無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2001年02月28日(水) せんと・おぶ・うーまん/『妖怪馬鹿』(京極夏彦・多田克己ほか)

 早いなあ、2月ももう終わりだ。
 来月は三日も早く給料が出るぞ。嬉しいなったら嬉しいな。……もうすぐ四十郎が何を浮かれてんだ。

 洗濯物が溜まりに溜まっているので(私のではない。女房のだ)、自分のもまとめて洗濯をする。
 ところが女房、私が洗濯を終えたあとになって1週間着続けのシャツやら、数日はき続けの靴下を何足も持ってくる。
 で、そんな調子なのに、「体が臭い、なんで?」なんて、どまぐれたことを言い腐るのだ、このバカは。
 「……さっさと風呂に入れ!」
 私ゃクリーニング代がもったいないので、上着を着続けることはよくあるが、下着は二日と同じものは着てられん。特に靴下なんか、一日で臭くなるではないか。
 なぜ毎日洗うということが出来ないのか、と聞くと、「もったいないから」と答える。きちんと洗いもせず履き続ければ、靴下がボロになるのも早かろう。かえってそっちの方がもったいないはずだ。
 洗濯して干すのが面倒臭いだけじゃないか、このウソツキめ(~_~メ)。
 私が女房の分まで洗濯をしたりすると、このバカは「次、着ようと思ってたのに!」と文句を言うのである。
 「だからその下着、何日着てるんだよ!」
 「まだ三日(^^)」
 「……洗え!(>_<)」
 もう何百回と繰り返した会話だ。
 それにしても、洗濯をしてやって文句を言われる夫ってのも滅多になかろうな。

 AIQのエロの冒険者さんから、『サウスパーク』中、恐らくは一、二を争う問題作であろう『チンポコモン』上映会のお誘いメールが来る。
 『公式版サウスパーク・コンプリート・ガイド』(こいつも私がまだ殆ど読んでもいないのに女房が片付けてしまったので、1時間かかって探し出した)を見る限り、テレビ放映の順序から言えば、4日の『流星物語 カイルとケニーのユダヤスカウト』の次に『チンポコモン』が来るはずなのだが、しっかりすっ飛ばして11日の放送は『宇宙戦士! 腹ぺこマーヴィン』。
 まあ、日本企業の陰謀で『チンポコモン』を見ていた子供たちが「て○か○」を起こす、なんて内容の話、逆立ちしたって日本じゃ放送できんわな。
 この分じゃ、日本版DVD発売の際もカットされかねない。この機会を逃してなるものか、と、慌てて「行きます行きます」と返事のメールを送る。
 このページを読んでる劇団のメンバーで、「あちきも行きたいでありんす」(意味なし花魁言葉)、という方がいらっしゃったら、明日までに連絡ください。

 ちょっと今日はバタバタしちゃったので、読んだ本や見た映画の感想は明日書く。書けるヒマあるのか?



 京極夏彦・多田克己ほか『妖怪馬鹿』読む。
 対談の間に挿絵代わりに挿入されている京極さんのマンガが楽しい。有名マンガ家の模写なのだが、赤塚不二夫、永井豪、山上たつひこを初め、吉田戦車、しりあがり寿といったオタクなマンガ家まで、ものによってはホントに本人に描かせてるんじゃねえか、と言いたくなるほど似ているのである。
 「豆腐小僧」のイラストなど、日野日出志や唐沢なをきまであったぞ。京極さんが相当なマンガフリークであることがよく分る。これが読めるだけでもこの文庫、買って損はしない。
 口裂け女やトイレの花子さんを例に出すまでもなく、「妖怪」はフォークロアとして現代でも生き残っている。たとえどんなに科学が発達しようと「妖怪」はその概念を変容させつつ、「得体の知れないもの」を我々が認識するひとつの方法として語り継がれていくのだろう。
 ただ、20世紀が映像の世紀であったことは妖怪たちにとってはやはり不運だったのではないか。京極さんが「妖怪が妖怪たるためにはキャラクター化されることが必要」というのには賛成だが、現代はあまりに絵師が多過ぎ、「決定版」たるキャラクターがかえって存在しにくくなっている。水木しげる御大の絵にして、「口裂け女」などはとても魅力的とは言えないキャラクターであった。
 『鬼太郎』は偉大なマンガであるが、水木さんは徹底的に孤高の作家であって、後続する作家がいない。諸星大二郎がそうなるかと思ったけれど、「稗田礼二郎」シリーズは妖怪ものと言うには違和感があるし……。『ぬ〜べ〜』なんか特にひどかったしなあ。そろそろ新しい妖怪伝説を生み出すような作家が生まれないものかな。

