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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年11月04日(月) 勲章って文学賞じゃないでしょ?/舞台『父歸る』(見てないけど)/『鉄人』1・2巻(矢作俊彦・落合尚之)

 岡田斗司夫さんのサイト「OTAKING SPACEPORT」の巻頭言で、作家の筒井康隆氏が紫綬褒賞を受けることになったということを知って驚く。
 筒井作品との出会いは私と同世代の人間ならばたいていがそうであろうが、永井豪画の絵本『三丁目が戦争です』である。小学生同士のケンカがエスカレートして全面戦争が始まるというトンデモナイ話で、いや、これはトラウマになった。NHK『タイムトラベラー』も当然リアルタイムで見ているし、大学生のころは、それこそ七瀬シリーズの新作が出るのを楽しみにしていたし、舞台『三月ウサギ』の公演を見に行ったり『虚人たち』のサイン会に出かけたり、もちろん全集も買い(途中で挫折したが)、映画『時をかける少女』を見て「原田知世はいい!」と叫び、映画『スタア』だって「つまんねえだろうな」と思いながらもしっかり見に行った。御三家の中では一番好きだった作家さんである。
 そのアイデア、諧謔、皮肉、冗談、ナンセンス、ブラックユーモア、エロチシズム、グロテスク、スカトロ、もちろんSF性にすっかり魅了されていた。直木賞には縁がなかったが、泉鏡花賞のほうが筒井さんにはふさわしいよな、と思っていた。少なくとも『ベトナム観光公社』とか『農協月へ行く』とか『宇宙衛生博覧会』とか読んでいたら、まずもって勲章なんてものとはもっとも縁遠い人だと思うのは当然であろう。それが紫綬褒賞。意外、という言葉以外のものが見つからない。。

 ネットで筒井さんのコメントを見つけたが、ご本人は結構喜んでいるようである。
 「お行儀がいい作品を書いたつもりはないが…。長いこと労働してきたことへの、ご褒美かな。うれしいとか名誉とかいうより、どこか冗談っぽいな、という面白さを感じますね」
 ちょっと皮肉が入ってはいるが、どうせ斜に構えるのなら「自分の作品読んでるのかね?」くらいのことは言ってほしいものだ。叙勲の選考委員たちが読んでいたとしたら、まず間違いなく落としているはずだからである。勲章なんて文春漫画賞と同じで、別に取ったからと言って、おめでたくもなんともない。「ご褒美」なんて言葉は使ってほしくなかったなあ、というのが正直な感想である。

 岡田斗司夫さんの巻頭言は更に激烈である。

 筒井康隆氏が紫綬褒章に決まったそうです。
 僕が尊敬していたのは反骨の作家・筒井だったので、もちろん国家からの勲章なんか断ってくれるはず、と思いたいのですが、まぁ無理でしょう。
 正直、80年代からこっちの氏の創作はいきづまり気味だと思うし、特に演劇出演などに関しての自画自賛ぶりには辟易しています。
 絶筆したままだったら『天才』のまま終われただろうになぁ。


 岡田さんと違って、私は、筒井さんのことを「反骨」などという陳腐な表現で語れる程度の作家ではないと思うし、かと言って「天才」と言うほど持ち上げる必要もない、とは思うが、言わんとする気持ちは分る。筒井さんならこういう「事件」に対して何かリアクションを取ってくれるんじゃないか、と期待するのは、かつてのファンならば等しく思う「願い」であろうから。誰も筒井さんに『わかもとの知恵』を書いてほしい、なんて望んじゃいないし、ましてや速水剛三を演じてほしいなんて思っちゃいないのである。
 今でも新作が出れば一応筒井さんの本は買っている。『エンガッツィオ司令塔』、途中まで読んだがつまらなくなって寝た。『敵』、買ったあとで『純文学』と気付いて数ページで読めなくなった。『蛇眼蝶』、文章が野坂昭如のヘタなパロディみたいでつまらなかった。『私のグランパ』、『愛のひだりがわ』、書き出し読んだだけでまだ全然読んでいない。
 ……私にも昔ほどの貪るような読書「欲」がなくなったのはわかるが、こうして並べてみると、確かに近年の筒井さんの作品がつまらなくなってるのが分るのである。それでも「名声」自体は、二十年前より今のほうが「一般的には」上がってるのだろう。宮崎駿とかでもそうだけど、どうして世間は「つまらなくなってから」その人に飛びついていくかね。本気で面白いものを探そうって気がないんだろうけどさ。
 『グランパ』は映画になるそうだし、やっぱ読んどくべきなのかなあ。


 しげは、今日は鴉丸嬢に誘われて、芝居の鑑賞。
 何でも、もともとは鴉丸嬢のお母さんがお友達と行くはずだったのが急遽キャンセルになったのだとか。
 帰宅してきたしげに「何見てきたん?」と聞いたら、「『父歸る』だよ」と答える。
 「そりゃえらく古いのやったなあ、主演誰?」
 「米倉斉加年さん」
 「米倉さんか、そりゃ見たかったな。結構よくなかった?」
 「うん、まあまあ」
 俳優であり作家であり画家(御本人の弁によれば「絵師」とのこと)である米倉さんは、福岡市の出身である。役者としても私はNHKの『明智探偵事務所』の怪人二十面相などは大好きなのだが、描かれるイラストも大好きだ。以前から郷土に根差した活動をされていて、同郷の幻想作家である夢野久作の角川文庫版カバーを担当されているのも米倉さん。あのグロテスクだが繊細な画風に魅了されて『ドグラ・マグラ』を手に取られた方も多いのではないか。
 古代における在日問題を扱った米倉さんの絵本、ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞を受賞した『多毛留』は私のフェイバリット絵本の一つであるが、あれこそオトナのための絵本であろう(もちろん子供に読ませてもいいと私は思ってるが、躊躇するオトナも多かろうなあ)。

