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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2003年01月12日(日) ヤマさんが見ていた/DVD『パニックルーム』/『快傑! 鈴鳴高校探偵部』1〜3巻(日下部拓海)ほか

 昨日の『今日も映画日和』について、もう一つ書き忘れてたネタ。
 第二章「43年目のマーズ・アタック!」のところで、川本三郎さんがこう語っている。
 「『ゴジラ』って、空襲と原爆の映画でしょう。これは私の持論なんですが、ゴジラというのは海で死んでいった兵隊たちの霊なんですよ。ゴジラを倒す科学者、平田昭彦も戦争で負傷して、片目を失っている。それで河内桃子演じる婚約者を諦めて、最後、ゴジラとともに海に沈んでいく。あれは『海ゆかば』ですね」
 対談は1997年だから、金子修介がこの記事から『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』のネタを拾った可能性は高いなあ。まあ読んでなくて、たまたま同じことを考えついただけかもしれないけれど、こういうのはあくまで「解釈」として考えるレベルだから面白いんであって、映画として見せるもんじゃないんである。
 百歩譲って、天本英世に「ゴジラは英霊の残留思念だ」と語らせるにしても、あんなにくだくだしく喋らせちゃいけない。新山千春に会ったときにそのことをヒトコトだけ言わせて、あとは一切黙秘。この言葉の解釈はほかのキャラにまかせて、もしゴジラが本当に怨念の塊なら、それをどう倒せばいいのか? って方向にドラマを持っていかなきゃなあ。
 後半、普通の怪獣プロレスものにしちゃうし、普通の人間の武器でゴジラが倒されるんだったら、その残留思念って設定、なんの意味もなくなっちゃうじゃん? ゴーストバスターズ連れてきた方がまだ整合性が合うぞ。
 だからヘタにコリクツひねったらボロが出るんだってば。「なぜだかわかんないけどゴジラは倒せない」っての、ちゃんと絵で見せようよ。


 俳優の藤岡弘さん、芸名を「藤岡弘、」に改名してたんですって。まあ、ビックリ。
 てっきり「モーニング娘。」のマネかと思ったけど、改名してたのもう十数年も前だっんですって。
 オフィシャルサイトを覗いてみたら、確かに全部「藤岡弘、」って読点が付いてるわ。けど、句点ならともかく、読点だとそのまま文章続けて読めちゃうから、まさか「、」まで含めて芸名だなんて、全然気づかないわよ。でも、もしかしたら、世間のオタクのみなさん、とうに気づいていらしたのかしら。私だけが知らなかったんだったら恥ずかしいわ。どうしましょ。これからは「、」を付けるから許してね。
 藤岡さんの話だと、1986年に『SFソードキル』に主演したのが改名のきっかけだったんですって。渡された初稿の台本が、あまりにサムライの姿をゆがめて書かれてたんで、通訳をつけて日本の伝統文化の中でのサムライの役割や地位などを粘り強く説明して、台本を大幅に書き換えさせたんですって。
 だったらそもそも、「凍りづけの侍が現代に蘇える」って設定もなんとかしてほしかったわよねえ(^o^)。
 でも『レッドサン』の時も三船敏郎が同じように困らされたそうだから、日本映画ってやっぱりハリウッドには全然浸透してないんじゃないかしら。
 で、それがどうして改名に至っちゃったかっていうと、そこから藤岡さんの「侍道」が始まったからってことらしいのよね。これって大竹しのぶが北島マヤにのめりこんで「マヤは私」なんて言っちゃったようなものなのかしら。それとも「サムライ」演じると日本人って、先祖が別に侍じゃなくっても、みんなその気になっちゃうものなのかしら。漁師の息子のクセに「サムライ」って言ってたジャイアンツの選手もいたわね。アレはフィクションだけど。
 実在人物では、緒形拳が『MISHIMA』の時にカンヌで「アイ・アム・サムライ」とぶって、観客にシラケらけられちゃったそうね。あの人のご先祖さまってサムライ?
 「昔の武将はいったん“点”を打って決意した。流されないで立ち止まって自分を見つめる、という覚悟と『いまだ完成せず』の意味も込めて」
 って、藤岡さん仰ってるけど、実際に名前に点を打った侍なんていたのかしら? 「宮本武蔵、」とか「柳生十兵衛、」とか聞いたことないんだけど。
 いえいえ、私、別に藤岡さんの改名に文句をつけるつもりなんかないわよ。だって藤岡さん、素敵なんだもの♪
 でも「、」にこんな意味があるってことは、「モーニング娘。」ってもう終わっちゃってるってことになるのかしら。読みにくいから省略してるけど、実はしげの名前にも「。」がついてるのよね(^o^)。
 それはそうと、どうして女コトバなの? なんて気にしないでね。何となくこの話題を書こうと思ったらこんな感じになっちゃっただけなんだから。


