無責任賛歌
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2005年07月29日(金) |
久しぶりにトンデモさんの話題/『スケバン刑事』12巻(和田慎二/完結) |
『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを逝く者』についてこないだまで「『Zガンダム 星を継ぐ者』よりずっと面白いじゃないか!」と、私のことを人としてどうかってくらいに貶していた東京のグータロウ君であるが、詳細な批評を日記にアップしたら、急にトーンダウンして「よく考えれば、あれは要らない物語だよなぁ。」とか言い始めた。うーん、今ひとつ根性がないなあ(笑)。何度も書いてる通り、作品ってのは視点を変えればいくらでも評価が変わるものだから、別にグータロウ君の感想が間違ってるなんて思っちゃいないのに。 もちろん映画の感想書くたびにいちいち「あの、これは私の個人的な感想で、ほかの人はどう考えていても構いませんし、私の意見が絶対だとは思いませんよ」ということを前置きとして書いておくわけにもいかないから、省略しているけれども、当然私の見方だって自分で正しいと思って書いているわけではないのである。人間が、自分が正しいと思ってることしか言わないなんて考えてる人がいたら、その人は大甘ちゃんである(笑)。
今日は元から仕事休みの日なので、テレビを漫然と見ていたら、以前、『トンデモ本の世界』でも「日本政府打倒を目指す古代帝国軍総統」として取り上げられていた「小島露観(万師露観)」のニュースが飛び込んできた。今更どうして? それとも何か新しい進展でも? という相反する興味で見ていたのだが、格別急展開があったわけでもなさそうである。ワイドショーの類はヘンなときにヘンなものをひょいと放送するものだ。 報道の仕方はいかにも「第二のオウムになるのではないか」という不安をあおるような、政府転覆集団かセックス教団かって感じであるが、だったらもう十年以上前からニュースで取り上げてしかるべきじゃなかろうか。つか、未だにあの「ザイン」とかいう組織が何をどうしたいのか、実際に何かをしようとしているのかしていないのか、全然分からない。不安を感じる人も実際にいるとは思うが、小島露観の言動が支離滅裂なので、当局だって危険性があるのかないのか判断か付かず、どうにも取り締まりようがないというのが現状だろう。でも、コトバは過激でも基盤が貧弱でこれ以上は広がりようがない気もするし、ほっときゃいいような気もするんだけど。かえってテレビ放送しちゃうほうが宣伝になって信者を増やしてしまうというのは、それこそ「オウム」での教訓だったはずなのだが、懲りてねえよなマスコミ。 レポーターの「あなたは宗教家なんですか?」の質問に、小島露観、冗談なんぞ一切通じないという表情で「軍人です」と答える様子が映し出されていた。一応気分は「独裁者」らしい。アドルフ・ヒトラーよりはアデノイド・ヒンケルに近い気はするが。両脇にはべらせていた女性を「私の最高傑作です」と紹介するあたり、何だかどこかで見たことあるようなデジャブーを感じたのだが、多分、東宝映画『怪獣大戦争』のX星人統制官&波川女史とか、『マジンガーZ』のあしゅら男爵&ガミアorシュトロハイム&ドナウα1とか、そんなもんのイメージだろう。でも最高傑作と言ってるわりにはご面相がちょっとね。いや、それなりにではあるんだが、もうちょっと凝ってもよかったのではないかと思ったのよ(笑)。 果たしてこれから先、何らかの「続報」があるのかどうか、騒いだわりにはこのままフェードアウトしてくんじゃないかと思うのだが、昼間ヒマのある人はまあテレビウォッチングしてみてくださいな。
昨年、「これはいいぞ!」と誉めまくったシルヴァン・ショメ監督の長編アニメ『ベルヴィル・ランデブー』であるが、いよいよジブリCINEMAライブラリーから8月3日にDVDが発売される。広島アニフェスで見た時には果たしてこれが全国公開されるものか、DVD発売は夢のまた夢かと疑っていたのだが、これでテレビ放送の可能性も出てきたと思う。NHKのBS夏休み劇場とかWOWOWで深夜とか、ワクが限定されそうな気はするけれど。日本はアニメ後進国だから(日本のアニメが世界で一番とか傲慢にも思いこんでる連中が多いんだわ)、なかなか他国のアニメをきちんと評価できないし見ようともしないが、少しでも人口に膾炙していってくれると嬉しい。 発売直前に宣伝係りに借り出されたのが女優の本上まなみ。イベントで 「クールでいて、ギリギリのナンセンスにあふれています。友人と見て『コレ、何?』って顔を何回も見合わすのは他にない」と絶賛したとか。