無責任賛歌
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| 2003年03月01日(土) |
パニック・イン・トキオまたはJ○A金返せ凸(`0´)凸/舞台『愛とバカユージ』 |
雨こそ降っていないが、朝からどんよりである。うう、今日はいよいよ東京行きの当日だってのになあ。 私もしげも、雨男・雨女とまでは言わないが、旅行中に雨に降られることは結構ある。私は土砂降りででもない限り、雨降り自体はそんなに気にならないのだが、ともかくしげが傘を差したがらないのが困るのである。雨で体が濡れるより、傘を差すほうが面倒臭くってイヤだと言うのだが、そこまでせっかちなのも周囲に気を遣わせるばかりだし、やめてもらいたいんだがなあ。
曇天を眺めながら、ふと、もう30年も昔のイヤな記憶を思い出してしまう。 小学校の修学旅行のバスの中、やはりそのときも雨に降られていた。篠突く雨、というほどではないが、外を出歩くのにはやはり躊躇せざるをえない程度の降りだ。何気なく、「ぼく、外に出るとよく雨に降られるんだ」と呟いた。 途端に、前の席にいた友達が「こいつ、雨男だ!」と叫んだ。全員ではないが、結構な数のクラスメートが、私の方を振り向いた。その目はみな、私への非難の色に満ちていた。 まあ、私もクラスの中であまり好かれていた方だとは言えない。昔からリクツっぽく、歯に衣着せぬモノイイをする方だったので、「でしゃばり」と見られていたのは確かだからだ。 しかし、私がそのとき驚く、というより呆然としてしまったのは、雨天のためにいくら不自由を強いられているとは言え、その憤懣を「雨男」などという非科学的な迷信に帰結させて誰かに責任を取らせたがった、その心理にである。私に対して「ナマイキなヤツ」という印象を持っていたとしても、そんなくだらない、明らかに偏見としか言えない理由で人を憎める、というのが私には信じられなかったのだ。 そのときの私はどう反応すればよいか分らず、ただ俯くしかなかったが、「雨男だ!」と叫んだ友達も私が悔しがってるとでも判断したのだろう、それ以上はからかうことをしなかった。 オトナになって、人には自らを慰めるための「偏見」もまた必要なのだなあ、と思うに至って、あのときのクラスメートたちの理不尽な視線も許せるようになった。まあ、怒ってたわけではないから。 それ以来、ずっと許し続けてる気がする。
「私は天気を自由に操れるんですよ」と称する人と知り合いになったことがある。 「明日の天気を自由にできるって言うんですか?」 「できますよ」 「それは何かこう……念力とかで?」 「ええ。信じないんですか?」 「いえ、信じる信じないではなくて、どうしたらそういうことができるかなあって……」 「やっぱり信じてないんですね。そんなことはありえないって頭から否定するんですね」 「……ああ、泣かないで下さい。凡人にはなかなかそういうことは信……ピンとこないものですから」 「じゃあ、信じてくれるんですか?」 「明日、ちょっと遠方に出る用事があるんですが、晴れにできますか?」 「『できますか』って……やっぱり信じてないいい!」 「ああ、信じます信じます。明日、晴れにしてください」 もちろん、次の日は雨であった。一応、その人を信じることにして傘を持っていかなかった私は、ぐっしょり濡れネズミになった。 そしてさらに翌日。 「昨日はどうでした? 雨は降らなかったでしょう」 「ええ、降りませんでした。ありがとうございます」 直前まで、正直に「思いっきり濡れちゃいましたよ」と言おうかどうか迷ったのだが、その人の顔を見たら、何も言えなくなった。
なんだか、雨に関してロマンチックな思い出がないなあ。
午前中は大仕事。12時には終わる予定が、長引いて1時を回っても全然片付く気配がない。 飛行機の出発時刻は2時半なので、このままでは乗り遅れてしまう。気ばかり焦るが、焦ったところでどうにかなるものではない。ようやく仕事にひと区切りをつけて、職場を出たのが1時半。外はやはり雨になっていた。 バスを使っていては、到底空港に間に合う時間ではない。しげは空港でいい加減、痺れを切らせているはずである。 携帯の電源を入れて、着信記録を見てみると、やはり3度ほどしげから連絡が入っている。怒ってるだろうなあ、と思いつつも、連絡を入れないわけにはいかない。しげの携帯番号を震える手で押す。 「ああ、しげ? やっと仕事終わったから」 「……ああ」 しげの声、心なしか元気がない。でもなぜか怒っている様子でもない。 「今からタクシーすっ飛ばすから」 「ああ」 「大丈夫だよ、間に合うよ。駆け込みにはなると思うけど」 「ああ」 ……確かに反応がおかしい。気が抜けているというか、上の空と言うか、そんな感じだ。しかし、今は疑問に頭を捻っているヒマはない。とにもかくにも、ただひたすら空港を目指すしかないのだ。
拾ったタクシーの運ちゃんが、私の「急いでください」の越えにお気楽に「(1時)40分には着きますよ」と答える。「えっ? 40分もかかるんですか?」と聞き間違う私。「いえ、10分くらいで着きますよ」と言って運ちゃんは時計を指差す。私も相当焦っているのである。 ぴったり40分には着かなかったが、45分過ぎには福岡空港に到着。港内に駆けこむと、丁度そこにしげがいた。 息せき切りながら側に駆け寄って、声をかける。 「搭乗手続きはした?」 うなづくしげ。 「じゃあ、急いで行こうか。もう乗りこまんといかんやろ」 「まだ乗れんよ」 ようやくしげの表情がヘンなのに気がついた。いつもヘンな顔だが、それがどうももっとヘンなのだ。 「出発が遅れてるの? 雨のせいか?」 「違うと。コンピューターのシステムエラーで、全然飛行機が飛んどらんと」 「はああああ?」 「あんたに連絡しても全然繋がらんし、帰ろうかと思ったけど……」 そう言って、しげは、ごそごそとチケットを取りだした。 