無責任賛歌
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2005年04月26日(火) |
安達祐実は30代を演じる夢を見るのか?/『原作完全版 魔法使いサリー』(横山光輝) |
兵庫県尼崎市のJR福知山線快速電車の脱線事故の続報。 午後10時までに確認された死者はついに76人、負傷者も456人に上っているが、まだ十数人の乗客が1両目に閉じ込められており、生存反応はなく、さらに死者数は増える見込みだという。その中には事故の鍵を握る高見隆二郎運転士も含まれているが、救助員が声をかけても全く応答がないということである。 今日になって判明した事実だが、この運転士、事故直前に手前の伊丹駅で停止位置を約「40メートル」オーバーランし、いったんバックして停車していたのを、車掌と口裏を合わせて「8メートル」と虚偽報告していた。ところがこれが妙な話なのだが、オーバーランの距離が10メートル前後でも40メートルでも、社内処分の重さは変わらないそうなのである。だとすれば、なぜ虚偽の報告を行う必要があったのか、そこにこの運転士の「精神的な弱さ」を感じないではいられない。運転士暦はまだほんの11ヶ月で、2000年4月の入社以来、五年間に計三回、訓告などの処分を受けていて、その中には車掌時代に「目がうつろだ」と乗客から指摘を受けた、なんてのまである。事故の原因が運転士にあるのかないのか、そこは未だに不明なのだが、いずれにせよ、そんなやつを運転士にしちゃったこと自体、ダメだろうによ。 でもこれでまた一つ分かったことだけど、やはりJRも「常識」なんて通用しない世界なのである。つかよー、「常識」が残っている会社なんてさー、いったい日本のどこにあるというんだろうね。 事故原因の「憶測」については、昨日にも増して情報が錯綜している。JR西日本が昨日は堂々と拡大写真で紹介していた「置き石」の痕跡らしい「粉砕痕」、今日の現場検証では、国土交通省航空・鉄道事故調査委員会が「現場でブレーキ痕や石の粉砕痕を確認できなかった」と発表して、双方の意見は完全に食い違ってしまった。JR西日本は早速その「先走り」を反省して、正式な調査結果が出るまでは余計な情報公開はしないことを言わざるを得なくなった。 どっちにしろ「置き石」だけでは脱線する可能性は低いとのことなので、JR西日本の態度は「先走り」とか「勇み足」というよりは、全くの「責任転嫁」を図ろうとしたものだと解釈されても仕方がなく、事故はますます「人災」の様相を色濃くしてきている。やりきれない。
先ごろ黒田アーサーとの破局が伝えられた女優の安達祐実。 いや、そっちのニュースはどうでもいいのだが、ここしばらくドラマや映画のいい役に恵まれてないなあと心配していたところが(私が心配したところでどうなるものではないという突っ込みは置いといて)、9月2、3日放送のフジテレビ系スペシャルドラマ『積木くずし 真相』に主演することになったとか。 ニュースで初めて知ったのだが、昭和58年に放送された高部知子主演版の前作『積木くずし』は、ドラマ史上最高視聴率45.3%を記録していたんだそうな。まあ、やたら再放送やりまくるなあと思っちゃいたが、45%ぽっちが最高視聴率になるんかね? 昭和30年代には50%以上稼いでたドラマがもっとあったような気がするけど。 今回、タイトルに『真相』と加わっている通り、ドラマは「家族の再生」を謳ってハッピーエンドで終わった前作とは異なり、原作者の穂積隆信氏が昨年発表した『由香里の死 そして愛 積木くずし終章』をもとにして、『積木くずし』がベストセラーになってしまったために起きた悲劇、印税をめぐる夫婦のいさかいや離婚、娘の再びの非行など、主人公たちの“その後”を描くことになるとか。著書に書かれているとおり、ヒロインのモデルとなった長女の由香里さんは、一昨年、心不全のために亡くなっている。拒食症が高じた末の死だったそうだが、この人くらい「幸薄い人生」という言葉が思い浮かんでしまう人もそうはいない。芸能界活動を試みた時期もあったようだが、光が当たったことは殆どなかったように思う。ごく普通の幸せを掴むチャンスは何度となくあったと思われるのに、運命の歯車は最後まで狂いっぱなしだったということなのだろうか。 それはさておき(まだ本題ではなかったのである)、驚いちゃったのは、今度のドラマ化が「前作『積木くずし』も含んだ上でのドラマ化」だったことだ。