無責任賛歌
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2005年08月04日(木) |
「子供のために」と言ってる大人にろくなやつはいない/映画『ハービー 機械じかけのキューピッド』 |
「政治とスポーツの話題にはあまり触れない」ようにしてるんだが、まあ、これは「スポーツ外」の事件とも言えるんで、あえて扱う。 何のことかって言うと、あの明徳義塾高校の甲子園辞退事件のことだ。喫煙と暴行の事実が高野連にチクられたという。 具体的な経緯は以下の通り。 今年4月から7月にかけて、二年生・一年生部員11人が、野球部の寮内で喫煙。これは、野球部主将らが寮内で煙草の吸い殻を発見してその事実が判明した。主将がすぐに野球部部長・宮岡清治と監督・馬淵史郎両氏に報告したところ、当該生徒を特定できたので、厳重注意を行った。 また、5月から7月初めにかけて、三年生・二年生部員6人が、一年生部員を正座させた上、腕や胸をたたくなどの暴力をふるったという。 これは7月中旬になって、被害にあった一年生部員の保護者からの連絡で判明、やはり部長と監督が被害者宅に家庭訪問して謝罪、「何とか穏便に」と頼み込んでコトを収めたつもりになっていた。 どちらの件も部内で処理し、吉田圭一校長には全く報告されていなかった。校長が事実を知ったのは、昨三日に高野連に送られてきた投書により、高知県高野連が調査を開始したためである。辞退の決定はわずか一日で行われたわけで、異例のスピードだと言える。 記者会見で馬淵監督は「全て自分の責任」と述べていたが、そりゃ確かにそうなんだけれども、こういう不祥事は決して初めてではないという事実を考えると、その一言で片付けちゃっていいの? って疑問を感じてしまうのだ。 テレビのコメンテーターとかは「早い段階できちんと学校や高野連に報告しておけば、直前に出場辞退なんてことにはならなかった」と言っている。それは多分その通りで、「当該生徒をこれこれこういう形で処分しました」という形を取っていれば、まあ「禊」はすんだ、ということで、事件に関わらなかった選手の出場は可能になったのだろうと思う。 でも、ということは「煙草吸おうが暴力振るおうが、形だけ謝罪しておけば、甲子園に行ってもいい」ってことになるんで、その罪の重さとか被害者の気持ちとか高校生としての規律の遵守とかってのは全然ないがしろにされてるってことなんだよね。「タバコとかイジメとかどこの学校でもあるじゃん。それくらいで出場辞退なんて厳しすぎる」って、事件自体を「軽く」考えてるって訳だ。 そりゃそうだろう。今現在、出場が決定してる全国の野球部員で、喫煙経験がないやつがどれだけいるか。上級生が下級生をしごいてない学校がどれだけあるか。明徳義塾が出場辞退なら、全国で甲子園に行ける資格のある高校なんて、ごくわずかになるんじゃないか。ほかの学校が出場できているのは、単に不祥事が「バレていない」だけである、明徳は運が悪かっただけだと、そう感じてる高校野球ファンは、相当数、いると思うのである。 でも実態はどうあれ、「高校野球」はあくまで「教育の一環」であるわけよ。たとえタテマエであろうがキレイゴトであろうが、「高校球児」には「清廉潔白」「質実剛健」を求めるしかないのね。決して「いいよいいよ、その程度のワルいことならどこでもやってることだから気にせずに出場しなよ」なんて言えるわけがない。喫煙や暴力を許すような対応は学校だって高野連だって、絶対に取れるわけがないし、そんな学校があっちゃ困るということは明徳に同情している世間の人にだって分かるリクツだと思うんだがどうかね。 も ちろん、「マジメな部員が巻き添えを食らって出場停止というのはひどすぎるのではないか」という主張は充分に根拠があることだと思う。けれど、こういう不祥事がいつまで経っても後を絶たないのはなぜかってことを少しは考えてほしいのだね。一連の不祥事を単に当該生徒の「個人の身勝手」だけで済ませられることなのかどうか。「未成年だからって、タバコくらいいいじゃん」「シゴキくらい運動部なら当然」って感覚は本当に一部の個人だけのものかどうか。実のところ、「多少の悪行は許容の範囲」という感覚が社会的に蔓延“しすぎている”せいじゃないのか。 つまり、「この程度のことで出場辞退なんてかわいそう」と考えている「甘やかしの風潮」が、逆に彼らを出場辞退に追い込んでいるのである。