「予約しとったのは4時過ぎにならんと飛ばんのよ、だけん、一つ前の便に切り替えてもらった」 その「一つ前の便」も、本当は12時40分に出発の予定が、2時40分に遅れているとのことである。しかし、決して今日の芝居の公演に間に合わない時間ではない。4時なら絶望的だが。 多分、慌てて前の便に切りかえた客もほかにたくさんいたと思われる。殆どの便が飛んでないとすれば、そうそう座席に余裕があったとも思えない。飛行機が欠航、と聞いた時点でしげ、すばやく席を確保したのだ。 これが普通の人間なら、「おお、よくやったじゃん」のヒトコトですむところである。しかし、ここで機転を働かしたのは、あのしげなのである。血の巡りが人より五倍は遅い、しげなのである。結婚以来、いや、出会ったその日から数えても、ここまで臨機応変に対応できたことなど一度もない。なんという奇跡か。私の脳裏にいきなり「花のワルツ」が響き渡った。 思わずしげを抱きかかえて、空港ロビーでフラメンコを踊りたい気分になったが、体力がないのでやめる。目線だけはしげに熱く熱く送っといたから、多分私の喜びに気がついてくれたことであろう。 搭乗手続きを済ませて、発着ロビーに移動。大荷物をそのまま持ちこもうとする私を見て、「手荷物四つも持ちこめないんだよ」としげが心配するが、無視。荷物を全部預けてたら、到着口でやたら待たされるのは経験済みである。第一、空港の係官も実際には3、4個の手荷物を持ってても文句はつけないのだ。 昼食を食べてなかったので売店を覗くが、これと言って食べられそうなものがない。サンドイッチ一つないのだ。仕方なく、フグのカマボコを買って、お茶で飲む。しげにも食うかと奨めるがクビを横に振る。とても落ちついていられないらしい。「もう間に合わんよ」とボソリと呟く。 「間に合うよ。オレ、こういうときの運は強いから」と慰めるように言うが、しげ、「ナニ根拠のないこと言ってやがんだこのクソオヤジ」といった目で私をギロリと睨む。どうも気休めが通じる心境ではないらしい。 離陸予定の2時40分を過ぎても、搭乗カウンターは閉鎖されたまま。「搭乗予定の飛行機が到着」とだけアナウンスが流れたが、今、飛行機が着いたばかりなら、点検でまだまだ時間がかかるはずだ。 スチュワーデスが無線を片手に行ったり来たりしてるが、聞こえる声は「まだ準備中」とか「お子さま連れだけ先に」とか、希望に繋がるものではない。しげの顔がますます暗くなる。 ようやく搭乗できたのが3時。機内アナウンスで機長が「1時間10分で東京に参ります」と、いつもより猛スピードで飛ぶことをアピール。「遅れてすいません、許してえな許してえな」ってことが言いたいんだろうが、必ずしも低姿勢に聞こえないのは日頃空飛んでて人間を低く見てるのに慣れてるせいか。そんなアホなことを考えてしまうのも、私の心が疲れているせいであろう。いつもは飛行機に乗ると必ず機内放送で落語を楽しむ私も、今日は音楽ひとつ聞く気になれなかった。 しげは席に着くなり、着かれきった顔で寝息を立て始めた。夕べも仕事で、多分まる一日くらい寝てないはずである。 芝居を見終わったら、ホテルでぐっすり眠れるから、今はゆっくり寝てなさい。……と言いつつ、私も寝る。おかげで二人とも、機内サービスのジュースを飲み損ねたのであった。
羽田到着、4時20分。ホントに1時間10分ほどで着いた計算になる。がんばったな機長。翼がやたら軋んでて、空中分解するんじゃないかと、ちょっと怖かったが。 しげ、着陸の案内に目覚めて、「寝とった……」と呟く。目をつぶって、そして目を開けたらもう福岡から東京に移動してしまっていたような感覚か。 しげが相当腹をすかしていたので、まずは空港のレストランで食事でも、と誘う。定食が1500円くらいするが、東京のしかも空港内ならこんなものだろう。 しげは食事中もまだ、芝居の時間を気にしているようだったが、自嘲するような口調で「どうせ最前列はもう無理だろうから、ゆっくり行くんでいいよ」とちょっと泣き顔でブツブツ言っている。でも、モノレールから山の手線への連絡時間を計算に入れても、芝居のあるラフォーレ原宿まで、1時間もかかりはしないだろう。しげはいつでも悲観主義過ぎるのである。 と考えた私は楽観主義に過ぎたかもしれない。 モノレールに問題はなかった。浜松町から山手線に乗り換えて、ひと駅先の田町まで来たところで、突然、電車が動かなくなった。 「人身事故がありまして、山の手線はただいま復旧の目途が立っておりません」 思わずしげを見た。固まっている。トンカチで叩いたらそのままバラバラになつて崩れ落ちそうだ。 ああ、こうも悪い偶然が重なることってあるのだろうか。金田一か。 書いてる私自身、これをドラマにしたら絶対「リアリティがない」って突っ込まれるよなあ、と思うが、これは全て実話なのである。 何があったのかよく分らないイラン人だかインド人だかって感じの外人が喋りかけてくる。そんなもんを相手にしている余裕はない。首を横に振って無視すると、この外人、「ケッ、こいつ、英語もわからねえかよ」みたいな軽蔑のまなざしを向けてくる。そいつの後ろ頭をちょうど手に持っていたチェーンソーで輪切りにしてやりたくなったが、グッと我慢。今はともかく、少しでも先に進むことのほうが先決だ。 ちょうどやってきた京浜東北線に乗り換えて、大井町まで。そこから更にりんかい線に乗り換えて、大崎まで。そこでもう一度山の手線に乗り換えたところで、ようやく山の手線が復旧。 結局、ふた駅ほど遠回りしてもとに戻っただけのようだが、これでもただ待っているよりは5、6分は先に着けるはずである。今はその、5、6分が惜しい。時計はもう、6時を回っているのである。