つまり現在23歳の安達祐美は、穂積由香里さんの「13歳から亡くなる35歳までを演じる」ことになるのである。 普通、こういう場合は「十歳も年下の役を演じるには無理があるだろう」と考えるほうが先に立つもんだろう。年を上に見せるのはメイク一つで何とかなるが、年下に見せるのはかなり難しいからだ。舞台なら私も八十歳の杉村春子や森光子が十代の少女を演じるのを見てきたが、これは舞台が「見立て」の芸術だから成立することだ。基本的に現実と近接している映画ではなかなかそういう例はない。たまにあるものは目も当てられないものが殆どである。某映画で40代の岩下志麻のセーラー服を見たときには石を投げてやりたくなった。 しかし、安達祐実の場合、心配なのは全くの逆で、「どんなに老けメイクしても35歳の役は無理なんじゃないか」ということなのである。毀誉褒貶激しいが、私は安達祐実という女優の演技力は、決して『家なき子』や『ガラスの仮面』程度で計れるものではないと思っている。いや、それなりに上手い子だと思ってはいたが、特にそう感じたのは、『いつ見ても波瀾万丈』や、黒田アーサーとの熱愛報道で追いかけられていたときの「普段の顔」の時の「演技」が素晴らしかったからで、ああ、こういう“演技をすることに屈託のない子”は、育てりゃ確実に伸びる、と思ったのである。 正直、あの童顔と身長の低さが幅広い役を演じるのにはネックになっているが、逆にそれを武器にして、必ずしも主役にこだわらずにちょっと変わった役を演じさせれば、かなりハマるものもあろうかと思うのである。 『積木くずし』のヒロインも、『家なき子』の延長線上に含まれる役どころで、安達祐実なら楽に演じられるだろうと思う。しかし、ヒネた見方をすれば、ああいう不良少女の役は、そこそこの役者なら誰でも演じられるのだ。別に蒼井優でも石原さとみでも市川由衣でも上戸彩でも上野樹里でも香椎由宇でも加藤夏季でも栗山千明でも酒井彩名でも沢尻エリカでも鈴木杏でも長澤まさみでも平山あやでも深田恭子でも藤谷文子でも前田愛でも本仮屋ユイカでも桃井はるこ(笑)でも構わない。あびる優なら旬だ。この「別に安達祐実がやらなくても」感が強いのが、今の安達祐実の弱点だと思う。 それに言っちゃなんだが、この手の「実録非行少女」ものは製作者の意図はいざ知らず、受け手は殆ど興味本位、少女の常軌を逸した暴力なんて対岸の火事で、「まあ、なんてひどい親ざんしょ、うちの子はあんなふうに育たなくて、よい子に育ってくれて、嬉しいわ。これも私の教育のたまものよねえ。おほほほほ」と自己正当化の材料にしているに過ぎない。そして本当に家庭崩壊してしまっている家は、「あの程度で不幸ぶるな」と見向きもしないだろう。所詮は他人の家の出来事なのである。そんな企画のドラマにいくら出たってキャリアになろうとは思われない。かと言って、朝の連ドラとか大河ドラマとか火サスとか土ワイとかミニシリーズとかにチョイ役で出たって、すぐに忘れられる。ここはやはり自分の役に合った「映画」にドンと出てほしいのだけれど、いかんせん、今のひ弱な映画界では、いったん色の付いた役者をもう一度洗いなおすだけの底力がないのである(だから新人が出ては消えを繰り返しているのである。上戸彩もいつまで持つか)。必然、安達祐実はどうでもいいような無駄な仕事ばかりこなすハメに陥っているのだ。もったいないったらありゃしない。私ゃ安達祐実は「タンスにゴン」の沢口靖子みたいな三のセンを狙っていったほうが一番いいと思ってるんだけど、誰かプロデューサーに進言してくれないか。いや、ムリだろうけど。
夜、8時ごろ、父から電話がある。 ちょうど寝入りばなだったので、ムニャムニャしながら受話器を取ったが、向こうは息せき切ったように慌ててこう言った。 「今晩、11時に地震が起きるげな。知っとうや?」 「はあ?」 アクビが混じっていたので、「ふぁあ?」みたいな返事になったが、ともかくイカレた話である。どういうことか、父に問いただしてみたところ、昨日から今日にかけて、店に来るお客さん、みんながみんな「今日か明日、震度七強の地震がある」と口にしているというのである。 「お前の職場では誰も何も言っとらんや?」 「さあ、知らんなあ。もしかしたら喋りよったかもしれんけど、僕はいちいち人のうわさに聞き耳とか立てんもんね。大体、うわさの出所はどこね。