出演であろう。しっかり「ニン!」とやってくれていたが、これだけでも見に行く価値があるというものだ。しげは「今の人にアレ分かるん?」と疑問視していたが、わかんないほうが悪いんである。もう最近は、昔のことを知ろうとしない若い人は相手にしたくないんだよね。だって、その気がない人間って、そもそもトシヨリと会話しようと思ってないとしか解釈できないんだもの。「教わる機会がないんだからしょうがないじゃん」って開き直るんだったら、もうオタクを名乗らんでほしいわ。 映画本編の感想はコンテンツの「映画の部屋」の方に書いたので、そちらをご参照のこと。ともかくお子さんたち、笑うだけじゃなくって、クライマックスの列車追っかけ(西部劇にはこれがなくちゃな!)シーンでは「うおおお!」「すげえ!」の大歓声。これまでの『クレしん』映画の中でも一番の盛り上がりだった。これをこそ劇場で味わわなけりゃウソってもんである。 しげはしんちゃんたち春日部防衛隊を評して、「あいつら幼稚園児のくせに言葉知りすぎ」と言っていたが、もちろん『クレヨンしんちゃん』は大人向けアニメだから、全然問題ないのである。ホントに勘違いしている向きが多いのだが、原作だってオトナ雑誌に連載されてる立派な大人マンガ、大人アニメなんだよ。子供には大人の楽しみを分けてあげてるだけなんだから、「子供でも楽しめる」と評するのが正しいのです。 しげはラスト、もうちょっと余韻がほしかったようだけれど、水島努監督は『ハレグウ』でもそうだけれど、感動させる直前で「引く」傾向がある。多分、日本映画的な愁嘆場に陥ることを嫌ってるんだろうと思う。
帰宅して、今日はうどんではなく、そばを作って食う。いや、しげが「そろそろうどんは飽きた」と言ったから。やっとかい。でもだったら冷蔵庫に買いこんだうどんはどうしてくれるのよ。 メールを確認するが相変わらず外人さんからはモテモテさんなのだけれど、また一通だけ日本人名前が混じってた。以下はその文面。
> どーも♪はじめまして彩菜です♪←ちなみに「あ・や・な」っ て読みます♪なんかの掲示板でおにーさんのアドレス 乗ってたからメールしてもた(^^ゞ急にメールして「何事?」 って思うかもしれへんけど、彩菜と会ってデートしてみません か?こういう出会いでドキドキ体感してみたいから。。。彩菜の感 でいい人って勝手に思っても〜てるし♪あー、ちなみに23歳に もなって派遣会社でのんびり働いてま〜す(゜ー゜;A ほら、 なんとなく寂しい時期ってヤツやから(-"-;A 迷惑かもやけど お暇な時間、彩菜にちょ〜だい♪いつでもええから気軽に連絡 してなぁ〜、待ってんで〜♪ ☆彩菜☆
なんかの掲示板ってどこの掲示板やねん。ネット始めてから他の掲示板に書き込みしたとこなんて、片手で足りるんだが。 けれどなんつーか、読んでるだけで虫唾が走る文章だなあ。 まず、「あ・や・な」って黒マルで区切って自分の名前を語ってる時点で殺意が芽生えますね、私は(⌒―⌒メ)。(←顔文字に殺意抱く人もいるでしょうが、私の文章って、固くて読みにくいという批判も多いんで、これは私なりの努力なんであります。それに「顔文字ないと気持ちがわかんない」なんて言ってた読解力のない情けない中年男性もいたんですよ)男がやったら気持ち悪くて仕方がないのに、女なら許してもらえてると思ってるあたりがねえ。23歳でそれかよ(まあ、トシも性別もあてにはならないけど)。 「おにーさん」と勝手に自分の方が若いと決めつけているけど、アンタ私のトシ知ってるの? どうやって知った? 馴れ馴れしさ&ナルシシズム爆発で気持ちが悪いったらない。「してもた」って関西人っぽく見せかけてるけど、「もうた」の「う」を省略するの、長音の野暮ったさを嫌う、ええかっこしいなんだよね。つかこれ、80年代の流行だったんだけど、お前本当はいくつよ!? 「ドキドキ体感」なんてカビが生えてウジがわいて腐臭漂うような言葉遣いにはもう脱力するしかありませんわ。 「みたいから。。。」なんて句点を三つも並べるなっ! 「彩菜の感」の「感」は「勘」だっ! 中学校行きなおせ! 派遣会社で働いてるやつはお前みたいにのんびりなんぞしちゃおらん! 何となく寂しいくらいで見も知らん他人に頼るなっ! 人を勝手に「暇」なんて決めつけるなっ! それにしても毎回思うことだけれども、こういうアホメールに引っかかるやつの心理って、どういうのなんだろ?