 「で、芝居はどうだった?」
 この質問にはちょっと注をつけねばならないところだ。別に筋を聞きたいわけではなくて、どんな演出だったかを聞きたかったのである。『父歸る』のストーリー自体はあまりにも有名である。たとえ実際にこの芝居を見たことがない人でも、これの影響を受けた作品にはどこかで必ず接しているはずだ。戯曲にとどまらず小説、映画、マンガ、アニメと、恐らくその数は百や二百じゃすまないだろう。一番影響を受けたのは言わずと知れた『男はつらいよ』シリーズ。あれはつまり「父帰る」ならぬ「兄帰る」なわけだ。……あ、あれだけで48本か。ヘタすりゃ模倣作、万を越すんじゃないかな。全く日本人マンネリが好きだよなあ(^_^;)。
 人口に膾炙したという点では『金色夜叉』や『湯島の白梅(婦系図)』を越えてんじゃないかってくらいなんだから、もういちいち詳しい筋は書かない。ナカミを知りたい人は古本屋で文庫を探しなさい。
 「○○(鴉丸嬢の本名)と一緒に笑ったよ」
 「どして?」
 「最後にオヤジが出てくやん」
 「うん」
 「芝居が終わって二人でおんなじこと考えてたんよ。『あのオヤジ、今頃川に飛びこんでんじゃないか』って」
 ……まあ、確かに父親を追いかけるまでタイムラグがあるしなあ。家族会議してるヒマがあったらさっさと追いかけりゃいいのにってのはあるんだけど、それじゃドラマの泣かせどころがなくなる。
 第一、あのオヤジは「寅さん」の原型である。寅さんが自殺するようなタマか。どんなに傷ついたって軽々しく「死ぬ死ぬ」なんて言わないのが庶民の矜持ってものだ。だからこそ家族も「万が一にも」と追いかけていけるわけで、本当に死ぬような情けないやつなら、勝手に死なせときゃいいのだ。
 しかしこんな感想じゃ、芝居の演出が雑で感動が伝わらなかったのか、しげたちが鈍感で演技の機微に気付かなかったのか、判別がつかない。二人の性格からしてこういうベッタベタな人情モノにツッコミ入れたくなる気持ちも分らなくはないのだが、別に私ゃしげや鴉丸嬢の「願望」を聞きたいわけではないのだ。もちっと「誰にでも通じるコトバ」というものを考えてほしいものである。
 「で、二本立てであともう一本あったんよ」
 「何?」
 「『二十二夜待ち』」
 「それは見たことなかったなあ。作者誰だったっけ?」
 「えーっと、木下か山下か……」
 「ああ、木下順二か」
 「いや、違う」
 「じゃ誰?」
 「木下か山下」
 「それじゃわからん! ……もういいや、ネットで探す」
 で、もちろん作者は木下順二だったのである。やっぱり、しげの記憶ってアテにならないんだよなあ。
 ちょうど、米倉さんのホームページ「まさかね見世」にこの芝居の解説が載っていたので、読んでみる。

 ◆菊地寛作『父歸る』/出演◆佐々木良行、助川汎、若杉民、助川美穂、南風洋子、米倉斉加年
 ◆木下順二作『二十二夜待ち』/出演◆上野日呂登、津田京子、内田潤一郎、助川汎、山梨光國、尾鼻隆、溝口貴子
 演出:米倉斉加年
◆日本近代古典の名作、菊地寛作『父歸る』は、簡素なつくりの中で見事に、日本人の家族を、家庭の原点をえぐっています。
木下順二民話劇は生きることの話であり、「今」の現代の話なのです。
本当の笑い涙、哀しみがそこにはある。それは現代が失ったものです。
この『父歸る』を歴史という時間の縦糸に、『二十二夜待ち』を現代社会のしくみの横糸にして、近代日本の成立から現代の日本へたどってみることは、とりもなおさず21世紀の世界への展望となるのではないでしょうか。


 「現代の話」と言っときながら「現代が失ったもの」と続けるのはコトバ的には矛盾してるが、要するにイエスタデイ・ワンスモアなわけだな(^o^)。これももしかしたら「オトナ帝国シンドローム」か? 舞台はもしかしたら夕日色に染められていたかもしれない。


 なんだかよく分らないが、英語のメールが女名前で届いている。送り主はオランダ。
 英語なんてどんと来いの私だが、もしもオランダ訛りがあったらいけないので、一応、niftyの翻訳ツールにかけてみたが、やっばりなんだかよくわからない(^_^;)。
 私は黒人だとか独立運動がどうのとか言ってるが、でも用件は「金送れ」だ。「なんだ、新手のサギか」と、あっという間に興味が失せてしまったが、翻訳ツールってやつが、殆ど日本語変換の役には立たないということがよーっく分りました。特に連語が全く訳せていない。“Thanks, GOD BLESS YOU”を「はあなたを(ありがとう、神)祝福しますように」ってまるがっこもないのにへんな訳しかたしてるが、普通これって「ごきげんよう」とか「お元気で」って訳すじゃん。
 中一レベルの訳もできない翻訳ツールがものの役に立つかいって(-_-;)。


 LDで日本版『リング』を見返す。
 こないだの日記で、雨の中、父親と息子が見つめ合うシーンまでソックリ、と書いたが、よく見ると立ち位置が逆。上手側が優位にあるという演劇理論から行けば、日本人とアメリカ人とでは親子のどちらにイニシアチブがあるかの判断が違う、ということになるのかな。まあただの偶然の可能性が高いと思うが。
 中田秀夫監督がインタビューで「高山竜司を超能力者にしたのは、貞子の過去の説明を省略して尺を詰めるため」と発言していたのには苦笑。米版では尺を詰めるどころか「説明をしない」という形でテンポを作っていたが。どちらがいいかは好き好きだろうが、福来友吉教授&三船千鶴子事件を彷彿とさせる日本版『リング』の方がどこかあざとい印象がある。恐怖ってのはやはり「正体不明」なところにキモがあるので、この部分は米版のほうが上手い。
 肝心の「リングビデオ」、米版に比べて至極あっさりとしていて短い。こんなもんだったかとちょっとビックリした。


 晩飯はまためしや丼。
 実はこないだから吉野家に行きたくて仕方なかったのが「牛丼しか食べられないじゃん」と欠食児童のしげは絶対寄ってくれないので、ここで牛鍋を注文する。やっぱ汁が美味いわ。
 「つゆだく」とかいう言葉が流行ってるらしいが、これはすしネタの卵を「ギョク」とか呼んじゃう感覚なんだろうか。それとも吉野家の品書きに最初から書いてあるんだろうか。
 こないだのAIQで「通ぶって『つゆだく』なんて術語(専門用語)を使う奴は嫌いだ」みたいな発言があったが、ほとんど術語だらけといってよいオタクの世界に足を突っ込んでる人の口からこういう発言が出ることが面白い。いや、閉鎖的で排他的と評価されやすいオタクの中にあって、AIQって実に常識的なオトナが集まってるんだなあ、と感心しているのである。まあメンバー全員が30代以上なのに「萌え〜」とか言ってたりしたら私も引くが(と言いつつ私自身がたまに使ったことがあるような)。
 オタクが閉鎖的にならないためには他人が聞いて「何それ?」と引いちゃわないような言葉遣いも必要だろう。


 マンガ、矢作俊彦原作・落合尚之作画『鉄人』1・2巻(小学館/サンデーGXコミックス・560円)。
 「矢作俊彦」という名前を、『マイク・ハマーへ伝言』などのハードボイルド小説の一人者として捉えるか、マンガ『気分はもう戦争』の原作者として捉えるかでその人のシュミがわかるってよく言われてたけけれど、カバーの折り返しを見たら、映画監督までやってた。『ギャンブラー』? 知らんぞそんなん。Vシネか?。
 ミステリファンとは言っても、私の場合、好みは本格に限られてて、ハードボイルドは草分けであるダシェル・ハメット、レイモンド・チャンドラー数冊程度で止まってるので、矢作さんが影響を受けたと思しいミッキー・スピレーンは実は『裁くのは俺だ』が積読のまま。なんかイマイチ知的興奮を揺すぶられないんだよね(だから流行りの濱マイクシリーズにも特にハマってない)。
 それでも『気分はもう戦争』は、80年代当時、マンガファンには「必読」ではあった。けれど、実はこれも私は斜め読みしかしていない。緊迫していく戦争の状況変化と、その中であくまで軽薄な自分たちの姿勢を崩さない若い主人公たちの行動とのギャップが、それが作者の描きたいことであるとわかってはいてもなんとなく「あざとく」感じられて好きになれなかったのである。今思えば「世の中には茶化していいことと悪いことがある」とかクソ真面目に考えていたのだね。石川喬司か(←蛇足の注。昔、筒井康隆が『ベトナム観光公社』を書いた時に、こう言って怒ったのである)。
 それが、そのあと数年で「シリアスな状況のなかでこそフザケる」ギャグを飛ばしまくる押井守作品に狂喜することになっちゃったんだからねえ。私も心が広くなったものだ(ちなみにオビの推薦文は大友克洋と押井守。身内誉めか?)。