ラフォーレ原宿に辿りついたのは開場の6時半ちょうど。傘をカバンの中から出すヒマもなかったので、駅からラフォーレの間の100メートルほど、二人ともずぶ濡れになる。なあに、どうせ会場に集まったお客さんの熱気で、こんなのはすぐ乾いちまうだろう。 入口には長蛇の列が出来ていたが、予約チケットの整理番号の通りに並んでいたので、開場時間に間に合いさえすれば、まあまあ前のところに並べるのであった。 開場して、たいていのお客さんがパイプ椅子に座っていく。でもよく見ると前に座布団がたくさん敷かれてあって、桟敷席扱いになっている。だったらそこで見たほうがいい、と最前列に陣取る。舞台を見上げる形にはなるが、多分、中村有志さんも前まで出て来てくれるんじゃないか。 それにここなら、靴を脱いでも怒られやしないだろう。
舞台『愛とバカユージ』。 舞台には幕はない。シティボーイズのみなさん他からの献花が舞台の両端に立てられているが、これがちょうど袖の役割を果たしている。 舞台の4ヶ所にマネキンが立っていて、中村さんが着るらしい衣装を身にまとっている。一人芝居だから、着替える様子も舞台上で見せてしまおう、という趣向なのだろう。イッセー尾形の舞台もこんな感じだ。考えてみたら、イッセーさんもゆーじさんも福岡出身。福岡出身者は一人芝居のスケッチをしたがる傾向があるのかな。
舞台が一瞬暗くなり、音楽とともに中村有志さん、いきなり全裸で登場。 と言っても、腰回りはバスタオルで隠している。そのバスタオルの中央が、急にムクムクと盛り上がってくる。 マジックの初歩、「ボールのマジック」をもじった、「ポール(^o^)のマジック」というところか。つかみのスケッチとしてはまあまあ。
続いて、「夫婦一人浴衣漫才」(適当なタイトルつけてるだけで、チラシにこんなことが書いてあるわけではありません。以下も同様)。右手だけを浴衣に通して、それを自分の相方の奥さんに見立てて、一人芝居をするのである。結婚する前の昔の彼女の話なんかをして、つねられたり叩かれたり、○○○○揉まれたりするのだが、こういう単純なギャグは、タイミングが上手くないと白けてしまう。その点、中村さんは安心して見られる。 どうやら今回の舞台、一貫したストーリーがあるわけではなく、様々なスケッチを手を変え趣向を変えて見せるのが主眼らしい。ちょっと前のシティボーイズと同じような構成だな。
一人二役による、オー・ヘンリーの『賢者の贈り物』のパロディ。貧乏な夫婦が、お互いに贈り物をしようとする。夫は自分の時計を売って、妻に櫛を買ってあげる。妻は髪をハゲにして、夫の時計のバンドを買ってあげる。賢者じゃなくて、「愚者の贈り物」って感じのオチ。話だけならつまらないので、これが笑えるのはまさしくゆーじさんの演技力によるものだ。 いや、笑うと言うより、引きつってたかな。なんたって、私ゃ、ゆーじさんが裸エプロンで「ああっ!」て号泣するのを真正面で見せられてんですから(^_^;)。
「仁義なき三姉妹」とでも題すべき今回最大の爆笑スケッチ。 三姉妹がマンションで拾ってきた猫を飼うかどうかってのを言い争うのだが、その3人を菅原文太、金子信雄、田中邦衛で演じるのである。名前はそれぞれ、広子、山子、槙子。広子と槙子はともかく、山子はねえだろ(^_^;)。もちろん、『仁義なき戦い』から取ってるわけだからそういう名前にするしかないんだが。 いやもう、どう面白いかって、こんなの説明のしようがないよ。ともかく「似てる」んだから。 最後に猫が死んじゃって、山子ねえさんが「わ、わしのせいやないで!」と叫びながら、それを無視するように広子が「何で猫が死んどるんじゃあああ!」と叫ぶあたり、マジで舞台に3人が同時に立っているように錯覚した。 上手い。
「呪いのサンダル」を履いたものが、次々と殺戮を繰り返す。 ホラーとコメディは髪一重ってところをゆーじさん、よくわかってらっしゃるなあ、と感心しちゃう、これも傑作スケッチ。 「カピターン、カピターン、カピターン、カピターン……」とサンダルの音がするたびに、その人は心の奥底に隠していた自らの邪な心を発露させてしまうのだ。なにより、滑稽と恐怖が見事に融合している擬音がスバラシイ。中村さんの言語感覚って、やっぱ凄いよな。
ラストは、イブニングドレスのゆーじさんが花びらを散らしながら歌い踊る「ひとり上手 韓国語」(^o^)。いや、韓国語かどうかよくはわからんが、そう聞こえたから。ともかくヘンな言語です。 で、私も、花を一輪、頂きました(^_^;)。
時間はほぼ1時間半。シティボーイズの芝居は2時間から2時間半が普通なのだけれど、一人芝居だと、この長さが限界なのかなあ。確かに、もう最初の10分くらいで、中村さんは汗びっしょり、時々飛沫がこちらに飛んで来ていた。でも、もう一つ、あと一つ、スケッチを見たくなるような濃い1時間半であった。
雨はまだ止まない。けれど今度はカバンの中から折りたたみ傘を出す余裕があったので、しげに差しかける。しげ、晴れ晴れとした笑顔で、ほんの数時間前までの焦燥ぶりがウソのようである。いったんは本気で東京行きを諦めていたみたいだから、よっぽど嬉しかったのだろう。 ホテルは渋谷の東急イン。芝居が意外に早く終わったので、辿り着いたのは、9時ごろ。チェックインして、まずはこうたろうくんに電話を入れる。今日いちんちがどれだけ大変だったかを報告。と言っても喉元過ぎればなんとやらで、つい、面白おかしく「もうエラい目に遭いましたわ」みたいな感じで喋ってしまう自分がちょっと情けない。明日の待ち合わせ時間を確認、寝過ごさないよう、モーニングコールを頼んだら、わざわざホテルまで来てくれるとのこと。全く、いいトシをして私も友達に甘えっぱなしである。 コンビニで食料を買い込み、マクドナルドで夜食を済ます。東京まで出て来てマクドナルドかって感じだが、渋谷の名物料理店なんて知らないんだから仕方がない。ヘンなところに入ってボッたくられるより、ずっと安全である。そのころには、今日一日の疲れが一気に押し寄せてきた。肩の重さを実感する。4個も荷物を持って歩きまわってたんだから当たり前だが。時間に遅れなければ、先にチェックインして身軽になってから芝居を見に行くつもりだったので、これも誤算である。 ホテルに戻って、風呂を溜め始めたはいいものの、ついウトウトしていたら、湯舟から湯が溢れてしまった。一応、風呂桶(バスタブって言えよ)に湯が溢れないための排水口はあったのだが、湯の勢いが強かったか、排水管の流れが悪くなっていたか、どちらかであったらしい。 慌てて、バスマットで床を拭くが、よく考えたら、こういうのもホテルの人があとで片付けてくれるのだ。どうも庶民ってやつはホテルなんてとこには泊まりなれてないから、こういう突発事態にはうまく対処できずにオロオロと焦ってしまいやすい。それとも私だけ? あとは、爆睡。(∪。∪)。。。zzzZZ
