無責任賛歌
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2006年01月11日(水) |
だからいつまで言葉狩りを続けるのか/『怪獣の家』1・2巻(星里もちる) |
帰宅して、散歩したらすっかり疲れ切ってしまったので、チラッとは見ようかと思っていた『トリビアの泉スペシャル』は諦める。 ドラマ 『相棒』はこれもミステリーではお馴染み、「未必の故意」こと「プロパビリティーの犯罪」がモチーフ。ホントにこのシリーズは一話ごとにパターンを変えてて、バラエティに富んでるなあ。 江戸川乱歩の研究によれば、このアイデアを創始したのはロバート・スティーブンソンだそうだが、乱歩自身にも『赤い部屋』という名作がある。松本清張にも同モチーフで短編を書いている。誰でも一回はこのネタで書いてみたくなるんだね。 今回の犯罪は既成作品よりも更に「手間が掛かっている」分、未必の故意と言えるのかどうか、疑問に思う面もあるが、「ネギ」を使ったアイデアは秀逸。ラストのどんでん返しは要らなかったかなあという気はしないでもないけど。
情報を知るのが遅かったのだが、五月発売予定の『ハリー・ポッター』シリーズの第六巻 『Harry Potter and the Half-Blood Prince』の邦題が、『ハリー・ポッターと謎のプリンス』に決定してたんだそうな。以前は原題通り、『混血のプリンス』と予告されていたものが、味も素っ気もない「謎の」なんてタイトルになっちゃった事情は定かではないが、またぞろ「賎称語(いわゆる差別用語)」の問題が背景にあるような気がする。 敗戦後、進駐軍とパンパンやオンリーさん(こういう歴史用語も若い人は知らないんだろうなあ)との間に生まれた 「混血児」が差別されていた問題は、かなり長い間、日本の暗部として解決されないまま残されていた。と言うか、今でも完全に消えたわけではない。映画『キクとイサム』や『人間の証明』もこの問題を扱っている。彼ら混血児を差別する時に使われていた言葉が、本来は賎称語でも何でもない「あいのこ」という言葉である。マンガではご存知『サイボーグ009』の主人公・島村ジョーが「あいのこ」であるが、初版にあったその単語は、今は削除されているし、新作のテレビアニメではその設定も語られないままだった。原作にはちゃんと「あいのこであることを誇りに思っていいんだ」ってセリフだってあったというのに。 要するに改題の理由は、この差別的に使われたことのある「あいのこ」という言葉を連想させるからってことなんじゃないかと思うのだが、多分これは憶測ではない。この手の下らない被害妄想による過剰反応は腐るほど起きてきたし、私と同様のことを考えた人も多いだろう。 被害妄想なんてひどい言い方だと眉を顰める方もいらっしゃるだろうが、間違っても『ハリー・ポッター』に進駐軍やパンパンは登場しないと思う。別にそういう事情で生まれたわけではなくても混血児は差別されるのだ、と仰る方には、そりゃ差別する人間が悪いんであって、言葉が悪いわけじゃないと言いたい。なんだか日の丸が永遠に帝国主義の象徴としてしか受け取れないサヨクな連中の我田引水な言い分と変わらないのである。 「混血」という言葉を素別的に捉えるのは、「純潔」の優越性をバックボーンとして意識しているからである。即ち、「混血」を差別と考える意識の方が差別なのだ。 映画などではこういった事情で「訳しにくい」ものは「原タイトル通り」で紹介してしまうということをよくやる。『ノートルダムのせむし男』が『ノートルダム・ド・パリ』に、『気狂いピエロ』は『ピエロ・ル・フー』に一時期、ビデオタイトルが変更されてしまった。こういうタイトルは歴史としての資料なので、「変更不可」であることも知らない販売会社のポカである。 今更決まっちゃったものはしょうがないし、映画のタイトルは『混血のプリンス』で行ってほしいものなのだが、十中八九『謎の』になっちゃうんだろう。出版社も映画会社も腰抜けばっかりだから。百歩譲ったとしても『ハーフブラッド・プリンス』になるんだろうね。全く馬鹿馬鹿しい話である。 しかし、これは結局、「臭いものにフタ」式の、目の前にある差別から目を逸らすだけの行為に過ぎない。そんなことをしたって、現実の差別をなくすことに何ら寄与しないことは、これまでの歴史が証明している。差別の実態は表面化されにくくなり、地下に潜ってしまった。陰で泣く人間を増やしただけである。それでもこんな阿呆な自主規制とやらが延々と続いているのはなぜなのだろうか。出版社か、映画会社が、マス・メディアが、現実逃避を奨励するような姑息な手段で、本気で差別をなくすことができるなどと考えているとすれば、これは相当におめでたい話だ。 断定するが、彼らはみな、本当は「コトナカレ」で問題から逃げているだけなのである。 こういう「言葉狩り」が頻繁になって以来、いじめや差別はすっかり陰湿化してしまったと感じるのは私だけではないはずだ。私はキチガイもメクラもツンボもビッコもこの日記の中で平然と使っているが、これを差別というのなら、メクラになりかけている私は自分で自分を差別していることになるが、それについて「自称差別反対主義者」は何と反論してくれるのだろうね。