アイドルやタレントを、一見畑違いっぽい作品の広告塔に使うことを昔はちょっとどうかなと考えていたものであったが(かつてウタダがダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』を賞賛したのにはアタマを抱えた)、最近はこれも致し方ないかと思うようにはなっている。何しろもう、世間の人たちはこういう「引き」がなけりゃあ、ディズニー以外の外国の長編アニメになんぞ、全く興味を持たないからである。ヒョーロンカとかシキシャとかセンモンカとか、そんな人たちが声をからしても誰も見てくれはしないのだ。 本上まなみの発言は、『ベルヴィル』の何を見て「クール」と評しているのか、「ギリギリのナンセンス」とはどういう意味なのか、顔を見合わせたからどうだというのか、何も言っていないに等しいというか、『ベルヴィル』以外の作品にだって流用できそうなくらいに陳腐なのだが、それでも私ごときが百万言を費やすよりもよっぽど若い人たちへの求心力は強いだろう。結局、「その作品を見たい」と思わせる最大の要素はいつの時代も「フィーリング」だからである。 しょうがないから、私も改めて『ベルヴィル』の魅力をこう語ろう。 「ヘイ、そこのbaby、ファンキーでファニーなBAHchanたちがグローバルにhopしちゃうGOKIGENなムーヴィーを見たくないKAI? それがこれ、『ベルヴィル・ランデブー』さ! 買って損はさせねえゼ、Ah,Hah!」 ……あほか。
午後から、しげの通院に付き添い。 何となく学校の三者面談に向かう親のような心境で、別に苦情を言いに行くわけでも言われに行くわけでもないのに、何となく緊張する。待合で待たされている間も、診察室の中に入れてもらえるのだろうかとか、ありえないことを心配しているのである。私の方が神経症にかかっているみたいだ。 始めてお会いしたカウンセラーの先生は、朴訥で誠実な好青年という印象。こういう仕事は患者に警戒心を持たれてはまずかろうから、誠実さというか人当たりのよさが一番の武器だというのは了解できるのだが、果たしてそれだけで充分だろうかという疑問もある。しげの心はかなり業が深いというか、ヤミの部分も内側にどんよりと漂っているので、そこまで掬い取りながら治療をして下さっているのかどうか、そこはちょっと掴み取れなかった。 カウンセラーの先生の前では、しげは緊張しているのかやはり訥々とした喋りになる。自分のことがうまく適切に説明できないので、突然「世界がシュレジンガーの猫なんです」なんて口にする。慌てて私が「つまり世界が自分が知覚しているから存在しているようにしか思えないって言ってるんですよ」と、量子論の説明やらSF小説、マンガなどによく使われる設定であることを説明する。前提となる知識がないと何のことやら分からんことをポンポン口にしてしまうところがしげのコミュニケーション不全なところだ。 私が「解説役」に回ったせいか、カウンセラーの先生からは「また時々来てください」と頼まれる。やはり本人とだけ対話するだけでなく、「周囲の人間がしげのことをどう見ているか」ということを説明することも大事なのだろう。もしかしたら、しげよりも私のアタマの方がよりイカレていて、私がしげに暗示をかけてしげをイカレポンチのように見せかけているだけかもしれないのだ。 PPのみなさんで、ためしにしげと一緒に病院に行ってみたいという人、しげに申し込んでみませんか? カウンセラーさんは千客万来大歓迎で遠慮は要らないみたいだから、めったにない経験ができますよ(笑)。
博多駅のゲイマーズ、紀伊国屋に寄って、本を物色。 オムライスの店で晩飯、帰宅。 こないだから片っ端から小説、マンガを読みまくっているのだが、相変わらず日記にアップできているのはその本の一部である。指の痺れさえ治れば、まだもう少しスピードがアップできるのに、歯がゆいことである。数少ない読者の皆さんには更新遅いとかもっと書けというご不満もあろうかと思いますが、もう数年前とは病状が違ってますので、このくらいのペースでカンベンしてくださいな。