明徳の部長と監督はまさにこの「甘やかし」をやらかしていたわけだ。それで「自分の責任」なんてちょっと片腹痛いんだけどね。だいたい、事件が起こったのはほんの先月のことだよ? それで充分に禊が済んでると思える感覚自体、既に「甲子園出場」に目がくらんで「教育者」としての本義を忘れていたのだと非難されたって仕方がないだろう。 「 部員の気持ちを考えて」というのは言い訳にはならない。これもこないだのサッカーの話と関連してくるが、「勝つことだけが、甲子園出場だけが野球をするための目的・理由なのか」ということなのだ。別に勝つために練習するなと言いたい訳ではない。勝つことのみに汲々としていると、本来「何のためにスポーツをしているのか」という本義が忘れられるぞと言いたいのだ。 スポーツをする理由なんてハッキリしている。それが「好き」だからだ。明徳に限らず、コソコソ隠れてタバコ吸ってるような高校球児に言いたい。お前たちは「野球が好きだからやってる」のではないのか? 自分たちの行為が「スポーツを汚している」ことに気づいてないのか? でもまあ、高校生は所詮ガキだしね。中には分別がつかないやつが出てくるのも仕方がない。やはり一番責められるべきは部員を甘やかした部長に監督、大人たちだろう。たとえ一部の生徒であるにしろ、不祥事を起こした部員を抱えていたことに恥も覚えず、「甲子園出場」の「実績」を残すことだけを優先しようとしていたのだから(そうではないと主張するならまだ自分たちのバカさ加減に気がついてない)、これはやはりスポーツに携わる資格をいったんは放棄しなけりゃ、スポーツに対する冒涜であろうと思うのである。 も一つ、これもやっぱり指摘しとかなきゃならないことなんだが、タバコ吸ってることが判明した時点で、親も自分の息子に部活するのを許してんじゃねえよってことだ。 発覚したのが初めてのタバコか? 絶対そうじゃないだろう。中学のころから吸ってて、親だってその事実に気付いてたはずだ。それで何をノウノウと楽しげに野球させてるんだ。 え? 本当に自分の息子が喫煙してる事実に気づかなかったって? だったらやっぱりお前はバカ親だよ。 こういうバカ親がそこいら中に湧くほどいるうちは、「不祥事即出場辞退」という悲しい事態はなくならないのである。永遠になくならないな。 世の親御さんよ、あんたんちの息子さん娘さんがタバコをこっそり吸ってるのを見つけても、「仕方ないわね」とかで軽く済ませたりするなよ。「どうせ説教したって聞きやしないから」って躾けるのを放棄したりするなよ。そんなふうに扱われる子供は不幸だよ。あんたらが子供を愛せないクズじゃないんだったら、子供を愛するってことがどういうことなのか、真剣に考えてみなよ。コトナカレ主義な学校に子供を預けちゃった責任は、あんたらにもあるんだからさ。
もう一つ、ニュースはあまり触れようとしないけれど、事件の発覚が匿名の「チクリ」だってことについて、恐らくはウラで「犯人探し」が行われてるんじゃないかと思う。多分、真っ先に疑われるのはシゴキの被害者になった一年生の生徒たちかその関係者だろうが、そうでなかったらえらい濡れ衣になるんでもちろん断定なんかしない。私が考えているのは「別の可能性」である。 つまり、もはや「公然の秘密」であるが、高校野球にはつきものの「野球トバク」がこの事件に関わっているのではないのか、という疑惑なのである。 どのくらいのカネが動くものか、私は参加したことがないからよく知らないが(ホントよ)、地域によってはかなりの額になるところもあるかもしれない。これが、もしも「策略を弄してでも儲かりたい額」であったなら、欲に動かされてしまう人間も出てくるのではないか。この不祥事の事実を知って、明徳の対戦相手に賭けていた人間が、まさに試合直前の「賭けが終わったであろう」時期を狙って投書した可能性、決して低くはないと思うのである。 だからさあ、高校の部活動で野球だけが突出して騒がれてる状況だって、決して教育的にいい効果があるとは思えないし、ハッキリ賭博に利用されてる事実だってあるんだしさあ、それこそ全国大会そのものをいっぺん自粛するくらいのことやってもいいと思うんだよ。いくらスポーツなんかしてたって、健全な精神なんて培えないんだから。
