無責任賛歌
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2005年08月06日(土) |
60年間の原爆/舞台『おじいちゃんの夏』 |
『ウルトラマンマックス』第六話「爆撃、5秒前!」(装甲怪獣レッドキング 両棲怪獣サラマドン 飛膜怪獣パラグラー 電脳珍獣ピグモン登場)。 二話連続、前回の続きで完結編だけれども、まあ予定調和でこんなもんかって終わり方だった。「歩く爆弾」レッドキングの扱い方は旧ウルトラマンと同じように見えるけれども、旧作が水爆を飲み込んでたって設定だったのに対して、今回は島そのものが爆薬で、その岩を飲み込んでいるって設定に変わっている。なんで岩なんか食ってたんだレッドキング。 水爆なんてツマラヌものを作っちまった人間の浅知恵に対する批判が今回なくなってしまったのは残念で、なるべくメッセージ性を排して純粋エンタテインメントに徹しようというつもりなのかもしれないが、話もその分、薄く軽くなっちゃってるのはなんだかなあである。もっともこの薄さは『ティガ』以降の平成ウルトラマンシリーズに全て共通している要素なんで、今更文句言ったって「色」が変わることはありえまい。でもこの「薄さ」に慣らされちゃってる若いファンが増えてしまって、前作『ネクサス』に過剰なまでの反感を抱いてしまったのはやはりウルトラシリーズにとっては不幸であったと思う。話の広がりと言うか、新しい試みができないような状況を作っちゃってるからね。シリーズというものはこうしてだんだんとマンネリ化し、逼塞していくものなのである。
広島の原爆投下から60年。 戦争体験者は、それも終戦時に成年に達していて、あの戦争がどういう戦争であったのかを実体験を元に語れる世代はもう80歳以上になっている。 「風化を許すな」というスローガンはもう何十年も声高に叫ばれてはいるが、けれども実際にその風化を食い止めるための実効力のある試みがどれだけなされていたのだろうかと思う。 「原爆投下は戦争終結のために必要だった」と考えているアメリカ人は人口の八割に上る。未曾有の犯罪を自己正当化して傲然と構えている連中がそれだけいるのである。これは、日本人がアメリカに対して実質上、「反戦のための働きかけを何もしてこなかった」ことの結果ではないのか。自分たちが間違っているという可能性を少しも考えない連中に、ただ「核捨ててよ」と言ったって聞き入れるわけがない。もっと強権的に、たとえ敗戦国民であろうとも、「人間として」、「非戦闘員を大量虐殺する方法に正当性などない」という主張を、アメリカの政府に、マスコミに、教育機関に働きかけることをどうして日本人は怠ってきたのだろうか。 確かに、毎年毎年、8月6日に、9日に、15日に、広島や長崎は世界に向けて不戦のメッセージを発しているが、どこで誰がそれを受け止めているのだろう。あんなものはただの風物詩にしかなってはいない。 反戦を訴えながら、現実には日本は日米の協調路線を戦後60年に渡って継続させてきているのだ。政治的なレベルでは日本がアメリカに「核廃絶」を「本気で」訴えたことなど一度もない。現実に核も戦争も許容している歴史に協力していながら「反戦」を題目のように唱えたところで、誰がそれを信じるというのだろう。これでは日本の国内でも戦争の記憶が劣化していくのも当たり前である。 広島の小学生たちの四割は、60年前の戦争のことも原爆投下のことも知らないという。原爆慰霊碑の「過ちは繰り返しませんから」の「過ち」という言葉に反感を抱いてキズをつけようとした馬鹿も現れている(慰霊碑のあり方に不満があろうが、それを暴力的に破壊しようとする行為が許されるはずがない)。これは「風化」などというヤワい言葉で表される現象ではない。 日本人はこの60年、積極的にあの戦争を忘れようとしてきたのだ。8月が来るたびに戦争が「過去のもの」であることを確認し、その実態を思い返すことを拒否してきたのである。 そういう事実を無視して、広島は、長崎は、まだ十年一日のごとく「戦争は人が死ぬからダメだ」の単純かつ表面をなぞっただけの空虚な言葉を発し続けるつもりなのだろうか。たとえ日本が日米安保を破棄できなくても、広島と長崎だけは反米の姿勢を貫かなければならなかったのではないか。家族を、同胞を、愛する人々を虐殺された無念と怨念を、アメリカにぶつける必要があったのではないか。広島と長崎の声は、我々日本人にも届いてはいない。原爆は60年間、まだ投下され続けているのである。そして未来も。