 昨日からずっと徹夜で劇団の台本を書いてたんで、すっかり疲れた。
 タイトルは『アプリコットティー』ってのになったらしいが、初稿の段階でも、完成稿でも、アプリコットティーなんて全く出て来ない、どころか作品世界を象徴するものでもなんでもない。
 タイトル決めに私は全く関与していなくて、しげの話によれば相談した中で一番マシだったのがこれだと言うが、なんでこうみんなセンスがないかな(-_-;)。これなら『北京の秋』ってつけたって全然構わないくらいである。
 もともと私が付けていた仮タイトルは『挽歌』であった。
 これがみんなに実に評判が悪かった。単純過ぎるということなのか、意味が分らない、ということなのか。ちゃんと作品テーマに沿っちゃいるし、今回、ある意味古臭い純愛ドラマなんで、60年代の昼メロ的ニュアンスを狙ったのである(もちろん内容は昼メロそのまんまでなくて、捻っちゃいるが)。
 私もすごくいいタイトル、と思ってたわけじゃなし、このタイトルで行け、と押しつけるつもりはなかったが、でも「アプリコット〜」なんてアホなタイトルにされると「何でやねん」と言いたくはなる。
 会場への申し込みのためにタイトルが必要だったんで、急遽決めちゃったらしいが、「ヘタの考え休むに似たり」である。何もいいタイトルが思いつかないなら、そのまま通してほしかったなあ。

 しげ、台本が上がったのを見て、「〆切までに仕上がったのって珍しい」、とあまり嬉しくない誉め方をしている。実を言うとまだまだ誤植やら何やら一杯あるのだが、そこはもう現場で言いやすいように直してもらえばいいことなんで、特に注はつけない。
 ともかく、しげは台本を持って練習に出かけた。
 キャストのみんながどう反応するか聞いてみたいが、あまり下らん直しは言ってきてほしくないもんだ。
 疲れきった私は、昼過ぎまで爆睡。

 今回のキャストは4人、よしひと嬢、穂稀嬢、しげに客演のラクーンドッグさん。
 帰宅したしげから、練習の様子を聞いてみたが、一番感想を聞いてみたかったラクーンドッグさん、よしひと嬢、二人とも急に都合が悪くなって来てなかったそうである。それは残念。改訂があるとしたら、早めに読んでおいてもらった方がいいんだが。
 「特に感想はなかったの?」
 「一回通して読んだだけだし。あ、でもハカセ(=穂稀嬢)、『ヤマさん』のこと知らなかったよ」
 公演前に台本の中身について詳しく紹介するわけにはいかないのだが(カットされることもあるし)、台本の中に、「話は全部聞かせてもらったぜ」「わあ、ヤマさんね」「誰それ?」というヤリトリがあるんである。
 穂稀嬢、ハタチかそこらだから、多分『太陽にほえろ!』ももう知るまいと思ってワザと書いたんだが、やっぱり知らなかったか。
 私の書く台本、最近こういう「世代間のギャップ」ネタが多くなってるんだが、若い人たちのあまりにモノシラズな状況に対して、ちょっとばかし腹が立ってるんだな(~_~;)。
 できるだけ昔ネタを持ちこんで、少しは文化ってものの意義を考えてもらいたいなあって狙いなんだが、ボケ女の穂稀嬢にも少しは通じたかな、と思って、更にしげに状況を聞いてみたのだが、しげは私の想像を上回るとんでもないヤツであつた。
 「で、ホントのことは教えてあげたんだろ?」
 「うん、教えたよ」
 「ちゃんと『太陽にほえろ!』のネタだって言った?」
 「いいや、それは言ってない」
 「……なんで? じゃあ、なんて説明したの?」
 「あのね、『ヤマさんとチョーさん』って漫才コンビがいるんよ」
 「……はあ?」
 「ヤマさんがどこからともなく現われて『話は聞かせてもらったぜ』って言うもんだから、チョーさんが『アンタとはやっとられんわ!』と突っ込むという」
 「全然違うやんか! ……じゃあ、露口茂の名前も下川辰平の名前も出さなかったんか」
 「あ、それは出した」
 「余計悪いわ!」
 穂稀嬢、しげのデタラメ、信じちゃってるんだろうなあ。

 でもって、しげの感想はどうだったかというと、穂稀嬢演じるキャラが「パラレルワールド」を「パラソルワールド」と言い間違えるギャグが気に入ったそうである。全く、なんでこういうマイナーなネタばかりに、しげは反応するんかな。いや、一応NHKで放送されてたんだから、マイナーといっちゃ悪いかもしれんが、少なくとも安孫子さんの代表作とは言えないよなあ。


