無責任賛歌
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2002年04月17日(水) |
オタクによるオタク否定/アニメ『ヒカルの碁』第二十七局/『学校って、なんだろう』(産経新聞) |
今日もまた雨。 またぞろ「春は長雨」ってセリフが頭に浮かぶが、考えてみたらイマドキの若い子は、大島弓子の『綿の国星』の存在自体、知らなかったりするんである。 この日記にも、オタク的な知識だのが余り説明もないままに、ポン、と提示されること、よくやってるんだけど、本来なら、それがどういうものか解説をつけるべきかもしれない。田中康夫か(←昔、『なんとなくクリスタル』って小説書いて、当時のトレンディな用語にいちいち解説を自分でつけてたんだよー。ってな具合に解説がいるかなってことです)。 けど、そんなのいちいちやってたら、書く方もツライか読んでる方もツライだろう。しようがないんで解説は必要最低限に留めるように心がけ、できるだけ脚注のような形はとらず、文脈で内容が推し量れるよう、務めてきたつもりだった。
けど、世代格差ってのは私が想像している以上に大きい。 私たちの世代にとっては「常識」なモノが、ちょっと下の世代にとっては「存在すら知らない」ということが現にあるのだ。
先日も、ある濃いオタクな人と話をしていて、その人が「高野文子」を知らなくて仰天したことがある。 彼女の絵柄をご存知ない方は、北村薫ミステリーの表紙絵を数多く書かれている方だと言えばおわかりいただけようか。私はあの絵がほしくて、北村薫の本を集めまくった時期があるくらい、ファンだった(中は殆ど読んでない)。 80年代のコミックシーンを語る上で、彼女を避けて通るわけにはいくまい。単行本『絶対安全剃刀』中の「田辺の鶴」は、ある意味『綿の国星』以上の衝撃を与えてくれたと言っても過言ではない。老人が老人として登場せず、その精神性ゆえに童形に描かれる、というのは当時のコミックファンにはとてつもないショックだった。 先年公開された映画『金髪の草原』の大島弓子の原作も、この「田辺の鶴」の影響下にある。単に抜群の画力を誇るだけでなく、マンガ表現のスタイルを革新させた功績のある方なのだ。 その、オタクの人は、私より5、6歳年下なだけである。 にもかかわらず、ある意味大友克洋以上にその登場がショッキングだったと言ってもいい高野文子の存在を、全く認識していなかったのだ。そのこと自体が私には大ショックだった。 確かに超寡作な方で、これまでに出版された単行本も『おともだち』『ラッキーお嬢さんの新しい仕事』『るきさん』など数えるほどしかない。しかし、寡作だからといって、その存在が無視されてはならない人、というのが確実にいる。つげ義春を想起していただければ、私の言いたいことにご賛同頂ける方も多いと思う。
つまりは、マンガの世界も既に一オタクがフォローできないほどに拡散してしまっている、ということなのである。黒澤明もスタンリー・キューブリックも見たことがない自称「映画ファン」が存在するように、全てのマンガに通暁しているオタク、などというものは存在しないのだ。 実は私は、以前からオタク度を「濃い」「薄い」で表現することになんとなく違和感のようなものを感じていたのだが、それは「濃いオタクってどの程度なのよ?」ということだったのではないか。 先日見ていた『BSマンガ夜話』で、「日本のマンガってどんなの? って聞かれたら、とりあえず手塚治虫を見せておけばいい」という発言があったのを見て、あそこに出ているマンガに一家言ある方々でも、その程度の狭い認識しか持っていなかったのか、とショックを受けた。 手塚治虫の功績を認めるのに吝かではないが、マンガ好きがマンガの世界を一作家のそれの中に押しこめるような狭い捉え方をしてもいいものなのかどうか。