夜、AMCキャナルシティ13で、映画『ハービー/機械じかけのキューピッド』。 先週公開されたばかりだと言うのに、興行収入のベストテンに全く顔を出さなかったので、こりゃあ早々に打ち切られるなあと思って見に行く。 出かける前、『亡国のイージス』を見に行きたがっていたしげとちょっとモメる。「そっちもどうせ見に行くんだから慌てなくてもいいじゃん」と言ったら、「ノルマみたいに見に行くのがイヤ」とそっぽを向かれた。これでも見に行く映画絞ってるんだがなあ。 『ハービー』も最初はそれほど心惹かれるほどではなかったのだけれど、『ラブ・バッグ』のリメイクではなく、ちゃんと「続編」になっているというので、それなら見に行かなきゃ、という気分になったのである。 1969年の『ラブ・バッグ』に始まる「心を持った」フォルクス・ワーゲン「ハービー」を主役に据えたディズニー制作の実写シリーズは、第2作『続ラブ・バッグ(ハチャメチャワーゲン大騒動)』(1973)、第3作『ラブバッグ/モンテカルロ大爆走』(1977)、第4作『ビバ!ラブ・バッグ』(1980)、テレビ版リメイク『新ラブバッグ/ハービー絶体絶命!』(1997)と続いてきた。タイトルの「ラブ・バッグ(愛の虫)」は、フォルクス・ワーゲンがその形状から通称「ビートル(カブトムシ)」と呼ばれているため。 多分シリーズのうち3作くらいは見てるはずなんだが、かなりムカシのことである上、内容が大同小異なので、どれがどれだったかよく覚えていない。ハービーの持ち主は作品ごとに変わってたように思う。なんとヘレン・ヘイズがオーナーだったのは第2作であった。 続編ではあるが、冒頭にこれまでのシリーズを簡単に振り返るシークエンスが用意されているので、初見の人でも話を理解するのに困ることはない。かつてレースで連戦連勝だったハービーも、寄る年波か全然勝てなくなって廃棄処分、ついにスクラップにされかけてしまう。旧シリーズを見ている人にとっては、一度でもハービーに乗って友達になった人間が彼を捨てることになるとは信じがたいのだが、主役を若返りさせるためにはこのムチャな設定も仕方がないのだろう。新しいハービーのオーナーは、マギー・ペイトン。演ずるは今をときめくティーンのアイドル、リンジー・ローハンだ(こないだまで「リンゼイ」と表記してたのに、どこかからクレームでも付いたのか)。 ペイトン家は一家でレーシングチームを結成しているが、連戦連敗。マギーもかつてはレーサーだったのだが、一度事故を起こしたために、父のレイ(マイケル・キートン)からレースを禁止されている。そんな彼女には、今のチームのふがいなさが歯痒くって仕方がない。 マギーは大学の卒業祝いに買ってもらったハービーに乗って試運転。ところがハービーはいきなり勝手に走り出し、あげくの果てにはNASCARの人気レーサー、トリップ(マット・ディロン)に喧嘩を売ってしまう(バックミラーでトリップの車体にキズを付けていくシークエンスが可笑しい)。早速始まる二人のストリート・レース。とまどうマギーだったが、予想に反したアクロバット運転で見事にトリップを打ち負かす。そのとき、マギーの心の中に「走りたい!」という強い熱情が蘇ってきた。 しかし、勝者のプライドをズタズタにされたトリップは、なんとかしてハービーの秘密を探り出し、復讐する機会を得ようと、巧みな罠をマギーに仕掛けてくる……。 物語は定番だが、伏線の張り方と始末の付け方の上手さ、テンポのよい展開、勝利敗退再勝利のドラマと、映画作りの基本を忠実に守って、退屈はさせない。ディズニーは「アニメはダメだが実写はいい」という持論をまたしても確認することになった。ネットの批評を見てると「子供向けじゃないか」というトンチンカンな批評があったが、だから最初からファミリー映画だと分かってるものに文句を付けるのは八百屋で肉を注文するようなものなので、お門違いなのである。なんかこの手の批評とも言えない低レベルな感想が蔓延しているのを見てると、ホントに日本じゃ教育は機能してないんだなあと情けなくなる。 一番笑っちゃった感想は、ラストのレースでハービーが壁を走ってトリップを追い抜くシーンを見て、恐らくはレースファンの人の意見なのだろうけれど、「あんなのはレースに対する冒涜だ」みたいなことを書いているのである。全く困った意見で、これは本格レース映画なんかじゃないよ、そういうのが見たければ、『栄光のル・マン』でも見ててくれ(私は未見)と言いたい。