 夕方から外出、博多駅の紀伊國屋に寄ったあと、8階の食堂街で、お好み焼きの店に入る。
 名のみ聞いたことのある「もんじゃ焼き」を生まれて初めて食べる。要するに「薄いお好み焼き」なわけだね。スペシャルを頼んだので具は肉、餅、エビ、卵ほか盛り沢山で実に美味い。値段はお高いが、食い出したらちょっと病みつきになりそうである。
 チーズ嫌いのしげは、品書きに「チーズ」と書かれていないお好み焼きを選ぶ。ところが何を間違ったのか、運ばれてきたお好み焼きに、調理人さんが豪勢にチーズをまぶし始めた。しげもその場で「チーズは入れなくていいです」と言えばいいのだが、こういうときにしげは絶対にタイミングが掴めなくて言いそびれてしまうのである。
 こんがり焼けたお好み焼を目の前にしてもしげが全然箸をつけないので、その時になってようやく私も、チーズが入ってて食べられないのだ、と気がついた。
 「食べんと?」
 「チーズが入っとるもん」
 「チーズケーキは食えるやん」
 「チーズが固形じゃなければいいとよ」
 お好み焼きもチーズは溶けて固形じゃなくなってると思うが。
 しげの偏食はただのワガママなので、私も改めて別の料理を頼んでやったりしない。一応、私のもんじゃ焼きを代わりに食うかどうか聞いてみたが、「アンタのやけん」と食べようとしない。人の親切も無にするというなら、それ以上、気遣ってやるこたぁない。しげの残したお好み焼きを、遠慮なく食べることにする。
 ところが、私がいかにも美味そうに食ってるのを見て悔しくなったのだろう、しげ、「チーズは食えない」と今言った口で、「これ以上は渡さないぞ」という形相でお好み焼きを食べ始める。結局、しげは食えないはずのお好み焼きを半分以上は食っていた。ホントにチーズがダメなら、こんな食い方はまずできまい。やっぱりしげの場合はただの好き嫌いである。
 イジマシイ、とはこういうことを言うんだろうな。


 そのあと、しげも今日は仕事が休みということなので、ネットカフェ「POPEYE」で時間を潰す。
 しげ、以前からぴんでんさんに「『女帝』はイイですよ!」と吹きこまれていたので、1巻から食いいるように読み耽っている。いくら「面白い」と言われたからって、ホントに面白がるなんて、つくづく暗示にかかりやすいというか、騙されやすい女だ(^_^;)。
 まあねー、アレを読んじゃイカン、コレを読んじゃいかんなんて注文つけようって気はないけどよー、『女帝』だの『野望の王国』に入れこんじゃう女って、どう思いますか、特に妙齢の女性の方。
 って、このサイトを覗いてる人で、「妙齢の女性」ってのがどれだけいるというのか、そしてその中のどれだけが『女帝』の存在を知ってるのか。
 いや、だから「しげはヘンだ」ってことになるんだけど。

 DVDもここには置いてあってヘッドホンで試聴できるんだけど、数が少ない。『キャッツ&ドッグス』か『パニックルーム』にするか、しげに聞いてみたら、てっきり『キャッツ』の方にするかと思ったら、『パニック』だと言う。
 「『パニック』怖いかもよ?」
 「でも、『キャッツ』は見たくないから」
 好き嫌いの基準というか、根拠がわからん。
 ともかく、プレステ2が置いてあって利用しないのも損なので、二人で『パニックルーム』を見る。
 コケオドシの無意味な演出が多くて、全然怖くない。ホラーものかと思ったら、『暗くなるまで待って』式の泥棒サスペンスだったんだね。
 ジョディ・フォスター主演ってことで結構期待してたんだがなあ。ストーリーは陳腐だし展開は先が読める、読め過ぎる。ジョディ・フォスターの娘が糖尿病で、インスリン注射が必要なんだけど(なんだか『MASTERキートン』読んだんじゃないかって設定だ)、これを助けるのが3人組の泥棒の中で唯一人間的な感情を持ってる黒人の技術屋。あとの二人が、アタマの悪い金持ちのボンボンにただの殺人鬼だもんなあ。誰が助かって誰が死ぬか、ハナからバレバレだよ。
 それくらいならまだしも、パニックルームに閉じ込められて、泥棒たちにガスを送り込まれて、ジョディがそれに反撃するために火をつけるって展開は何なんだよ。普通自分が焼け死ぬだろ(^_^;)。これも相当なトンデモ映画であった。


 マンガ、叶恭弘『Tokyo ants 叶恭弘短編集2』(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 表題作は巨大コングロマリットに所属するトラブルシューターグループ「ants」の活躍を描くもの。主役が見習いの熱血バカで、失敗しながらもその情熱が、初め冷徹だった他のスタッフの心を和ませていく展開も定番。
 それよりは、人の嘘を見破る能力を持つ燕馬を主役にした連作、『ENMA』『enma』の方が面白かった。
 巻末の『蝶 -swallow tall-』は、これも人の死が「蝶」の姿となって見える超能力を持つ少年の話。けれど定番に見えてラストのドンデン返しは小味が利いている。叶さんはよくあるラブコメしか描けない、と思いこんでると足下掬われるぞ。


