無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年07月26日(火) 『Zガンダム 星を継ぐ者』再論/『神様ゲーム』(麻耶雄嵩)

 エンピツのアクセスランキング、5位にまでなっちゃいました(汗)。でも、アクセスランキング表から飛んでくる人はゼロなんだねえ。エンピツに登録してる人、アクセスランキングまではチェックしてないのかな。いや、私も普段は殆ど覗いちゃいないんだけど。
 今日はもう、来てくださってる方が1000人くらいに落ち着いたので、明日にはずっと順位は落ちるだろうけれど、なんかもうちょっと『Zガンダム』について補完して語っておかないといけないような気分にさせられてしまう(笑)。

 ということでもうちょっとだけ付け加え。未だに『Zガンダム 星を継ぐ者』で「旧作画」を使っていることに関して「なんで全編新作画にしないんだ!」と文句を付けている人が後を絶たないけれども、もともと「再編集版」として企画されたものに「再編集はケシカラン」と文句を付けるのは、感情的な難癖にしかなってないからね。そんなことを言い出せば、「『イノセンス』のCG技術は素晴らしいのに、どうしてキャラクターも含めてCGにしなかったのか」とか(カンヌでは、海外のメディアでそれに類する質問を記者が押井監督にしたらしい)、更には「アニメは所詮ただの絵に過ぎないのだから、リアルな物語は描けない。どうしてアニメ作家たちはあんな貧弱な表現方法に拘っているのか」なんて阿呆な主張も認めなければいけなくなってくる。新作画に拘る人間は、間接的にアニメを蔑んでいるのである。
 もちろん、予算と時間が許せば、『Zガンダム』を全編新作画にすることも可能であったとは思う。しかし、富野由悠季が、なぜ「再編集」に拘ったのかということについては、もう少し感情的にならずに分析する必要があるのではないかと思う。
 そもそも『ガンダム』シリーズは、アニメブームを起こした作品ではあっても、数々の批判にもさらされてきた作品である。森やすじや大塚康生からは、「あんな“動かない”ものはアニメではない」とまで言い切られている。東映動画で長編フルアニメーションに携わってきた立場であれば、リミテッドと呼ぶのもおこがましい3コマ作画、バンクだらけのアニメなどアニメと呼んでほしくないという気持ちになるのは当然であろう。更に言えば、富野監督が東映動画を引っ掻き回して徹底的に対立することになった手塚治虫の「虫プロ」(当時)出身であることも批判の背景にはあると思う。「日本のアニメをダメにした」それが手塚治虫批判から富野由悠季批判にまでスライドしているのである。
 しかし、日本のアニメ業界を現実に牽引して来たのはその「アニメではない」無数のテレビアニメであり、そのノウハウは手塚治虫が開発してきたものだ。その事実はアンチ・虫プロ派であっても認めなければならないことだろう。殆ど捨て売りのような価格で『鉄腕アトム』を製作してきたのは弊害ではあったが、東映動画だけに任せておいたら、日本のテレビアニメの歴史は、十年は遅れていたかもしれない(東映動画も結局は「手塚システム」を導入することになる)。
 バンクシステムは、マンガが記号であることを最大限に利用した荒業であると言える。川原泉が『小人たちが騒ぐので』で、「同じ人物のコピー絵でも、背景のトーンを変えれば全部違った顔に見える」ことを実験していたが、即ち「マンガ絵」の持つ情報量は、もともとかなり少ない。どんなに緻密に描かれた絵であっても、ナマの人間ほど微妙な表情を表現することは不可能である。だからこそアニメは基本的に「情報量が少ない」ことを逆手に取り、カリカチュアされたキャラクターと動きで喜怒哀楽を強調し、「微妙な味わい」を無視してきたのだ。ディズニーのフルアニメーションはまさにそうして発展してきたのであって、しかし初期の東映動画がそれに追随し、そして追随している限り、ディズニーを越えることは適わなかった。『鉄腕アトム』の3コマ作画は、バンクシステムは、本当に「弊害」だけをもたらしたものだったのか。同じ絵がシチュエーションを変えればどうにでも見えるということは、アニメの表現を広げもしたのだと肯定的に考えることはできないのか。それを1番最初に実証して見せたのが『鉄腕アトム』だったのであって、「動きもしない」アトムのうなだれた姿に、ロボットの悲しみを見出していたのではなかったか。『エヴァンゲリオン』の止め絵の多用をただの枚数減らしだとは思わなかったのではなかったか。我々はテレビアニメの歴史の中で、「情報量の少ない絵を想像力で補完する見方」を素直に受け入れてきたのだ。
 もちろん、アニメーターの技術が向上し、予算が増えればアニメはバンクや3コマ作画や止め絵は控えるようになる。しかしそれでもアニメの「絵」は最終的に実写ほどの情報量を提供することはできない。レイアウトを考えタイミングを計り、声優が声を当て効果音を付け、更に観客の「想像力」に期待して、やっとこさ作品として認めてもらえるのである。富野由悠季が「絵コンテ千本切り」を行ってきたのは、そういったテレビアニメであり、その中には「元東映動画」の宮崎駿が監督した『未来少年コナン』などもあった。その演出力に感嘆しつつも、富野由悠季は口には出さず、考えていたことだろう。日本のアニメの歴史は虫プロが作ったのだと。
 なのに、今のアニメファンは見た目のよい新作画だけに騙されて、アニメがその「記号性」を駆使する表現方法であることを忘れてしまっている。アニメは「動いても動いていなくてもアニメ」である。世界最高峰と言っていいユーリー・ノルシュテインの『話の話』や『霧につつまれたハリネズミ』などは「切り絵アニメ」であるが、あれがどれほど動いていると言うのか。動かそうが動かすまいが、アニメを作品として昇華させる要素は「演出」なのである。
 「再編集で、たいして動きもせず汚い旧作画で何が悪い。逆に動かず汚い作画だからこそ編集と演出でドラマを成立させることができるのだ。ディズニーと宮崎アニメの信奉者は去れ」
 私には富野監督が内心、『星を継ぐ者』についてそんなことを考えているように思えてならない。まあ、本人に聞いても韜晦して絶対に正直には言わないだろうが、そうでなければ、堂々と旧作画を劇場にかける「過激さ」の理由が説明できないのである。