2002年03月01日(金) 福岡デパート事情/映画『吸血鬼ハンターD』(1985)/『20世紀少年』8巻(浦沢直樹)ほか 2001年03月01日(木) ダブルマインド/『ブギーポップ・パラドックス ハートレス・レッド』(上遠野浩平)
| 2003年02月28日(金) |
いきなり記念日/『なんだかコワレ丸』3巻(矢也晶久)/『デル・カント・バジェット』(坂田靖子)ほか |
三谷幸喜は一回潰れた方が勘違いが治るんじゃないかと思うが、でも治んないかもしれない。 もう全く期待なんかしちゃいないんだが、でもどれだけヒドイものができるか気にはなる、平成16年度のNHK大河ドラマ『新選組!』のことなんだけどね、主役の近藤勇が香取慎吾だって。これ、どう考えても三谷幸喜の引きだよなあ。NHK、反対しなかったのか。それとも、近藤勇を筒井康隆の『わが名はイサミ』の線で描くつもりか。あるいは倉本聰版『浮浪雲』にするの? 大河に限らず、テレビの時代劇がどんどん軽くなってく様子は、役者がいなくなってきてるんだから仕方がないことなんだけれど、それにしたって役どころをもちっと考えなきゃならないんじゃないか。 沖田総司は藤原竜也、土方歳三が山本耕史、芹沢鴨に佐藤浩市。これがホントの新撰組だったら、内部崩壊していったのも納得できちゃうな(^o^)。 だいたいみんな、殺陣ができるのかなあ。
職場の若い子の一人が辞めることになったので、お別れに何かプレゼントを、と考える。 仕事帰りに、博多駅で買い物をしようと思い、しげに「バス停で降ろしてくれる?」と頼む。 「どっか出かけると?」 と聞かれたので、隠さなきゃならないことでもなし、「ああ、職場の子にプレゼントでも、と思ってね」と言った途端、しげの声のトーンが急に、ズン、と低くなる。 「……その子、なに? 特別な人?」(←セリフにトゲを付けて読んでください) 「別に特別だとか、そんなことは何もないよ」 「じゃあ、なんでプレゼントとかするん?」 「したらいかんのかい。ウチを辞めるんだから、それくらいしても悪かないやろ」 「じゃあ、アンタは辞める子がいたら全員にプレゼント贈るんね」 「そりゃ、親しい人もいれば親しくない人もおるんやけん、贈るときもあれば贈らんときもあるやろ」 「不公平やん!」 「不公平って……どこが!?」 「だって、オレにはくれんやん!」 「オマエには関係ないやんか!」 「だったら、『今度東京行く記念』でなんかくれてもいいやろ!?」 「なんじゃそりゃ!?」 つまりはただの子供っぽい嫉妬なのである。オトナだったら、こんなことは恥ずかしくてとても口にできるものではない。 けれど、みなさんご承知の通り、しげという動物はマトモなリクツが通じる相手ではないのである。感情の赴くまま、欲望に身を任せて恥じることのないケモノなのである。それが証拠に、春先になると満月に向かってニャーニャー鳴いている(ウソ)。 泣く子としげには勝てない(この二者、殆ど同義だと思うが)ので、博多駅の「GAMERS」で、「トロのEメールスタンプ」ってのを買う。よくわからんが、ハガキを送ると、本人のEメールアドレスをスタンプにして送り返してくれるらしい。誰かに「Eメール教えて」と聞かれたらスタンプを押すだけですむのである。便利なんだかめんどくさいんだかどっちかよくわからんが、しげはトロが好きだし、これでなんとか噴火も収まるであろう。 でもこんなことでいちいちプレゼントなんてしてたら、何の記念で何をプレゼントさせられるかわからないのである。サラダ記念日どころかラーメン記念日もエビマヨ記念日もトウバンジャン記念日も作られてしまうのである。 ロマンチシズムに見せかけたリアリズムって、女の得意技だよなあ(T-T)。これに反発できる男ってなかなかいないと思うけど、自信のある男性、どこかにいますか。
しげ、何を考えたか、リンガーハットから餃子を山ほど買ってくる。 「水餃子にして食いな」 なんだか最近はしげがこうやって「買い物をしてきてくれる」だけで嬉しくなっちゃってるね。既に「料理を作ってくれる」なんてことは期待してない。 でも、問題はその量だよ。山ほどって、ホントに山ほどなんである。ざっと見て、100個はあろうか。……明日にゃ東京に行くってのに、今日作って今日食えってか。食えるか! と言いつつ、頑張って半分食ったよ。言われた通り水餃子にして。 で、しげはそれを手伝って食ったかというと、一個も食わないのだ。 「だって、賞味期限切れてるし(だから安売りしてたのである)」 ……ちょっと殺意を抱いちゃったんだけど、いけませんか。(⌒ー⌒メ) ピクピク。