 マンガ、日下部拓海『快傑! 鈴鳴高校探偵部』1〜3巻(実業之日本社/MBコミックス・各410円)。
 日下部先生、最近エンピツの日記も覗けないくらいお忙しいようだけれど、大丈夫なんかな。
 巷の本屋ではご著書をなかなかお見かけしなくて、感想書くこともできませんでしたが、ようやくネットカフェで3冊だけ。でも4巻がなぜか置いてないです(+_;)。
 私立とは言え、学園内で「探偵部」なんて人のヒミツを探るような部活動が認可されてるとは思えないのは欠点だけれど(野間美由紀『パズルゲーム☆はいすくーる』もそこはテキトーで、「自由な校風」ということで誤魔化している)、そこに目を瞑れば、心理描写がリアルで説得力がある。学園ものに拘らずに、もう少し対象年齢を上にしてもよかったんじゃないかな。ミステリとしての骨格もしっかりしていて、もちっと店頭に出回っててもいいんじゃないか。
 メガネで容姿に自信がなく、笑顔を見せないヒロインの葵が、朱雀たち探偵部のメンバーと触れ合う中で、どんどんかわいらしくなっていく様子にはまるで自分のムスメを見るように嬉しくなってしまった。いや、実際にムスメはいないんだが。
 でも部長がホンモノの「猫」っていったいどういう設定なんだろう(~_~;)。

2002年01月12日(土) 寝(られ)る場所そろそろ作らんとな/『仮面ライダー激闘ファイル』(岩佐陽一)/DVD『本陣殺人事件』ほか
2001年01月12日(金) 一陽来復


2003年01月11日(土) 妊娠来たかと鸛に問えば/『今日も映画日和』(和田誠・川本三郎・瀬戸川猛資)/『ワイルダーならどうする?』(キャメロン・クロウ)

 タイトルは西村知美さん妊娠記念。
 「鸛」は「コウノトリ」と読みます。私も初めて知った。あまりその点、突っ込まないでね。
 いや、別に深い意味はないです(^_^;)。
 西村さん、不妊治療が失敗続き、流産も二度経験して、あきらめてたところの自然妊娠だそうである。
 こういうニュースを聞くと、「不妊治療」ってアテになるんかな、という気がどうしてもしてしまう。医学の発展にイチャモン付ける気はないけど、医者が自分たちの研究してることをきちんとオープンにしてないことが誤解を呼んでること、多すぎないか。
 ウチにも子供いないけど、しげは「不妊治療してまで子供ほしくない」って言ってるもんなあ。なんか怖そうだし。
 それは私も同じ考えなんで、お医者さんにはさ、『ブラック・ジャック』で本間丈太郎が「人の生き死にを医者がどうこうしようというのはおこがましいとは思わんかね」って語ってるセリフ、よーく考えてほしいんだけどね。少なくともこれをただの姿勢の問題に過ぎないとか、哲学的なだけで現実性のない言葉って受けとってるような医者にはかかりたくないよ。
 ラエリアンムーブメントのクローンがどうたらって話もよ、クローン技術があいつらに可能かどうかってこと以前に、クローンに関する知識そのものが一般化してないじゃないかよ。本気で「自分と全く同じ『記憶』を持った人間が生まれる」って信じてるヤツいるんだぞ。だからあんなフツーだったら東スポでしか扱わないようなガセが一般誌や全国ネットのニュースになっちまうんだよ。
 それにしても、クローンに反対してる方も賛成してる方もどっちも宗教がらみってか。こうなると信教の自由の保障自体、いっぺん考えなおして、お布施の3分の2は税金で徴収するくらいのことしなきゃならんのじゃないかね。で、国自体が宗教国家ってとこは問答無用で滅ぼすと(^o^)。
 ……地上から人間がいなくなるな。
 
 
 明日が劇団の練習日、台本も今日が〆切ということなので、ひたすら朝から書いて書いて書きまくる。
 疲れて風呂に入って、もう1回書きだして、合間に本読んで。
 なんとか目途がついたところでひと寝入り。


 和田誠・川本三郎・瀬戸川猛資『今日も映画日和』(文春文庫・660円)。
 オビには「心から映画を愛する3人だから、こんなにたのしい! SF超大作から青春映画、西部劇に法廷ものまで、語った映画実に1200本!」
 珍しく、惹句に掛け値なし、このお三方の対談本なら、1200本でも少ないくらいだろう。

 書かれたもの、語られたものを読んで、ああ、この人はちゃんと映画を見てるんだなあ、と感心し、そして尊敬する評論家って、ホントに数が少ない。
 そりゃ、どんな批評だって、最終的には個人の主観なんだから、何言ったって構いはしない。けれど、あるジャンルの作品について語ろうと思えば、そのジャンルについての基礎知識が必要になる場合ってのが必ずあるのだ。それを無視した批評や論議は、どんなに感動的な筆致で書かれていたとしてもクズである。