 恐らく、日本初の「再編集」劇場アニメは『鉄腕アトム 宇宙の勇者』だ。テレビシリーズの中から『ロボット宇宙艇の巻』〔46話〕『地球防衛隊の巻』〔56話〕『地球最後の日の巻』〔71話〕を中心に、“新作画も加えて”再構成している。今のオタクはすぐに「新作画がどれくらいあるか」ということに注目してしまうが、この時代、当然そんなことは「売り」にはならない(どちらかというと、白黒アニメだったアトムがカラーで見られるというインパクトの方が強かった)。「新作画」は、異なるエピソードを繋ぐために必要であっただけである。
 「再編集映画」になぜ新作画が必要になるのか、“新作画を一切使用しなかった”アニメをいくつか思い浮かべていただければその理由は見当がつくのではないかと思う。例えば、『宇宙戦艦ヤマト』はデスラーとの最終決戦をカットし、『未来少年コナン』はなんと「ギガント」のエピソードをまるまるカットしてしまった。そんなデタラメな事態を引き起こしたのは、新作画がシーンとシーンの間の省略された部分をうまく繋ぐ「ブリッジ」として機能せず、映画の「尺」を調整できなかったためである。即ち、日本の再編集アニメにおいては、新作画はもっぱら物語の省略と繋ぎのために使用されてきたのだ。
 『星を継ぐ者』においても、「新作画」は「ブリッジ=尺の調整」としての役割を果たしてはいる。しかし、わざわざ「新訳」と名乗ったのは、単に1時間半の時間内に映画を収めるためばかりではなかった。旧作の設定や意味を組み変え、21世紀のガンダムファンに送る新作として『Z』を再生させるためには、「旧作画と新作画のコラボレーション」が絶対に必要だったのである。
 例えば、幽閉され監視を付けられ不遇をかこつアムロがカツに罵倒された後、エゥーゴと行動を共にするまでの過程は一気に省略されるのだが、その間を繋ぐブリッジのシーンは、フラウがレツとキッカと共に旅立つ新作画のシーンである。ここでどうして新作画が必要になったか。
 テレビシリーズではこのときフラウはレツとキッカの間にいて、二人を抱き締めている。ところが新作画ではフラウは二人の横にいて、目は彼方を見つめているのだ。この違いは何か。旧作では再び戦場へと向うアムロに対してフラウの心は既に離れてしまっている。彼女は、カツもアムロに奪われ、残されたレツとキッカもまたいずれは戦乱に巻き込まれていくのではないかという不安に襲われており、だからこそ二人を抱き締めずにはおられなかったのだ。このようなフラウの姿を見せられては、視聴者はどうしたってアムロの身勝手さ、カツの幼さを感じないではいられない。あるいは逆にフラウの方が男の陰で過剰に被害者ぶっているように受け取る人もいるかもしれない。どちらにせよ、彼らの心がバラバラになっていることは間違いないのである。
 だが、新作画のフラウは、戦争に対する不安を抱きつつも、アムロを、カツを戦場に送り出す「勇気」を持っている。アムロがなぜ再び立ったのかも、カツがなぜアムロと行動を共にしたのかも理解している。彼女の目は、決して戦争の現実から逸らされてはいないのだ。
 この新作画ゆえに、アムロは旧作のような単純に鬱屈したキャラとは見えなくなった。幽閉されていたときすらずっと脱出の機会を狙っていた人物として描かれ、そして彼の後ろには今でも「ちゃんとフラウがいる」ことが明示されることになったのだ。
 アムロは決して孤独な存在ではない。つまり、『ファーストガンダム』で、アムロが最後に「僕には帰るところがある」と言った言葉、これがまだ生きていることを、20年の時を経て、ようやく富野監督は示してくれたのだ。ここで感動しないのなら、その人はガンダムファンを名乗ることを止めたほうがいい。
 これは、「旧作画と新作画の融合」があったからこそ成立した効果である。富野監督には「新作画」だけで長編アニメを作る意図はもともとなかったし、また、「旧作画」だけで「新訳」が成立するとも考えていなかった。『星を継ぐ者』はそのことを前提として批評しなければ、適切な評価は下せない。「旧作と新作の落差がひどすぎ」とか「新作画だけで作れ」という不満が印象批評の粋を出ないものであり、映画の本質を見ていないのはそのためである。