 で、『鉄人』である。
 マキシマムな世界の状況とミニマムな少年たちの日常を対比させつつドラマ展開させて行く手法は変わらないが、それが『気分』よりずっとダイナミックに読者に訴えかけるようになっているのは見事。
 近未来の中国(2003年って、来年じゃん。えらい近くに設定したなあ)、「日中戦争当時の不発弾処理」の名目で作業中の母・冴子に呼ばれて、主人公の小学4年生・鳶尾翔は自分も中国に渡る。
 そこで見た奇怪な白虹現象、地下街に隠された巨大な「鉄人」。ついうっかり鉄人に乗り込んだ翔は、コントロールできないままに長春の街を破壊していく。
「人を殺したかも」と怯える彼の前に現われる二人の人物、ロシア・マフィアに通じているらしい中国人の少女、虎姫(フーチー)と、忽然と幽霊のように現われた「行方不明」のはずの父・ダグラス。
 誰がいつなんのために鉄人を作ったのか、何一つ状況が分らぬまま、翔はただ翻弄され続ける。
 いやあ、面白い。これがかつてのロボットマンガの名作に依拠していることは明らかだけれど、実にうまく現代化されてる。「鉄人」がどうやら旧日本軍によって開発されたらしい設定や、そのデザインなんかはモロに「鉄人28号』からのイタダキだし、主人公がロボットをうまく操縦できなくて暴れてしまう展開は原作版『マジンガーZ』そのまんまである。なのに安易なパクリという印象がしないのは、中国国務院・人民解放軍、ロシアマフィア、日本外務省及び陸自と、それぞれの思惑が錯綜するリアルな背景を描いている点、それから、その混乱の中で、主人公が自らの意志を模索して行くという、マンガの王道をきちんと押さえているおかげだろう。2巻の段階でまだ翻弄されっぱなしだけどな(^o^)。
 もっとも、翔の名字が「トビオ」で、持ってる犬ロボットの名前が「アトム」ってのはちょっとあざといけどね(^_^;)。
 キャラ的に御贔屓なのは大阪弁を喋る中国人少女の虎姫だけれど、なんかこの子って『独立愚連隊』シリーズに出てくるような「馬賊のムスメ」っぽいんだよなあ。多分この想像は当たってると思う。だって2巻には「岡本喜市」ってそのまんまなキャラまで出てくるから(^o^)。これもちょっとアザトいか。

 ただ、いささか弱いな、と感じるのは作画の落合さんである。ヘタじゃないし、原作の要求するレベルに一生懸命答えようとしているのは分るのだけれど、やや力不足の感は否めない。全般的にレイアウトがイマイチだし、リアルに描こうとして、かえってマンガとしての迫力に欠ける結果になっているのだ。
 2巻130・131ページの見開きなんか「見せ所」なのに鉄人がエラい小っちゃい。そりゃ、「まだ遠方にいる」ってことで小さく描いたんだろうけれど、フォーカスかけて遠近感出せる実写の映画と違って、マンガは平面なんだから、小さく描いたら小さくしか見えないよ。マンガとしての「演出」がなんなのか、落合さん、まだ分っていないのだ。これから先、画力は上達していくだろうし、今の段階で評価を下すのはかわいそうだけれど、もう少し絵柄にも「華」を持たせられるようにした方がいいと思うなあ、こういうマンガの場合。

2001年11月04日(日) デリケートにナビして/映画『紅い眼鏡』/アニメ『ターザン』/アニメ『サイボーグ009』第4話ほか
2000年11月04日(土) まさかあの人があんな人だなんて……


2002年11月03日(日) 妻にはナイショ(^_^;)/映画『OUT』/『プリティフェイス』1巻(叶恭弘)ほか

 朝っぱらからネットの散策。いかにも文化の日らしい朝である。
 しげ、寝床から起きて来た途端、いきなり「○○(私の本名である)のばかあ!」と言って絡んでくる。
 どうしたのかと聞いたら、私が浮気した夢を見たそうな。
 「しかも○○までしたんよ!」
 なんだその伏字は、ハッキリ言ってみろ。自慢じゃないが、結婚する前も後もそんな楽しい目にあったことはないぞ(マジで自慢にならんな)。全く、どうしてこいつは自分の見た夢のことで私を責めるかなあ。
 「だって、アンタがそんな気起こしてるから、夢にも見るんやん」
 ムチャクチャなリクツである。
 だったら、私がゴジラのことを考えたらゴジラの夢を見るのか。いっぺんバナナワニ園というところに行ってみたいと思ったらそこに出かける夢を見るのか。「スーパーカリフラジリスティックイクスピアリドーシャス」と言ったら夢の中で舌を噛むのか。
 ……でも実はしげのことを責められないのだなあ。
 なんと今朝、私はホントに夢の中で浮気をしていたからである。
 もっとも、浮気とは言っても、相手は昔の同級生である(という設定だが目覚めて思い返したら全然知らない顔であった。ちょっと若いころの三井ゆりに似てたか)。久しぶりに会ったのでデートでもしよう、と街を歩いていて、ふと振り返ると、しげが電信柱の陰からジッとこちらを睨み付けているのであった(^o^)。えいくそ、そんなに自分の夫のことが信じられないならいっそのこと、○○○○○○○○○○○○○○○○○、というところで目が覚めてしまった。うーん、惜しい(^_^;)。
 まあ、そんだけの夢なんだけど、シンクロニシティというか、なんともビックリな附合である。あいつにも「女のカン」があったのだなあ。
 もちろん、そんな夢見たとはオクビにも出さなかったが、この日記読んだらまたしげに責められそうだな。
 というわけで、今書いたことは全部ウソです。浮気の夢なんて見てませんってば。いやホント(^o^)。

 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
 うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき

 もちろん思う相手は妻ですよ♪


 公開2週間だというのに、もう半日上映しかしてない『OUT』をキャナルシティまで見に行く。
 桐野夏生の原作は未読、純粋に物語の設定のみに興味を持って見たいなあ、と思っていたのだが、いざ見終わってみたら、ちょっと考えこんでしまった。
 いや、悪い映画ではないのだ。ただ、この映画面白いから見て御覧、と奨めるにはよほど人を選ばねばならんよなあ、と思うのである。
 まずこの映画を「なに映画」と言って紹介するか。ここから実は苦しんでしまう。ミステリー、あるいは犯罪モノ……それはそうなのだが、どうもしっくり来ない。平凡な主婦たちがほんのちょっとしたきっかけから「死体」を「処分」する仕事を請け負って行く羽目になる。その発想は面白いのだが、もしこれがミステリーとしての面白さを追及するならば、そこに何らかの知的トリックをしかけねばならないはずである。
 ところが主婦たちは単純に「死体をバラバラにして遺棄する」というごくありふれた方法しか発想しない。これじゃすぐに足がついちゃうし、仲間が4人もいれば誰かがドジを踏むだろうということも簡単に想像がつく。そいつがどいつかってのもキャストを見ればバレバレである(^_^;)。
 ならば、そのアホンダラを抱えつつも、窮地をいかに回避するか、という点にドラマが展開するかというとそうもならない。犯行がバレそうになった主婦連は、ある者は自首し、ある者は逃亡するだけなんである。
 ……となると、これは「知的好奇心」を満足させてくれるドラマではないのだなあ、と判断せざるを得ない。主人公たちは平凡な人々だし、事件に巻き込まれたのだって不可効力みたいなものだし、状況をいかに回避するかってことにもたいして頭使わないし……ということはこれ、「ドタバタ」なんだな(~_~;)。

 確かにユーモラスなシーンがないわけではない。けれど、それにしてはこの映画のツクリ方はひたすら「地味」だ。それは原田美枝子、西田尚美、室井滋、倍賞美津子というキャスティングにも表れている。演技派の方を集めたってことなんだろうけど、はっきり言って華がない。『模倣犯』の中居正広、木村佳乃がよかったとは全く思わないが、『OUT』のキャスティングに比べれば遥かに華がある。原田美枝子の「旬」は『鳴門秘帖』で終わっているので(おいおい)、主役に持って来るのはちょっとなあ、とどうしても思ってしまうのだ。役柄的にも倍賞美都子とキャラが被ってしまっているのは痛い。この二人、息があってはいるのだが、演技の質がそっくりなので、インパクトが相殺されてしまっているのだ。かと言って大竹しのぶを持ってくると『黒い家』の再現になっちゃうし、もっと地味になっちゃうしなあ(^_^;)。
 ここに、日本映画の役者の層の薄さが露呈してしまっている。30代後半から40代前半で主役を張れる人ってのがいなくなってるのだね。だいたい「演技派」という言葉は日本においては「スター性のない」人に与えられてる呼称に過ぎないんで、実際にそう呼ばれてる人の演技が上手いかどうかってことになると、疑問符がつく場合が多い。いや、ヘタとまでは言わないが、感嘆するほど上手くもないんだよ、みんな。

 しかも更に困ったことには、どうやらカントクさんはこれを「ドタバタ」として作るつもりはなかったらしいのだ(-_-;)。じゃあマジメに作ってるかというと、そういうのとも微妙に違うから、さてどう言ったらいいものか。
 倍賞美津子演ずる吾妻“師匠”ヨシエが100円貯金をしている。いつか北海道に行って、オーロラを見るのが自分の夢だ、と原田美枝子の香取雅子に語る。しかしその夢をヨシエは果たせなくなる。物語のラスト、雅子は師匠の代わりにオーロラを見に、北海道に行くのだ。
 ヒッチハイクでトラックに乗った雅子は、女の運転手(吉田日出子!)に「どこに行くんだい?」と問いかけられて、「オーロラを……」と答える。
 「そりゃでっかい夢だ!」と大笑する女運転手。そしてトラツクの行く手には「ホントに」オーロラが広がっているのだ。
 なにが痛いって、これが全く「ギャグ」ではないということなんだよなあ。脚本家、これから先の雅子に何か希望があるとでも思ってんのかね? 確かに直接人を手にかけているわけではないが、雅子は死体損壊、遺棄の犯罪者なんだけどねえ。
 どうもこの物語、「日常に縛られて耐え忍んでる女は、罪を犯してでもそこから脱出していいんだよ」なんて「女の甘え」を肯定してるような描写がそこかしこに散見しててイヤラシイんだよなあ。平凡がそんなにイヤか。家庭が崩壊したのだって、「ホントの私はもっと素敵で、アンタたちの日常につきあってやってるだけなのよ」って自分の高慢ちきな態度が原因だとは思わんのか。いや、マジな話、この雅子って女、シンデレラ症候群を未だに引きずってるんだわ。だからって、どうして選りに選って、香川照之に引っかかるかな(^o^)(原作じゃ間寛平のほうにも引っかかってるらしい)。
 しかもオーロラまで出すなんて、明らかに監督は、そういう女に「媚びた」演出してるしなあ。

 映画を見終わってのしげとの会話。
 「地味だったなあ、オマエは面白かったか?」
 「つまんなくはないけど、面白いってほどじゃ……」
 「だよなあ。よかったのはせいぜい小木さんかなあ。いや、あのトシで『万引き』しちゃうんだもんねえ」
 「あ、あれは面白かった」
 「でも女房が原田美枝子だったら万引きしたくもなるよなあ。情けない亭主やらせたら小木さんは上手いねえ。『模倣犯』も似たような役だったじゃん」
 「オレ、実は小木さん好きっちゃ」
 小木さんというのは小木政光氏のことである。リストラされて妻からもバカにされてると感じてて、つい万引きしちゃうという役。脇にばかり目が行ってしまうのは我々夫婦の悪いクセではあるのだが、実際、この人の情けなさぶりが一番リアルで上手かったんだから仕方がない(^_^;)。 


 北朝鮮の拉致事件で、一番洗脳度の強かった蓮池薫さんの気持ちが随分変わってきたらしい。その立役者であるのが兄である透さんなのだが、一連の事件で私が一番「キャラ立ってるな」と感じてるのがこの方だったりする。
 いや、オウム事件の件でもそうだが、一度かかった洗脳を解くというのは容易なことではない。特に「朝鮮の南北分断は日本のせい」とまで思いこんでいる(日本が荷担してることは否定しないが、一番の元凶は米ソの冷戦じゃないの?)薫さんの洗脳をいかに解いていったものか。透さんの談話によると、相当理詰めで薫さんを説き伏せていったらしいが、こりゃたいしたものである。私もノストラダムスを信じてる人とかユリ・ゲラーを信じてる人とか幽霊を信じてる人とか河童を信じてる人とか(いるのだよ、九州には)、いろんな人に出会ってきてるが、その信念を覆せたことは一度もなかった。覆そうと考えたこと自体なかったんだけれども。
 北朝鮮は薫さんたちの洗脳が解けるとは夢にも思っていなかったのではないかな。だからこそ今まで「生かして」来てたんだし、24年も経ってるんだから身も心も北朝鮮人になってると思い込んでいたのだろう。いや、私もそう思ってた。だからこそ日本に永住するのは厳しいのではないかと思っていたのだ。
 ところがどっこい、五人の洗脳があっさりと解けてきている。どうもこれは五人の方の「演技」ではないようだ。薫さんの場合、透さんの説得が効を奏したのは間違いなかろうが、もしかすると北朝鮮の洗脳技術というのも案外たいしたことがないのかもしれない。というか、自らの体制を過信しているために、単純な情報隠蔽のみで洗脳は事足りるとか考えてたのではないか。
 考えてみれば、「生きて帰って」来られたのが五人だけ、ということは、ほかの人たちは洗脳に引っかからなかったか、早々に解けたということでもあろう。それだけ、「事実」を見る目がしっかりしていたということだ。帰還された五人の方のことを、いささか単純な思考の方々、と言ったら聞こえは悪いが、実際、騙されやすく覚めやすい人たちなんだなあ、という印象は拭えない。もっとも、だからこそ命を永らえることができたわけだろうが。
 そう考えると、北朝鮮の、あるいはアジア諸国の「日本はあの侵略戦争を全く反省していない」って洗脳も、ことによると消すことができる日が来るかもしれないとちょっと期待したくなる。この言葉の一番の欺瞞は、どんなに「反省してます」と言っても、「してない」と相手が拒否してしまえば、反省してないことにされてしまうという点にあるのだが。なぜかこのことについては「日本人が反省してない証拠」を他国の人々は提示しなくていい、ということになってるようなのである。
 将来、北朝鮮が潰れて南北統一がなったとしても、さて、日本に対する敵愾心がそう簡単に消えるとは思えない。それこそ日本人の全てが「反省」しているわけではないことも事実だからだ。一部の連中の高慢をあげつらって、多数の礼節ある態度の日本人までも蔑むアジア諸国の人々の態度はたまったものではないが、愚かさは国の別を問わず、人間であることの必然でもある。やっぱ気長に見ていくしかしゃあねえってことなのかもね。


