無責任賛歌
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2005年08月03日(水) |
オタク道に女は要らない/『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(古川薫) |
日記開設から6周年。たびたび日記が飛んでて申し訳ない限りですが。 でも、お客さんは確実に増えていってるんで、自分でもフシギで。読み返しても「つまんないこと言ってるな、こいつ」としか思えないんですが。 何度か書いてることですが、勘違いする人が多いんで、改めて一言。私ゃ自分の文章で「啓蒙」しようなんてこれっぽっちも考えちゃいません。「あいつらバカか」とやたら過激な言葉を使うのは、そう書かないとナアナアな文章にしかならないからです。 だって、宮崎アニメ見て「日本のアニメは世界最高!」なんてホザイてるやつを「バカ」以外のどんな言葉で表現すればいいですか?
またまた父から突然の電話。 もちろん父から電話がかかってくるときはいつも突然なのだが、電話に私が出られないと後で必ず「なんで出らんやったとか」と悪態をついてくるので、間が悪いときにかけて来られると非常に鬱陶しいのである。でもどういうわけだかオヤジの電話って、間が悪いときに限ってかけて来るんだよな。不思議と。 用件は盆休みに旅行の予約が取れたということで、覚えとけというものであったが、ちゃんと忘れないでほしいのは父のほうである。今月14日にどこぞに鵜飼いを見に行くぞということであるが、私の視力でそれが楽しめるかどうかはちょっと疑問である。 けれど14日ということは、見事に三井グリーンランドの『仮面ライダー響鬼』のヒビキ&イブキ・トーク・ショーとかぶってしまった。さすがに親父を遊園地に誘うわけにもいかないので(しかもどうやら徹夜で並ばないと座れないらしい)、こっちはもう諦めるしかないのであるが、客が押し寄せると初めから分かってるようなイベントは、ちゃんとチケットを発行してほしいものである。それをしないってことは役者さんを所詮は「客寄せ要因」としてしか考えてないってことだからなあ。
神奈川県藤沢の映画館「フジサワ中央」では、映画『電車男』に「オタク特別料金」が設けられてるんだそうな。窓口で「オタク一枚」と自己申告すると、1300円で入れるということである。オタクである証明は特に要らないということだから、別にあえて百式Tシャツを着て行かなくてもOKなのだ(笑)。 話題作りとしても面白いが、何より「このシステムを知った非オタクがあえて『オタク』と名乗って入場できるかどうか」、試金石になっているところが興味津々である。さらに言えば劇場での表記は「ヲタク特別料金」となっているそうで、やや自虐的かつ差別的ニュアンスのあるこの表記には、たとえオタクとしての自覚があってもためらいを感じる人もいるだろう。 で、実際にどれだけの人がこの「特別料金」を利用しているかというと、劇場の話によれば「約半分」だそうな。 さて、ここであまり根拠のない「試算」をしてみたいのだが、即ちロングラン・ヒットを飛ばしている『電車男』を見に来ている客の中で、「本物のオタク」はどれくらいいるか、という試算である。これが単純に「半数」と断定はできないのが現代オタク事情のややこしいところだ。 つまり、「自分はオタクだ」と自覚し、そのことに恥ずかしさも全く感じてない人、濃いか薄いかは関係なく、こういう人は「純粋オタク」であると認めよう。彼(彼女)は、確実に「オタク一枚」と口にして入場することができる。 問題となるのは、客観的に見て充分オタクなのだが、それを世間的にひた隠しにしている「隠れオタク」である。こういう人はたとえ料金が安くなろうと絶対に「オタク一枚」とは言わない。外出時には服装にも気を遣って正体がバレないようにしている可能性は大である。しかし、オタクの浸透度がかなり高くなっている現在、こういうパターンの人間はかなり少なくなっていると見ていいのではないか。彼(彼女)は「非オタク」の中に紛れ込んでいるかもしれないが、データを左右するほどではないと考えられる。 