無責任賛歌
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2005年07月25日(月) |
杉浦日向子さん死去/『ラインの虜囚』(田中芳樹) |
夕べ、グータロウ君に『鋼の錬金術師』の酷評をメールで送っといたら、今朝になって「今日、見に行くんだよ」との返事。また「しまったあ、やっちゃったあ」である。映画にしろ本にしろ、事前に先入観を与えないようにしようと気をつけているつもりではいたのだが、腐女子風味満載のあの映画までグータロウ君が見に行くとは予想もしていなかったのである。メールの返事は「ウチには腐女史もオタク小僧もいるから」とのことだった。 何となくお子さん方の将来が心配な発言ではあるが、最初からつまんないだろうと予測していやいやながら見に行くのもよくなかろうと、「『ゴジラ ファイナルウォーズ』を見に行くつもりで行きなよ。キャラだけは一杯出てくるから」と再メール。実際、昨日の日記ではああだこうだと文句をつけはしたが、映画『デビルマン』に比べたら全然許せてしまうレベルなのである(まだ『デビルマン』ショックを引きずってるな、オレ)。 夜、映画を見たグータロウ君から、「『Zガンダム』より100倍も面白いじゃないか!」と返事が来た。そこまで言うとはさすがは『ゴジラ ファイナルウォーズ』を絶賛しただけのことはある。いつもは「映画は完成度で見よ」とか言ってるくせに、なんで一部の映画に関しては自分の中の基準も取っ払っちまうのかなあ(笑)。エドとアルを見ろよ。あいつら、自分たちのことしか考えてなくて、ノーアもウィンリィもほっぽらかしだぞ? あんな「男のエゴイズム」がプンプン匂う映画を褒めちぎってると、「男性優位主義者」と勘違いされちゃうぞ(笑)。全く、彼のご家庭の平和が心配なことである(あえて表現を「変えて」いるので、気がつかない人は気がつかないと思うが、そういう「要素」に「腐女子」は惹かれているのだね。さぞや同人誌は萌えることであろう)。
作品評価は、その作品の持っている要素の何に注目するかによって全く変わってしまうものだから、意見に相違が生じたからと言って、それで即、ケンカになったりするものではない。ところが、ネットを散策してると、すぐにトサカに来て罵詈雑言を垂れ流す御仁が目に付く。たいていは人の意見を咀嚼する能力に欠けていて、ちょっとでも自分の好きな作品を批判されると、作品のみならずそれを好きな自分の全人格まで否定されたかのように激怒するのだ。誰もそんなことは言ってないのに。 『劇場版 鋼の錬金術師』についても、総体としてはちょっとなとは思うけれども、全否定をしているわけではない。演出の見事なシーンはいくらでも挙げることができる。エドとノーアが出会って、お互いの気持ちが通い合うあたりまでの流れなど、なかなかのものだなあと感心していたのだ。ジプシーの歌や踊りのシーンなども、作画と音楽のタイミングが実に見事だった。 でもだからこそ、せっかくの設定が生かせていない、キャラクターの始末がきちんと付けられていない、人気キャラをともかく出さなきゃならないから人物ばかり右往左往して物語がゴタゴタしてくるなど、「テレビアニメを映画化した場合の弊害」がやたら目立って、総合的に見た場合は「つまんない」としか言いようがないのである。あの本筋の話の流れなら、マスタングとか出てくる必然性ないんだよね(なのに「マスタングの出番がすくなーい!」とか文句付けてる馬鹿がやたらいる)。出さないわけにはいかない「オトナの事情」は分かるんだけど。 「ジプシーじゃない、ロマよ。人間って意味」とか、そんなセリフまでノーアに言わせておいて、それがドラマを盛り上げることもなく、せいぜいキャラクターにちょっとだけ彩りを加える程度の演出にしかなってない点に気がつけば、原作とかテレビシリーズとかよく見てなくても、「こりゃダメ映画だ」という判断ができると思う。