テレビ『ドラえもん』、今日は「ころばし屋」と「きこりの泉」、ナンセンスギャグモノの傑作二本立てである。作画は安定、演出もまあまあ、新シリーズに入って、スタッフもどうやら軌道に乗った感じである。オープニングに未だに歌が付かないのはそろそろ何とかしてほしいと思うが(女子十二楽坊が嫌いなわけではナイ)。 「ころばし屋」はもちろん『ゴルゴ13』とかのパロディであるが、途中、のび太ところばし屋の対決を西部劇の一騎打ちのイメージで描いて、のび太の特技を見せるあたりの演出が上手い。「きこりの泉」も、スネ夫がわざと新品のおもちゃを泉に捨てたら巨大ロボになって出てくるというオリジナル部分が、決して原作を損なうことなくうまく融合している。オチの「キレイなジャイアン」がどうなったのかという疑問は今回のリメイクでもやっぱり解消されなかったが、まあ、これはいいか。 総じて出来のいいエピソードが続いているので、この調子なら少なくとも数年は延命できそうではある。ただ、映画シリーズを続けていくのはもうどうかなあという気がしている。マンネリでもオーケーというか、あえてマンネリを楽しむのがテレビであるとすれば、映画は「お祭り」である。どうしても新しい要素、去年よりも何か一つ面白い要素が求められるものだ。いくら新しいファンが付いて新陳代謝が行われていると言っても、旧作をビデオで見返すことが容易である以上、飽きられるサイクルは昔に比べてかなり早くなっているだろう。これ以上新作を作っても、大同小異という印象しか与えないだろうと思うのは、「原典回帰」の名のもとに実はネタ切れを露呈した『のび太の恐竜』のリメイクが新作として予定されているからだ。もうこれで打ち止めにした方が有終の美を飾れるんじゃないか。 私は「藤子・F・不二雄ファン」ではあっても「『ドラえもん』ファン」では必ずしもないので、ちょっとザンコクなことを言っているかもしれないが、例えば『ルパン三世』のテレビスペシャルシリーズのように、同工異曲の作品が拡大再生産されて、作品評価自体が下落していくのを『ドラえもん』にまで見るのはちょっとツライものがあるのである。
マンガ、和田慎二『スケバン刑事』12巻(完結/メディアファクトリー)。 完全版最終巻。なんだかんだで、和田慎二の代表作はこれってことになるんだろうなあ。同時に張ってた伏線が収拾付かなくなって、ご都合主義な展開が続出、連載時無理やりまとめちゃったのを単行本化のときに何とか辻褄を合わせたという、和田慎二のストーリーテリングの雑さを露呈した作品でもある。いきなり出てきた「学生刑事No.1」とか、名前も分かんないままだもんな。 まあデビュー連載だから仕方ないと見る向きもあろうが、現在だって作劇術がたいして上達しているわけではないから、間違っても和田慎二を「稀代のストーリーテラー」とか呼んじゃいかんよな(和田慎二について書くときは必ずこの件に触れているが、メディアファクトリーに移って見返しにこう書かれるまで、和田慎二をそんなふうに認識していた人間はまずいなかったことを指摘しておきたいからである。これは「歴史の捏造」ですらあるから、明確にしておく必要があるのだ)。 実際、信楽老の「グランド・スラム作戦」にしたところで、既に政財界のドンとして君臨している彼がわざわざそんな一歩間違えば自滅しかねない作戦を計画しなければならないメリットは殆どないのである。神恭一郎と組織「猫」との関わりについてだって、最終巻でこんな取ってつけたようなページ数で簡単に書かれていいこっちゃないだろう。「説明」や「解説」ばかりでドラマが一向に盛り上がらない。それを誤魔化すために、今巻ではやたらキャラクターが死にまくる。 ある程度それは仕方がないとしても、第一部では三平を殺し、前巻ではツグミを殺し、美尾が死んで、えーっとあと誰が死んだっけ。もちろん、碧子も信楽老もサキの母も神もサキも死にまくる。ここまで死なせてればもう食傷で、敵はともかく味方も無意味に死なせすぎ、悲しみすら涌いてこない。「オチ付けるために無理やり死なせたな」という印象しかないのだ。これだけの犠牲を払ったのなら、「生きて帰ってこその任務」とサキに言わせたのなら、少なくともサキは、主人公のサキだけは生き残らせなければそれこそドラマとしての「辻褄が合わない」というものだろう。もう完結して何十年も経つというのに、未だにこの最終巻の結末には納得がいかないのである。 書き下ろしの後書きでも、いろんな人の協力、後押しでマンガ家を続けて来られたと感謝の言を述べているが、だったらもう少しキャラクターの描き方を考えてほしいものである。和田さんの「はみだしもの」意識はなんか自意識過剰だとは思うが、そういういつまでも青臭いところ、実はそう嫌いじゃないのだ。
2004年07月29日(木) やっぱり「じゃないですか」はいやじゃないですか。 2003年07月29日(火) ちょっとだけギャグの話/『キャラクター小説の作り方』(大塚英志) 2002年07月29日(月) 肉は血となり肉となる/『砲神エグザクソン』5巻(園田健一)/DVD『マジンカイザー』6巻ほか 2001年07月29日(日) いっじわっるはっ、たっのしっいなっ/『竜が滅ぶ日』(長谷川裕一)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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