 一回しか映画を見てないでここまで言い切るのもなんだなあとは思うのだけれど、DVD買ってもう一度見直したら感想変わるかもなあ。でも、万が一、富野監督が将来予算を潤沢に与えられて「完全新作のZガンダム」を作ったとしても、現行の『星を継ぐ者』が否定されたことにはならない。与えられた条件のもとで「最善」の作品を作る。そうして完成したのがこの映画だからだ。どんなに作画が荒れようが、テレビアニメの歴史はそうやって紡ぎあげられてきた。それを忘れて文句を付けているやつらは、テレビアニメに対する愛を忘れているのである。


 麻耶雄嵩『神様ゲーム』(講談社)。
 これもミステリーランド第七回配本作品。箱カバーの惹句は、「まさに神わざ。」これがどういう意味を持っているかは、本書を最後まで読めば「まさに」と首肯することになるだろう。これはそれくらい激賞してもし過ぎないくらいの傑作である。

 主人公は小学四年生の芳雄(江戸川乱歩の『少年探偵』シリーズの小林君と同じ名前だね)。彼の住む神降市で、残虐な猫連続殺害事件が起きる。芳雄は同級生と結成した少年探偵団の仲間と一緒に、事件の犯人を探し始めた。そんなとき、転校してきたばかりのクラスメイト・鈴木太郎君とトイレ掃除をして入る最中に、彼からとんでもない話を聞かされる。
 「ぼくは神様なんだ。だから猫殺しの犯人も知っているよ」。
 彼は大嘘つきなのだろうか。それともこれは「神様ゲーム」なのか。
 数日後、芳雄たちは探偵団の本部として使っていた古い屋敷の古井戸の中に詰められた友人の英樹の死体を発見する。恐怖と悲しみに包まれる芳雄たち。猫殺しとこの殺人事件は何か関係があるのだろうか?
 芳雄は思い余って「神様」鈴木君に「犯人に天誅を下してほしい」と頼んでしまう……。

