無責任賛歌
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| 2002年10月11日(金) |
呪う女(・・;)/『お笑い創価学会』(佐高信・テリー伊藤)/『世紀末リーダー伝たけし!』1巻(島袋光年)ほか |
今日は一日出張。 帰りが何時になるか分らないから、しげには地下鉄の駅まで朝だけ送ってもらう。 楽しい出張だったのだけど、やっぱり職業がバレちゃうので、中身は書けないのであった。こうなると職業バラした裏日記も書きたくなるなあ。会員制にしてそういうのも作ってみようか。……って誰がわざわざ会員になってまでこんなのよむってんだろうね。思いあがりも甚だしいのである。 書けることって、昼食に食ったうな丼プラスうどん定食が美味かったってことくらいかな。けれど、店の名前もやっぱりどこに行ったかバレちゃうので書けない。つくづく残念なことである。
コンビニで『週間文春』を立ち読み。 小林信彦氏が鮎川哲也の死去について一章まるまる述懐している。 鮎川氏が鮎川哲也としてデビューするまでに様々なトラブルに巻き込まれたことは、とみに有名である。『黒いトランク』懸賞金未払い事件を初め、『赤い密室』が、高木彬光の筆が入っていると大坪砂男に中傷されて(事実は鮎川氏が高木氏の家に挨拶に行ったのが誤解されただけ)、推理作家協会賞を逸した件なども小林氏は紹介し、その結果、鮎川氏は「被害妄想」になったと説く。 小林氏に対してあるときは親密な態度を取ったかと思うと、あるときは極端に疎遠になり、そのワケというのが「あなたは本格派を見限ってハードボイルドに行ったかと思ってました」という全く勝手な思いこみなのだから、これは小林氏も往生したことだろう。まあ、確かに小林氏の作風を見ればそう見えなくもない。もともと本格推理小説は小林氏は『神野推理』シリーズくらいしかなく、あまり得意とは言えない。確かに鮎川氏が被害妄想気味であったことは間違いないだろうが、これはまた、作風の定まらぬ(と言うか何がやりたいのか分らない)小林信彦に対する痛烈な批判でもあった(未だに定まってないとも言えるな)。 一時期、深くつきあっていた小林氏ならではの視点ゆえに、見方によってはあ鮎川批判とも受け取れる筆致だが、これはもちろん「記録」なのである。既に鮎川氏は「歴史」なのだ。個人の名誉とか、そういうことよりも、氏の言動をそれに直接接した人々が感傷を交えずに記録することのほうが、優先されるべきことなのである。
内田有紀と吉岡秀隆が、結婚を決めたそうな。前にも書いたような気がするが、今回が本決まりらしいから、一応、内田有紀の隠れファンである以上は(実はそうなんである)改めて書くことにする。で、どうやらこの結婚が内田有紀の引退、ということにもなるらしい。 『北の国から』の完結編は一応ビデオに録っちゃいるんだけれど、まだ見返してない。共演中に愛が芽生えたって話だが、内田有紀は真剣に役者としての到達点を目指してたから、不器用だけれど間違いなく「役者」である吉岡秀隆に惹かれたのも分らないではない。ただ、内田有紀の役者としての到達点が果たして『北の国から』でよかったのかどうか、ちょっと残念には思う。でもじゃあ、これから彼女の役者魂を満足させられるドラマが作られることがあるのかというと、確かに望み薄ではあるのだ。 内田有紀の役者としての才能は同年代の女優の中においては傑出していると言っていい。しかし、それを見抜いている映像クリエイターが殆どいないのが現状なのである。視聴者もまたその演技を斜めに見て、ポッと出のアイドルの余技ぐらいにしか思ってないのではないか。じっくり見れば彼女がいかに「役」に没頭してるかが分らないはずはないのだが。 くだらん連ドラやバラエティばかりに使われて、ただ日々そのイメージを消費されるに任せる状況の中にあっては、役者を続けることの意味を自ら問うことになるのも自然の流れだろう。彼女は「仕事」をしたいのではなく、「演技」をしたいのだから。 脚本家・倉本聰および演出の杉田成道を、結局はテレビの枠の中に留まっていて、映像演出としては雑な撮り方しかしていないと、私はあまり買ってはいないのだが、それでもほかの連ドラのいい加減さに比べれば遥かにマシである。これを花道にできるのであれば、役者人生に終止符を打ってもいいや、という気分になったとしても充分首肯できることではある。 それにしても惜しい。なんとかもう一度、内田有紀にふさわしい役を、映像関係者は模索して彼女を翻意させる努力をしてほしいものだが、なんだか望み薄な気がする。願わくば彼女自身の役者魂が再び北島マヤのごとく燃えあがり(^o^)、「チョイ役でもいいんです、使ってください!」(つか劇団に入った時はまさしくこうだったのだ)とどこぞのオーディションを受けるか、夫となる吉岡秀隆が「もう一度やれよ」と言ってくれるかしないかなあ、と思うのだが。 でも、富良野で結婚式挙げるのはちょっと……ねえ(^_^;)。