『クレヨンしんちゃん』がメジャーでない、という人は誰もいないだろう。 しかし、非常に濃いオタク、と私が思っていた人たちでも、「映画の『しんちゃん』は凄いよ!」と、この十年、何度となく語り続けたけれど、全くと言っていいほど耳を傾けてくれなかった。 その意味で言えば、彼ら彼女らが「私、オタクじゃないから」と謙遜するのは謙遜ではないのだろう。 しかし、メジャーであるがゆえに日頃『しんちゃん』を見ている人たちはその凄さに気づかない。「オタク」は初めから見ようともしない。だとしたらその「凄さ」を訴える人間はどこにいるのか? なんだか、江戸期に浮世絵がただのラクガキのように消費されていったのと同じような状況があるように思う。 私は「オタク」というのは知識ではなく「スタイル」だと思っている。基本的にオタクはディレッタント(趣味人)であるはずだ。 単なる知識の多寡ではなく(少なすぎるのは問題だが)、世間一般の人が見過ごし、打ち捨てて顧みないクズ、ガラクタの類。そこに光をあて、特殊性と普遍性の両方を見出す。それがオタクの本懐というものではないのか。
本当は私も「オタク」と自称したくはない。 知識自体が濃い方々に比べて圧倒的に少ない、というのもあるが、何より雑多な知識の一つ一つの特殊性と特殊性の間に連関性を見出し、そこに普遍性を持たせて大系化しようとしている唐沢俊一さんのような根気は私にはないのだ(唐沢さんはそんなアカデミックなことはしてないと否定されるだろうが)。 それでもあえて、「オレはオタクだ」と私が主張しているのは、オタクを名乗る者もそうでない者も、結果的には自らの偏狭さの中に閉じこもって、何かを発信すること、発信されたものを受け取ることを怠っているように思えてならないからである。
私のこういう「発言」自体、どのような意味を持つものか、充分に自覚してモノを言っているわけではない。でもだからこそ、どんな批判も受けた上で更に発言を繰り返していかねばならないのだろう。 雨を見ながら、そんなことを考えていたのである。
給料日前なので、極貧である。 どれくらい極貧かと言うと、現在、財布の中身が97円である。惜しいところで100円缶ジュースも飲めない。 しげに話すと思い切り笑われる。 「じゃあ、今日の食事はどうするの?」 「まだ買い置きのレトルトカレーとかがあるよ」 「私の夕食は?」 ……私がメシ代にも逼迫してるのは、そうやってテメエが食料ピンハネしてるせいだろうが、と文句がオクビまで出かかるが、グッとガマンして言わない。 言えばまた、「DVD買うのやめれば?」と切り返されるのがオチだからだ。 もちろんそう言われたって、更にこちらが「オマエもムダなダイエット商品買うの止めろよ」と反駁することもできるのだが、それ以上言えばもう、目糞鼻糞どころか泥沼になる。 ぶっきらぼうに「自分でなんとかしろよ、メシくらい」とだけ言う。
……でも、結局作ってやりましたよ。 とり肉に野菜ミックスを混ぜて甘酢で炒めて、丼にする。 「美味い美味い」とあっと言うまに平らげるけど、「肉が少ない」と文句を言う。作ってもらって、文句言うかなあ。 「オレ、家事しないし」のしげ、今日は珍しく洗濯をしたので、ちょっと威張っているのだ。
アニメ『ヒカルの碁』第二十七局「時々戻りたい場所」。 特番が続いてたので、『ヒカ碁』を見るのも久しぶり。作画も安定してるし、原則の構図も生かしてる。ううう、悩むぞ悩むぞDVD。 (ー’`ー;) ウーン。 あ、おかっぱ頭の金子さんだ。わーい♪ 佐為だアキラだ伊角だと、婦女子のみなさまがたが美形に靡くのはわかるが、同性にも暖かい眼を向けようぢゃないか(^.^)。やっぱ脇キャラ一人一人までイキイキと描かれてるとこに『ヒカ碁』の魅力はあるんだから。 それに、プロの世界に入って行ったとはいえ、囲碁部がヒカルの出発点になったのは確かなことだ。これから先、ドラマの中枢に絡んでくることはなくても、「ヒカルがいなくなった後も、囲碁部はちゃんと続いてるんだよ」というエピソードを描くことは、読者に安心感を与える意味でも必要なことなのだ。 金子さん、三谷を引き戻した立役者じゃないか。こういう重要なキャラもちゃんとヒイキしよう(^^)。 金子さんの声優の「くじら」さん、『ブルース・ブラザース2000』でもアレサ・フランクリンの声アテてたんだよな。押しの効くキャラと言えばこの人って定番ができつつあるみたいな(サム・ムーアまでアテてたぞ。男じゃん)。