逆に、「非オタク」なのに「オタクのふり」をして安く入って来る連中、これは結構いるんじゃないか。日ごろは「オレ、オタクなんかじゃねーよ」とか言ったり、「オレ、ガンダムに結構詳しいんだぜ。ガンダムって三号機まであるんだよな」とか意味不明なこと言ってるやつが、堂々と「オタク一枚」と言ってのけるのである。こいつらは断じて我々の「仲間」ではない。これが「オタク一枚」と名乗った者のうち何割ほどいるのか。ここが最も根拠がない試算であるが、一割、二割では利かないと思うのである。 最初から堂々と「大人一枚」と入場する人間はもちろん「非オタク」である。彼らはたとえ安くなろうとも、「絶対にオタクとだけは名乗るまい」と決意している。即ち、オタク特別料金を支払わなかった「半数」の殆どは「敵」なのだ。 となると、結局、『電車男』入場者のうち、オタクはどれだけいるのか。多分、二割から四割の間くらいだ。漠然とした試算ではあるが、「入場者の半数がオタク申告」という事実から考えると、あながちそれほど外れてもいまい。
つまり何が言いたいかというと、確かに昔に比べればオタクは世間に浸透したかもしれないが、『電車男』を見に行くような(あるいは原作を読むような)人間の中に、オタクはそんなに多く含まれてはいない、ということなのである。あるいは、もともと関心の外にあると言った方がいいだろうか。オタクが見たいと思う映画はあくまで特撮、アニメなのであって、「自分たちの生態を活写したノンフィクション」などではないのだ。 まあ別にこんな分析せんでも、ネットのレビューを見てりゃ、その殆どが『電車男』を普通のラブストーリーとして楽しんでいる「非オタク」な人々の意見ばかりだと言うことに気付きはする。そういった連中の感想って、「感動した」って言ってるポイントが「オタクなのによく頑張ったね」って言って「同情している」ところにあって、それってつまりは「オタクという属性は非社会的なものであり、かつオタクは一般人に比べて人間的に劣っている」という前提が観客の中にある、ということなのである。そんな蔑みのニュアンスが滲んでいる文章なんて読んでてもあまり嬉しくはないし、劇場で普通っぽいカップルが泣いてる様子を見ても、「ああ、こいつらは今、オレたちに同情してくれてるんだなあ」ということが目に見えて伝わってくるので、苦笑いしか浮かんでこないのだ。 だからその点に気づいているオタクの感想の中には、「アレは真のオタクの姿ではない」と懸命になって主張しているものも散見していて、いかにあれが「虚構としてのオタクであるか」ということを具体的に説明しようとしている。もちろん、そんなのはやるだけ無駄な行為で、あの映画に感動している「非オタク」の人たちにとっては、あれがオタクの真の姿を映しているのかどうかなんてことはどうでもいいのだ。 例えば「普通のオタクはあそこまでオドオドしてないよ。オレだって電車の中で女の子が絡まれてたら勇気を出して助けるよ」なんて言ったとしたら、相手はどう反応するか。「へーえ」で終わりである。だってそれじゃあ、「同情してあげられない」からだ。「女の子に声もかけられないくらい純情で、誰かが助けを求めても震えて動けないくらいに臆病」であるからこそ、電車男の「勇気」に「感動してあげられている」のに、それを否定する意見になど、一般人が耳を傾けるはずがないのである。 ともかくヒット映画ってのは、「かわいそう」な人たちが「頑張ってる」姿を描いたら、それに「同情する」観客がオカネを落としてくれるシステムになっている。『砂の器』しかり、『エレファントマン』しかりである。それが実際は差別を許容しているシステムだと言うことには気が付いていないし、実はそうなんだよと言ってやってもやっぱり「同情」することは止めない。なんとなれば人間は誰かを差別し、優越感を抱くことでしか自らのアイデンティティーを保てない動物だからである。 「非オタクな人々」が、「オタクの恋」を見に行く動機は、「オタク」が明らかに現代人のステイタスの最下層に位置しているからだ。だから、いくらオタクが『電車男』でのオタクの描き方が問題だと批判をしたところで意味はない。