佐高信・テリー伊藤『お笑い創価学会 信じる者は救われない 池田大作ってそんなにエライ?』(光文社/知恵の森文庫・520円)。 実は昔、実家の床屋では聖教新聞を購読してました。でも別に創価学会の信者だったってわけではなく、知り合いから頼まれて置いてたそうです。でもはっきり言って読むとこ全くないし、じき、置かなくなりました。まあ、昔から世間から乖離したことしかやってなかったんですね。 とにかく宗教とか政治結社やらに強く誘われたことが殆どありません。知り合いにそちらの人も結構いるんですが、私だけは絶対に誘いません。「しっかりした顔立ちだからでしょう」とか言われたこともありますが、果たしてホントにそうなのか。単に神も仏もないやつと思われただけではないのか。あるいは勧誘してもこいつはかえって組織内を引っ掻き回すと思われたのではないか。おかげで平穏無事な生活送れてますけど。まあ、神様いなくても人間生きて行けますよね。 さて、この本、一応、創価学会の「批判本」ということになってますけど、別に宗教活動自体を否定してる本じゃないんですね。脱会した人の談話が収録されてますが、その人も別に日蓮宗そのものを捨てたわけじゃないので。 つまり「宗教団体」のあり方の是非を問うているわけで、見方を変えればこれ、「あるべき宗教団体」の「指南本」になってるわけです。 ムリに金集めするな、トップ批判を自由にさせるようにしろ、なんだか宗教団体を批判しているというよりバブル期の企業を批判しているような言質。全く、この本の言う通りにしていれば、創価学会はもっともっと発展していくぞ、と言わんばかりです。 でもやっぱりこの本が単行本になったときには、焚書した学会員もいたことを後書きで佐高氏が暴露してますね。学会員の人たちって、やっぱり馬鹿多いみたいですよ。
出張から帰宅したのは6時過ぎ。 台本原稿を書かねばならないのだが、しげが「ラーメン食いたい!」といきなり言い出したので、筑紫通りの「金龍」に行くことになる。 「金龍」自体はチェーン店で、家の近く、車で二分の距離にもう一軒あるのだが、チェーン店でありながらメニューが全く違うのである。筑紫通り店には、汁なし、タレと酢で食う「金龍そば」があるのだ。 昔はこの金龍そば、「油そば」と言っていたのだが、語感が悪かったらしく、名前を変えた。確かにいかにも油食ってますって感じのネーミングじゃあ、ダイエット指向の強い若い人には全く売れまい。でも以前よりはタレの油分、幾分少なくなってはいるようである。 しげ、普通のラーメンと油そば、どっちを選ぶか長々と迷う。こういう定食屋系の店は注文が決まらないのをひどく嫌がる傾向があるから、「両方頼め」と言って、食べ切れずに余ったのを私が食べることにする。 あれだけ食いたがっていたのに、いざとなるとしげ、食べながら「おなかが痛い」と言い出す。結局相当私が食べる羽目になった。だからわしゃ糖尿だっちゅーのに。
ラーメン食いながら、島袋光年の『世紀末リーダー伝たけし!』の1巻を読む(買ったんじゃないから値段を記すのもなんなんだが、一応、集英社/ジャンプコミックス・410円ね)。 あー、たけしって小学校1年生だったんだ。老けた顔の小学生ってネタもこれまでに結構あったし(タイトル忘れたけど『サンデー』で連載してなかったか。『椎名百貨店』のネタにあったのは覚えてるんだが)、ギャグもまあ、どこかで見たことのあるものが多い。『コータローまかりとおる!』のパクリもあったぞ(主人公とライバルと、お互いに強さを言い合ってる最中に不良が茶々入れて、二人から同時にノされるってやつな)。 イジメ問題とか扱ってるけど、展開や結末のつけ方は概して浅薄で、1巻読んだ限りではそんなに志の高いマンガには見えない。っつーか、ジャンプマンガで志の高いマンガがどれだけあるのか。『ワンピース』だって初期はパクリしまくりだったからなあ(構図やセリフまでマネしてるものがあるもので、とても換骨奪胎とか言い訳はできない)。 復帰する価値のあるマンガ家かどうかって興味で読んでみたが、まあ、こちらがその価値をどう計ろうと、復帰できる人はするし、できない人はできない。これだけ節操のないマンガ描いてた人なら、意外といけしゃあしゃあと復活しちゃうかもね。