 マンガ、なかいま強『うっちゃれ五所瓦』3〜6巻(完結/小学館文庫・各670円)。
 デビューは『月刊ジャンプ』の『わたるがぴゅん!』だから、もともとは集英社系の人である。ちばプロ出身だから、初期の作風を見ると、確かにちばてつやの『おれは鉄兵』やちばあきおの『キャプテン』の影響を受けたと思しい画風や「間」が見受けられる。それが、別に『ジャンプ』をおん出たわけでもなく、小学館の『サンデー』に『五所瓦』の連載を始めた時はちょっとした「驚き」だったものだ。しかも「小学館漫画賞」も取っちゃうし。
 「『サンデー』にも『ジャンプマンガ』がほしかったのだろう」とはよく言われたことだが、確かに友情・努力・勝利のジャンプ三原則(^o^)を標榜したようなドラマ展開、ラブコメ全盛の1980年代に、しかもあだち充『タッチ』を擁したその牙城たる『サンデー』に、全く可愛い女の子が登場しない(描けないわけではないことは『わたるがぴゅん!』を読めばわかる)、それどころか殆どが「男の裸ばかり」という相撲マンガを連載したということは実に「異例」ではあった。
 しかし、ジャンプ的要素が横溢していても、私はやはりこれは「サンデーマンガだったなあ」と思ってしまうのである。それは何より、当時の単行本にして「10巻」という実に「適度な長さ」の印象によるものだ。なにしろ武蔵山高校の相撲部の戦いは地区大会しか描かれない。しかも団体戦のみで個人戦を五所瓦は棄権してしまうのだ。ドラマはまさしく「団体戦優勝」のゴールにのみを目指していて揺るぎもしない。半端な場繋ぎエピソードもなければ、敵役のインフレ(^o^)もない。最大のライバルは最初から最後まで田門一人。彼を「うっちゃる」ことのみにドラマは収束していくのである。人気があればダラダラ続き、なければムリヤリな展開での打ち切りが普通のジャンプ漫画とは全く印象が違う。一言で言えば「完成度」の差なのだ。ジャンプファンの方々には悪いが、ここ20年で完成度の高さを感じたジャンプマンガと言えば、『ヒカルの碁』第一部くらいしかない。
 『サンデー』のいいところは、たとえ人気がイマイチな漫画であっても、10週打ち切りなんて問答無用なことはしないところである。人気がなかったと思しいあだち充『いつも美空』、ゆうきまさみ『KUNIE』ですら5巻、1年は続けさせている。1巻しか単行本が出なかった連載なんて、殆どないのではないか。
 ジャンプマンガを一概に否定しようとは思わない。あれは基本的に「読み捨てマンガ」であるから、どんなに同じような展開、同じような連載が続こうと、構わないのだ。けれど、マンガに「ドラマ」を求める人間にとってはジャンプマンガはやっぱりつまらないのである。……昔はジャンブもここまでひどくなかったんだけどなあ。元凶はゆ○○○ごと車○○○なんだけどね。
 よく「スポーツマンガはマンガの王道」と言われるが、『五所瓦』は王道中の王道である。しばらく絶版だったのが文庫化されてこうして読める、これは実に嬉しい。
 小ネタだけれど、関西弁の外人、アントニオのいる和樽高校の選手の名前は吉本新喜劇の役者さんたちから取られている。花紀京、岡八郎、間寛平(4人目は不明。木村進か船場太郎だろうなあ)であるが、当時吉本は東京進出を果たしておらず、これは吉本ファンのみの密かな楽しみであった(よく見ると顔もちょっと似せてある)。

 しげも気がついたら『五所瓦』を読んでいたが、タイトルを勝手に『うっちゃれ屋根瓦』と呼んでいた。だから似てる言葉で勝手に代弁すんなって(-_-;)。


 マンガ、叶恭弘『プリティフェイス』1巻(集英社/ジャンプコミックス・410円)。
 ジャンブマンガくだらねーと言いつつ、しっかり買っちゃってるよ、こいつは。だって女の子の絵がかわいいんだもん……ってバカか(-_-;)。
 女の子が可愛いと言っても主人公の正体は実は男。交通事故で瀕死の状態に陥った高校生、乱堂政は片思いの相手の栗見理奈の写真を持っていたために、その顔に整形されてしまったのだ! しかも理奈には失踪中の双子の姉、由奈がいたために間違われる羽目に……。
 って、すげーご都合主義。いや、ここまで開き治ってると逆に文句はつけたくなくなるんだけどね。
 というか、これって今までありそうでなかなかなかった設定ではないかと思うのだ。事故にあって体を再生した時に女のカラダに……というのは今までにもいくらでもあった。最近では秋本治の『Mr.Clice』あたりが有名だが、個人的には安永航一郎の『県立地球防衛軍』でカーミ・サンチンが一回女にさせられた(けどしっかり女装して楽しんでた)のが好きだった。
 けれど、乱堂は顔だけ女で体は男のまま。これが完全に女になってしまうと実はマンガとしてはドラマを作りにくくなる。「TSF―Transsexual Fiction(Fantasy)」とか名前がついてるらしいが、即ち心は男なのにカラダは女という性のギャップにキャラが苦しむのが定番で、トイレはどうするのかフロはどうするのか生理を味わったら男はどう感じるのかとか、いちいち描写しなけりゃならない部分が多い。しかもこれって辛気臭いばかりで、作者によっぽど力量がなけりゃ、ドラマ的にはなかなか面白くできないのだ。『転校生』を見れば分る通り、「入れ代わりネタ」にしてキャラを比較して面白味を出すとか、工夫が必要になるのである。かと言って、『らんま1/2』や『天使な小生意気』みたいに主人公が女になってることに全然恥ずかしさを感じないのも不自然過ぎる(『勝手なやつら』以来、ずっと高橋留美子ファンであった私だが、『らんま』で彼女は「堕ちた」と思った)。
 乱堂は顔は確かに女に整形されてしまったが、正体を明かさないのはあくまで姉の由奈を思う理奈を安心させる「男」としての義侠心ゆえにである。カラダまで女になっているわけではないから、男としてのアイデンティティが揺らいでいるわけではない。女装はしていても、趣味なわけでも女子更衣室を覗くためでもないのだ(しょっちゅう鼻血出してるし(^o^))。その可愛い絵柄と裏腹に、なかなかどうして、正統派少年マンガのスピリットを持っているのである。
 でもやっぱり一番気に入ってるキャラは主治医の真鍋だったりする。こういうマンガにマッドサイエンティストはつきものですがな。もっとも、乱堂の顔を女にしたり人口バスト作ったり、サイエンティストというよりは、シュミの人なんだが(^o^)。……「真鍋」って名前、もしかして『県立地球防衛軍』の「真船」に影響受けてるんじゃないかな。
 でも心配なのは今後の展開だなあ。姉の由奈が「男」になって登場してくるなんてベッタベタな展開にならなきゃいいんだが……って今でもベタベタじゃあるんだけど、ともかくキャラがみんな可愛いから許す(* ̄∇ ̄*)。