明日の上京の準備、なんとか整う。ビデオカメラの充電もオッケー。 土産の類は極力減らしたが、それでも小さなカバンで四つほど。大きなのにまとめると重くなりすぎるのであるが、中間の大きさのカバンが見つからなかった。多分、押し入れのどこか奥の奥にでも隠れているのであろう。それを掘り出すほどの元気はなし。 ヨナさんご夫婦にお渡しする予定の、栗本薫アーリーデイズの原稿コピーを撮りに、近所のセブンイレブンへ。一般的に彼女が知られるようになったのは、1977年に第20回群像新人文学賞(評論部門)を『文学の輪郭』で受賞(中島梓名義)、そして翌78年に第24回江戸川乱歩賞を『ぼくらの時代』で受賞してからだろう。けれど、それ以前、1976年に、探偵小説マニアしか読んでなかったと思われるマイナー専門誌『幻影城』で、彼女は第2回幻影城新人賞佳作(評論部門)を『都筑道夫の生活と推理』で受賞しているのである。 有名になる前、彼女はこの『幻影城』新人作家が集まる「影の会」の紅一点として、エッセイなどを書いていたが、これらの殆どは雑誌に載ったきりで、未収録のままなものが多い(さすがにデビュー作の『都筑道夫』は『文学の輪郭』に収録しているが)。ヨナさんお二人は栗本さんのファンであるので(私は卒業しました。スミマセン)、今度お会いするときに持って行きます、と約束していたのである。 しかし、たいして量はなかったんじゃないかな、と思ってたが、そんなことはない。影の会の会報だけでなく、毎月の「ミステリ遊歩道」と言ったミステリ時評など、書くわ書くわ、この人の旺盛な筆力はデビュー当時からだったのだなあ、と読み返して見て改めて感心するのだ。こんな人の作品を昔は全作読んでやろうとか考えてたんだからなあ。ついでに言えば、赤川次郎もデビュー当時はそんなふうに思ってました。二人ともそれぞれ軽く100冊くらいは読んでると思うけど、もうどれも中身は殆ど覚えてません(~_~;)。 結局、コピーはひと束になる。かさばっちゃうし、こんなの持ってくのは逆に迷惑になるかなとも思ったが、あやめさんが「ほしい!」と仰ったんだから、頑張って重い荷物を抱えてもらおう(^o^)。 ヨナさんきっと、栗本さんにお会いしたときに、「昔、こんなの書いてたんですねえ、『ミステリ遊歩道』とか」なんて言って、栗本さんを苛めるに違いない。♪(((#^-^)八(^_^*)))♪
マンガ、矢也晶久『なんだかコワレ丸』3巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。 急に始まっちゃいました「十二天将」シリーズ、つまりはコワレ丸が平安の世で使っていた「式神」十二人の封印が破れてが開放され、それを再び自らの式神とするべくコワレ丸がゆうりを巻き添えにして……と、展開は今まで通りのお気楽ギャグなのだけれど、これまでにも登場させてきたキャラ、全員をまだまだ使いこなせてるわけでもないのに、3巻目にして増やし過ぎてるよなあ。 結局はこれ、コワレ丸とゆうりの関係だけをしっかり根幹に据えとけば、多少は話が横道にそれても構わないのだけれど、どうにも『うる星やつら』や『らんま1/2』以降の高橋留美子のぱたーん化した演出の悪影響が見えるのが気になるのである。最後には「巨大な敵」を出してきて、ゆうりがそいつに誘拐されて、コワレ丸が救いに行くなんて展開にはならんだろうな。十二天将もそのための伏線みたいに見えちゃってねえ、何となく興を殺がれてしまうのである。 ……でも、式神が全員「女」なのはなぜ?(~_~;)
マンガ、奥田ひとし『新天地無用! 魎皇鬼』4巻(角川書店/角川コミックスドラゴンJr.・578円)。 OVA第3期シリーズが製作決定だそうである。もう第2期の途中から見なくなってるから、どんな展開になってるのかよく分らん(テレビシリーズや映画版とも設定が違ってるしなあ)上に、このマンガ版とのリンクもいったいどうなってるのやら。もともとはOVAシリーズの後日談ということで始まってたはずなんだけどねえ(だからマンガ中に「鷲羽と魎呼が親子」って設定が出てくる。テレビ版にこの設定はない)。 この『新天地』のほうは、新たに多麻というキャラクターがレギュラー入りしちゃったんだけど、OVAのほうにも登場するんだろうか。それともまた世界が枝分かれしてしまうんだろうか。それとも「新」が付いてるのはもうパラレルになっちゃったって意味なのかな。 実のところ、既にこのシリーズ、最終回なんて作りようがなくなっている。っつーか、OVAの第2シリーズも、テレビの「新」も劇場版も全部「番外編」的な作りになっちゃってたしなあ。本気で「最終回」にするんだったら、「結局天地は誰とくっつくか」ってことを描くしかないんだが、今更それやっても無意味だし。だもんで、このマンガ版の方も、まるで完結編をほったらかして延々とインサイドストーリーを描き続けた某マンガのように、いつ果てるともしれない「日常の非日常」を語り続けてるんである。今回は魎呼の話、次は阿重霞、次は砂沙美、美星、鷲羽……というローテーション。いわゆる「偉大なるマンネリ」ってやつだが、それにしてもそろそろ限界じゃないのか。 だってさあ、砂沙美が未だにサンタを信じてるっての、話としてはいくらなんでも作りすぎじゃない?(^_^;)。
マンガ、坂田靖子『デル・カント・バジェット』(エニックス/ステンシル・コミックス・580円)。 こういう絵が描けたらなあ、と思う作家さんというのはそう多くはない。坂田さんのマンガを知ったのは多分『バジル氏』が最初だと思うが、そのときに「ああ、こういう絵が描けたらなあ」と思い、実際、マネをしてみたこともある。私の描くラクガキのベースはよく高橋留美子ではないかと言われるが、坂田靖子も実はちょっとだけ混じっているのだ。もちろん、吾妻ひでおとか石森章太郎とか永井豪とか、いろいろ微妙に混じってる人はたくさんいるんだが。 率直かつ客観的に言って、坂田さんの絵は、決して上手い部類には入らない。しかし、マンガの絵としてはとっても魅力的だ。 絵がどんなに上手くても、それこそ細密画のような絵を描く人のものでも、それだけでは「マンガとして」惹かれるとは限らない。いしかわじゅんが『アキラ』以降の大友克洋を「イラストレーターとしてはいいけどね」と語るのも分るのである。絵としてはヘタでもマンガ表現としてはすばらしい、というのがマンガとしての命なんであり、青木雄二がすばらしいのもそのためであるのだ。 で、青木雄二と比較しちゃうのは坂田さんはちょっとイヤかもしれないが、坂田さんの絵、線は単純だしよく歪むし、人物の描き分けもうまいこといってないのだ。なのに、その描き分けのできてないはずのキャラの区別が、坂田さんのマンガだとちゃんとつくのである。『カレカノ』とか『フルバ』とか、人物が増えるたびに誰が誰だかどんどんわからなくなってきてるのに、坂田さんのマンガの場合にはそれがない。 それはつまり、坂田さんがちゃんと「マンガ」を描いているからである。「キャラクター」が立っているからであり、「ドラマ」をキチンと描いているからなのである。