帰宅してひたすら原稿書き。 しげがフスマの陰から、黙ってじっとこちらを見ている。 「……何見てんだよ」 「見てるだけ」 〜m( --)m (/;°ロ°)/ アレー 背後霊かおまえは。キーボードの上で指が硬直して、文が進まない。こりゃもうあかん、しげが寝てから書こうと思い、背中に突き刺さる冷ややかな視線を無視して風呂に入る。 風呂に入った途端に昼間の疲れがどっと出て落ちる。目覚めるともう午前様。 こりゃヤバいと、もう一度パソコンに向かうと、しげが、掲示板に愚痴を延々と書き残している。これがまたなんとゆーか、その(〇_o;)。 これはもう、私の筆致でその迫力を伝えることはできないので、しげの書いたものをそのままコピーしておこう。 掲示板の過去ログはそのうち流れて消えちゃうので(最近のものを除いて、保存はしてないのよ)、これも一つの記録である。
最初の締め切りは9月でした。 「叩き台でいいから」と30分位のものを頼んでいたのです。 できません。というか、とりかかってさえいません。 ・・・依頼したのは夏の初めでした。
今日から合宿です。
先週東京に行くというので、「1週間前の練習には持っていってみんなに見せてあげたい。あがってから東京に行け。」と言い、「分かった。」と言っていました。 勿論あがってません。 取り掛かったのは前日の夜。7ページできました。
今日から合宿です。
東京から帰ってきて「がんばって書くよ。」と言っていました。 今日までに2、3行『がんばり』ました。 でも、「金曜日にコピーしたいから締め切りは木曜日。」と言ったはずです。
今はもう土曜の朝。合宿当日です。 勿論出来上がってません。 今11ページ目です。そして風呂に入ってます。のんびりと。 締め切りの迫ってるものよりも書き込みを優先するのはなぜでしょう? 締め切り通りにできないのは「お前が邪魔するせいだ。」とか、「気分を乗せてくれないからだ。」とか言います。 私のせいですか? 我々は何しに合宿に行けばいいんでしょう? 台本についてのじっくりとした話し合いが出来るからと企画したものなのに。 基本がなければ何を話すのか・・・。 それとも私たちは大自然を満喫して肉練だけして帰ればいいんでしょうか?
何度も言うようですが今日から合宿です。 3回目の締め切りを過ぎてます。 出かける日の朝に慌ててコピーしろと言うわけですね。 しかも出来上がってない台本を。
ネットに繋げないように細工しようかと思いましたよ、ホントに。 レスに2時間掛けて、台本は休み休みゆっくり書いてやっと4ページ進んだだけ。 早めに取り掛かればブチブチ言われずに済むのに自分からそうしてるんだからわざとなんでしょう、きっと。
彼が仕事に出かけるまでに3時間を切りました。 本当にどうなるんでしょう。
今日は合宿当日です。
また風呂で寝てるんでしょうか・・・?
……呪い文かこれは(-_-;)。 しかし、日頃はあっぱっぱあで脳天気な文章しか書けぬくせに、これは客観的に見てもなかなかの名文である。いや、実際、舌を巻いたぞ。 これだけの文章が書けるのに、どうして戯曲は書けないのだ。毎回毎回私にばかり書かせているが、自分で何とかしようとは思わんのか、と一人ごちるが、今はもう、そんなことを言っている余裕はない。 「……書かんとマジで殺される」 私の命は風前の灯である。まさに残り3時間、しげはもすぐ目を覚ます。 果たして台本は間に合うのか、有久滅亡まであと3時間、あと3時間しかないのだ!(『ヤマト』だなあ、と思われますでしょうが、ミステリファンには『幻の女』なんですよ)
2001年10月11日(木) なぁじぃかは、知ぃらねぇどぉ♪/『ナジカ電撃作戦』第1話「華麗なるエージェントは 一輪の薔薇と共に」ほか 2000年10月11日(水) スパイと台湾論とこげぱんと/『こげぱん』(たかはしみき)ほか
| 2002年10月10日(木) |
ゴミとゴミとゴミの間に/『とむらい機関車』(大阪圭吉)ほか |