2001年11月03日(土) 10000HIT!o(^▽^)o /映画『エボリューション』/『電脳なをさん4』(唐沢なをき)ほか
2000年11月03日(金) 文化の日スペシャル/映画『マン・オン・ザ・ムーン』ほか


2002年11月02日(土) トイレはなが〜いお友達/映画『ザ・リング』/DVD『北京原人の逆襲』

 公開初日の『ザ・リング』(日本版の『リング』とは「ザ」がつくことで区別するらしい。パンフの表紙は英語で『THE RING』)を見に行く。
 どこでも上映してるので、さて、どこで見ようか迷ったのだが、初日でも空いてそうなところと言えば、粕屋のワーナーマイカル福岡東しかない。
 シネコンであるにもかかわらず、どうして客が来ないかと言うと、これが福岡の中心から離れてて、福岡空港の向こう側にあるからなのだね。博多・福岡在住の人間はキャナルシティや天神、百道に行くし、南の方の人間は同じワーナーマイカルでも大野城のほうに行く。空港を迂回して行くならトリアス久山の方が近い。場所的に粕屋の人間以外になんのメリットもない、というところなのだ。……あの、粕屋って未だに「市」に昇格できないくらい人口少ないんスけど、そこによくシネコンおっ立てる気になりましたね。地価安いからだってのはわかるけど(面積もだだっ広いけどもとはタンボだったに違いない)。
 実際、いつでも閑古鳥が鳴いているので、いつ潰れてもおかしくない気がしてるのだが、映画を見ようと思ったらこんなに空いてて回りを気にせずに鑑賞できる映画館はめったにない。予想通り、封切り初日だというのに客は十数人。……キャナルシティなどは二館上映までしてるのにねえ。
 ホントに大丈夫か(・・;)。

 『ザ・リング』、見た感想は随分本家の『リング』に敬意を払ってるなあ、といった印象。なにしろほんのさりげないシーン、父親と息子が雨の中、出会って見つめあってすれ違うシーン、そんなところまで再現しているのだから。
 もっとも高山竜司に当たるその父親ノア(マーティン・ヘンダーソン)は日本版の真田広之が演じたような超能力者という設定ではない。ごく普通の人間だから、その血が子供に遺伝して息子が貞子との交流を果たしたようには描かれていない。アチラでは子供は自然に異界との交流を果たす、というように見られているのだろうなあ。
 なぜ両親が離婚したかという設定、日本版ではなんとなくこの血の濃すぎる親子の関係が密接になるのを恐れて、といった印象があったのだが、アメリカ版ではただ単にこの息子を父親が恐れたためのように見える。そう推測すると、これは貞子とその親との関係と二重写しになって、ちょっと面白い趣向ではある。具体的に描かれてるわけじゃないからこれは私の勝手な妄想なのだが。
 理由が描かれないといえば、貞子にあたるサマラ(ダヴェイ・チェイス)がなぜ両親に憎まれ、井戸に落とされたかもいまいちハッキリしない(もちろんわざとハッキリさせてないのだろうが)。
 サマラが生まれてから、その村の馬がやたら死んだらしいことがわかるが、それとサマラの誕生との因果関係があるのかないのか、あるとしてもそれが何をきっかけにして村人たちに認識されたのかがよく解らない。観客に対しては、その村に船で行く途中に、母親のレイチェル(ナオミ・ワッツ)が運搬中の馬に触れようとしたら、突然馬が狂い出して海に飛び込んで死ぬという描写で暗示されるだけだ。……でもだからどうして馬が死ぬんだよう。サマラ、馬にウラミでもあるのか?
 日本版にあったかつての超能力実験を幻視するシーンもカットされてるから、どちらかというとサマラ自身に問題があるというより、村人たちの旧弊な偏見の方にもともとの問題があるように思える。サマラを殺すのも父親ではなく母親に変更。このサマラを演じている少女がいかにも儚げで哀れだ。呪いの怖さよりも先に、「もっと呪っていいよ」と同情したくなる。ホラー映画としてはこれはマイナスポイントかもしれないが。だから井戸の中からサマラが生前のままの姿で浮かびあがってきたときの哀れさも弥増すのである。
 原典版とリメイク版のどちらが上だったか、というのはそれぞれに長所短所があり、あまり問題にしなくてもいいように思う。松島菜々子とナオミ・ワッツのどっちが好みか、くらいの違いでもあったりするし(^o^)。ただ、死者の顔やサマラの呪いの顔をリック・ベイカーがゴテゴテと作りあげてるのはいただけなかった。アンタその顔、『ゴーストバスターズ2』の大魔王ビーゴと同じじゃん(^_^;)。日本版みたく「目」だけにしといてくれたほうがずっと怖かったと思うけど、それじゃベイカーの働きどころがなかったのかもね。

 しげはいつものごとく私の手を握ったまま離さなかったのだが、困ったことに、終映間際、トイレに行きたくなってしまった。ちょうどサマラがナニし終わったころである。
 「……トイレ行きたいんだけど」
 無言で首をぶんぶんぶん、と横に振るしげ。
 「……ガマンできねえよ」
 哀願するように私を見るが、このあともう怖いシーンはないはずだ。映画館で大のオトナがチビってしまっては、しかもそれが『リング』を見たあとだとシャレにならん。ガマンにガマンを重ねたがもう限界。字幕が流れ出した途端、振り解くようにしてトイレに駆けこむ。ちょっと染みてたが、だだ漏れにはならずにすんだ。だから私ゃ手術の失敗で括約筋が緩んでるんだってば。