「オタク=コミュニケーション不全」であり、「オタク=恋もできない半端者」という刷り込みが前提にあるからこそ、ああいう映画が作られたのだ。その刷り込みは当人が無自覚なうちに行われているので、オタクがいくら「オタクをバカにするな!」と叫んだところで、一般のお客さんは「え? 別にバカになんてしてないよ」とキョトンとするだけである。人間の認識は常に実態よりも自分にとって都合のよいイメージの方を優先するものなのだ。 まあ、オタクがバカにされないためには、結局は電車男君がやったように「自分も非オタクの仲間に入る=差別される側から差別する側に行く」のが一番の方法であるわけだが、それを潔しとしないオタク君は、たとえ女の子からキモイとかイケてないとか言われようとも、孤高を保ち、女にモテることなんて考えないことであろう。「オタク道に女は要らない」と覚悟することである。「オタクだって人並みの幸せはほしいんだ!」とか言ってるやつは修行が足りない。だいたい「女よりも楽しいこと」があったからこそ、オタクになったんじゃないのか。電車男はオタクの希望の星などではない。オタクを堕落へと誘惑するアクマの甘い実なのである。
夜、7時半より、ぽんプラザホールで、FPAPの主催による「第2回制作者勉強会」にしげと一緒に参加する。 演劇というとどうしても役者ないしは脚本家・演出家にスポットが当たってしまうが、実際に「舞台にかける」までの段取りを組むのは製作者の仕事である。ところが地方劇団やシロウト劇団ってやつは、この「制作」についての認識が甘かったりおろそかになってるところがやたらと多い。 その結果どうなっちゃうかというと、役者が集まらなかったり集まっても喧嘩してやめたり劇場側と打ち合わせが不十分でもめたりチラシやパンフレットが間に合わなかったり公演当日になって「すみません、今日の公演は中止です」なんてことになってしまうのである。 まあ、そういうことを回避しようってことでの勉強会だったのであるが、しげから事前に「そういう会」であることを詳しくは聞かされていず、「今度の芝居の企画書を書いてよ」と言われて、何のことやらよく分からないままに「見所」とか「あらすじ」とかを書いたものを適当にでっち上げて渡したところ、なんとそれを参加者全員で俎上に上げて「企画書としていかがなものか」と検討されてしまうという会であったのだった。 ……だったらそう先に言っといてくれよ。それだったらもちっとマシなもの書いたのに。 と後から思っても遅いのである。やれ「どこにどういう意図で出す企画書なのか」とか「具体的な資料が少ない」とか、当たり前の指摘をやたら受ける。まあ受け答えするのはしげだからいいけど。 ほかの議題は「チラシの作り方」とか「北九州演劇祭についての情報」とか、また各参加団体の公演のPRとか。どっちかっつーと、宣伝目的で来た人が多かったみたいね。 劇団「改・FREE’ズ+(カイ・フリーズプラス)」の堤さんもいらっしゃっていたのだが、しげとお喋りしていて、偶然にも高校が同じであることが分かった。しげの高校は北九州の方にあるので、福岡でこうして同窓の、しかも演劇関係者が知り合うと言うのはなかなか珍しい偶然である。こういうとき、人間ってホントに縁だよなあとしみじみ思うことである。
古川薫『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』(文春文庫)。 田中絹代が亡くなって、もう18年。もし生きていれば96歳。気が付けばもうすぐ生誕百年なのである。若い人たちにとって「名前も聞いたことがない」女優になってしまっているのは仕方のない現実ではある。現実ではあるが、本当にこの国の人間というのは文化とか伝統とか歴史とか言うものに背を向けて平気でいられるものなのだなあと今更ながらに嘆いても仕方のないことを嘆いている。脳のキャパ、自分で狭くして楽しいのかお前らと思うけれど、脳のキャパが狭いからそれも理解はできないのだろうな。 しかし、本書を読んで「田中絹代がこの国の人間に何をされてきたのか」を考えたとき、この「飽きっぽさ」というか「過去に対する執着心のなさ」というか「楽しいことも楽しくないことも全部忘れてスッキリするクセ」というか、これこそが日本人の一番の特性なんじゃないかという気がしてくるのである。しかし、たとえ日本人の大半が歴史を過去に置き去りにすることで生きてきた民族だとしても、田中絹代は決して忘れられていい女優ではない。田中絹代はただ単に名女優であったというだけの存在ではない。日本は、日本人は、確実に「田中絹代の時代」を経験してきているからである。