実は今日はマンガ家の西原理恵子さんのサイン会が福岡で行われていたのだが、ほかに予定が先に入ってしまっていたので行けない(涙)。 北九州のリバーウォークまで、舞台『おじいちゃんの夏』を見に行くのである。 今回は、細川嬢とお友達のK嬢ともご一緒なので、一時半に九産大前駅で待ち合わせる。ところがしげが寝坊するわ、駅に着いたら着いたで、無茶苦茶激しい雷雨に見舞われるわで、大変な目に遭った。直径二センチはある雹がダダダダダと降っていて、駅から外に出られなくなってしまったのである。 少しばかり小降りになったところで、K嬢の運転する車に慌てて移動したが、それでもちょっとばかり濡れた。席を少し湿らせてしまって申し訳ないことであった。ところがこの雨が北九州に向かって走り出した途端、キレイサッパリ上がってしまったのだから、なんだか空にからかわれたような気分である。 リバーウォークには道を二、三回間違えながら到着。細川嬢もK嬢も現地には二、三回、行ったことがあるそうだが、そのたびに道を間違えているそうである。やっぱり女脳というのは「地図が読めない」ものなのだろうかと考えたが、これは女性差別じゃないよね。
会場は北九州芸術劇場の小劇場。中や大は入ったことがあるが、小は初めてだろうか。大きさが違うだけかと思ったら、椅子が折りたたみ式の簡易なもの。中や大に比べると、ちょっと「造りが甘い」感じである。 『おじいちゃんの夏』は今回が再演で、作・演出はもちろんG2さん。初演は見ていないので比較はできないが、ストーリーは同じでもキャストに若干移動があるようだ。
ある夏の嵐の夜、「ハハキトク」の電報に、山田家のお父さん・育雄(廣川三憲)とお母さん・政子(佐藤真弓)は慌てて実家に飛んで帰ってきた。ところが二人の前に現れたのはまるで元気なおばあちゃん・鈴(武藤晃子)。びっくりしながらもホッとする二人だったが、そこへおじいちゃん・惣一郎(小須田康人)が顔を出し、「たった今、鈴は亡くなったよ」と言う。じゃあ、今ここにいるおばあちゃんは? おばあちゃんは暢気に「あら、私、死んじゃったんだねえ」と微笑む。そしておばあちゃんの幽霊は、最後におじいちゃんに謎の言葉を残して消え去る。「あれをお願いしますよ、あゆみに」。 おじいちゃんには「あれ」が何だか分からない。それどころか、ショックでおじいちゃんの頭はボケ始めてしまった。そして、3年の月日が経った。 おじいちゃんの世話をするために。山田一家は実家に引っ越してきていた。おじいちゃんはもう、家族の顔もまるで分からなくなっているが、いつものんびりとマイペースで、そんな姿に、孫のあゆみ(武藤晃子・二役)は、何か癒されるものを感じていた。 ところが夏休みを目前にして、山田家にとんでもない事態が遅いかかって来る。お父さんが会社をリストラされ、お母さんがサラ金で一千万円もの借金を作っていたのだ。 借金の取りたてに山田家にねじ込んできた目黒組のヤクザ・太宰正臣(及川直紀)に向かって、お母さんはこともあろうに「あゆみが出場するクイズ番組で優勝して、一千万円を手に入れる」と見得を切ってしまう。けれどその番組「クイズ・ペアでミリオネア」は、家族ペアであることが出場条件。お母さんはクイズなんて全然ダメ、お父さんは舞台度胸がない。いったいどうすれば? しかも、同じ番組に、あゆみのクラスメートで目黒組組長の娘・もみじ(小沢真珠)も出演が決まっていた。子分の桜田しじみ(高木珠里)を従えて親分気取りのもみじは、何かというとあゆみにライバル意識を持って突っかかってくる。今回も太宰をパートナーに、優勝を狙っていたのだ。なんとかトラブルを回避したいあゆみだったが、担任の高崎先生(粟田麗)はちょっと天然が入っていてあまり頼りにならない。 結局、あゆみのパートナーになれるのはおじいちゃんしかいない。友達の坂本健太(小野ゆたか)に協力してもらって、クイズの特訓に明け暮れるが、おじいちゃんは普通の会話もままならなくなっていて、前途は多難。しかし、そこに思いも寄らない「奇跡」が起こったのだった……。