夜、春風亭昇輔師匠から再びストラップについての問い合わせの電話あり。 うわあ、本当にご丁寧な方だなあ、正直言って頭が下がる(^_^;)。 もちろん、注文を受けているわけだから、確認をするというのは、当たり前の行為ではあるのだが、その当たり前ができない人間ってのが現実には多いのだよね。 私もそうだが(墓穴掘り)。 今日はしげ、在宅していたので、電話のベルが鳴った途端、「受話器取れよ」と言ったのだが、照れてるのか「アンタが出て」、と私に仲介させようとする。 そんなとこまで面倒見きれるか、人見知りにもほどがあるってもんである。 そう思って、ムリヤリ受話器を取らせる。 しげはもう、電話口での声が3オクターブくらい上がって興奮状態。 こういう時のしげの声って、ホントに声だけ聞くとすっげーかわいいのな。日頃私と喋るときはふてくされてドスの効いたヤクザ口調だってえのに。この声のせいで「有久さんの奥さんはすごくかわいいらしい」と誤解されたことがどれだけあったか。 ただのアホだよ、こいつは。 しげ、誰でもうっかりやっちゃうことだが、電話の相手に向かって「よろしくお願いします」とか言いながらアタマを下げている。 だから見えないっつーの(^w^)。 考えてみたら、しげはトンデモナイ悪筆なんである。「これこれこう、ストラップに書いてくれ」と書いて注文はしたんだろうけど、多分、「この字、なんて読むの?」と、困惑されたのではないか。 確認の電話をしたくなる気持ちもわかる。 実は、送ったファックスの字が読めなくて、ソルボンヌK子さんからも「なんて書けばいいの?」、と、問い合わせてきていたのだ。 そのファックスも見せてもらったが、「Dan Aykroid」という文字が、「Dan Aソkvoid」に見える。ムッシュもキツイおヒトのようで、「これ英語?」とか書いてるし(^_^;)。
そういえば、昔、しげが友達に送った手紙で、私のことを「太ってる」と書いてたけど、その字がどう見ても「たってる」にしか見えなかったな(確かに「た」は「太」の草書体だけど)。 どこが立ってんだよ、オレの(-_-;)。 日ペンの美子ちゃんに字を習え。
産経新聞「じゅくーる」取材班『学校って、なんだろう』(新潮文庫・500円)。 最近、教育関係の本によく目を通すようになってるけど、そりゃもうなんてったって、「学校五日制」なんて教育改革の大転換の時期に偶然巡り会えたからであってね。もともと私ゃ教育のことになんて全く関心がないの。 私が「国を憂えてるんじゃないか」なんてヘンな邪推は、決してなさらぬよう、読者のみなさまにはお願いいたします。 歴史の真実を追い求める気なんて私にゃサラサラない。 というか「真実」なんてものはハナからないと思ってる。私が興味持ってるのは、常に「時代の様相」。あるいはヒトの生きざまなのだな。 正しいか正しくないかなんて、歴史だって証明できないよ。我々にわかることって、せいぜい「あのころはこうだった」という個人の見方の集積を確認するだけ。 その「集積」が時には一つの潮流を作ることがある。それに「歴史」という名前が与えられて記録されることもある。でもそれは決して「全体」になることはない。 「学校五日制」。 国の制度である以上、この「流れ」は「全体」であるように見える。けれど、その意味の捉え方がこんなに個々人間で乖離している現象って、おもしろくないか?
この本、平成8年に連載されたものの文庫化だけど、その後の変化なども大量に注として加筆してある。まさしく「教育の今」を問うている本なわけだ。 ここでは、現在の教育現場での苦悩を紹介しながら、たびたび「学校はその役割を終えたのか?」という提言がなされている。 ある学校はフリースクール化することで、不登校の生徒たちを受け入れようとする。 またある学校は、社会人として生活できるよう、学校の形態は変えないまま、生徒を学校に戻そうとする。 でも、その正反対のどちらも、「提言」に対する「答え」にはなっていないのではないか? 「学校なんて要らない」という答えを出せばすむことなのに、あえて「学校」という形態を変化させててでも残そうとするから、どこかにムリが生じてるのではないか。 思い切って、いっぺん、学校全部廃止して、入試や入社試験も全部抽選にしてみたらどう? 学力ないやつばかりの世の中になっても、案外、世の中は回っちゃうものなんじゃないかな。 なんか、世の中みんなで寄ってたかってキュウクツにしたがってるよなあ。 疲れませんか? そういうのって。(´。`;)ふう。
2001年04月17日(火) どこまで続く死のロード/ドラマ『陰陽師』第三回『迷神』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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