 パンフレット、中が袋とじになっているが、サマラ役のダヴェイ・チェイスの写真を映画を見る前には見ないでね、という趣旨らしい。1年もすれば顔写真が知れ渡ることになるのは解りきってるのだが、最初はこういう配慮が確かに必要だろう。それくらいこのサマラというキャラは映画本編を支えるキャラとして「立って」いるのである。いやもう、少女の怖さと可愛さを両方兼ね備えてる点では『野性の証明』のころの薬師丸ひろ子を凌駕してますね(例えがイマイチ適切でないが)。
 もしも『らせん』や『ループ』も作られるなら、早いとこ撮って、もう一回ダヴェイちゃんに出演してもらいたいところだけれど、ムリだろうなあ。


 帰宅して、昼寝をしたり、日記を書いたり。
 日記の方は、もう随分更新が遅れているのでいい加減爆走したいのだけれど、如何せん、カラダがついていかない。職場で睡眠が取れればいいのだが、今んと子仕事が全然楽にならないしな。
 なのにウワサによればまたもやボーナスがカットされるそうである。昇給も数年ストップしてて、こないだ久しぶりにいちまんえん上がったばかりだというのにまたかよ。一応給料は出てるんだし、クビになってないだけいいじゃん、と言われそうだが、まだなってないというだけの話だ(^_^;)。
 

 夜、エロの冒険者さん宅で、DVD『北京原人の逆襲』を見せてもらう。
 なんだか今日はやたらとトイレが近くて、何度かトイレに立ってしまったが、まあたいした見逃しはあるまい。
 アンジェリーナさんが来られていたが、エロさん宅に来られるのは初めてだとのこと。てっきり以前からAIQの溜まり場みたいになってると思い込んでいたのだがそうでもなかったのか。

 『北京原人の逆襲』(1978・香港=ショー・ブラザーズ)、原題は『猩猩王』、ありゃ「北京原人」って意訳なのか? と思ったら、本編中にちゃんと“Mighty Peking Man”のポスターが。こちらが米版のタイトルである。
 ジョン・ギラーミン版『キングコング』が公開されるのに合わせて、そのパチモン企画として作られたものの一本だが、香港製作だけあって、多分脚本家のクレジットは名ばかりであろう(っつーか、あったかどうか記憶にない)と思えるドラマ展開。もちろんこういうバカ映画において、「行きあたりばったり」というのは実にイイことである。でなきゃ、誰が「キング・コング」ものと「女ターザン」ものを合体させようなどと考えるものか(^o^)。
 パチモンであるにもかかわらずこれだけ「有名」だと、ストーリーやらなんやらはあちこちのサイトに詳しく紹介されているのだが、ちょっとは触れておかないと、ツッコミも入れられない。

 主人公のジョニー(ダニー・リー)、恋人を実の兄に寝取られて(恋人の部屋に来たらホントに兄貴と寝ているところに出くわすという、公開当時でも泣きたくなるくらい使い古されたシチュエーション)、ショックのあまりバーで飲んだくれてるところを、北京原人ショーで一山当てようという興行主に誘われて、そのまま、北京原人探しの一団に加わる。
 ……この「ショックのあまり」と「北京原人探し」の脈絡が私の脳内では全然つながらないのだが、一応これが後の展開の伏線になってはいる。
 「伏線」なんてものがあるなら、結構脚本は練られてるんじゃないの、と言われそうだが、ところがどっこい、そもそも表題の「北京原人」が、なぜキングコングであるのかがよくわからないのだ(もちろん本物の北京原人は巨大猿などではない)。ヒマラヤにいるのになぜ北京原人と呼称されているかはもっとわからない。冒頭のシーンでチベットの村を破壊するのだが、なぜ破壊してるのかも全然わからない。分らないが説明なんかは全くないので、見たまま納得するしかないのである。北京原人と今の中国人につながりがあるのかどうかは知らないが、もしそうだとしたら、今の中国人は古代人の超科学技術でミニサイズにでもさせられたのであろう。

 なぜか雪の殆どないヒマラヤを行軍する一行(^_^;)、興行主はジョニーをヒマラヤ奥地まで連れてきておきながら、あまりに行軍が厳しく、すぐにネをあげる(殆ど軽装で来てるからじゃないのか)。もっとも、厳しいと言っても、いかにも浅い川を象で渡ってたら、引いてた車が座礁するとかその程度。気のせいかもしれんが、なんとなくあの象、インド象じゃなくてアフリカ象に似てたような(^o^)。シェルパもなんとなくアフリカっぽいしなあ。ドラマ展開をアメリカのジャングルものに求めてるからそうなっちゃうんだろうなあ。
 トラに襲われたシェルパを無残にも射殺したりしておきながら、ついには「北京原人なんていないんだ!」と叫んで、シェルパともどもジョニーを置き去りにして逃げ出す興行主(ヒデエ)。何しに来たんだ。
 その直後にジョニーもトラに襲われるのだが、間一髪、彼を助けたのが女ターザン・サマンサ(エヴリン・クラフト)。もちろん金髪のグラマーである。子供のころ飛行機事故で墜落してそれ以来ジャングルで暮らしているので、英語はカタコトしか喋れない。けれどビキニのブラを付けてて後ろはホックで止めている(^o^)。トラさんは実はサマンサのお友達なのでした(トラを投げ飛ばすところは人形だけど、絡みの大半にモノホンのトラを使っている。スゴイぞサマンサ!)。

 サマンサの案内で北京原人とも出会うジョニーだが、なぜかすぐに香港に帰ろうとはせず、サマンサと愛欲の生活を送る(おいおい)。サマンサを育て愛していた北京原人は、当然嫉妬して「うお〜うお〜!」と叫ぶのだが、これもサマンサの望むことならと、父親の心境で肩を落として身を引く。……そこまでの知性があるならなぜ暴れてたんだ北京原人。
 ヘビにフトモモの奥を噛まれたサマンサが(そんなに油断しててよくジャングルで生活できてたな、こいつ)、オルガス……ああ、いや、苦しみの声をあげて身をくねらせているのをどうすることもできずに呆然としているジョニーの前に、この北京原人が薬草を摘んできてハラハラと落としてあげたりするのだよ。いい奴だぞ北京原人! しかも薬草学の知識まである! だからどうして暴れてたんだ!

