無責任賛歌
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2005年05月12日(木) |
変態天国/映画『黒薔薇の館』 |
えーっと、何年か前にも似たような事件があったような気がするぞ、の少女監禁事件。 と言っても、事件そのものは昨年3月に起こったものだとか。 北海道在住の無職・小林泰剛容疑者(24歳)は、インターネットのチャット上で女性を装って、兵庫県赤穂市の少女(当時18歳)と知り合う。しばらくすると小林容疑者は本性をあらわして、「やくざを送り込んでお前の家をつぶしてやる。家を出ろ」などと言って少女を脅す。怖くなった少女は小林容疑者の言うままに上京した(ここんところがどうも納得できないところである。どうして警察に通報しようとしなかったのか?)。 東京都渋谷区のホテルに呼び出された少女は、小林容疑者から逃げられないように首輪をつけられ監禁され、顔を殴られるなどの暴行を受ける。それ以外にどんなことをされたかは知りたくもない。6月にすきを見つけた少女が逃げ出すまで、監禁は3ヶ月に渡ったとか。 どこぞのダイレクト・メールみたいに定期的に来るのが、この手の事件である。誤解を招く表現であることを承知の上であえて言えば、いたいけな少女を性奴隷にしたいという願望は、去勢でもされてない限り男性には確実に存在するものだ(年上好みの人もいらっしゃるでしょうが、ここは単純に男性は女性を支配したい欲望を本能的に持っているということを言いたいわけです)。サディズムと性衝動は密接に結びついているので、これがなきゃ、子孫繁栄だってできやしない。 もちろん、世の男性がみな、自分の性衝動を開放して生きているわけではない。しかし、内なる猛獣を飼いならして日常を生きることができない男性も何割かの割合で存在することも現実なのであって、だから痴漢にしろレイプにしろ、「あってはならないこと」ではあるが、同時に根絶することが不可能な「確実に起こること」でもあるのだ。
ならばどうして「予防」も「対処」もできないのか、と事件が「再発」するたびに胸糞悪い思いをまたしなければならないのだが、コトはそう単純ではない。 小林容疑者は、2002年にも、北海道江別市の自宅に同居させていた21歳と19歳の女性に対する監禁容疑で逮捕され、傷害罪などで起訴されている。そのときは、札幌地裁の公判で、「ハーレムをつくる」などと言って複数の女性と同居し、日常的な暴行で女性を服従させたことが明らかになっている。複数の女性とも結婚、離婚を繰り返しており、予想通り、女性を監禁・暴行するパソコンのエロゲーにも熱中していた。 あまりにも「定番通り」の経歴の持ち主で、だとしたらこんなやつをどうして放置しといたのか、保護観察処分などとは生ぬるい、とっとと刑務所にぶち込んでおけばよかったではないか、と怒りを押さえきれない人は多いと思う。しかし、今やもう、「この程度の人間」はそのへんにザラにゴロゴロしている。風俗の店で変態プレイに興じてる連中まで「性犯罪予備軍」だと判断してしまったら、朝の挨拶を交わしてる一見気のよさそうな隣の家のオジサンや、裏の会社のシャチョーさんまでタイホしなきゃならなくなるかもしれない。大げさだ、と感じる人もいるかもしれないが、自分が明日、酔っ払って女の子に痴漢行為を働いたりすることは絶対にない、と断言する男は、100%確実に将来痴漢行為を働くだろう。「自分は大丈夫だ」なんて言ってるやつくらい、信頼できない人間もいないのである。 もしも警察が「犯罪者予備軍」を取り締まれるのなら、少なく見積もっても成人男性の半分はタイホされてしまってもおかしくはない。もちろんそんなことは無理な話で、日本において「加害者の人権」が何でここまで守られてるかといえば、男性の殆どが「脛に傷持つ身」であるからなのだ。誰が自分で自分を取り締まるように法律を厳しくせよと本気で主張するだろうか。男性で「もっと性犯罪に関する法規制を厳しくしろ」と主張している連中は、自分がその法律に引っかかる可能性に気がついていない愚か者か、イ○ポのどちらかであろう。