仕事がめたくそ忙しい。 もちろん悪いのは〆切ギリギリまで仕事しない私なんだけどさ。 日頃は仕事なんて日銭稼ぐための手段さ、あくせく働いたってしゃああんめえ、と無責任男を決めこんでる私であるが、忙しさの沸点ギリギリになるとかえって仕事に対するエネルギーが生まれてくるのである。気がついたらあの仕事この仕事その仕事と暴走気味にこなし、気がついたら他人の仕事まで手伝って片付けちゃってて、「有久さん助かりました」「有久さん、どうしちゃったんですか」とか言われてるのである。 なかなかやるじゃん俺、とか思ってたが、自分の仕事を一つやり忘れていて、同僚が代わりにやってくれていた(^_^;)。なかなか終わりよしとはいかないものである。
仕事が長引いたので、しげを駐車場で待たす。待たしたどころか、しげの仕事の時間にも間に合わなくなったので、結局わざわざ迎えに来てくれてたのに、とんぼ返りさせてしまった。ああ、これでまたしげの機嫌が悪くなるなあ。 しげ、帰り際に「台本は?」と聞く。 「帰ったら書くよ」 「時間ないやん」 「書き始めると早いから」 もちろん、その場限りのセリフなのだが、でもこのその場限りのセリフをなんとかこなしてこの40年というもの生きてきたのだから、もはやギリギリにならないと動けないというのは習い性なのである。
帰りついたのは9時過ぎ。当然、しげはもう仕事に出かけていていない。 いつものように、床に散らばった新聞、飲みかけのペットポトル、口を開けたままゴミが溢れかえっている透明の福岡市指定のゴミ袋、雪崩れを起こしかけている本の山、部屋の中は乱雑この上ないのだが、それでもゴミの隙間からニオイただよって来るように、いつもなら奥の部屋から「帰ったと〜?」と鼻にかかって間延びしたしげの声(あるいはイビキ)が聞こえてくるところである。それがシンとしたままというのは、なにか拍子抜けがする。しげとゴミがセットになって、すっかり我が家の風景に馴染んでいるせいなのだが、主のいないゴミの山はただのゴミだ(しげがいてもゴミはゴミじゃん、と言うのが正しい意見ではあろうが、まあそれはそれとして)。 一人寂しく買い置きのおでんを食うが、卵もスジも厚揚げもすっかり固くなっている。なんだか独身時代に戻ったような気分で、なんとなく侘しい。今も昔もウチはゴミだらけで散らかっていたのだが、昔はあえてゴミを片付けないでいたこともあった。小奇麗にしていると、なんとなく誰かが尋ねてくれることを期待しているようなものほしそうな感じがしてしまって、かえって自分自身が寂しく思えてしまうからだ。でも誰もいないからってゴミだけ溜めとくのもやっぱり寂しいのである。 やっぱりゴミの谷間からしげの顔が見えてこそうちはうちなのだろう。
ネット検索してて、田嶋陽子さんが七日に社民党を離党していたことを知る。 田島さんは私が心の中で密かに、栗本慎一郎、大槻義彦と並んで三大バカ教授と呼んでいるのだが、政治に口を突っ込んだのもバカなら、今更自分の立場が悪くなったからって離党するってのもバカな話である。 その理由については、朝鮮労働党と友好関係にあった党が説明責任を果たしていないこと、と述べているが、世間はみな一様にこう思っているだろう。 「何を今更」。 社民党が社会党時代から中国、北朝鮮にべったりだったことは政治オンチな私だって知ってることだが、この人はいったいこれまで世の中の何を見てきたというのか。ここまで政治オンチだと元々選挙に出ることすら憚られるのがごく当然な判断だと思うが、判断力ないから出ちゃうんだろうね。 当然、報道陣からも「党の体質を知らずに立候補するのは不勉強」と突っ込まれるわけだが、それに対して、「そうは思わない。結婚だって、してみないと相手のことは分からない」と答えたのは、バカの上にバカを重ねる発言だった。それじゃまるで、コート着た変質者が「お嬢さん、これをご覧」とスッポンポンの前を晒したら、「まあ、立派、でもしてみないと具合は分らないわ♪」と自らマタ開いてるに等しいが、もしも具合がよかったら、未だに具合を確かめあってたってことなのかね。確かに世の中やってみなけりゃ分らないこともたくさんあるが、やらんでも分かってることだっていっぱいあるのである。 やってみなけりゃわかんないって言うんだったら、男と女の仲についてだってウダウダ言うんじゃないって。 実はこの人、元うちの大学のセンセイで、在学中から有名ではあった。もちろん「バカ」ってことで。うちの両親がまたこんなバカのファンだったものだから、「講義を覗きに行け」と再三再四、奨められていたのだが、テレビの言動からこの人は単に自分の私怨をフェミニズムにすりかえてるだけだと思ってたので、とても聞きに行く気にはなれなかった。 