田中絹代の評伝は新藤兼人が『小説田中絹代』を著しており、これは市川崑監督・吉永小百合主演『映画女優』のタイトルで映画化もされた(映画は糞だったね)。 即ち「定番」の伝記が既にあるわけで、にもかかわらずあえて大部の評伝を上梓しようというのだから、いったいどういう切り口で田中絹代に取り組んでいるのか、そこが気になるところである。 筆者の「あとがき」によれば、本書を執筆するに至る最初のきっかけは「田中絹代の靴のサイズが22センチだった」ことだという。「そのちっちゃな靴で、『花も嵐も踏みこえ』トップスターの座を守り抜いたのか」。 まあ、この感慨がピンと来る世代はもう日本には殆どいなくなっているように思う。私とて、亡き母に思いを寄せるときようやくその感慨の片鱗がうかがえるくらいのものだ。 ムカシの人には説明不要だが、タイトルにも使われている「花も嵐も踏み越えて」のフレーズは、田中絹代の代表作の一つ、『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』の冒頭の一節である(ちょっと前までは「この歌のタイトルは?」と質問したらみんな『愛染かつら』と答えるので、「違うよ、『旅の夜風』だよ」と正解を言うクイズが流行ったものだったが、今や曲自体が忘れられてしまっているのが悲しい)。 田中絹代という大女優を一言で語るとことは不可能だが、この一世を風靡した歌を語ることで、その時代に生きた女性の人生を象徴させることができる。「戦後」という時代がまず『リンゴの歌』に象徴されるとすれば、戦前、戦中を象徴する歌が『旅の夜風』だ。これはそういう歌なのである。 私もこの歌は母の鼻歌で覚えた。母もまたこの歌に自分の人生を重ね合わせていたのだろうが、恐らく戦後の一時期くらいまでは母と同じように感じていた女性が一般的であったと思う。一つの歌が時代を映すことがなくなってしまった現代人には、「花も嵐も」に込められたかつての女性たちの思いはピンと来なくなってしまっているだろう。「花」だの「嵐」だの余りにも大仰で誇張が過ぎるように思えるだろうが、実際にそれが大げさに感じられないほどに情熱と苦悩を当時の女性たちは経験していたのだ。
> 花も嵐も 踏み越えて > 行くが男の 生きる道 > 泣いてくれるな ほろほろ鳥よ > 月の比叡を 一人行く
> 優しかの君 ただ独り > 発(た)たせまつりし 旅の空 > 可愛い子供は 女の生命(いのち) > なぜに淋しい 子守唄
歌っているのは映画に主演した上原謙・田中絹代ではなく、霧島昇とミス・コロムビアである。歌詞を見れば分かる通り、一番が男の歌、二番が女の歌である。 しかし冒頭の「花も嵐も」は当時、男性よりも女性によりアピールした。田中絹代が演じた高石かつ枝が、いや、田中絹代自身が花も嵐も踏み越えた波瀾万丈の人生を送っていた。そしてそのことを大衆も感じ取って、自らの身になぞらえていた。 だからこそ、筆者の古川氏もこの評伝のタイトルに『花も嵐も』を冠したのだと言える。そういう感覚が普通だったのだということが理解できないと、「なぜ男の歌が女の人生に重ね合わせられるのか?」という疑問にぶち当たったまま、答えが出せなくなってしまう。 「田中絹代がどれほどの女優であったか」どんなに百万言を費やしたところで、知らない世代には伝わらない。いや、その生前から「忘れ去られていった」過程を古川氏の筆はある意味残酷に描き出して行く。 田中絹代は日本発のトーキー『マダムと女房』に主演し、その「鼻にかかった甘ったるい声」で観客を魅了した。初代『伊豆の踊子』女優として、「純情可憐な初々しさ愛らしさ」を観客の目に焼き付けた。