イラクで行方不明になっていたフリーライター安田純平さんと、NGOの渡辺修孝さんの2人も午前中に武装テロリストからバグダッドで解放され、日本大使館に保護されたとか。前の3人の親の馬鹿っぷりがあるものだから、今度の二人の家族はひたすら低姿勢。本音はいざ知らず、「自衛隊撤退」なんてアホなことはおくびにも出さないが、それが「常識」というものだろう。 これで一応、人質事件は解決したことになるけれども、前に解放された3人も含めて、今後オモテに出ることができる人間がどれだけいるものだろうか。 まあ見事に「馬鹿」の烙印を圧されてしまったお歴々である。もう一度NGO活動したいと言っても、あれだけ名前と顔を売っちゃったのだから、「普通の感覚を持っていれば」それはもうムリだということに気付きそうなものだが、これまでの「馬鹿言動」を聞く限りでは、あの脳天気ぶりは死んでも治りそうにない。ああいうボランティアに名を借りたナルシストのおかげで、「ボランティア」という行為そのものが胡散臭く見られてしまう結果になったのは全く残念なことだが、実際、表面的には自己満足のためにやってるやつと、本気で「仕事」としてやってるやつとの区別がつかないことが困りものなのである。 彼らに対する批判者も、どうしても「彼らの善意は認めるけれども」と、一定の評価はしなきゃならないという気にさせられてしまっているが、善意があること自体がそもそも大間違いなのである。「ボランティア」は絶対に「善意」を介在させてはならない。ボランティアは確かに無償の行為であるが、それはれっきとした「仕事」である。「人の命を助けること」それ自体が「報酬」なので、そのためには仕事を遂行するために何が必要かを冷静に判断する「能力」が求められている。「善意」はその能力の代わりにはならないどころか、「善意があればほかに何も要らない」と錯覚させる妨げにすらなる。 言ってみれば「ボランティア」とは一つの「技能職」であるので、今回の件で彼らはそのための能力がないと判断され、「免許」を剥奪されたも同様なのだ。二度とこういう「仕事」に関わってもらっては困る。ブラック・ジャックじゃあるまいし、無免許医に治療してもらいたいと願う患者がいるだろうか?
それにしてもどうも気になるのは、仲介役を買ったというイラク・イスラム聖職者協会のアブドルサラム・クバイシ師である。まあ、日本政府としては人質の解放に尽力してくれたのだから、感謝しなきゃならないんだろうけれども、言ってることがテロリストたちと同じ「自衛隊撤退」である。しかも、「今度の解放は日本政府の交渉のおかげではなく、人質たちがイラクのために尽くした者だから」とか「日本政府はまだ感謝の意を示していない」とか言って、日本政府を批判、そして「日本国民」に呼びかけているところもソックリである。「交渉のおかげでない」って、そりゃテロリストとの「交渉」自体を拒否したんだから当たり前ではないの。昨日も書いたが、この手の意見は「交渉を拒否されたテロリストたちが手詰まりになって仕方なく人質を解放した」という可能性を故意に無視している。 つまりはこのクバイシ師、実質的に犯人たちと「一脈」通じている訳で(だからこそ仲介役もできたんだろう)、あまり信頼してよい相手でもない。こういう海千山千、魑魅魍魎が跋扈しているようでは、「善意」だけの日本人エセボランティアなどは体よく利用されるだけだ。NGOは危険地域外であろうと、全員さっさとイラクから撤退した方がいいと思うが、する気もないんだろうな。
2003年04月17日(木) メモ日記/手抜きの夜。 2002年04月17日(水) オタクによるオタク否定/アニメ『ヒカルの碁』第二十七局/『学校って、なんだろう』(産経新聞) 2001年04月17日(火) どこまで続く死のロード/ドラマ『陰陽師』第三回『迷神』ほか
2004年04月16日(金) |
横山光輝の死。いったいいつまでこの訃報ラッシュは続くのか。 |