アンドレア・デル・カント。 宮廷の新任財務長官である(哲学者のエマヌエル・カントとは別人)。 有能なリストラマンとして大抜擢された彼の行く手を阻む者は、なんと城の屋根裏に住みついていた一匹の鬼。実直を絵に描いたようなカントの命令のもと、財政緊縮のために兵舎を追い出されてきた近衛師団に、暗くてカビだらけの心地よい住みかを大掃除されて大立腹。なんとしてもカント長官を失脚させようと、聖騎士団長でカントに恨みを持つペーターを操って、彼を暗殺させようとするが……。 筋だけ書くとシリアスっぽいけれど(でもギャグマンガでもない)、坂田さんの雲の上に乗ってるような絵柄だと、斬り合いのシーンですら巧まざるユーモアが漂う。鬼の陰謀を阻んでいるのは、カントの実力ではなく、坂田さんのこのほんわかした絵柄であろう。 それは、最終的に、鬼を倒したのがカントでもなく、ペーターでもなく、カントの親友の軍司令官でもなく、「あの人」だったということでも証明されていよう。読んでない人にはなんのことかわかるまいが、イヤ、実に人を食った結末なのですよ。
お江戸のほのぼのコメディー、染問屋のお嬢さん・お染さん(ストレートなネーミングだ)を主人公にした『卍急須』『両国サマー・デイ』『紅葉マンジュウ』の三本と、平安時代の貧乏姫をなんとかして嫁がせようとする乳母の奮戦を描いた『たぬき姫』も同時収録。女の子が主役になると、坂田さんも少女マンガ家なんだなあ、という感じがしてくるね。いや、失礼(^_^;)。 ああ、でも「悪い評判が立った娘はオタク男に押し付けよう」ってのはちょっとキツイぞ。乳母の「部屋の中まで入っておいてコレクションの解説かいっ! キスくらいしろよおめーは」って憤り、そりゃわかるけどさあ、オタクにゃキスよりナニより大切なことってあるのよ。
DVD「押井守シネマ・トリロジー/Dog Days After』。 ボックスの特典ディスクがこれ。 実写3作品のCD付き、映像特典も予告編や静止画資料だけでなく、新たに撮り降ろした「女たちの押井守」を収録。すなわち、これまで押井監督の実写作品にヒロインとして登場してきた兵藤まこ、鷲尾真知子、石村とも子、蘇億菁(スー・イーチン)の4人へのインタビューと、ロケ地となった山形や台湾を再び彼女たちに語ってもらうというなかなかの企画モノ。もっとも押井守嫌いには、女優さんたちがみんなで押井守を誉めたたえてるので、悔しくてハラワタ煮えくり返る思いをするかもしれない。 女優さんたちが喜ぶのは当然である。自分が役者として表現したいもの(それは必ずしも自らの美貌ではない)、あるいは自分は気づきもしなかった魅力、それを押井監督が彼女たちのカラダから、引き出し、映像として定着させた。 映画はクローズ・アップの芸術であると言われる。『紅い眼鏡』も『ケルベロス』も『トーキング・ヘッド』も、ドラマ的には極めて演劇的構造を持っていながら映画たりえているのは、彼女たちのクローズ・アップによるところが大きい。 押井守が彼女たちを撮るにあたって、できるだけ「近づかないようにしていた」というのは一つの見識である。押井守の目はまさしく「覗き」の視点で彼女たちを捉える。ヒロインたちのカメラを意識せぬ目、自分が覗かれているとは知らぬ目、だからこそ彼女たちの瞳は何か一つの意味に固定されないまま、喜びも憂いも全てを含んでいつつ、また何も見てはいないようなあるやなしやの幽玄の美をも表出する。 こういう絵が撮れりゃあ、どんなに「リクツっぽい」だの「同じ話ばかり撮ってる」だの批判されても、そんなの屁でもない。押井嫌いのそこのアンタ、文句があるなら女優だけ見ときなさい。映画には「そういう見方」もできるのだ。 押井さん自身は、このインタビューで自分のことを貶してほしかったらしいけれど、そうはならなかったみたいね。ホントに貶されると思ってたのかなあ。兵藤まこには「君のためにこの映画を撮ったんだよ」とか言ったらしいし。こんなこと言われりゃ、女優さんはそうそうそのカントクを貶せるものではないよな。意外と予防線張ってるぞ、押井監督。 ああ、でも、同じセリフ、オレもしょっちゅう劇団の女の子に言ってら(女房含む)。精神構造が似てるのか、もしかしたら(-_-;)。
2002年02月28日(木) つっよいっぞガ〜メ〜ラ〜/『モーツァルトは子守唄を歌わない』2巻(森雅裕・有栖川るい)ほか 2001年02月28日(水) せんと・おぶ・うーまん/『妖怪馬鹿』(京極夏彦・多田克己ほか)
| 2003年02月27日(木) |
彼、行くは星の大海/『フルーツバスケット』11巻(高屋奈月)/『てんしのトッチオ』(鳥山明) |