たけしのテレビに使われてるときも、デタラメなフェミニズム論ばかりぶち上げてて、失笑させられたものだった(この人の言う通り世の中が本当に男社会なら、「かかあ天下」という言葉も生まれないはずだがね。女性の社会進出が拒まれてることについても、「差別」の一言で片づけられるほど単純な問題でもないし)。 テレビ局はこの人を専ら「イロモノ」扱いしていたが、本人も、もしかしたらそのことにトウに気づいていて、フールをあえて演じてるのかなあ、と好意的に解釈していた時期もあった。けれど、選挙に出たことでやっぱりただのバカであることが露見した。こういうバカに喋らせてるから女性の社会進出がかえって遅くなるんである。 離党はしても議員の辞職はしないそうである。裏切られた格好の土井たか子党首も「離党するなら議員を辞職するのが筋」などと反論してるが、拉致疑惑を否定してきた自分も議院辞職すべきだとは思わんのかね。死んだお袋、田嶋さんや土井さんのファンだったけれど、生きてりゃ「よくこんなののファンやってたね」と突っ込んでやりたいところである。今度オヤジに突っ込むか。
今日までに書いてね、としげの冷たいまなざしが背中に突き刺さるので、ひたすら原稿書き。けれど日中にドーパミンを使い果たしているので遅々として進まない。どうやら完成は明日に持ちこされそうである。 さあ、しげにはなんと言い訳しようか。
『キネマ旬報』10月下旬号。 まずは『魔界転生』再映画化のニュース。 「再」と言ってるが、オリジナルビデオ作品を二作、アニメ版も間に挟んでいるので今度が5度目の映像化である。一番出来がいいのはシリーズが途中で中断してしまったがやはりアニメ版。『ジャイアント・ロボ』のスタッフが再結集したがすぐに離散した(^_^;)。 今回の映画化は平山秀幸監督で、堅実な監督であるだけにかえってあの破天荒な世界を映像化できるのかと不安になる。予算がたったの十億、役者が窪塚洋介に佐藤浩市とコツブなのも気になる(前作もコツブだったけど)。どうせまた天草四郎をメインにするんだろうなあ。あんなの別に剣豪でもなんでもないから、原作じゃ途中でリタイアしちゃって、柳生十兵衛最大の敵はあくまで宮本武蔵なんだけど。前作では出番のなかった荒木又右エ門や田宮坊太郎とかいったキャラクターを出してくれると嬉しいんだけど(細川ガラシャなんていらんわ)、なんかまた換骨奪胎とか称してスケールがちっちゃくなっちゃうのかなあ。そんなふうになるくらいだったら東映、アニメの続き作ってくれ。 秋興行の結果、『サイン』は大ヒットしてるそうな。最終的には70億いきそうだとか。まだ見てはいないが、『シックスセンス』『アンブレイカブル』のばかばかしいくらいのハッタリのかましかたから類推して、ちょっとチエのついた一般客にはウケるだろうってのは見当がつく。ミステリーサークルってのもキャッチーだし(そうか?)その伝で見て、面白かった、と感じた客は多いのだろう。これはやはり見てみて、その後で貶さないとな(^o^)。 『リターナー』は、初めこそ好調だったものの、急激に失速して、20億の予定が13億に落ちこんだそうである。口コミがきかなかったんだろうなあ。やっぱ、あれを見たがるのは、カネシロが出てるんならなんでもいいって脳天気なねーちゃんと、ロリコンだけだろう(^o^)。まあ確かに私も美少女好きになら奨めるかもしれんが。
大阪圭吉『とむらい機関車』(創元推理文庫・693円)。 戦前、『新青年』各誌で活躍し、本格探偵小説の雄として評価されながら、応召され、1945年、ルソン島で病没した悲劇の探偵作家、大阪圭吉。 とは言え、私はあまりこの人の作品をそれほど面白いとは思っていなかった。20年ほど以前に最初に読んだ『石塀幽霊』が、「まさかこんなチャチなトリックじゃないだろうな」と思っていたのがその通りだったからである。高校生にそう思わせるほどだから、ホントにおしまいそれをやっちゃあオシマイよ」的な「困った」トリックだったのである。 この人の手持ちの探偵役は青山喬介という名前だが、これがまた明智小五郎や大心地先生、法水麟太郎、花堂弁護士、隼お秀といった戦前活躍した名探偵たちと比較して、無個性なことこの上ない。