 これだけ「仕掛け」の多いミステリも珍しい。詳述すればトリックをばらすことになるので、なかなか書き方が難しいのだが、基本的にこの作品にはふた筋の「謎」がある。
 1、猫殺しおよび英樹殺人事件の犯人は誰か。
 2、鈴木君は本当に「神様」なのか。 
 しかし物語が展開されていくにつれ、この二つは複雑に絡み合い、新たな謎をも生み、感嘆には解けなくなっていく。ついには、読む人によっては恐らく「訳が分からない」と頭を抱えることになるだろう空前絶後のラストへと辿り着くのだ。
 自慢ではないが、私はたいていのミステリ作品の犯人やトリックは「慣れ」で当てることができる。当てられない場合は私の想像の方がその作品の出来を上回っているときである(それだけ出来損ないのミステリが横行しているのだ)。
 しかし、本作は九割九分までそのトリックと犯人を見破っていながら、作者が「あのような結末」を用意しているとは思わなかった。ここまで見事に「うっちゃり」を食らわされたのは久しぶりの経験だが、決して悔しくはない。「あのようなラスト」を「用意しなければならなかった」筆者の創作意図に深く共感するからである。
 本作にはいくつもの「怒り」が表れている。それは作中人物の言葉を借りても語られることがあるが、基本的には筆者の麻耶雄嵩本人の怒りであろう。その怒りも大雑把に二つにまとめることが出来る。
 1、世の中はどうしてこんなに不条理にできているのか?
 2、どうしてミステリは「真実」を明かしてやらなければならないのか? 
 作中で、芳雄は「大事な猫を殺されたのに、それがどうしてたいした罪にもならないの?」と嘆く。もちろんこれは読者の少年少女たちに与えられた「きっかけ」に過ぎない。「世の中の不条理」はほかにもいくらでもあるからだ。犯罪が適切に裁かれていない、という思いは大人にもある。なのに、その当の大人たちが犯罪を助長するような世の中を営々と築き上げてきたことに対して何の反省もしていない。こうなったら「神様」にでも頼るしかないのではないか? しかし、世の中にゴロゴロしている「神様」もまたトラブルを解決してくれるどころか、諍いの種にしかなっていないのである……。
 しかし、世の中の一番の不条理とは、そんな現実から少年少女の目を逸らそう逸らそうとしている大人の偽善ではなかろうか。そんなに大人は子供を純粋培養したいのか。
 小学四年生にもなれば、大人がいかに奇麗事ばかりを言っているかには気がついてくる。連日テレビや新聞で報道されている事件の数々を子供が何も知らないと思っているのだろうか? いや、実際に家の近所で殺人事件があったり包丁男が学校に乱入したり、親父が浮気してたりするなんてことを子供たちは経験しているのだ。なのにそんなことは「なかったこと」のように大人は振舞う。そうすれば子供には何も分からないとでも思っているのか? 何という傲慢か! 「汚いものは見えないように」いくら大人が腐心しようと、殆ど徒労であるのに、そんなことにも気がつかない大人たちは、子供の目からは馬鹿か卑劣漢にしか思われまい。
 作者は本作を通じて少年少女たちに訴えている。「君たちの生きている世界はこんなに汚い世界なんだよ。救いなんてない世界なんだよ。でも君たちもいずれそんな世界の中で大人になって生きていくことになるんだ。だからと言って、君たちはそこで『神様』に頼るかい?」と。そして大人たちにも怒りをぶつける。「いつまで奇麗事だけの物語を子供に与え続けるつもりだ?」と。
 ミステリブームの中心をマンガが担っていることは誰も否定できないことだろうが、さらにその中心にある『名探偵コナン』がどれだけ下らないか、指摘する向きが少ないのはなぜか。もちろん、残酷な殺人事件ばかり描いて教育上よくない、と批判する大人もいないではない。しかし、『コナン』が下らないのは、残酷だからではない。そんな批判は的外れもいいところで、あのマンガの一番下らないところは、どんな事件も全て奇麗事で落ちをつけ、解けない謎はない、真実はいつも一つと能天気に主張しているところである。こんな欺瞞がどこにある?