昨15日、日記を書いてアップした直後に、マンガ家、横山光輝氏の訃報を知る。まただ。こないだうちに遊びに来た知り合いが、本棚の『バビル2世』を取って熱心に読み耽ってるのを見て、ふと「横山さんも長くないかも」とか思ってたんだが、まただ。もうなんだか人生なんてどうでもいい気がしてきた。人はどうせ死ぬのだ。 闘病生活が長く続いていたが、寝タバコが原因で起きた火災のために全身をやけどして亡くなったという。なんでそんな下らん死に方を。なんでそんな苦しい死に方をしなければならない。やりきれない。どうにもやりきれない。享年69。遺作は未完に終わった『殷周伝説』か。 『殷周伝説』の「絵」は無残だった。闘病明けとは言え、全くと言ってよいほど閉塞線が描けず、目も鼻も口も線が震えていて、笑ってるんだか泣いてるんだか分らないような顔まであった。ストーリーテリングも、『三国志』以降は単調で、お世辞にも面白いとは言えなくなっていた。悲しいことだがマンガ家としては既に終わってしまっていた。 横山さんはある意味手塚治虫以上にマンガの「記号」に忠実だった人である。普通、「表現者」は定型を嫌う。複雑な人間心理を描こうとすれば、自然、表現は定型の中には収まりきれない。抑制されればその中で蠢き、それを破壊し、新たな表現を生み出そうとする。しかし、そんなことには全く無頓着だった。全く別のキャラクターなのに、喜怒哀楽の表情は全て同じ。あるのはせいぜい男と女、善玉と悪玉の区別くらいのものである。その意味では横山さんは全く「表現者」ではなかった。 にもかかわらず、横山さんのマンガに我々が熱中したのはなぜか。まさに横山さんのマンガが「定型」で、揺るぎがなかったからだ。 横山さんがストーリーやキャラクターを既存の作品から数多く拝借していたことは周知の事実である。それは模倣、というよりモロに剽窃と言ってよいものも多かった。けれど昔はマンガに対する目が今ほどには厳しくなかったから、特に問題になったことはない。だいたい剽窃と非難するなら、石森章太郎も赤塚不二夫も藤子不二雄も少なからずやっている。横山さんが非難されやすかったのは、そのやり口が余りにロコツだったからだろう。この20年ほど、横山さんは殆どオリジナルを描かずに歴史原作ものばかり描くようになっていたが、それは恐らく、世間のマンガに対する目が厳しくなって、安易な剽窃ができなくなったからだろう。 多分、横山さんに盗作の意識はなかったと思う。元ネタは小説が多かったから、マンガにした段階で「換骨奪胎になっている」と自己評価していたのではないかと思う。そしてそれはあながち間違いではなかった。横山さんの「定型の絵」に元のキャラクターが嵌め込まれることによって、小説の複雑なキャラクターは単純化され、陰影を失ったが、それがかえって「マンガ」としてはよかったのである。アーティストぶったマンガ家が陥りやすい「思想」とも「芸術性」とも無縁でありえたために、ただひたすら「面白い」マンガを量産することができた。超能力SFあり、破滅SFあり、ロボットものあり、忍者ものあり、歴史ものあり、中国もの、馬賊もの、青春学園もの、少女もの……。たとえ元ネタがあったとしても、これだけ傾向の違うマンガを描き続けた人もそうはいない。横山さんのマンガはどれも「堂々と」していた。盗作者の後ろめたさなど微塵もなかった。だからまあ、正直な話、山田風太郎には横山さんのことをあまり非難してほしくはなかった。薬師寺典膳と阿魔野邪鬼は、決して同一人物ではない。 私と同世代のファンなら、みな『鉄人28号』の絵をソラで描けるだろう。ハッキリ言ってしまえば、ライバル手塚治虫に我々男の子は、実は『鉄腕アトム』一本の恩恵しか受けてはいない。他の作品は『ビッグX』も『ジャングル大帝』も『W3』も『どろろ』も、好きではあったがその時々の「ナンバー1」ではなかった。しかし横山さんの『鉄人28号』は、『伊賀の影丸』は、『仮面の忍者赤影』は、『バビル2世』は、いつも「ナンバー1」であった。 『バビル2世』の出来の悪い続編、『その名は101』だって好きだった。尻すぼみに終わった『時の行者』や『狼の星座』だって好きだった。私にとっての横山光輝ベスト1は『マーズ』である。