新聞をみてギョギョッと(つげ義春か)したのが次のニュース。 「ハウステンボス」が長崎地裁に会社更生法の適用を申請して、倒産しちまったのた。負債総額は約2289億円だと。開業からわずか11年。ちょっと早過ぎだねえ。 つい何日か前、タクシーに乗ってて、世間話しながら「リゾート施設もどんどん潰れてますけど、『ディズニーランド』と『ハウステンボス』だけは大丈夫でしょうねえ」なんて言ってたのだ。 大丈夫どころか、記事によると「約2250億円の初期投資が負担となり、開業時から赤字続き。バブル崩壊により、見込んでいた高級別荘などの販売不振も経営を圧迫。平成12、13両年の2度にわたり、現在のメーンバンクのみずほコーポレート銀行の前身、日本興業銀行(当時)から総額533億円の債権破棄を受けたり、13年には関連施設の「オランダ村」の閉鎖など、リストラ策を進めていたが、昨年秋以降も売上高、観客数とも大幅に減少、再建は軌道に乗らなかった」んだそうな。タダ券や安売り券を乱発してたのは知ってたけど、てっきり「余裕があるから」だと思ってたよ。だって、招待券で行ったヤツがリピーターになる率って、すごく低いと思うんだが。効果ないことしてどうすんの(-_-;)。 しかし、しかしだよ、売り上げ伸びずっても、今でも年間200億円は稼いでるんだよね、リゾート施設ん中じゃ、ディズニーランド、USJに継いで全国3位の売り上げなんだよ。それで維持ができないってのは、いったい何よ。1年間、維持するのに300億もかかるような施設を作ったこと自体に、問題があるってことじゃないのか。 「赤字のために新しいアトラクションを導入できなかった」ことも集客減の一因、ということだけれど、売り上げでなんとかしようってこと自体、考えが浅いよなあ。初期投資の段階で、そこまで資金集めとかないと経営自体成り立たないと考えなかったのかなあ。 でも、倒産したとは言え、そんじょそこらの遊園地とはワケが違うのである。再開発する余力だって、長崎県にはないのだ。是が非でもハウステンボスを再建する以外に方法はないのだ。運営はこのまま続けるということだし、まだ、遊びに行くチャンスは充分あるのである。しげもあそこのホテルには「死ぬまでにいっぺんは泊まる」と言ってるし、九州の発展に協力する意味でもそのうち行くことにするかなあ。 そう言や、知り合いでハウステンボスに就職してるヤツ、結構いるんだよなあ、みんな羨ましがってたけど、リストラ候補になんか挙がってないかなあ。
やっぱり宇宙って「遠い」んだなあ、という感慨(「広い」んじゃなくてってとこにご注意)。 かつての宇宙少年が、その打ち上げをキラキラ輝く瞳で見上げていた(別に現場にいたわけじゃないが)、あのパイオニア10号との交信がついに途絶えたのである。NASAが25日に「パイオニアの最後の交信は1月22日。地球から約122億キロ離れた地点からで、その後は何の信号も得られなくなった」と発表した。 打ち上げは1972年。それから31年になる。冥王星の軌道を越えたのは何年前のことだったか、太陽系を脱出するのでさえ、これだけの年月を要したのである。さて、他の星系に辿りつくのにいったい何万年、何億年かかるものやら。 地球外知的生命(ET)へのメッセージを搭載したことで有名なパイオニア10号だけれど、常識で考えれば、海に砂粒を投げて「誰か拾って!」と叫ぶようなものだ。こんな計画にオーケーサインが出たこと自体、日本だったらちょっと考えられないことだ(もちろん、惑星の様子を探査する目的もあったのだけれど)。 やっぱり、あちらの人たちは「奇跡」を信じているのかなあ、と思う。「神」を信じたいのかなあ、と思う。もし、この科学の時代にも「神」が実在するとしたら、それを宇宙の深淵に求めるしかないからだ。 子供のころは無邪気に「宇宙人がいたらなあ」と憧れていたが、NASAにも政治的、宗教的思惑があるのだなあ、と気づいたときから、私の宇宙開発に対する想いも半減してしまっているのである。 なんだかねえ、ずっと昔、彼女と一緒に行った海岸でさ、二人で貝殻に名前を並べて書いてよ、それを埋めてすっかり忘れてたのが30年ぶりに出てきたような恥ずかしさを感じちゃうんだよねえ。 いや、これはただの例えで、そんなことは全くしてませんが。
今日で「BSマンガ夜話」は最終日、取り上げられたのは、小山ゆうの『あずみ』。 みんな誉めるねえ。なんで? 小山ゆうのマンガ、ウチには結構あるんだけれど、これ殆ど全部、しげが結婚前から持ってたやつである。『がんばれ元気』『スプリンター』と言った代表作はもとより、『愛がゆく』とか『チェンジ』『いざ竜馬』『サムライ数馬』『風の三郎』なんてマイナーなものまで集めていたのだ。私は『おれは直角』しか持ってなかったのに。 それが、『ももたろう』で小山ゆうを嫌いになってからは、全然買わなくなってしまった。『あずみ』はちょっと面白そうということで買い始めていたが、これも飽きて読まなくなっている。しげが好きなのは「少年マンガ」の小山ゆうであって、青年マンガのそれではないのである。 でも私は小山ゆうには殆どと言っていいほど引っかからなかったので、『あずみ』も全然面白くないのである。従って、レギュラーやゲストの方々が口々に称える魅力というのが全くピンとこない。だいたいしかわじゅん、オマエ、「さいとう・たかをは擬音の字体を何十年も変えてない、これはマンガ家として怠慢」とかさんざん貶してたくせに、そのさいとう・たかをのアシストで、全く同じ擬音の字体を使ってる小山ゆうを貶さないのはなぜだ。私にゃ、マンガ表現としては『おれは直角』のころから一歩も進歩してない(逆に退歩している)としか見えない小山ゆうを口が裂けても面白いとは言えんぞ。 岡田斗司夫さんが「すげえマンガが始まったっていうんで読んでみたらホントに凄かった!」とすごく喜んでるけど、その連載第一回、二回を私も読んでるんである。なのに全然インパクトを感じなかった。っつーか、どんな始まり方だったか、今、思いだそうとしても全然浮かんでこない。それは多分、小山ゆうさんの描く時代劇マンガが、基本的に時代劇になってないからだと思う。マンガ、あるいは劇画の顔で、日本人の顔になってないんだよねえ。だから和服を着せても全然似合わない。ギャグならともかく、シリアスじゃあどうにも違和感だけが先に立ってしまうのだ。これは、師匠のさいとう・たかをも時代劇が描けなかったのと共通しているような。 でも、そういう視点では読んでないからみんな楽しめるんだろうなあ。映画の方は生身の人間が演じるから、どんなふうになるか一応見てみたくはあるんだけど。