ノーアはもっと物語に絡むべきだった。差別と迫害の中で、仲間からすら裏切られて、異世界へ逃げ出したいという思いが強いなら、もっと自分の能力を「悪用」してでも、エドやアルを犠牲にしてでも扉の向こうに行きたい、そういうドラマを用意するべきだった。テレビシリーズの初期のロゼとキャラがかぶっちゃうけど、劇場版は所詮テレビシリーズの「なぞり」なんだから、そこまで徹底しちゃってもよかったと思うんである。 「Yahoo」の掲示板とかでは賛否のうち賛の方が多いようではあるけれど、内容を見ると賛も否もほとんど「キャラ萌え」を基調としたもので、一般客の反応はこんなものかと思う。「『ハガレン』ファンのどこが『一般客』?」と言われそうだが、ポルノグラフィティやアジアンカンフージェネレーションやラルク・アン・シェルの主題歌を平然と何の違和感もなく受け入れられている時点で、私には彼ら彼女らが同じオタクだとは思えないのだ。 いやさ、我々オールドタイプはその昔、『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』の劇場版の主題歌を沢田研次とかゴダイゴとかメアリー・マッグレガーとかが歌ってたときにも「心はささきいさお」だったからね。『鋼の錬金術師』はもう、テレビシリーズのころからアニソン歌手の入り込む余地はなくなっていたわけで、コムロが台頭して来た十数年くらい前から一気に露骨になっていた「アニソン歌手撲滅キャンペーン」は、ほぼ完了してしまったのだなあと実感して悲しかったのだ(もうヤケだ。頑張れ影山ヒロノブ&桃井はるこ!) もうちょっと「我々の側」のプロの人が『鋼の錬金術師』について語ってくれたらいいのにと思うのだが、原作もアニメもちゃんとチェックしてるって人、あまり見かけないのだよねえ。夏目房之介さんも原作は読んでてもアニメは見てないらしいし。『エヴァ』のころは履いて捨てるくらいいたオタクな批評家が、それ以降、激減してるのである(あるいは発言を控えている)。ミーハーがいけないなんて言うつもりはないけれども、文化的な背景をも分析した上で、もっと突っ込んだ作品論、作家論がなされていかないと、作品が本当に評価され残っていくことにはならないだろう。妄想爆発で騒ぐだけじゃ、『ハガレン』は10年後には忘れられてしまうアニメになってしまうかもしれない。それでいいのか、腐女子の諸君。
1991年から1992年にかけて、テレビ東京系列で天野祐吉が案内を務める『夜中の学校』という番組があった。杉浦日向子さんはそこで「杉浦日向子の江戸学」と題して4回に渡って講義をされている(一度『ぶらり江戸学』と題して講義録が単行本化されたが絶版。しかしつい先日、小学館文庫から『お江戸風流さんぽ道』と解題され、入手可能になった)。 「江戸前概論」「江戸前の食文化」「江戸前ファッション考」「江戸前の恋愛学」の四つで、短期間の集中講義形式ではあったが、実に面白くかつ身のある内容の番組だった。私の江戸に関する知識は、実はこの番組で学んだことでほぼ尽きている(笑)。 しかし、番組を見て、タメイキをついて感心していたのは、その深い内容ばかりでなく、講師の杉浦さんの美しさにであった。 『夜中の学校』だから、後の『お江戸でござる』のときの無難な話ばかりではない。際どい話も結構出てくるのだが、「親指が反ってる女は床上手って本当ですか?」という質問に対して、「幕末頃に出てきた説ですね」と屈託なく答えてしまう様子が、何とも爽やかで少しもいやらしくない。いやらしくはないが、人間の魅力に溢れている。 ちょっとだけ眉間に皺が寄るとそこに清楚な色気がふっと生まれる。そういう無意識の色気が杉浦さんの仕草の一つ一つに表れている。