……全国の女性のみなさん、どうして日本が性犯罪万歳国家になってしまっているか、そのカラクリがご理解できましたか? あなたのお父さんが、お兄さんが、あるいは恋人が、自分たちが「取り締まられないために」、痴漢とかの罪はあんなに軽いのですよ。政治家の誰だったっけ、いつぞや、「レイプするほど元気なやつ」とか発言してたやつがいたでしょ? 「ミニスカとかボディコンとか(死語)、色っぽい格好をして男を誘う女のほうが悪い」「減るもんじゃなし、実際、女の方だって楽しめたんだからいいじゃん」って本気で思ってる馬鹿男、もう信じられないくらいたくさんいるんですよ? 今回の事件だって、「女が悪い」って言いきる糞ったれどもが、きっといて、ネット上で堂々と自己主張したりするでしょう(そりゃノコノコ上京していったのはどうかと思うけれど、圧倒的に悪いのは当然犯人のほうなんだけどね)。 「女は男の性奴隷」、それが男性の本音なんです。あなたの隣の男性がどんなに優しげな顔をしていても、信用なんてしちゃいけません。筒井康隆の『家族八景』を読みましょう。男性の真の姿が分かります。
床屋談義で半ば本気で言われる話題に、「性犯罪者は去勢してしまえ」というものがある。冗談めかしてはいるが、「死刑などの極刑にすることはできない性犯罪者」を処罰する方法として、「去勢」は決して無効なものではない。しかし現実には加害者の人権(つまりは男性の“女は乱暴してもいい”という既得権だわな)とやらを考慮すれば、これは荒唐無稽で実現不可能な手段であるとしか言えない。 もう、諦めるしかないだろう。行政は、司法は、可愛らしいお嬢さんたちを変態の餌食にされても構わないと思っているのだ。たとえ一人、二人の犠牲者が出ても、とりあえず何年間かは犯人が「保護」されるので、その間の犠牲者だけは出ずにすむという、消極的な方法でガマンするしかないのだ。日本が実質「男社会」である以上は、これ以上の改善は望めまい。 あなたが女性で被害にあったら、あるいはあなたの可愛いお嬢さんが犠牲になったら、「運が悪かった」と思って忘れよう。泣き寝入りがまたしても変態男どもを野放しにすることになるが、泣き寝入りせずに事件を公にしたら、今度は被害者であるあなたが世間からの猛烈な非難の嵐にさらされることになるのである。
またぞろ「責任はエロゲーにあり」の短絡思考で規制を訴える馬鹿が出そうだが、そんなことで性犯罪が根絶できたら、誰も苦労はしないし不安に苛まれることもないのである。やたらこういう「責任転嫁」したがるやつも、実は「犯罪者予備軍」の可能性、高いんだよねえ。キレイゴトを熱弁するやつなんて、信用しちゃいけません。
今朝方、テレビスペシャル版『積木くずし』の制作発表がテレビで放映されてたのをしげと一緒に見たのだが、もう唖然としちゃったのが安達祐実の「特攻服」姿である。いやもう、パッキンのカーリーヘアーに鬼みたいなメイク、80年代の不良のまんまなのである。 一応、時代は現代に移すんでしょ? それとも今でもあんなの、実在してるの? いや、なにより、安達祐実がそういう格好をしてもこれが全然似合わないどころか、「小学生の不良コスプレ」にしか見えないという点である。 ……キャリア、終わっちゃうんじゃないか。
朝っぱらからニュースをじっくり見られたのは、つまりはやたら早起きしてしまったためだが、相変わらずウトウトしながら目覚め、という不眠症が続いているためである。 余震の回数はかなり少なくなっているのだが、それでも震度2程度の地震はまだ起こっている。これが、「今日はゆっくり眠れそうかな」という時を狙い済ましたように来るものだから、未だに落ち着かないのだ。 せっかく早起きしたのだから、と、いつもより早めの電車に乗って出勤しようと駅まで。ところが電車は2分遅れで到着。もちろん、遅刻になどはならなかったが、今日は帰りの電車も3分遅れであった。JR九州ではこういう遅れはしょっちゅうで、のんびりしたものである。少なくとも「過密ダイヤ」とやらで運転士がトチ狂って暴走するような事態にだけはなりそうもない。