 読者の中にはこの『神様ゲーム』のあのラストを、「そんな馬鹿な」とか「意味不明」とか言うやつもいるだろうが、それはミステリが「全ての謎が論理的に解決されるもの」だと錯覚しているからである。
 現実の社会を考えた場合、全ての「謎」が解明されることなどはありえない。ミステリもまた文芸の一つである限り、その法則から逃れることはできないはずであるし、無理に「たった一つの真実」などがあるように主張すれば、ただの一人よがりで自己満足な駄作にしかならないのだ。『コナン』のおかげでどれだけミステリの読み方を間違える馬鹿が増えたか、あれくらい罪悪なマンガもない。
 ここでハッキリと断言しておくが、ミステリの本質は、「いったん全ての謎が解かれたように思った後にもなお残る人間の謎を提示すること」にあるのだ。「論理的に全ての謎が解かれること」なんて概念はもう百年前の古い定義で、糞でしかない。横溝正史の『獄門島』がしばしば日本ミステリの最高傑作と評価されるのは、事件の謎が全て解明された後、犯人の「動機」そのものが崩壊してしまう「運命の不条理」が描かれているからである。それに対して金田一耕助の「孫」を僭称するバカマンガがくだらないのも、横溝ミステリの本質を理解していないからだ。 
 作者は読者に対して子供だから大人だからと言って一切容赦はしていない。作中には、残酷な犯罪者も変質者も堂々と登場する。さりげなく「ジェノサイド」とか「ネクロフィリア」なんて言葉も全く意味が説明されないままで使われている。再度繰り返すが、そんな現実だって身近にあるというのに、大人は子供に対して情報を抑制しているのだ。この本を読んだ年少の読者が、自分の親に「この言葉どういう意味?」と質問してきたときに、どれだけの親がきちんと「現実」も含めて説明してやれるだろうか。コトナカレな親が増えている現在、それは全く心許ない状況だと思うのである(これは一つの事例に過ぎないんで、作者が言いたいことは、大きく「現実をきちんと子供に理解させ立ち向かわせる勇気と覚悟を親は持っているのか?」ということであることに注意すべきだろう)。
 本作のラストが意味不明だとかアンフェアだとかほざく人は、メールでなら全部解説してあげられるから、質問してきなさい。ミステリはネタバレ厳禁だから、公開日記じゃこの程度の抽象的なことしか書けないんだよなあ。結局、何が言いたいのかわかんねえよという文句もあるだろうが、こっちだって隔靴掻痒なのである。


 中島らもさん一周忌のDVD『超老伝』がG2プロデュースから届く。
 私はちょうど仕事中で、代金はしげが一時的に払ったので、文句を付けることと言ったら。
 先日、雑誌『笑芸人』のバックナンバーで、中島らもさんとモロ師岡さんの最後の対談を収録したDVDも入手していたので、ここんとこずっとらもさん三昧である。
 対談でらもさんは「泣き笑いは好きじゃない」と明言している。一周忌だからと言って、泣いてばかりじゃらもさんファンとしては不適格だろう。
 みんな笑おう。泣くほどの価値もこの世にはありゃしない。

2004年07月26日(月) 何が決まったと言うのよ〜(T∇T)
2003年07月26日(土) オタクな本屋にクラシックは似合わない/『TNくんの伝記』(なだいなだ)/映画『デブラ・ウィンガーを探して』ほか
2002年07月26日(金) 親しき仲ほど礼儀なし/『風の帰る場所』(宮崎駿)/『うっちゃれ五所瓦』1・2巻(なかいま強)ほか
2001年07月26日(木) 全ての知識はマンガから/ドラマ『美少女仮面ポワトリン』第一話ほか



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