「小股の切れ上がった」という慣用句を説明するときに、普通それは「女性の足の美しく伸びた姿」として語られることが多いのだが、「うなじのあたりを指すって説もあるんですよ」と、いきなりご自分の髪を上げてうなじを見せてしまう。まさしく少女のような無防備さ無邪気さであるが、スタジオで真正面にいたお客さんなんかは、一瞬、ドキドキしてしまったのではなかろうか。江戸時代のベルダンディーと例えた方がオタク少年たちには理解が早いかもしれない。エロ話を嬉々として語る下品なコムスメタレントとかとは次元が違うのである。 「匂うような」という表現が比喩ではないほどで、微笑みながら、あの訥々というわけでもないのだが静かで、しかし軽やかさを感じさせる涼やかな声の、何とも表現のしようのない独特の口調で江戸話を語られる姿は、江戸時代人がそのまま現代にタイムスリップして来たかのような風情すら漂わせていた。 当時は32、3歳かくらいだったろうか。荒俣宏と結婚して離婚したちょうどそのころだったように思う。離婚の原因が特に公表されることはなかったが、自分の趣味に忙しいあの二人が共同生活するというのはまず無理だろうと納得して、特に詮索する気も起こらなかった。 「女性のマンガ家に美人は少ない」という偏見を最初にぶち破った世代の代表も、杉浦さんである。
杉浦さんの江戸学の知識は、時代考証家の稲垣史生氏仕込みである(稲垣氏がどれほどのビッグネームであるかは今更もう説明もしたくない)。いや、「仕込み」と言っては失礼かもしれない。杉浦さんが稲垣氏に弟子入りしたときのエピソードであるが、「時代考証家になるには時間がかかる。三年勉強して、そしてまだ情熱が冷めなかったら、弟子入りを許す」と言われて、本当に三年修行して再び門を叩いたというのだから、もともと「江戸」に対する思いは半端じゃなく強かったのだ。「江戸の伝道師」と呼ばれたのも、むべなるかなである。 その情熱は、杉浦さんの書かれるマンガ、エッセイの隅々に至るまで横溢していた。葛飾北斎をマンガ、あるいは映像化した作品は多いが、私にとって唯一無二の北斎は杉浦さんの『百日紅』に登場する愛すべきガンコジジイである(そしてもちろん娘のお栄のけだるい美しさも!) 私と同世代の人間なら、杉浦さんの作品にはデビュー当時からずっと魅せられてきているだろう。『合葬』も『とんでもねえ野郎』も『百物語』も『風流江戸雀』も、みな初版で買った。江戸を舞台にしたマンガは数多いが、それはみな江戸の風俗を借りて現代を語っているだけである。江戸人の気質を体現して、しかもなおそれを現代に生きる我々の物語として、歴史と伝統と文化のつながりを描いてみせたのは、杉浦さんをおいて他になく、杉浦さんの登場自体が古今未曾有空前絶後の「事件」だったと言っても過言ではないと思う。 少女マンガ(あるいは女流マンガ)の歴史を作ったマンガ家を五人挙げろと言われれば、私は、岡田史子、萩尾望都、大島弓子、高野文子と並んで、杉浦さんの名前を挙げるに躊躇しない。
杉浦さんはもう長い間、闘病生活が続いていたそうである。今、思い返せば、杉浦さんがマンガ家を引退して江戸文化の研究に専念しようとしたのは、自らの命の短さも予感していたからではなかったろうか。失礼な話ではあるが、『お江戸でござる』に出演している杉浦さんを見ていて一番感じていたのは、日を追うごとに顕著になる容色の衰えであった。これは確実に体を悪くしている、と、はっきりと分かったし、番組を降板したのも病気のせいだろうと想像がついた。 お元気になることを心の底から願っていたのだ。杉浦さんの死は一人のマンガ家の死、江戸の研究家の死に留まらない。ある一つの文化を継承し伝えようとする大きな歴史の流れがここで途絶えてしまった、それほどの事件なのである。