 例えば、あちこちで話題になった、『アルマゲドン』問題。
 あれを「コメディである」と語る人がいたけどさ、そう主張したいんだったら、そもそもコメディってのが作り手の意図はどうあろうと、観客が笑えりゃそれでいいんかってことまで含めて論議しなきゃならなくなる(そう言えばあれ見た感想、日記に書くのケロッと忘れてたな。いろいろ腹立つ描写があったんで描く気が失せたんだろう。今からでも書いたがいいかなあ)。コメディってのはそんなもんじゃないよ、ということで「バカ映画」とか「トンデモ映画」という呼称をしてる人が多かったと思うんだけれど、「作り手が確信犯だから」ということで「コメディ」と言いはってたんだよ、あのアホ連中はさ。果てはあの映画を非難してた人たちに向かって「映画の見方を知らないヤツラだ」とか悪態ついてたしなあ。そりゃ、どっちの話だよ。本気でその件について論議するなら、その「映画の見方」ってことについて、作品論、作家論、読者(観客)論、全ての立場から論破してやってもいいぞ。
 でも、どうせそういうヤツラは、たいてい自分の知識のなさを棚にあげて、「あなたの話題にしていることは私にとってはどうでもいいことなんです」「結局は主観の相違ですね」とか言って、逃げるんだよな。だったら世の中に「客観描写」なんてものは存在しないってことになるだろう。それは「映画」ばかりでなく、芸術作品、引いては人間自体の否定だ。
 そんなヒキコモリの言い訳みたいなモノイイするんだったら、最初から土俵に登ってくるんじゃねえや(`´)。
 百歩譲って、その「確信犯だから」って主張を受け入れたってさ、別に確信犯がバカじゃないってことにはならないんだから、やっぱりコメディとしても駄作だとしか言えないんだが。私ゃあれ見て、笑う気にすらなれなかったよ(-_-;)。

 じゃあ、そんな映画の見方もわからないシロウトやエセ評論家どもとは一味違う人たち、ということになると、私にとってはこれはもう3人しかいないのである。
 荻昌弘、淀川長治(ボケる前)、そしてこの瀬戸川猛資さん(小林信彦や森卓也あたりが次点。あとは十把ひとからげ、水野晴郎やおすぎ、襟川クロなんかは論外である)。
 でも三人ともすでに故人。なんか最近、故人の話ばかりしてるなあ(T-T)。

 川本三郎さんが、あとがきで瀬戸川さんに対してこう語っている。
 「瀬戸川さんは博識だった。ミステリ、SF、映画に関して、実によく知っていた。この三つのジャンルは、子どものころから好きでないと深い知識が得られない。学校での勉強とはわけが違う。大人になってからのにわか知識ではだめだ」
 まず、この文章に反発を抱いて、「大人になってミステリやSFや映画を好きになっちゃいかんのか」なんて思う人間は、そもそも大人ではない。いやもうはっきり言って超低級のバカであって、私ゃ口も利きたくないよ。
 何歳で何を好きになったって構わないが、そんなことを話題にしてるわけじゃないじゃん。知識や判断力について、子供の頃から読んでる人の方が一日の長があるのは当たり前だって話をしてるんである。たいていこんなこと言ってるやつは、本も読まず、映画も見ず、自分のバカを開き直って肯定するためか、本好き映画好きをからかうためにこんな言い訳をしてるんである。要するに「勉強できないガキが『数学できんとがなんで悪いとや』と叫ぶタワゴト」から一歩も出ちゃいないんである。
 瀬戸川さんの『夢想の研究』(創元推理文庫)を未読の方は、ぜひ一読していただきたい。映画一本を見て語るために、どれだけの知識が必要となるか。

 本書の内容について語りだすと、これも果てしなく続きそうである。
 いやはや、私ごとき浅薄な人間が口を差し挟む余地など本来はないのだが、対談本の唯一の問題は、話の流れで、もっと語ってほしい話題がサラリと流れてしまうことがある点だ。
 例えば「スクリーンの中の酒場で会おう」の章で、和田誠さんが「チャップリンの初期の短編で、冒頭で奥さんが喧嘩して出ていってしまう。次のカットでチャップリンの後ろ姿が映って、こう肩を震わせている。誰が見ても泣いてるんですよ。で、カメラが前に回るとカクテルを作っている(笑)」
 この映画のタイトルが脚注でも紹介されない。編集者に知識がないと、こういう「穴」が往々にして起こるんである。
 答えは『のらくら(“THE IDLE CLASS”)』。私が劇場で見たときには『ゴルフ狂時代』と解題されていた。
 普通、「チャップリンの初期短編」という言い方をすると、これはメーベル・ノーマンドあたりと組んでいたキーストン社時代(チャップリンも日本では「アルコール先生」と呼ばれていたころ)や、エッサネイ社時代、せいぜいミューチュアル社時代(エドナ・パーヴィアンスとのコンビが最も多かったころ)までのもの(概ね1914年から1917年)を指す。長さも2巻ものが多く、20分程度が普通だった。従って、1921年、ファーストナショナル社制作で3巻もの32分であるこの『のらくら』は、ちょっと「初期短編」とは言いきれないのである。
 和田さんも相当な映画ファンではあるのだが、こういう間違いは淀川長治さんなら絶対に犯さない。これが「一日の長」ってやつなのだな。