一応、その出自は第一作の『デパートの絞刑吏』に、「嘗ては某映画会社の異彩ある監督として特異な地位を占めてはいたが、日本のファンの一般的な趣向と会社の営利主義とに迎合する事が出来ず、映画界を隠退して、一個の自由研究家として静かな生活を送っていた」と紹介されている。 なんとなく五所平之助あたりをモデルにしたのか、と思われるような記述である。これだけを読むとちょっと面白そうなんだが、残念ながらこの経歴が事件やその捜査において全く活用されない。あとの事件では、ファイロ・ヴァンス的衒学趣味を振り回すだけの、鼻持ちならない、定番の探偵像に成り下がっている。 扱う事件もそれほど面白味がない。『デパートの絞刑吏』は、墜死した死体に無数の擦過傷があったのはなぜか? というのが謎なのだが、これは舞台となった場所を考えればすぐに判明する。やはりトリックとしてはイマイチである。 ほかの作品も大同小異で、わずかに最後の事件である『あやつり裁判』が、異なる裁判に出没する謎の女の姿を、裁判所の廷丁(こづかい)の語りを通して軽妙な味わいで描出しているが、これとてもその結末はたいしたことがない。 概して青山喬介シリーズ、面白くないのである。 しかし、彼が登場しない『とむらい機関車』『雪解』『坑鬼』の三作には唸った。謎が提示され、それが合理的に解かれるという定番に則っているとは言いがたいが、粉飾の少ない文章の行間に漂う情感は後の松本清張に通じるものがあるのではないか。 中でも『坑鬼』はまさしく本短編集中の白眉だろう。 海底鉱山で起こった爆発事故。今しもそこで働いていた夫婦のうち、妻は命からがら坑から這い出たが、側に夫の姿がないことを知り愕然とする。しかし坑は監督たちの手によって、閉ざされてしまった後だった。 その直後から起こる連続殺人。閉じ込められた男が生きていて、復讐を図ろうとしているのか? ドンデン返しにムリがなく、ラストシーンにもリアルな現実を背景に、なんとも言えぬ情感が漂っていて、一編の映画のようだ。掲載誌を見てみると、いつもの『新青年』ではなくて、『改造』。必ずしも探偵小説専門誌とは言えない同誌に執筆するにあたり、本格派としての気概を見せようと意気込んだものか。これだけの作家がたかが戦争のために露と消えたのかと思うと、残念で仕方がない。 大阪圭吉が没してもうすぐ60年になる。しかし、彼の作品は文庫化され21世紀に蘇えった。戦前の幻の探偵作家たちの中には、まだまだ鉱脈が埋もれていると思うのである。
2001年10月10日(水) 新番レポート復活!/アニメ『テニスの王子様』&『ヒカルの碁』第1話 2000年10月10日(火) 失敗合戦と治らないケガと異父兄妹と/『ムーミン谷への旅 トーペ・ヤンソンとムーミンの世界』
| 2002年10月09日(水) |
また騒ぎ方が違うんじゃないかって話/『青少年のための江口寿史入門』(江口寿史監修)ほか |
一昨日から続いている下痢血便のせいか、感覚が磨耗している。 いや、仕事はしてますよ、それなりに。でもちょっと仕切り直ししないと、週末までカラダが持ちそうにないのだ。仕事中も気がついたら意識が飛んでいるのである。ここんとこ熟睡も出来ないしどうなっちゃうのか。 エアーベッドが何日か前から空気が抜けてへにょへにょになっている。一度しげに空気を入れてもらったのだが、またすぐにへにょへにょになった。どうやらどこかに穴が空いてるらしいのだがどこかよく分らない。 しげに「空気入れて」と頼むが、「あんたが乱暴に踏むからやん!」とまたまたニベもない。最近とみに険悪だなあ。 しかたなくへにゃベッドに沈みこむが、すぐケツが床にぶつかる。そんでもって、カラダは両脇から押しつぶされているので、頗る寝ごこちが悪い。ふと、愛されてないんだなあ、と一人ごちる。泣きたくなる自分がつくづく馬鹿なのだよなあと思う。全く、自分で自分を落ちこませてどうするか。感覚の磨耗、と言うよりは、やはり疲れてるんだろう。