 マンガ、細野不二彦『S.O.S』2巻、第一部完とあるが、こう銘打たれて第二部が再開した例は滅多にない。打ちきりにあったのかなあ。女刑事を陰ながら救うタキシード仮面さまは実はただのストーカーだったってネタ、結構笑えて好きだったんだが。これはあれだな、主人公がいざってときに駆けつけるパターン(『仮面ライダー』の1号2号とか、『変身忍者嵐』の嵐と月ノ輪とか……我ながら例が古いな)を見てて、「どうしてこいつは主人公の危機がわかるんだ?」って疑念から生まれた設定なんだろうな。

 マンガ、浦沢直樹『MONSTER』16巻、こないだ手塚治虫文化賞取ったと思ったら、今度は小学館漫画賞。でも現在もっとも面白いマンガのひとつだから、それも当然か。
 今回ヨハンは、ただある人物の名前を砂場に書いただけで、それを見た人物にその名の人物を殺させる、という、「暗示の殺人」を数件行っている。
 これにはミステリにいくつも先行例があって、例えばアガサ・クリスティーの『カーテン』の中に、暗示だけで人を死に至らしめ、本人は一切罪に問われない、という犯罪者が登場したことがあった。
 「暗示」の効果が絶対的だと証明されない限り、仕掛け人が誰か特定出来たとしても、その人物はいわゆる「不能犯」になるのだろう。ミステリでは実に人気があるネタで、江戸川乱歩も『赤い部屋』などの短編でそう言った犯罪の例をいくつか紹介している。
 しかし、浦沢さんの非凡なところは先行作の稚拙なパクリにはなっていないところだ。浦沢さんには、それが単なる個人の犯罪レベルで留まるものではなく、社会そのものが一種の洗脳装置として機能しているからだという視点が間違いなくある(岡田斗司夫さんの『ぼくたちの洗脳社会』でも読んだかな?)。我々は常に誰かを洗脳し、あるいは洗脳させられているのだ。
 『MASTERキートン』などの先行作品で世界情勢に触れて行くうちに、浦沢さんはそう言った「洗脳」のシステムに興味を持って行ったのではないか。『MONSTER』の設定がハードなのは、いかに天馬がヨハンを殺人者として追いかけようと、ヨハンはあくまで世間的には「善意の人」に過ぎず、社会的に罪があるのはどうしても天馬本人になってしまうという点にある。
 「ヨハンの存在自体、天馬の妄想なのではないか」と考えるルンゲ警部の疑念も、今巻でどうやらヨハンの背後にも何らかの「洗脳システム」が存在していることを匂わせていて、にわかに説得力を持ってきた。いや、ヨハンが「実在しない」ということではなく、天馬たちが追っているヨハンが必ずしも殺人者としてのヨハンの実態とは限らない、というニュアンスが漂ってきていることを言いたいのである。評価は完結を待たねばならないが、次巻への期待はたかまるばかりだ。

 CSチャンネルNECO『ふろたき大将』を見る。
 石橋蓮司の子役デビュー作だということは知っていたが、開巻早々、伊福部マーチが流れてきたのにはぶっ飛んだ。
 伊福部昭さんは同じメロディーラインの曲を複数の映画に付けることがよくあって、怪獣映画に慣れてる身にしてみれば、文芸大作、例えば『サンダカン八番娼館・望郷』のオープニングで「ゴジラ、ゴジラ、ゴジラとメカゴジラ」(ちょっと微妙にテンポが違ってるのがご愛嬌)なんて流れ出すと調子が狂っちゃうのだが、この映画もオープニングは『わんぱく王子の大蛇退治』のスサノオ船出のシーンのマーチである。勇壮だなあ。
 話は広島の原爆で戦災孤児となった石橋蓮司が、小学校の園長先生(『大魔神』『妖怪大戦争』の神田隆が「いい人」を演じている!)に拾われて、学校のふろたき係をしているうちに、実は生きていたお母さんと再会するというお涙頂戴もの。……なのにBGMが伊福部マーチなのよ(^_^;)。
 蓮司が空腹から盗みを働いてるときに「どどん、どどん」と低音のコントラバスが鳴り響きゃあ、こいつ絶対将来ど悪党になるに違いないとしか思えないし、ブタの群れを蓮司が追いかける時に『怪獣総進撃』がかかれば、ブタがなんだか逃げ惑う群衆に見えてしまう。
 これはどう楽しんだらよいのかねえ。やっぱりある意味トンデモかも。
 伊福部さんも昔は仕事選んでなかったんだなあ、ということがわかって面白かった。

 女房がこの日記に文句をつけてきたので一部訂正。
 女房が一週間、服を着続けだというのは、「時間に換算していない」ので不当だというのだ。つまりちょっと手を通しただけの下着とかはもう一度着てもいいのだそうだ。……そうかなあ?



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