この作品では少年向けでありながら、横山さんはあえて「定型」をはずし、救いようのない終末を描いた。その意味では横山さんらしくないマンガである。けれどこれくらい横山さんらしい作品もない。横山さんにもやはり、「戦争」の影が色濃く残っていたからである。 何が腹が立つって、どの新聞もあのイラクの三馬鹿が解放されたなんて別にめでたくもないニュースを一面から三面まで大見出しで載せていて、そのせいで横山氏の訃報が本当に囲み記事程度の、新聞の隅に追いやられていることである。人間の格が違うだろうが。\(`0´)/。これがあいつら三馬鹿の犯した最大の罪だということには、ご賛同頂ける人は多いと思う。
で、そのイラクの三馬鹿、性懲りもなく当地に居残って活動の継続を希望しているとか。 小泉首相は「いかに善意の気持ちであっても、これだけの目に遭っても、これだけ多くの政府の人たちが寝食忘れて努力して、なおかつそういうことを言うのか。自覚をもってもらいたい」と強い不快感を示したというが、当たり前だろう。 これであいつらが使命感とかそんなもんで行動してるわけじゃなくて、ただのヒロイズムに酔ってるだけだってこともハッキリした。戻って来なくてもういっぺん向こうでとっつかまって今度こそ、とも思うが、まあ、帰国して非難の嵐にあってみて、その時またどんな糞馬鹿な口を利くか、聞いてみたくはあるな。
職場で同僚に「鷺沢萠、自殺だったんですね」と話したら、「でしょう? 普通、35歳で心不全で死にます? まあ、死ぬこともあるでしょうけど。でも自殺なら理由はなんだったんでしょうね。きっといろいろ悩みがあったんでしょう」と早口でまくしたてられて、しかも自己完結されてしまった。こっちが口を差し挟む余地なんてありゃしない。 まあ、自殺について陰陰滅滅とした会話をしなくてすんだから結果的にはよかったのだけれど、「残念ですよねえ」「そうですよねえ、これからの人だったのに」くらいのやりとりはして、ごく普通に悼みたかった、
晩飯はまたまたまたコロッケうどん。よく飽きないなと思われるだろうが、もうそれは言いっこナシである。 しげ、今朝方から落ち込みが激しく、「病院に行きたくない。行っても治らんもん」なんてこぼしていた。そういう心理状態の時こそ診てもらった方がいいように思うんだけれど、本人にその意志がないんじゃ仕方がない。 「行きたくないのなら無理して行かなくてもいいよ」と言ったら、口をへの字に曲げて「だって行かんやったらアンタが悲しむやろ」とまたふてくされた。どう声をかけても今のしげには無駄なようだ。こっちも疲れてばかりはいられないので、それでもう口を効くのをやめた。こうして夫婦の会話は少なくなっていくのである。どないしたらええものやら。
映画監督の今関あきよしが、携帯電話の出会い系サイトに「芸能人を紹介する」などと書き込んで知り合った中1の女子生徒を買春、逮捕された。 小粒な大林宣彦ってな感じで(つか、助監督やってるし)、作ってる映画はそう嫌いではなかったんだけれど、まあ確かに少女に拘りすぎてはいたな(^o^)。なんだかいかにもな人がいかにもな犯罪を犯したわけだけれど、これまでの主演女優さんたちの中にも毒牙にかかってた人とかいやしないだろうか。三留まゆみとか富田靖子のコメントを聞いてみたいものである。
2003年04月16日(水) メモ日記/冤罪の夜。 2002年04月16日(火) タコを求めて三千里/ドラマ『盤嶽の一生』第3回/アニメ『あずまんが大王』第2話 2001年04月16日(月) オー・ド・トワレ/『夜刀の神つかい』3巻(奥瀬サキ・志水サキ)
2004年04月15日(木) |
鷺沢萠の自殺と、人質解放 |
しげ、なんとか体調はもとに戻ったよう。けど、気分まではまだなようで、まるいちんちイライラのし通し。朝方、職場まで車で送ってくれたところまではよかったのだが、別れ際に「ウチに帰ったら少しは家事をしとけよ」と言ったら、「そんなヒマはない」と言い切って帰ってった。自分でただの寄生虫であることを認めるような発言をしてどうする。かなりアタマがイカレているのである。 でもあとで聞いてみたら、しげの仕事、いつもと違って今日は昼間だったのであった。だったらそう言えばいいのに、いつも表現が舌足らずだから何が言いたいのかわからないのである。