仕事帰りに「しーじゃく」で寿司、そのあとゲーセンでUFOキャッチャーなど。 私はゲームでは「取れるものしか取らない」ので、まあ、そんなに損することはないのだけれども、しげはバクチウチの血が騒ぐのか、いつも大物狙いばかりしている。 今日も「DVDプレイヤーがほしい」と、なんか番号合わせするようなゲーム機にカネをつぎ込んでいるのだが、たかか百円や二百円でひょいひょいとDVDプレイヤーをゲットされちゃ、ゲーセンの方としても困るだろう。こういうのは「目が出ない」ようになっているものなのである。 私の方は堅実にムシキングのビーチセットをゲット。これでしげがいついきなり「海に行きたい!」と言い出しても大丈夫である。いや、そこまでして海に行きたいわけではないのだが。
ついこの間、13万ヒットを達成したばかりだと言うのに、ふとカウンターを見ると、14万ヒットにいきなり迫っている。どういうわけだか一日で4000人くらいがアクセスして来ているのだ。アクセスランキングも、これまでは100位から150位くらいをウロチョロしていたのが、いきなり10位である。普段は一日トータルで100人くらいしか覗きに来ない零細サイトだというのに、いったい何が起こったのかと目を白黒。 これまでにも2チャンネルとかにリンク張られたりして、アクセスが一時的に増えたことはあるけれども、ここまでのことはない。佐世保の小学六年女児殺人事件のときにも何を勘違いしたのかアクセスが増えたことはあったけれども、最近はあまり事件関係とか政治関係の話題について書いた覚えがないので、何に引っかかってお客さんが増えたのか、思い当たることがない。ともかくアクセス解析を調べてみたところ、「電脳遊星D」さんのサイトで、5月28日の日記の『機動戦士Zガンダム A New Translation 星を継ぐ者』の紹介がされていたのだった。一日に軽く20000ヒットを数えるサイトさんなので、そりゃ四千や五千のアクセスがあるのも当然と言えば当然か。 そこから更に枝葉分かれをして、あちらのサイト、こちらのサイトでも私の文章が引用されたりリンクされたりしていたので、こういう事態になっていたのだった。しかも、どのサイトも好意的に読んでくださっていて、かなり適当に文章を書き殴った身としては、赤面ものである。 自分で書いといて弁解するのも何なのだが、映画を一回見ただけで書き殴った文章なので、論旨はかなり乱雑である。「動線」のことについて偉そうに述べてはいるが、実際、これを具体的にきちんと説明しようと思ったら、文章では不可能で、絵に書いて示すしかないのだ。毎日更新しなきゃなんない(してないけど)日記でそこまではできません(泣)。なのに、「わが意を得たり」とか「お勧めです」とか書かれたりすると、なんかもー、どこかへ逃げ出したくなります。 一応、「批評の基本」くらいのことは知ってるつもりでいるので、ただ単に「好き嫌い」「いい悪い」だけを書いて根拠を示さないようないい加減なマネはしたくないと思ってるんだけど、それも適当になってることも多いかも。だって、書く端から忘れてるしねえ。まあ、二、三日すればアクセス量もまた元通り落ち着くと思うけれども、今回初めてお越し頂いた方が、ヘタにほかのページとか覗かれて、気分悪くするような文章に出会わないかどうか、それが一番心配と言えば心配(汗)。