インターネットとかやないと?」 「知らん。ばってん、地震雲が出たて言うけん」 「あ、だったら、それデマ。昔から『地震雲』とか言われよるばってん、全部迷信やもん」 「でも姉ちゃんは今日、明日、一時的に『疎開する』て言いようぞ」 「……ばか?」 しばらく押し問答したが、私が呆れている気配が伝わったのか、父はまだ何となく不承知な口ぶりで電話を切った。「デマに踊らされるな」ってのは、普通、親が子に言うものであろう。予言とか占いとか、オカルトの類は一切信じなかった父が、いったいどうしてしまったものか、これも年を取ったということなのか、そう思うと何だかまた寂しくなる。 ただ、ここで注が必要になるのだが、父の場合は高齢なせいでこのデマにも何がしかの不安を感じて電話をかけてきたものであろうが、このウワサをまことしやかに右から左へと流している福岡人の大半は、この状況を“かなり”楽しんでいる、ということである。福岡人・博多人気質を知らないヒョーロンカなんかは、多分、地震に対する不安がウワサを呼んでいるのだろうと分析すると思うが、それは福岡人の大馬鹿度を見誤っている。博多人にだってデリケートな部分はあるのだが、こと、“お祭り方面”に関しては、それはまるで発揮されないのである。 以前も書いたとおり、一般常識から判断するなら信じがたいほどに、福岡人の大半は被災してなお「命が助かったんなら、これも楽しかったイベント」と前向きに考えちゃっているのだ。嘘ではない。私は「今度はどんくらい(震度)のが来るやろか」「死なんどきゃいいと」という台詞を何人もの人間から腐るほど聞いた。もちろん本当に家をなくした人たちはとてもそんな悠長なことを言う気にはならないだろうが、「地震が何か!」と息巻いてる単細胞も結構多いのだ。デマでもいいから地震を待望する気分がウワサに火をつけているのである。 あまり言いたかないことだが、いつぞや、作家の栗本薫が、北朝鮮の拉致被害者に関して「滅多にない経験ができて羨ましい」と言った件に関して、世情は「不謹慎な」と激怒したのに対して、世間がどうして栗本薫に腹を立てるのか分からん、という態度を示した福岡人を何人か知っている。ことほどさように、福岡人の「ハレ」を好む気質は、世間の常識と乖離しているのである。まあ、それがいい面に働く面もありはするんだけどねえ。 私はと言えば博多人には珍しいくらい繊細な神経の持ち主であるので、すっかり不眠症に陥っている。いや、ホントに人からデリケートって言われること多いんだわ。他県人から見ればそうは見えないだろうが、判断基準が全然違うんで。
物寂しくなって、ふと、東京のグータロウ君に電話をかける。 一応、6月に上京する予定の日を伝える用件もあったのだが、内実は「電話の向こうの親父の背中が小さく感じられた」からだ。地震のデマの話を伝えると、グータロウ君も笑っていた。 「暢気だねえ」 「博多人は遊んでるよ。地震の不安なんて全然ない」 理解しようったって、理解のしようもなかろうが、世の中には不思議なことは確かにあるのだ。関口君。 話題はついでに『名探偵コナン 水平線上の陰謀<ストラテジー>』や、『クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃』に移って、二人で憤懣をぶつけ合う。まあ、『コナン』の出来は毎年のことだから初めから期待しちゃいなかったのだが、『クレしん』はそのレベルダウンの程度が激しすぎたので、少しばかり口吻がきつくなる。 「アイデアはいいのだが、それがドラマに昇華されてない」 「台詞が取ってつけたようで説得力がない」 「どうしてあそこで××××って展開にならないんだよ!」 考えてみたら、これまでの十二作、多少の出来不出来はあっても全て秀作・佳作・傑作ぞろいだったというのが奇跡だったのである。監督代われとまでは言わないから、世間の不評も考えて、ムトウユージ監督には来年は「映画」を作ってもらいたい。観客は「紙芝居」が見たいわけじゃないのだ。