 瀬戸川さんの見識に驚いたのは、「法廷から正義が消えた」の章で、アガサ・クリスティー原作(『検察側の証人』)、ビリィ・ワイルダー監督作『情婦』のラストシーンについて触れているところ。
 私もあの映画は何度も見ていたのだが、全く気づかなかったことを指摘してくれていた。
 ……ここから先は、『情婦』を見てない人は絶対に読まないように。(V^−°)イエイ!

 最後の最後のドンデン返しのあと、レナード・ヴォール(タイロン・パワー)に裏切られたと知ったクリスチーネ・ヘルム(マレーネ・ディートリッヒ)が、レナードを“そこにたまたま置きっぱなしにされていた証拠のナイフ”で刺す。ところが、それは、やはりレナードにまんまと一杯食わされた弁護士のウィルフリッド・ロバーツ卿(チャールズ・ロートン)の「作為」であったというのだ。

 瀬戸川「ロートンが片眼鏡(モノクル)持ってたでしょ。あれでね、こう(とおなかのあたりで両手で眼鏡を動かす)やっているシーンがあるんですよ。その先にナイフがあるんだよね。ディートリッヒに、ここにナイフがあるぞ、と示してるわけ。それで、ディートリッヒはカーッときて、刺す。そういう流れになってるの」
 川本&和田「えーっ?」

 うわあ、川本さんも和田さんも気づいてなかったのか。
 私も驚いて、慌てて『情婦』のDVDを引っ張り出して見返してみた。
 すると……まさしくその通りだったんですね。( ゜.゜)……ポカーン。
 なんで今まで気がつかなかったのか。確かにロートンは「片手で」モノクルをぶら下げ、回転させている。その反射光が、机の上のナイフを照らして……って、問題はその位置だ。
 ナイフは左画面の下ギリギリのところにあって、最初、ウチのテレビのモニターでは左端画面が切れていてそれが見えなかった。普通のテレビサイズだと、ちょうど画面が切れる位置にこの光は映るのだ。それがどうしてわかったかと言うと、パソコン画面で見なおしてようやく左画面の切れない位置を確認できたというわけだ。
 川本さん和田さんは、当然初見は劇場でだろう。これは想像だが、劇場ではその光、下手の袖幕に隠れて見えず、それで川本さんも和田さんも気がつかなかったのではなかろうか。私も基本的に「映画は劇場で」と考える方だが、実のところ、この上映条件に関して言えば、画面のサイズばかりでなく、明るさ、音響等について列悪な環境の劇場は、昔から腐るほどあったのである。
 この「反射光の画面切れ」は、断じてビリー・ワイルダーのミスなどではない。これこそが「確信犯」である(『アルマゲ』賛美者は「確信犯」って言葉もこういう具合に使ってほしいものである)。
 『情婦』の制作は1958年、カラー映画が普通になり、テレビもお茶の間の寵児となっていた時代であれば、自作の「画面切れ」についてもワイルダー監督は何度も煮え湯を飲まされているはずだ。そんな状況にあって、あえてモノクロ・ヨーロピアンビスタサイズで撮影したワイルダー監督が、「画面の両端が切れることの実作での弊害」を演出してみせたと考えるのは、決して的外れではなかろう。
 瀬戸川さんは、舞台版『検察側の証人』の脚本と舞台も見て、その上で「これはクリスティーの創作ではなくワイルダーの演出である」とはっきり断言してるんである。
 ……いやね、あのジジイ、それくらいのことは絶対にするヒトなんだよ(^_^;)。そう断言できるのは、ワイルダーの映画をずっと見続けている人になら、説明は要らないだろう。そう判断できるのが本当の意味での映画を見るための「知識」というやつなんだよ。


 積読の山の中から、キャメロン・クロウ著・宮本高晴訳『ワイルダーならどうする? ビリー・ワイルダーとキャメロン・クロウの対話』を引っ張り出し、当該部分に当たってみる。
 ワイルダーはロートンの演技を絶賛してはいるが(クライマックスシーンを二十通り演じ分けてみせ、そのどれもが一つ前の演技を上回った!)、光の演出については触れられていない。ちゃんと聞いてくれよ、キャメロン・クロウ。