仕事を終えて帰宅したあと、買い物に「レッドキャベツ」まで行く。買い物ったって、また「うどん」なんだが。実はここしばらく麺つゆが切れていて、仕方なくサラダドレッシングを薄めて代わりに使っていたのだが、「酸っぱい」と評判が悪かった。だもんでちゃんとした麺つゆを買う。これでまたしばらくは「うどん職人」生活が続くことになる。まう好きだからいいけど。 帰宅して「うどんはどれくらいるか?」と聞いたら「少し」と答える。しげの「少し」はだいたい普通の人の一人前半である。うどんで言えば1.5玉か。私が0.5玉で、2玉作って分けるとちょうどいい。 台所でうどんを作りながら、「コロッケ何個入れる?」と聞いたら、しげ、即座に「2個!」と答える。でもそのあと急にモジモジしだしたので、どうしたのか聞くと、「少ししか食べんって言ったのに、『2個』って言ったから馬鹿にされるかと思って」 「だからそれがお前の被害妄想なんだよ。お前が『馬鹿』なのは今更だろうが」 ともかくしげは、こっちが思ってもいないことを勝手に思いこんで拗ねたり落ちこんだりヒス起こしたりするので厄介なのである。でもこのくらいはまだ序の口であった。きょうはいったいどうしたものか、しげのヒスは更に鬱陶しいくらいにエスカレートしてくのである。
しげがパソコンしている側で私がテレビを見ていると、しげ、突然立ち上がってツカツカとテレビの側まで歩いてくると、いきなりスイッチを切ろうとした。 私が、「何すんだよ!」と怒ると、「テレビがうるさい!」とキンキン声で言い返す。聞いた瞬間、何を言ってるんだこいつは、としげの頭を疑ったのは、うるさいと言われるほどたいして音を上げているわけでもなかったからだ。「別にうるさくないじゃん!」と言うと、「テレビから日本語の声が聞こえてきたらどうしても耳に入るやん。オレ、『1ヶ月で1万円生活』なんて聞きたくないんだよ!」と悲鳴をあげた。いくらアホなしげでも、普段はこんなことは言わないので、今日は明らかに常軌を逸しているのである。 「俺はお前がパソコン終わるのをテレビ見ながら待ってるだけじゃんか。何ヒス起こしてんだよ!」 「ヒスなんて起こしてないよ! そうやって待ってるから威圧感感じてヤなんだよ!」 それをヒステリーと言うのである。これはもう話しても無駄だと思ったので、「たいがいにしとけ!」と一喝して黙らせた。 こんなこともしげは今までに何百回も(誇張ではない)繰り返している。しげの記憶喪失は(比喩ではない)ここんとこかなりひどくなってきているので、自分が何をどう謝らなきゃいけないかもわからなくなってしまっているのである。こういうときにセルフコントロールをしてほしいからこそ神経科にも通って薬も飲んでるんだろうに、まるで効いていないのだ。 しげ自身、自分を持て余して「劇的に変わりたい」としょっちゅう口にしているのだが、変わりたいならどうしたらいいか、自分で考えなきゃいけないはずだ。けれど、しげの場合、そうして考えたことを片っ端から忘れてるから変化のしようがないのである。どうせ忘れるならヒステリーも一緒に忘れてくれたらいのに、なんでそれだけ覚えているのだ。全く都合のいい記憶喪失である。これじゃしょっちゅう既知外に絡まれてるのと何も変わらん。私は家の外でも中でも既知外に絡まれてなんぞいたくはないのだよ。