一言でまとめちゃうと、G2版『アルジャーノンに花束を』って印象。ちょっとネタをバラしちゃったかな。 ファミリー演劇も、人情喜劇も初めてで勝手が違ったのかもしれないけれど、果たして「演劇」として作らなければならない物語だったのか、むしろ映画にした方が面白かったのではないかという疑問が残る。 小須田康人がメイクで老人に扮しているわけだが、これは本当に60代くらいの役者が演じた方がボケの面白さは表現できるだろうし、子供たちだって本当の子供が演じた方がいい。女の子はまだそうでもないが、サカケンを子供に見立てろというのは、ちょっと無理がありすぎる。子供向けの芝居というのはよりリアルを追求しないと逆にそっぽを向かれてしまいかねないということに、G2さんは気付いていないのだろうか。 「小学六年生」のもみじが、オトナの女性に変装しておじいちゃんを誘惑する、という設定も、演じているのが色気ムンムンの小沢真珠だから、元に戻っただけである。“これではギャグにならない”。現に、ここで会場の子供たちはほとんど笑っていなかった。「だってオトナじゃん」って感じるばかりで、シラケてしまうのである。小学六年生なら本当に大人っぽい女の子もいるから、実際にそういう子を探し出してきて演じさせた方が、「えっ、この子が小学生なの!?」って驚きを共感できるわけで、そっちの方が面白いに決まっているのだ。役者がいくつかの役を演じ分けているのもこの芝居の場合はいただけない。 小須田さん以下、役者の皆さんは決して下手ではないし、熱演もされているのだが、申し訳ない言い方になるが努力が空回りしている。これはもともと「企画のミス」なのである。 児童演劇がその観客対象である子供たちからかえってそっぽを向かれてしまうのは、大人には通じる「見立て」が子供には通じにくいのだということを充分に理解していない点に原因があることが多い。子役をそんなに抱えられないという物理的な事情もあるのだろうが、こういう点に気を配っている児童劇団って、実は少ないんだよね。児童劇、ファミリー劇について言えば、原則として「大人は大人の役しかやれない」のである。「大人が何を子供のフリしてるんだ」って思わせちゃダメだってことを認識しないと、結局児童劇は他の演劇から一等低いものとしてしか扱われないのである。
物語自体は本当に「いい話」だと思うのである。 おじいちゃんはもうすぐ「逝って」しまう。それは冒頭のおばあちゃんの死からも予測されていたことだ。おじいちゃんの寿命が尽きるあと3年、わずか3年のうちに、あゆみに伝えておかなければならないことがある。 それは、目に見えて崩壊していく息子や孫たちの間に、「見えない絆」が実はあること、そのことに気がついてもらうことだ。おじいちゃんとおばあちゃんがお父さんやお母さんを愛し育て慈しんだように、どんなにだらしなく見えてもお父さんとお母さんがあゆみを愛しているのだということに気付いてもらうことだ。 家族の崩壊が如実に現れている現代に、この芝居が訴えているものの意義は大きい。そしてその「絆」は親から子へ、子から孫へと継承されるものであるから、どうしても「おじいちゃんの口から語られねばならない」のである。 そのことを考えれば、「年寄りのフリをした」あるいは「子供のフリをした」役者がこの芝居を演じることに欺瞞の匂いが漂ってしまうことにはどうしても避けることができないのである。
それから余談だけれども、作中、おじいちゃんが語るトリビアの一つに、「不良品のことを指してどうして『オシャカになる』と言うのか」ってことについて、説明がないままであったが、そもそもイマドキの小学生は「オシャカになる」なんて言葉は滅多に使わないだろうから、これも脚本としては不自然である。 これの語源については、知らない人はどうぞ自分で調べてください。
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