 この本で語られているロートンの最晩年のエピソードは、涙なしには読めない。
 ワイルダーの『あなただけ今晩は』にロートンは出演する予定だった。
 しかしそのころ既にロートンはガンに冒されていた。ロートンはワイルダーに伝えた。
 「少しすればよくなる。四月ではなく、夏の終わりに来てくれ」
 夏の終わり、ハリウッド大通りのロートン家をワイルダーは訪ねた。
 体重が60ポンド(27キロ!)減っていたロートンは、プールサイドを看護士に付き添われて歩いてみせた。けれど、最後の数歩は息も絶え絶えだった。
 「医者の指示は一つ残らず守ったんだ! 看護士も四六時中ついている! だから9月には万全だ!」
 それを聞いたワイルダーは答える。
 「すごいじゃないか! 続けるんだな! じゃあ、9月から始めよう!」
 ロートンが亡くなったのは、その一週間後のことである。

 映画に関する本を読むと語りたくって仕方なくなるなあ。
 もちろん、この本を読んだら、ロートンのほかにも触れたくなる人々がいくらでもいるのである。いや、一つ一つのエピソードの面白いこと。
 ジャック・レモン、ジョー・E・ブラウン、I.A.L.ダイアモンド、マリリン・モンロー、アーサー・ミラー、シャーリー・マクレーン、ウォルター・マッソー、オードリー・ヘップバーン、トニー・カーティス、ピーター・セラーズ、ピーター・ローレ、セシル・B・デミル、チャールズ・リンドバーグ……。
 とても語りきれないことの中で、少しだけ触れたいのは、ワイルダーが会社とトラブッて編集を放棄し、本編の三割が失われた『シャーロック・ホームズの冒険』である。見たことのある人にはわかると思うが、あれはいいところもたくさんありはするのだが(マイクロフト・ホームズ=クリストファー・リー!)、ホームズファンにはイマイチの評価だったりする。しかし、もしもカットされたフィルムが見つかれば、もしかして評価は逆転するのではないか。
 そういう努力をこそ、映画会社はしてほしいものである。

 ワイルダーの語る「最高の映画」は『戦艦ポチョムキン』。
 自作の傑作は『アパートの鍵貸します』『お熱いのがお好き』『サンセット大通り』の三本。
 傑作コメディと認めるものは『イヴの総て』『雨に唄えば』『フォレスト・ガンプ』『恋愛小説家』『フル・モンティ』。周防正行監督の『Shall We ダンス?』も傑作と認めてくれている。
 「いいコメディはまじめに監督しなくちゃいけない」
 このセリフ、聞かせてやりたいヤツラって、やたら多いような気がするな。

2002年01月11日(金) 先陣争い雪隠の役/『雪の峠・剣の舞』(岩明均)ほか
2001年01月11日(木) 一週間が長いなあ/映画『ノース 小さな旅人』


2003年01月10日(金) また仕事休みました/『ドラゴンボール完全版』1・2巻(鳥山明)/『プリティフェイス』2巻(叶恭弘)ほか

 朝から咳が止まらない。
 やっぱり昨日、しげとやり合ったのが悪影響を及ぼしているのである。
 仕事を休んで近所の医者へ。
 皮下注射を打ってもらうが、あまり利いた気がしない。

 積文館に寄って、本を買う。
 食事はガスト。
 隣りの隣の席で、子連れの客がネット配信システム“プラスe”で『ドラえもん』ばかり見ている。そう言えば、例の井上喜久子お姉さまが口汚く罵ってくれる「りょー子先生の診療室」の新作がもう配信されてるはずだが、残念ながら座った席にディスプレイは設置されてなかったのだった。
 ……全席に付けてくれよ。

 帰宅して寝こむ。
 またしげにお握りを作って貰う。
 風邪の悪化はしげのせいなんだから、せめてこれくらいはしてもらわなきゃなあ。のりたまフリカケって、懐かしい味がするよね。まあ子供しか食わんからだろうけど。


 寝ながらDVDBOX『モンティパイソン&シークレットポリスマン』シリーズを片っ端から見る。「モンティパイソン」と言いつつ、全員が出演しているわけではない(特にエリック・アイドルは全くの不参加)が、それでも「オウムのスケッチ」や「ランバージャック・ソング」などが舞台バージョンで見られるのが嬉しい。
 若き日のMr.ビーンこと、ローワン・アトキンソンの指揮者&ピアニストのマイムは絶品である。この人を「ヘンな顔で笑わせるだけのヘタッピ」ととんでもなく勘違いな批評をしてた立川志らくに見せてやりたい。
 パイソンズでは既にグレアム・チャップマンが故人だが、ほかの出演者の中でも、ピーター・クックも1995年に没している。端正な顔立ちでニコリともせずに狂気的なことを口走ったりしてる演技が好きだったんだよなあ。この人の演じたコメディ版シャーロック・ホームズ、『バスカーヴィル家の犬』、見てみたいんだけど、なぜか「ホームズものは当たらない」日本の事情のこと、やっぱり日本未公開なのであった。クックとしょっちゅうコンビを組んでたチビ男のダドリー・ムーア(『バスカーヴィル』ではもちろんワトスン役)、今、何やってるのかなあ……と思ってネット検索してみたら、この人も去年なくなっていたのであった。
 ああ、そう言えば唐沢俊一さんも日記でその訃報を嘆いていたっけ。