夜、シネ・リーブル博多駅で、『カルト渦巻地獄劇場』の第4弾、深作欣二監督作『黒薔薇の館』(1969年・松竹)。 チラシに「MIWA meets TAMURA」とある通り、主演は実輪明宏(当時は丸山明宏)と田村正和。どれだけ濃いドラマが展開されるかとつい期待してしまうのだが、正直,映画の出来はやや肩透かしなものだった。 物語は佐光喬平(小沢栄太郎)という老人の独白から始まる。彼が経営するクラブ「黒薔薇の館」に、毎夜8時にどこからともなく現れ、11時にはどこへともなく消える謎の女、藤尾竜子(丸山明宏)。ただならぬ妖艶な雰囲気を身に纏った彼女は、純粋至上の愛の歌を披露し、館に集う男たちを陶酔させていた。佐光もまた、常に黒薔薇を手に持ち、真実の愛が得られたとき、その薔薇は赤く変わると信じて疑わない彼女の魔性の魅力に囚われていく自分を押さえきれなくなっていった。 しかし彼女は男どもを破滅される女でもあった。彼女の元夫だと名乗る大友(西村晃)、横浜での恋人だったと称する青年(川津祐介)、神戸での恋人だったと称するマドロス(内田良平)が現れるが、竜子はその誰にも「知らない」と言ってあしらう。青年は失意のあまり自殺し、マドロスは竜子の取り巻きの混血少年のジョージ(城アキラ)と決闘し、死んだ。大友はその惨事を見て「ロマンは死に絶えた」と言い捨て、館を去っていく。 ここまでの前半、物語は殆ど黒薔薇の館以外に出ず、回想シーンとのつなぎのみで実に演劇的に進行していく。3人の男が次々と現れ、しかし竜子の正体はいっこうに知れないという展開はスリリングで、台詞も極めて演劇的、特に西村晃のハムレットもマクベスもかくやという狂気の愛を語る弁舌は、濃い芝居が苦手な人には辟易であろうが、私には楽しめた。 しかし、この映画の弱点は既にここで表れていて、つまりあまりに演劇的で映画としては破綻してしまっているのである。そもそも、美輪明宏という存在が映画には向かない。失礼を省みずに言わせてもらえれば、いかに美輪さんが美しくても、本物の女には見えない、誰もが彼女は男であると認識しているはずである。だからこそその妖しさは「見立て」の芸術である演劇においてはその魅力を倍増させるのであるが、映画ではどうしても「なぜ登場人物たちはあの女が本当は男だと見破れないのだ?」と訝ることになる。まあ、美輪さんのネツレツな信奉者ならばそれでも騙されてくれるのだろうが、特にそうでないヒトにとっては、美輪明宏賛美賛美賛美のこの映画は見ていてかなり苦痛であるだろう。しげなんぞは「オレ、『美輪明宏歌と踊りのショー』を見に来たわけじゃないよ」と憤慨していた。 美輪明宏を映画でも魅力的に描く方法がないわけではない。つまり見たまんま「ゲテモノ」として描けばいいわけで、ゲテモノであると知りつつも惹かれていく倒錯の愛を描けばよかったのである。美輪さんをあくまで女として扱おうとするから、おかしなことになるのだ。こんな映画と演劇の初歩的な違いにも気づかない無能な監督に脚本・監督をやらせることがそもそもの間違いで、全く深作欣二の映画にはホントにロクなものがない。 それでも前半はまだ「見れる」方で、後半になるともう物語は退屈なだけになる。新登場の佐光の息子・亘(田村正和)がまるで冴えないのだ。 美輪明宏主演の前作『黒蜥蜴』がドラマとして成立しているのは、黒蜥蜴に対抗するキャラクターとしての明智小五郎が、美輪明宏の「魔性」に対して、「知性」で拮抗していたからである。それがこの若き日の田村正和には全くない。親に愛されていないと思いこんだただのすね息子で、キャラクターとしての魅力は殆どないに等しい。彼もまた、前半に登場してきた馬鹿男たち同様、結局は美輪明宏に対する無条件の信奉者の一人に過ぎず、だから二人が死の逃避行をはじめても「いきなり何で? どうしてこいつと?」という疑問ばかりが渦のように浮かぶばかりなのだ。後半、美輪明宏の魅力がどんどん下落していくのは、「こんな馬鹿を愛するのなら、この女もたいしたやつじゃないな」と思わせてしまう点に原因がある。 これは田村正和の責任ではなく、やはり脚本が悪いのである。「君のことが目に浮かんで離れないんだ!」なんて甘えん坊で陳腐な台詞を田村正和に喋らせるんじゃないよ。いずれが支配し、いずれが支配されるか、そういった葛藤と緊迫感を描くのは瀬戸際の愛を描く際には絶対に守らなければならない鉄則なのだが、深作欣二にはその才能が決定的に欠けている。後年の映画を見ても、セックスは描けても恋愛はまるでダメなのは、『火宅の人』でも『忠臣蔵外伝四谷怪談』でも同様であった。
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