 で、そんな北京原人を香港に連れていけばスターになれるぞ、とサマンサをだまくらかして、大型船に乗せて(インド洋から東シナ海を回ったんだろうな。エラい遠回りや)香港に帰るジョニー。途中、嵐で岩に乗り上げた船を、北京原人が岩を押して助けてやるエピソードあり。普通、こういう巨猿ものは麻酔で眠らせるのだが、この北京原人はいい奴なので、鎖で縛りはしても、麻酔を打つ必要はないのだ。だったらやっぱりどうして暴れ……(-_-;)。
 興行主とも再会して、北京原人はトラック数台との綱引き勝負などのショーを演じさせられる。トラックの数、ほんの数えるほどしかないが、北京原人、意外と弱くて負けそうになる。このあたりの描写も、北京原人に同情してもらおうというニクイもの。

 さて、ここで冒頭の伏線、ジョニーを手ひどく振った女が、「お兄さんよりやっぱりあなたがいいわ!」とジョニーに復縁を迫る。これに乗ってキスしちゃうのだこの男。特撮の主人公で、これだけ卑劣な男がかつていただろうか(ー∇ー;)。もちろん、その現場をサマンサは見ちゃうのである。
 「私をだましたのネ!」と随分英語が流暢になったサマンサ(^o^)、部屋を飛び出し、檻に入れられた北京原人のところにやってきて「ジャングルに帰りたいわ……」と泣き崩れる。そこにやってきたのが件の興行主。「何泣いとんのや、慰めてやるよってに、わしの部屋に来んかい」と、ムリヤリサマンサを部屋に連れこんでレイプする。
 ……あ〜、伏線って、これ怪獣映画の伏線じゃないわ。昼メロの伏線だ。
 で、この興行主、バカなことに北京原人の目の前のホテルの一室で、窓空けたままサマンサを襲うのである。そら、北京原人怒るわ(^_^;)。
 鎖を引きちぎり、檻をぶち壊して、逃げ出した興行主を踏み殺し、香港の街を破壊しまくる北京原人。この香港の街、日本の有川貞昌の気の入ったミニチュアセットで、実に出来がイイ。『怪獣総進撃』の1.5倍はイイぞ。予算かけてんだろうなあ、こんな映画なのに。

 当然、最後はビルの上に登る北京原人。ヘリコプターで銃撃するもなかなか死なない。このへん、ギラーミン版「キングコング」より遥かにしぶとい。合流したジョニーとサマンサが北京原人にジャングルに帰るよう、説得を試みるが、軍隊はその間、攻撃をやめるとジョニーに約束しておきながら、ビルごと北京原人もジョニーもサマンサも爆弾で破壊しようとする。
 それに気付いたジョニー、爆弾を取り外そうとするが、時既に遅し、ビルは爆発され、北京原人は燃えながら地上に落下して死ぬ。かろうじて助かったジョニー、ヘリコプターの銃弾に倒れたサマンサを抱いて、夜の香港の街を見ながらいきなり終劇。
 ……え? 余韻は? 間がねー!
 まるでヒッチコックのような演出で(あの人も余韻を嫌ってあっさり終わらせることが多いのである)、原典版『キング・コング』の「野獣はいつも女に殺されるのさ」みたいな気の利いたセリフも、「あの北京原人が一匹だけとは思えない」的な文明警鐘のセリフも全くない。「別に見せるものは全部見せたんだから、これで終わってイイじゃん?」っていう製作者の発想が実にハッキリしてるのである。
 ……エンタテインメントに徹してるなあ(^o^)。

 「キング・コング」ものというのは、実は「怪獣映画」というよりは「美女と野獣」ものの恋愛映画の系列に連なる。ファム・ファタールによる男の悲劇なのであって、『ゴジラ』よりよっぽど『風と共に去りぬ』に近いのだ(もちろん、レット・バトラーがキング・コングだわな)。
 「怪獣映画」というのは、やはり日本の『ゴジラ』が作り出した概念であるのだ。怪獣は怪獣であって、恐竜でも巨大生物でもモンスターでもエイリアンでもない。「でも『怪獣』って、英語で『モンスター』って言うんでしょ?」と反論されそうだが、実は『ゴジラ』を「モンスター映画」というカテゴリーに入れることも適切ではないのだ。フランケンシュタインのモンスターには人間によってもたらされた「悲しみ」がある。しかし、ゴジラはもともと純粋な恐怖の象徴なのであって、人間的な何物をもそこには見出せなかった。ゴジラが暴れてても別に「ゴジラも水爆ですみかを追い出されて、ツラかったのよね」とか同情したりはしないのだ(『失われた世界』や『恐竜100万年』なども「秘境映画」「恐竜映画」のカテゴリーで考えるのが妥当である)。

 『北京原人の逆襲』は、ラスト近くまで全く怪獣映画のテイストを見せず、旧来の「美女と野獣もの」のドラマ展開に昼メロを混ぜつつ(^_^;)、冒頭とラストだけ「怪獣映画」の演出で挟むというメチャクチャな構成になっている。到底マトモな映画としては評価できないのだが、しかしちょっと待ってもらいたい。
 先ほど「コング」ものは恋愛映画であって怪獣映画ではない、と書いたが、その要素が全くないと言いたいわけではない。オリジナル版『キング・コング』にも、ただの恋愛映画なら不必要な、コングと恐竜の対決や、文明の利器たる飛行機と野性の象徴たるコングの対決を描いた「見世物」的要素はあるのだ。それがヒロインたちを助けるためのコングの「愛」による行為だったとしても、見てる観客はそんなリクツなどどうでもよく、ただスペクタクルが味わえればよかったのだ。その点、『キング・コング』は名作と言うよりやはり「怪作」「B級エンタテインメント」の名がふさわしいだろう。
 『北京原人』を全く飽きずに見られるのは、まさしくこれが「映画」以前の「見世物」テイストに満ちているからである。パチモンと評価されることが多いが、スペクタクルの要素を排しまくったギラーミン版の『キングコング』よりも、よっぽど『キング・コング』のリメイクになっているとは言えまいか。
 ハイ、みなさん、女のひとのはだか、好きですね〜。おチチやおシリが揺れるの、見たいですね〜。女の人のえっちな声、聞きたいですよね〜。
 街が破壊されるのも気持ちイイですよね〜。爆発、スカッとしますよね〜。
 こんな感覚で、我々はオリジナル版『キング・コング』も見ていたのではないか?(ヒロインのフェイ・レイのマニアが未だにいることがそれを証明している) 
 惜しむらくは、ラストで軍が北京原人を倒す手段として、爆弾なんてチンケなものでなく、メカ北京原人を出してこなかったことである。そこまで行けばエンタテインメントとして完璧だったのになあ(そうか?)。

 終映直後にぴんでんさんが来られるが、我々とアンジェリーナさんは先に辞去。ぴんでんさん、ガッカリされるが、「みなさん残らないと知ったら来ないだろうと思って黙ってたんだよ」と、エロさん、ヒドイことを言う(^_^;)。
 気分的には楽しい映画を二本も見て高揚感があったので、朝までカラオケでもよかったのだが、明日が早いので、断念。アンジェさんをご自宅近くまで車でお送りして帰宅する。夜のこととて、しげ、道に迷いかけたがなんとか無事にお送りすることができた。
 アンジェさん、しげの運転について何か文句を言うかなあ、と思ったが別になんということもなかった。日頃しげの車に乗ってるばかりで他人との比較ができにくいのだが(タクシーに比べるとトロイ)、多分もうヘタではないのだろう。重畳重畳。

 帰宅して今日のトイレの回数を数えてみたが、10回を越えてた。
 いくら糖尿だってなあ、そこまでガマンしきれないわけでもない日もあるのに、今日はどうしちゃったんだか。

2001年11月02日(金) スカートの下のお花畑/『HUNTER×HUNTER』13巻(冨樫義博)/『20世紀少年』7巻(浦沢直樹)ほか
2000年11月02日(木) 部屋片付けてたらあちこちから○○が……/『古館伊知郎トークブルース・お経』



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藤原敬之(ふじわら・けいし)