そして『愛染かつら』の高石かつ枝として、「空前のヒット」を飛ばした(既にキャリアのある「田中絹代」という名前を捨てて「高石かつ枝」と改名させようとする動きすら生まれたほどである)。 それが、戦後、外遊して帰国、ファンに投げキッスを送っただけで「アメション女優」と呼ばれ、人気は地に落ちた。以後、田中絹代は復活を目指し、溝口健二監督とのコンビで『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』など世界の映画賞を総ナメにする傑作郡で名女優としての名声を確立するが、かつて「高石かつ枝」であったころに得ていた大衆的な人気を勝ち得ることは二度となかった。 その時の状況を古川氏はこう記している。 「被占領国の日本には、絨毯爆撃で家を焼き、非戦闘員を殺し、あげく広島・長崎に原爆を落としたアメリカに対する面従腹背の隠然たる空気が充満している。(中略)しかし、たかがサングラス、たかが投げキッスをとらえて、報道機関がこれほどの憎悪を一人の同胞に向けるというのは、何とも歪な現象である。ジャーナリズムの論調に煽動されて、世間一般も絹代に軽蔑の目を向け、引き潮のようにファンは離れていった」 しかし、その「ファン」とて、その後、生活から思想に至るまで急速にアメリカナイズされていくのだから、田中絹代への憎悪は即ちアメリカさんの前に卑屈にひれ伏すしかなかった自分自身に対する憎しみの反作用であったとしか考えようがない。卑劣だったのは日本国民のほうだったのである。 田中絹代の最後の輝きとも言える『サンダカン八番娼館 望郷』。これは確かに素晴らしい映画で、元「からゆきさん」を演じた田中絹代の演技はまさに「入魂」の一言がふさわしい。老いてなおあれほどに強烈な生の輝きを宿した目を、私は他の映画俳優に感じたことがない。若い人に「田中絹代のすごさ」を感じてもらうとすれば、この最晩年の傑作を見せることが理解は早いとは思う。しかしそれでも「田中絹代の時代」を感じることは決してできない。今見れば退屈ですらある『愛染かつら』、そこに「時代」を感じることができなければ、映画を本当に「見た」ことにはならないのである。 古川氏は、田中絹代の魅力を語るときに必ずと言っていいほど「美人ではないが」と注釈をつける人々に対する反発もまた、本書を執筆する動機になったという。確かに言われてみればそういう形容を付ける評論家・解説者は結構いたようだが、私は田中絹代が美人ではないなどと思ったことは一度もなかった。美は主観的なものだし個人差はあると思うが、それにしても田中絹代を「不美人」と判断するのなら、日本人女性で美人と言える女性は皆無に等しくなってしまうだろう。人気絶頂を極めた田中絹代に対する、これは過剰なまでのライバルたちやマスコミのやっかみであったと思う。 うつろいやすい大衆ではあるが、彼女の「美しさ」にだけは、決して背を向けはしなかったと思う。
中田雅喜・円尾敏郎編・天都カネ子監修『日本個性派俳優列伝Ⅳ テレビが生んだ悪役スタア 天津敏』(ワイズ出版)、ようやく届く。 一ページめくって読んでいくのがもったいないくらいで、なかなか先に読み進めないが(つか、読みながら泣いてるし)、天津さんについてはそのうち、思いっきり書いてみたい。いや、もうどこまで書いたらいいか自分でも見当が付かないもんで。
2004年08月03日(火) 5周年! ……タイトル考えなくていいのはラクだ(^o^)。 2003年08月03日(日) 見つかりませんでした/『アニメ&漫画コラボBOOK 茄子 アンダルシアの夏』 2002年08月03日(土) 手帳求めて花いちもんめ/DVD『刑事コロンボ 別れのワイン』/『忍者飛翔 桜の章』(和田慎二) 2001年08月03日(金) 1周年!/TVスペシャル『ルパン三世・アルカトラズコネクション』ほか 2000年08月03日(木) 巻頭言&近頃の若いやつぁよぉ……/『ジェームズ・ボンドへの招待』(ジェームズ・チャップマン)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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