世間の出来事についても「あ、そう」くらいの思いしかないので、たいして書くことがない。 ノーベル化学賞を島津製作所の研究員・田中耕一氏ほか3人が受賞。昨日、小柴昌俊・東京大学名誉教授が物理学賞を受賞したのに続いて、2日連続、日本初のダブル受賞、日本人の受賞も3年連続と、いささかマスコミもはしゃいでいる様子。去年一昨年の受賞はそんなに騒がれなかったような気がするが、やっぱり「無名の技術屋さんが受賞した」と言う「物語」が日本人好みだったってことなんだろう。 なんかこの騒ぎ、いつかどこかで見たなあ、とデジャブーを感じたのだが、毛利衛さんが宇宙飛行することになった時の熱狂ぶりに似てるのだ。田中さんのどこか「普通っぽい感じ」「庶民らしさ」がクローズアップされるあたりがそっくりだと思うんだがどうだろう。小柴氏と比較されるからなおのことその印象は強まるし、授賞発表に作業着で来たことも得点が高い(なんの特典だよ)。 毛利さんフィーバーのころも向井千秋さんはやや置いてきぼりの印象があった。田中氏の受賞で小柴氏の受賞が霞んでしまってることを考えると、どうもこの騒ぎ、素直に喜べない。「庶民派」の標榜が、権威的なものを引き摺り下ろしたい、日本人の僻み根性の裏返しになってる点も確かだからだ。実際には田中氏の受賞理由の「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」なんて、庶民の研究とは思えないのだけれど。「新薬の開発やがんの早期発見に道を開いた」とのことだが、理系の人間でもない私には具体的なイメージはちっとも湧いて来ない。まだしも小柴氏のニュートリノの研究のほうがSFにやたら出てくるだけに身近に感じちゃうのだが(実際には無害なのに有害物質のように扱われたりしてるけどさ)、世間一般の感覚じゃ、ニュートリノのほうがわけわかんないんだろうなあ。 今日になって、小柴氏が東大卒業した時の成績が「ビリ」だったとか(成績は悪かったらしいが、ホントはビリだと特定はできないらしい)、「庶民派」報道がヤラセっぽくされているのには苦笑する。 人は、「常識」という物語に従って行動する。それは悪いことではないし、そうして生活するしかないのだが、他人を自分の物語のワクになんとか入れこもうという行為そのものは、たいていの場合、その対象となる人間にとっては迷惑なことこの上ない。称賛の形を取ってはいても、それは結局、緩やかな差別であり偏見なんである。言い返れば偏見と差別によってしか人は関係を持つことができないのだが(だから「差別をなくそう」という言質はかえって人間否定になっちゃうのである)、かと言って、それを露骨にやられるのはやはり醜悪だ。 「田中さんってこんな人」なんて報道、別に私ゃ知りたいとも思わないのだが、日頃プライバシーにうるさいマスコミが、やたらと田中氏の日々の生活ぶりを提供しようとするのは、これまで「異界の住人」であった田中氏の存在を、咀嚼し「こちらの住人」にムリヤリ取りこもうとする作業でもある。今は受賞の喜びに浸っているであろう田中さんが、後々周囲の「思いこみ」や「決めつけ」でかえって研究がしにくくなるような事態にならなければいいのだが。
外食する余裕がなくなってきたので、マルキョウでおかずを買いこんで、晩飯はおかかと高菜のお握り、いかゲソの唐揚げ。糖尿だからだいたいはこの程度の食事で充分なのである。いつもやっぱり食いすぎてるよなあ。
マンガ、北崎拓『なんてっ探偵アイドル』10巻(小学館/ヤングサンデーコミックス・530円)。 表紙がアキラのウェディングドレスだったからてっきりこれで完結かと思ったらただのコスプレでした(^_^;)。10巻って、『たとえばこんなラブソング』に並んじゃったよ。人気あるのかこれ(買ってんじゃん、おまえ)。 ああ、けど10巻記念サービスのつもりか、いつも以上に巨乳度高いぞ。担当は主に莉奈とゆかり。やたらとこの二人のチチに室戸警部や清春が顔を埋めるシーンが多いが、嬉しがる読者いるのか。ヤング誌のくせにオールヌードにならないし(そういう問題か?)。 トリックもなあ、既にトリックと言えないくらいチャチっつーか、警察がそんなこと気がつかないわけないやん、てなレベルのものばかりだしなあ。 「お見合いトラブル編」も「お料理対決編」もそうだが、あんな自分が犯人だとバレるような状況でわざわざ事件を起こす不自然さが全く説明されてない。通りすがりに見せかけるとか、相手が一人のときに殺して逃げるとか、そっちのほうが足がつかない可能性が高かろうに。 だから、ミステリの本道はどうしたってアリバイ崩しになるんだけど、みんな密室とかそんな何パターンしか解決の仕方がないものに拘るからねえ。はっきり言っちゃえば、密室ネタは全てポーの『モルグ街の殺人事件』とルルゥの『黄色い部屋の謎』の変形でしかないのである。よっぽどブラフのうまい人じゃないと、密室モノに手を出しちゃいかんよ。横溝正史だって、『本陣殺人事件』以外の密室モノは『悪魔が来りて笛を吹く』はやっぱり『モルグ街』だし、『悪魔の降誕祭』は『黄色い部屋』だ。 