作家、鷺沢萠(さぎさわ・めぐむ)さんが、11日、心不全のため、東京都内の自宅で死去していたのを、知人が12日になって発見。享年35。父は作家の鷺澤祥二郎(公木龍太郎)である。 ホームページの日記を見ていると、ここのところずっと風邪に悩まされていたようである。体力が衰えていたところにもってきて、急激な発作に襲われたものか。やりきれない。ここのところの連続する訃報にかなりうちのめされてきていたけれど、とどめをさされた気分である。 若死にだけれど、もう35か、という印象が強い。デビューが18歳、高校3年生のときで、第一短編集『帰れぬ人びと』の巻頭に付せられている写真は化粧っ気もないのに瑞々しい美しさに輝いていて、小説を読む前からちょっと惚れてしまっていた。結婚前の話だから、女房に文句言われても困るが。その頃のイメージが定着していて、最近の『週間ブックレビュー』に出演している時の急激に老け込んだ表情などを見ていると、仕事、無理しすぎてるんじゃないかなあ、と勝手に心配していた。また私の不安が当たったようなものである。誰かを心配すること自体が不幸を呼ぶのかという迷妄にとらわれてしまいそうで苦しい。 若くしてデビューした作家には、常に「若い感性が」とか「透明感のある」とかいう形容が付いて回る。けれど処女作の『川べりの道』を私が一読して感じたのは、「なんて老成した文章だろう」というものであった。 女を作って家を出て行った父と、23歳の姉と15歳の弟との確執。少年は月に一度、姉に命じられて父の家まで養育費を受け取りに行くが、それは父に対する姉のささやかな復讐であった。父と愛人の家庭はそのために諍いが絶えない。少年は父に会いたいという気持ちと、自分が火宅を誘導している思いとの間で葛藤する。姉が引っ越しのどさくさになくしたと思いこんでいるガラスの器――それを父の家で見つけた少年は、こっそりと盗み出し、川べりに捨てる。 設定もそうだが、文章も乾いたハードボイルドを読んでいるような印象だった。最近の綿矢りさの『蹴りたい背中』の「軽さ」に比べたら、同じ十代の少女の文でも、鷺沢さんのそれは「切なさ」よりも「やりきれなさ」が漂う。主人公は十五歳の少年でありながら、こんなことを思う。 「あり余るほどの幸福のもとでしか生きていたくない。そう思うことはそれほど傲慢なことだろうか。そう思うことはいけないことだろうか。(中略)たくさんの人たちの顔が浮かぶ。何千人、何万人という「生きている大人たち」を思う。奴等は、今俺が思っていることなど超越してしまったというのだろうか。それぞれに何かしら意味や理由を見つけて――。そんなはずはない。そんなことがあるわけはない。奴等は『超越』したのではない、あきらめてしまったのだ。生きているのではなく生きながらえているのだ」 一昔前の十五歳なら、これくらいのことを考える力は充分あっただろう。大人への呪詛を真剣に語ることもできただろう。けれど、今時の若者の大半はこの程度のエネルギーすら持ってはいない。自分をそのように追いつめることから逃げるずるさは身につけているが。だから鷺沢さんの文章は私には「古臭く」感じられたのだ。今どき、こんな子供はいない、と思われた。けれど、それが決して非現実的に感じられないのは、その呪詛が作り事ではなく、鷺沢さん自身の叫びであったからだろう。 うまいな、この人、と思ったのは、少年がなぜガラスの器を捨てたのか、心理描写を殆どしなかったことだ。少年はただ、「これから夏が始まるのだ」と思うだけである。この結びの一文で私はまた鷺沢さんに惚れた。 鷺沢さんには、そういうほどよく「抑制された」作品が多い。ご本人はインタビューなどに答えて「マシーンのように書いていただけ」「全然オトナじゃない」と謙遜されていたが、人が時として行う衝動的な行動。それは本質的に描写それ自体を拒否する。そこでムリに描写を試みる者が失敗に陥るのだが、その愚から鷺沢さんは美しく回避していた。「機械的」と仰ってはいるが、それが鷺沢さんの自然体であったのだと思う。 実は鷺沢作品は、中学・高校の国語の教科書への掲載数が現時点で最も多いのだが、それはその「書かれざる心理」を読み取らせようとする教科書編集者の意図の表れなのだろうと思う。けれど書かれぬものは書かれぬだけの理由があるのだ。それをあえて表現させようというのは野暮の極みであると思う。日本の国語教育の下らなさを感じるが、思春期に鷺沢作品に出会えること自体は、現代の高校生にとっては幸せなことであると思う。時間があればコンテンツの方で鷺沢作品のレビューを書いておきたい。映画化された作品にも『大統領のクリスマスツリー』、『F』がある。 数年前『キネマ旬報』で連載していた映画エッセイ『スターはアタシの手の上で』も楽しみだった。ただひたすら哀しい。