マンガ、星里もちる『怪獣の家』1・2巻(完結/小学館)。 心に傷を持った主人公が、かわいい女の子二人とひょんなことから同居することになって……という、またありきたりな男の子癒し系妄想ラブコメかい、という設定だけれども、ちょっと趣向に凝っているのは、その二人の女の子が同居することになった理由というのが、どちらも「怪獣」絡みだということ。 タイトルにある通り、旅行会社勤務の主人公・福田智則の住む家が、雷映怪獣映画『ガルル対メカガルシャ』の舞台モデルとして選ばれる。そのことを知った怪獣マニアの女の子・湯浅小雨と、映画のヒロインで役になりきりたい金子由希の二人が、同時に福田に「この家に住まわせてください」と頼み込んでくるのだ。 そんな設定ありえねーだろ、なんて突っ込みたい人も多かろうが、そんな批判は作者はとっくに想定ないだろう。このマンガは、怪獣ファンであると同時にラブコメファンでもある作者にとっては、たとえどんなに「リアリティがない」と批判されようが、「描きたくて描いた」のだろうということが読んでいてひしひしと伝わってくるのだ。 ネットで検索してもこのことに触れている記事がすごく少ないのだが、登場人物の名前、殆ど特撮怪獣映画の関係者の名字から取られている。福田(純。『ゴジラの息子』ほか監督)、金子(修介。平成『ガメラ』シリーズ監督)、湯浅(憲明。昭和『ガメラ』シリーズ監督)、中野(昭慶。『ゴジラ(1984)』ほか特技監督)、樋口(真嗣。平成『ガメラ』シリーズ特技監督)と言った具合だ。あと、油谷監督は当然「円谷英二」のモジリだろう。更には福田がコンダクターとして出かけて行く観光地が、怪獣映画の舞台に使われた阿蘇山のカルデラ(『空の大怪獣ラドン』)だったり、京都駅(『ガメラ3』)だったりと、あちこちに怪獣ファンが喜びそうな「遊び」が随所に盛り込まれている。 もう、これだけで怪獣ファンはナカミは気にしないで買っちゃいなさい。マンガ内映画『ガルル対メカガルシャ』の内容が山田太一の『岸辺のアルバム』のまんまパクリなのは気にしないでね(これも星里さんがファンであることを公言している)。
まあ、こんなオタク向けなことを書いたところで、マンガ自体が面白いかどうか分かんなきゃ意味ないじゃん、ということは分かっちゃいるんだが、ついそういうことを書きたくなるのが怪獣ファンのサガなんである。 初め少年向け元気ラブコメ『危険がウォーキング』で出発した星里マンガは、『りびんぐゲーム』で青年マンガに進出して以来、だんだんとシリアスな設定を加えていき、『本気のしるし』では登場人物が殆どみんな人格崩壊起こすんじゃないかってギリギリの線まで人間関係を突き詰めるに至った。どういうわけかラブコメで出発してと゜シリアスな方向に進んでしまうマンガ家さんって、柳沢きみおとか六田登とか多い。なんか、絵空事を描くことに欺瞞を感じるようになるんだろうか。だとしたらそのうち赤松健もシリアスな……(ならんならん)。 それはともかく、前作の『ルナハイツ』に続く本作もそうだったが、一歩間違えばドロドロになってしまう三角関係のドラマは、読んでいて辛くなるほどのシリアスな展開になることもなく、「ほどよく」抑制されて、確かに予定調和でご都合主義的な「甘さ」は見られるものの、全体としては心和むハッピースーエンドへと収斂されていく。その手際は2巻というまとまりのよい巻数のおかげか、非常に巧みに感じられる。主人公が家族の事故死に責任を感じ、今でも一人ぼっちで住んでいる家を手放せずにいるというトラウマを抱えてはいるものの、二人のヒロインの一途さに、少しずつ凍った心が溶かされていく過程が気持ちいいのだ。一時期荒れていた描線も、随分落ち着いてきた。 「家」をテーマにした作品は無数にあるが、「破壊」と「再生」が「家族映画」のモチーフであると同時に、「怪獣映画」のモチーフであることにも気付き、その二者を重ね合わせて見せたその発想は、決して笑うべきものではないと思うのである。
2005年01月11日(火) 夜更かしでヘロヘロ/アニメ『ギャラリーフェイク』第1話 2003年01月11日(土) 妊娠来たかと鸛に問えば/『今日も映画日和』(和田誠・川本三郎・瀬戸川猛資)/『ワイルダーならどうする?』(キャメロン・クロウ) 2002年01月11日(金) 先陣争い雪隠の役/『雪の峠・剣の舞』(岩明均)ほか 2001年01月11日(木) 一週間が長いなあ/映画『ノース 小さな旅人』
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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