「壁走り」はこれまでのシリーズでのハービーの「得意技」で、これをクライマックスでやってくれたのはまさにオールドファンに対する制作者たちのサービスで、あれがなきゃ画竜点睛を欠くというものなのである。 「壁走り」がどれだけ受けたかってのは、後に『ルパン三世 カリオストロの城』で宮崎駿がフィアットに崖を走らせたことでも分かる。これは、ワーゲンとかフィアットとか、丸っこくて可愛い車にさせるからこそ面白いのだ。そのへんの感覚も分かんないたかがレースファンが、映画を偉そうに語ろうってんだから、専門家気取りなやつの言はこれだから鬱陶しいのである。 素直にファミリー映画として楽しめば、これだけ「安心して」子供を連れて行ける映画も珍しいくらいである。随所随所に見せ場はあるし、車にだって心があるってことで、子供にモノを大切にしようって気持ちを持たせる効果もあるだろう。かと言って、説教臭いわけでは全然ない。素直になエンタテインメントに仕上がっているのである。 CGIが必ずしも「売り」になってはいないのもいい。ハービーの「表情」は、確かにバンパーがくにゃっと曲がったり、急に「顔面崩壊」してベロベロバーをしたりはするけれども、危惧していたほどにはわざとらしくなってはいない。これも旧作の雰囲気を大切にしようというスタッフの良心の表れだろう。 オールドファンとしてちょっと残念だったのは、『ハービー』のテーマソングが、一回しか流れなかったこと。流してくれただけで嬉しくはあったのだけれど、『イージー・ライダー(ワイルドで行こう)』を流すくらいなら(いまいち雰囲気に合ってないよなあ)、もっと『ハービー』が聞きたかったという思いはしてしまう。 主演のリンジー・ローハンはあちらではムチャクチャ人気があるらしくて、確かに勢いに乗ってる印象はある。 けれど、これまでに出演している映画の殆どがリメイクだったり続編だったりで、その売り方がいかにも「アイドル」であって「役者」でない点が気にかかる。デビュー作の『ファミリー・ゲーム/双子の天使』は『罠にかかったパパとママ』(エーリヒ・ケストナーの『ふたごのロッテ』!)のリメイクだし、最大ヒット作の『フォーチュン・クッキー』もオリジナルはジョディ・フォスター主演の『フリーキー・フライデー』だ。で、全部ディズニー制作。 何が気になるかって、こういうディズニー御用達の健康優良児(と言っても昔に比べればかなりワイルドではあるのだが)ばかりに主演してたら訳の幅が狭くなっちゃうんじゃないかとか、でもいきなり「オトナへの脱皮」とかで、汚れ役やっちゃって人気急落なんてことになってもよくないよなあとか、そういう余計なことを考えてしまうのだね。 言っちゃなんだがリンジーちゃん、アチラでは今が旬で「魔法」がかかっているみたいだけれども、コチラではそうでもないので、恋人のケビン(ジャスティン・ロング)から「すごくきれいだ」とか言われていても、「そう?」と疑問符が付いてしまう。比較しちゃ悪いが、懐かしのエリザベス・テーラーほどに驚異的に美しいってほどでもないからね。 かと言って、ジョディ・フォスターのようにズバ抜けた演技力があるわけでもないので、これから先、生き残りが厳しいような気がするのだ。若い役者を大事にきちんと育てていくシステムがあればいいんだけれども、アメリカでも日本でもそれはすっかりなくなっちゃってるんである。 さて、果たして更なる続編シリーズ第6作が作られるのかどうかということだけれども、ちょっと難しいかなと思う。もともと『ラブ・バック』シリーズを復活させようという目的で作られたわけではなく、あくまでリンジー・ローハン主演映画を企画した流れの中で生まれたアテモノ映画であるからだ。リンジー・ローハンが続けて登板するならばともかくも、主役を変えて続編を、ということにはならないのではなかろうか。 これはマンネリになっても構わないから(というよりもマンネリを楽しむ種類の映画である)、続きが見てみたい作品の一つなので、できれはリンジーが「もう一度ハービーに会いたいの!」とでも言ってくれたら可能性はあると思うんだが、なかなか難しいんだろうなあ。残念。
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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