ヘボミステリーはたいていここがダメなので、「館」ものや「島」もの(限定された場所に人が呼び寄せられるパターンね)の大半が失敗作になっちゃうのはこの点に原因がある。クリスティーの『そして誰もいなくなった』が傑作なのは、犯人も××××××からで、それ考えると、ミステリの秀作を書くことがどれだけ難しいかはわかろうと言うものだ。 館モノの一番合理的な解決は、実は一番安易な「隠し部屋の中に犯人が潜んでる」ってことになっちゃうので、ミステリをよく知らない人間はあまり手を出さないほうがいいのだ。 まあ、『なん探』読んで感心したり、トリックや犯人の見当がつかない人は(トリックがへボすぎてかえってわからなかったという人を除く)、間違っても自分のことをミステリファンだなどと呼称しないほうがよろしい。 ……だったら買うなよ、オレ。やっぱりチチに惹かれてるのか?(でも好みはアキラなんだけどなあ)
マンガ、江口寿史監修『青少年のための江口寿史入門』(角川書店・1050円)。 二日続けてえぐちを読む。また楽しからずや(^o^)。って、彼の新作が同時に読めるなんて、20世紀、21世紀を通じて初めてじゃないか。 と言っても実は中身は再録が殆どで初単行本化はちょっとだけなんだけどね。 やっぱり『怪獣王国』は何度読んでも面白く、我々の世代にビンビンと来る。「放射能怪獣コチラは、鉛怪獣アチラに弱い!」別に敵が鉛だからって勝てるとは限らんと思うが、このヘンのいい加減さが既に怪獣ものの秀逸なパロディになってるのである。もちろん、コチラのデザインはゴジラもどきでアチラはアンギラスなのだが、これがまたアチラが勝っちゃうんだよな。やっぱりゴジラよりアンギラスファンって、結構多いんじゃないか。全く、どうして『GMK』は(以下略)。 新作の『岡本綾』は、映画『飛ぶ夢をしばらく見ない』に取材しているが、短いページの中で、若返って行く老女を見つめる家族の温かいまなざしを切なくさりげなく描き出した佳作。婆ちゃんがトシ取ってる時も若返った時も、ずっとボケたまま、というのが秀逸だ。我々は世界の変化をただ静かに見つめて行くしかない。その孤独が、しかし孤独ゆえにそこに「繋がり」を見出す冷たくかつ優しい視線がリアルなのである。 江口作品のギャグとシリアスの両極を見ることができる点で、これはまさに入門書だ。でも、出口はどこなんだろね(^o^)。
江口寿史の「弱さ」というのはやはりコマ割りが70年代でストップしちゃってるからではないかと思う。と言っても、あれだけ尊敬を表明してる手塚治虫の影響は少なく、ちばてつやの『あしたのジョー』の初期あたりか。ともかく斬新さを全く狙わず、四角四面でコマ間も広く、単調なのである。作品によってはそのコマ割りを崩した方が効果が上がると思われるのに、あえてそれをしない。 シリアスものになるとこれは特に顕著で、『くさいはなし』も『岡本綾』も、秀作ではあるのだけれど、あと数ページあれば、もっと味わいが出たろうになあ、と惜しく思う。 でも、おそらく江口寿史は、「コマの進化」ということをあまり信じてはいないのだ。戦前の田河水泡の『のらくろ』のような舞台の書割り的なコマ割りが、宍戸左行の『スピード太郎』を経て、手塚治虫の『新宝島』に結実していく過程を、一般的にはコマの複雑化と、映画化ととらえるのだけれど、更なる進化を試みた石森章太郎をおそらく江口寿史は「流行に乗ったモノ」としか見ていないのではないか(ファンであるとは思うけど)。それは比較的コマに工夫のある『恋はガッツで』をあとがきで「今見ると古い」と自分で言っていることからもわかる。 流行の追随はヘタな模倣にしかならない。それはわかるのだが、江口寿史の停滞はは、結局、彼の作品を古くしていっているように思う。結果が同じなら、もっと「実験」してみてもいいのではないか。……とかなんとか言ってると江口さん描かなくなるんだよなあ。ホントに、こういう人はそっとしておいてあげるしかないんだろうか。
2001年10月09日(火) 探偵小説ネタ多し。ついて来れる方、求む/『死神探偵と憂鬱温泉』(斎藤岬)ほか 2000年10月09日(月) 女って癒してもらう対象ではないよな/『鉄槌!』(いしかわじゅん)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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