いよいよ明後日はわざわざ東京まで芝居を見に行くのである。 さあ、今月はオカネが続くのか(^_^;)。 仕事を終えてそのまま空港に直行しなきゃならないので、もう今日のうちから準備しないと間に合わない。 ビデオカメラを持っていく、と私が言うと、しげが「なんで? 荷物になるやん」と文句を言う。 「記録になるからだよ。何十年か経って見てみると懐かしいやろ。オマエだって、オレが子供のころの8ミリ見たら喜ぶやん」 「だって、それはアンタが今ここにいるし」 いたらなんだというのだ。口をモゴモゴさせるばかりでハッキリとモノを言わないので、真意が全然わからない。要するに私がビデオを振り回す様子がみっともないとかそんな理由だろう。それにそのビデオにはしげは写っていても、私は写っていないのである。 だったら自分でも撮ればいいのに、それはしたがらないのだから、結局はただのワガママなのだよなあ。
マンガ、高屋奈月『フルーツバスケット』11巻(白泉社/花とゆめコミックス・410円)。 十二支の話はどうでもよくて、花ちゃんが好きで読んでるってのはファンの人から見たら叱られちゃうかなあ(^_^;)。だもんで、今巻が十二支も全員揃って、しかも慊人の正体もわかってって、一応のクライマックスになってるんだけど、私は「ふ〜ん」ってなもの。 なんだかなあ、『カレカノ』もそうだけど、最近の『花ゆめ』系マンガ、傷ついた男の子の心が乙女の優しさで癒されるってパターン、多くなってないか。男の作家が女にそういう理想<マドンナ>像を求めるのはまあ、男のサガだから仕方がないとしても、女の作家がそれを描くとどうも「自画自讃」的に見えてしまうのだよねえ。 もちろんヒロインの透は、ただの純情可憐なオトメではなく、なにか心に「闇」を持っていそうではある。けれど、最終的に十二支のみんなが、慊人や夾も含めて透に呪いを解かれ、救われるのだとしたら、それはただの宗教画にしかならないのではないか。透をマグダラのマリヤにすることは、すなわち、そこで語られる物語が「神話」に過ぎなくなることであり、結果として「人間」のドラマを喪失させることになる。 慊人は「神」を騙る。この「神」は、もちろん否定されるべき神だ。しかし、透は慊人を否定することなく、「救い」のみを考える。「総てから解放された皆さんが心から泣き心から笑える日が来るのならば罰が本当に下るとしても呪いを解きたい」。明かにこれはサクリファイスである。ここに「罰」の概念を持ち出してきさえしなければ、素直に感動できるところなんだけれどもなあ。 既にキャラクター出しすぎて、描き分けが難しくなって来てるし、ストーリー構成もあっちに行ったりこっちに行ったり。作品全体の魅力が随分薄れてきてるんだけれど、大地さんに続きをアニメ化してもらうためにも、失速しないで早いうちに完結させてほしいものである。……長引かせると破綻すると思うぞ、このマンガも明らかに「エヴァンゲリオンチルドレン」なんだから。
とりやまあきら さく・え『てんしのトッチオ』(集英社・1785円)。 帯に「鳥山明『絵本』に初挑戦!!!」と麗々しく描かれてるけれど、どこの本屋に行っても置いてあるのはコミック本コーナーで絵本の棚には並んでない。仮に絵本のコーナーに置いたとしても、さて、これが長く読み継がれるものになるかどうか。 絵本の世界は超々ロングセラーがザラにあることである。我々が子供のころに読んだことのある『ぐりとぐら』や『だるまちゃんとてんぐちゃん』なんかが、未だに絵本コーナーの真正面に並べられてたりしてるのである。もちろんその間も新作は数限りなく描き継がれているのだが、その淘汰の速さも尋常ではない。絵本は単価がバカ高いから、子供が「買って」と言ってもそう簡単には買ってやれない。必然的に、「親」が面白いと思ったもの、子供に読ませたいものばかりが残っていくことになる。絵本の歴史の中でも「進化」がないわけではないのだが、やはり基本的に絵本の世界は極めて保守的なのである。 で、この『てんしのトッチオ』だが中途半端に保守的なのだ。鳥山明は子供っぽいから絵本に向いてるんじゃないかと思ってる人がいるかもしれないが、ことギャグに関する限り、子供っぽいんじゃなくて下らないだけである。視点はやっぱりオトナのものだ。 トッチオが地上の動物たちの願い事をかなえてあげようとして、全く役に立たない、というのはまあマンガでも絵本でも定番の展開だけれど、ハムスターにスクーターを出してやるとか、干上がった沼にペットボトルを出してやるとか、羽を怪我したペリカンに紙飛行機を出してやるとか、アイデアが陳腐を通りこしてどうしようもないのである。「とりやまあきら」の名前が無ければ、ボツになっているに決まっている。 最後にトッチオがホントにみんなの役に立つ、という結末も定番だけれど、別にトッチオがこれからも失敗しないという保障ができたわけではない。全然、物語としてのカタルシスも無いのである。 作者本人は一所懸命描いたつもりかもしれないけれど、絵本のレベルとしては5点だ。世の中にどれだけ工夫を凝らした、創意に満ちた、斬新かつ普遍的な絵本があまたあるか、それを知ってから描いてほしかったものだね。同じマンガ家の描いた絵本なら、絵本の体裁を無視してただの大型マンガ本として描かれている唐沢なをきの『バラバラくん』のほうが、「別に絵本の描き方なんて知らんも〜ん」って態度が潔くってよっぽどいい。 みんな、『トッチオ』買うカネがあったら『バラバラくん』を買って子供に与えてオタク教育の萌芽とするのだ。マジでその方がいいと思うぞ。(2003.3.28)
2002年02月27日(水) さらばウルトラマン/『よろずお直し業』(草上仁)/『クロノアイズ』5巻(長谷川裕一)ほか 2001年02月27日(火) 毛の話/『オトナでよかった!』(唐沢よしこ・唐沢なをき)
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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