 マンガ、鳥山明『ドラゴンボール完全版』1・2巻(集英社/ジャンプコミックス・980円)。
 さてさて、ハリウッド映画化を睨んでの再版なのであろうか。カラー原稿も完全再録、という意味での「完全版」。
 大版になって絵も見やすくなったから、かつて単行本を買ってた人も買いなおして損ってことはないんじゃないかな。しかも230ページ以上の分厚さで千円以内に押さえたってのは良心的だと思う。まあ『スラムダンク完全版』が売れたってことを受けての値段設定なんだろうけど。
 今、見返してみると、この超人気大河マンガも、最初は10週か20週で打ちきられるジャンプシステムを想定して作られていたことが分る。
 ヤムチャたちとの対決が一区切りするのが10週目、ドラゴンボール探しに区切りが付くのが20週目と、節目がハッキリしている。てことは亀仙人なんかも最初は1回コッキリのゲストキャラだったってことだ。もちろん、サイヤ人だのなんだのって設定、このころの鳥山明のアタマにはカケラも無かったことだろう。
 初期からの『ドラゴンボール』のファンは、よく天下一武闘会の設定が持ちこまれてから話がつまらなくなった、と言う。言ってたのは実は私もなんだが、確かに最初のころの『Dr.スランプ』から流れを引き継いだようなのんびりした世界こそが鳥山さんの本領だとは思うのだけれど、ジャンプマンガの定番、対決ドラマのパターンの中に鳥山さんがあえて身を投じたことで、ヤンキーのガチンコ一辺倒でしかなかったジャンプマンガに変化が生じたのも事実だろう。はっきり言って本宮ひろし門下の悪影響のもとにしかなかったジャンプマンガが革新した功績は、鳥山さんのおかげである。
 まあ、魔人ブゥみたいなキャラクターは、車田正美には逆立ちしたって描けないやな。
 少なくとも、『ドラゴンボール』なかりせば、『ワンピース』もまた生まれえなかったことは間違いない。『ドラゴンボール』の「遺産」については、もっとオタク間での発言がたくさんあって然るべきじゃないかって思うけどなあ。
 

 マンガ、叶恭弘『プリティフェイス』2巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 てっきり初刷りかと思って買ったら、発売一週間ですでに2刷。売れてるみたいだけど、ネタ的には早くも苦しくなってきてるね。
 由奈っつーか、乱堂の正体が実は男であるってことが、友達はまだしもいつまでも家族にバレないって設定が苦しくなってきてるんで、そのためのテコ入れでしょう、今巻では新登場のイトコの美和が、何となく「あやしい」と思い始めるようになる。でも、こういうキャラが出てくることも予測がつくのがまた苦しいんだよね。
 いくら由奈の正体がバレかかったって、このあとの展開は「主人公にうまく騙されて疑いを捨てる」「怪しいと思い続けるだけで新展開はない」「事実を知って主人公の協力者になる(あるいは黙っててあげる)」の3パターンしかないんだから、たいしてテコ入れにはならないのよ。こんなありがちな新キャラ導入に頼るより、もうちょっとDr.真鍋を活躍させてほしいなあ。

 由奈の正体を男と知らずに空手部の連中がファンクラブを作ってるってネタ、これもこの手のマンガでは定番なんだが、実際にこういう事件がかつてあったことを覚えてる人がいるかな。
 いやね、昔、松原留美子ってニューハーフの人がいたんだけど、この人が最初は自分が男だってこと隠してたんだね。篠山紀信が写真撮ってて、雑誌の表紙なんかに使われてたもんだから、ホントに女だと信じてた人も多かったらしい。映画『蔵の中』に主演してたころにはもう男だと正体を明かしてたが、声だけは誤魔化せないので、唖の役だったのでありました。
 大学時代の私の友達の一人も、ダマされて悔しがってたなあ(^o^)。なんで悔しがってたかは突っ込まないであげたが。
 現実はマンガより奇なりという一例だったのでした。

2002年01月10日(木) ヒメ様ご出座/アニメ『七人のナナ』第1話/『トランジスタにヴィーナス』3巻(竹本泉)ほか
2001年01月10日(水) 史上最悪の日/アニメ『プロジェクトA子』



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藤原敬之(ふじわら・けいし)