ここまで書いたところで、新たなニュースが入った。警視庁の調べで、鷺沢さんの死因が首つり自殺と発表された。 なんでだ。 鷺沢さんを愛していた人は、たくさん、本当にたくさんいたはずだ。なぜそんな人たちの思いを踏みにじった。そんなに疲れていたのか。魔がさしたのか。 今更言っても仕方がないが、結婚に失敗して以来、どうしてずっと、一人でいたのだ。誰かと一緒に生きる道を見つけられないはずはなかったろうに。 このやり場のない憤りをどこに持って行ったらいい。
今日8時40分、イラクの放送局アルジャジーラが、武装テロリストに拉致されていた日本人の人質3人、今井紀明さん、高遠菜穂子さん、郡山総一郎さんが、ついにバグダッドで解放された、と報道。でも私ゃ善人なんかじゃないから、もちろん「おめでとう」は言いません。世間には喜びの声が上がってるらしいけど、何を「喜んで」るのか自覚してるんかね。状況は「いろいろと」かえって悪化してんだけど。 ここ数日、家族は世間の非難を浴びてすっかり「自衛隊撤退」を口にしなくなっていたが、これでまた喉元過ぎればなんとやらで同様のことを言い出すようなら、またぞろ馬鹿を繰り返すことになろう。マスコミが手薬煉引いて取材してくるだろうが、全部断ってノーコメントで通した方がリコウである。 なんたって、三馬鹿を拘束していた反米テロ組織は、「今回の解放は、日本人が自国内で自衛隊撤退をデモしたためで、日本政府が何かをしたためではない」と明言しているのだ。これでなおも「自衛隊は撤退すべき」と言い出そうものなら、テロリストの主張に同調することになる。まあ、そう表明したい人はすりゃいいけど。もちろんこんなのはテロリストたちのただの牽制で、これであの3人を解放しなかったら、自分たちの立場が不利になるからそうしただけのことだ。「自衛隊は撤退しない」と小泉首相が言い切ったからこそ、テロリストたちは途方に暮れ、彼らを解放するしかなくなったのである。でもそれが読めない馬鹿も世間にはゴマンといるんだろうなあ。ああ、やだやだ。 これから家族がやるべきことは、帰国したあの三馬鹿に謝罪をさせた上で、絶対「自衛隊撤退」を口にさせないことだろう。さんざん叩かれたんだから、さすがにそれくらいの知恵はついていると思う。ついてろよ、頼むから。 ……ああ、くそ、これでもう完全に「自衛隊、イラクからさっさと帰ろうよ」と言えなくなっちまったじゃないか。何が腹立つって、あの三馬鹿のせいでイラク派兵を肯定する意見に鞍替えしなきゃならなくなったことである。頼むからNGO、もう馬鹿をイラクに送らないでくれ。これで「拉致されても助かるんだ」なんて勘違いしたヤツラが続々乗り込んでいったら、また標的にされるぞ。自衛隊撤退とか直接的な要求が通らないと分かった以上、今後テロリストたちは「ただの報復」のためだけに誘拐、殺人を行うだろうから。 既に新たに、バグダッド郊外のアブガリブ付近で、フリージャーナリストの安田純平さんと、市民団体メンバーの渡辺修孝さんの二人が武装集団に誘拐されている。三馬鹿よりも、彼ら二人の身の方がはるかに危険なのである。そういう状況を作った原因はあの三馬鹿にある。両手を上げて喜んでていいのか。
2003年04月15日(火) メモ日記/探偵映画の夜。 2002年04月15日(月) 興奮する電話。でもアッチ方面ではナイ/DVD『エイリアン9』4巻(完結)/『楽園まであともうちょっと』1巻(今市子)ほか 2001年04月15日(日) My guest is my Lord/『まかせてイルか!』1巻(大地丙太郎・たかしたたかし)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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