田中芳樹『ラインの虜囚』(講談社)。 「ミステリーランド」シリーズの第七回配本。田中芳樹の「ミステリー」というのがちょっと気にかかったのだが(薬師寺涼子シリーズは狭義のミステリーには当てはまらないし)、少年向けとは言え、堂々たる歴史ミステリーに仕上がっている。 1830年、フランス。父と死別し、はるばるカナダから祖父を訪ねてパリにやってきた少女・コリンヌ。しかし祖父のブリクール伯爵はコリンヌを孫とは認めないばかりか、ライン河の東岸ある「双角獣(ツヴァイホルン)の塔」に幽閉されている人物の正体を探って来いと命令する。父の名誉のために旅立つコリンヌ。そしてひょんなことから彼女をサポートすることになる男たち。 女たらしでお調子者の若き人気劇作家・自称天才のアレクサンドル・デュマ。弱きを助け強気をくじく悪党の美学を貫くカリブ海の海賊紳士・ジョン・ラフィット。そして豪腕巨漢のよいどれ剣士“モントラシェ”。右耳の半分欠けた彼の正体は、物語の後半で明かされるが、ちょっと歴史に詳しい人ならば「ああ、あの!」と頷く有名人物である。 しかしコリンヌの旅を快く思わない何者かが、殺し屋集団「暁の四人組(パトロン・ミネット)」を雇ってその行く手を妨害しようとする。果たしてコリンヌたちは無事目的地に辿り着くことができるのか。そしてラインの虜囚・仮面の男“ナポレオン・ボナパルト”の正体は……? 少年向けというワクに捉われずに良質なミステリーを提供することを目的としてきたこのシリーズだから、田中芳樹もそれに倣ったのだろう、決しておざなりな謎解きに終わっていない点は評価できると思う。もちろん、コアなミステリファンならば、「要するにこれはあの○○○○○と同じ話だよね」と似たような先行作を挙げることができるだろう。物足りないと言われればその通りかもしれないが、そもそもこの物語は冒険小説としての要素の方が高いのである。謎解きの部分はこの程度で押さえておくのがバランスとしてはよいと思う。 それよりも何よりも、コリンヌを守る“三銃士”たちの、男としての魅力、冒険小説の主人公はかくあるべしと言いたくなるような知謀、勇気、正義感、豪胆さにこそ、この小説の魅力を見るべきであろう。 「自分で自分の身を守りたい」と、モントラシェに剣を学ぼうとするコリンヌ。しかしモントラシェは、いったんはコリンヌに剣を持たせながら厳然とこう言い放つ。「よし、それでマドモアゼルは、自分を殺す権利を相手に与えたわけだ」と。モントラシェは剣士である。だから武器を取った戦いそのものを否定しているわけではない。しかし、武器を取る必要のない者、自らの立場も実力も弁えぬ者が武器を持つ愚を、「匹夫の勇」の危険さを、静かにコリンヌに諭す。なんかもー、「現実の戦争を見たい」とか言ってイラクに行きたがるあほどもに聞かせてやりたい台詞だ。「戦場に行く」ってこともつまりは「殺されても構わない」といってるのと同じなんだからな。 少年少女向けだからと言って、いや、少年少女向けだからこそ、ただの奇麗事ではなく「戦うこととは何か」を手を抜かずに語る作者の姿勢は好感が持てる。必ずしもその理屈が「現実の戦い」の全てに援用できるとは言えないが、基本的な概念としては決して間違ってはいないだろう。 まあ、浅薄なアニメやファンタジーが、やたらヒロインに「私も戦いたい!」と叫ばせて突然超能力を発動させたり、たいした訓練もしてないはずなのに剣を振るわせたりするのに比べたら、本作の底に流れている思潮はずっとずっと気高く美しいのである。
2004年07月25日(日) キャナルシティの「ブルース・ブラザース・ショー」2……3もいつかありそうだ(^_^;)。 2003年07月25日(金) ムダじゃムダじゃ/『フラッシュ! 奇面組』2巻(新沢基栄)/『ぼくんち 全』(西原理恵子)/『ねらわれた学園』(眉村卓) 2002年07月25日(木) 本当にあった怖くない話/『くっすん大黒』(町田康)/DVD『ミニパト』ほか 2001年07月25日(水) 福岡腰痛クラブ/『庵野秀明のフタリシバイ』ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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