手塚治虫原作『ブラック・ジャックマガジン』(秋田書店)。 17人のマンガ家さんに『ブラック・ジャック』を描かせるという試み。まあ、秋田書店でしかこの企画を立てられないのは分かるけれど、小学館の『PLUTO』を見ているだけに、秋田が抱えるマンガ家さんの「層の薄さ」が、そのままマンガの出来に反映していて、読んでていささか辛い。 リメイクがオリジナルを越えるためには、そこに何か新しい視点を持つ必然性が生じるのだが、なんかどのマンガ家さんも「物まね大行進」の域を超えてなくて、到底オリジナルの感動を伝える作品として昇華されていないのである。マンガ家として旬は過ぎてしまっている永井豪、青池保子両御大の作品はもう「悲惨」以外の何物でもない。誰も永井豪の絵柄で描かれたサファイアなんか見たいと思っちゃいないだろうし、ブラック・ジャックに少佐や伯爵と競演してほしいとも望んではいないと思う。サービスと独りよがりを混同してないか。『魔王神ガロン』のときも思ったことだが、こういうのはもう、珍品としての価値しか見出せない。 それでもこの企画が途絶えもせずに続いているのは、やはり秋田書店だからだろう。集英社でジャンプのマンガ家さんに描かせてたら、アンケート最下位続きであっという間に企画そのものが暗礁に乗り上げるに違いない。それでも尾田栄一郎や小畑健、秋本治、許斐剛、和月伸宏、冨樫義博といった人たちが手塚マンガを原作に描いたら……と夢想したほうがよっぽど面白く思えるのは、それだけ秋田書店のマンガ誌が凋落してるってことなんである。『少年チャンピオン』購読者には悪いが、『がきデカ』連載当事の『チャンピオン』の勢いったら、もう現在の比じゃなかったんだからねえ。 それにしても、水島新司が描いてないのは、さすがにこれは……と判断されたのかどうか。私ゃ秋田で『ブラック・ジャック』を本気で描かせるのなら、水島さんに如く人はいないと思うんだが。
マンガ、横山光輝『原作完全版 魔法使いサリー』(講談社)。 虫プロから発行されてた一巻本は昔読んでいたので、原作が意外と短いことや(作者が多忙で途中で打ち切ったのである)、よっちゃん、スミレちゃんのキャラデザインがアニメとかなり違うこと(よっちゃんはかなり美人。スミレちゃんもヘアスタイルがまるで違う)、トンチンカンは一話しか登場せず(アニメに登場したのが先で、原作がそれに合わせたため)、ポロンちゃんは全く登場しない(原作がアニメより先に終了したため)など、異動を取り上げていくとキリがない。 だからこそ原作を楽しむ余地があるわけで、これまで二度もアニメ化されている横山光輝一方の代表作であるにもかかわらず、原作が完全な形で発行されてこなかったというのは、何か事情があったのだろうか。今時の速いテンポのマンガと違って、のんびりした印象のマンガなので、売れない、と判断されたのかもしれないが。 今回初収録の『魔術師ジョー』と『さよならサリー』の二話が、なぜ以前の単行本ではカットされたのか、そのあたりの事情も定かではない。ページ合わせのためだとしても、他の短編と合わせて一巻にする手もあるし、この二話が選ばれた基準も今はもう分からない。 推測でモノを言うしかないが、『魔術師ジョー』はアル中になった往年の名マジシャンを、サリーが“魔法を殆ど使わずに”治す話であり、サリーはホントにジョーを一室に閉じ込めるのである。当事の少女マンガの中で考えれば結構ハードな展開で、単行本化が敬遠されたのはこのあたりの事情があるのではなかろうか。アニメでもポロンが実は人間の捨て子だったエピソードなど、かなりハードな話は多かったから、気にすることはないと思うのだが。 初めて読んだ「最終回」、台風で死んだ少女を助けるためにパパに頼み込んで交換条件を出され、サリーは「悪魔の国(原作では「魔法の国」ではない)」に帰る。よっちゃん、スミレちゃんへの挨拶もなく、いささか寂しい。アニメ版では魔法使いであることがバレたサリーとよっちゃんスミレちゃんとの間で悲しい別れが長々と演出されていたが、原作はあっさりしたものである。というか、第一話の密度に比べると、いささか手を抜いている感がすることは否定できない。『サリー』がアニメ化されていなかったら原作はまだまだ続いていた可能性は高く、もしそうだったらもっと叙情たっぷりな最終回が見られたかもしれないという気がどうしてもしてしまって、原作とアニメのコラボレーションがもう一つうまくいっていなかったのだなあと残念に思うのである。
2004年04月26日(月) まあ比較的平穏だった一日。理由は明白(~_~;)。 2003年04月26日(土) メモ日記/口にチャックな夜。 2002年04月26日(金) アッパレ再び/『学園戦記ムリョウ』7巻(完結/佐藤竜雄・滝沢ひろゆき)ほか……“NEW”! 2001年04月26日(木) イシャはどこだ!/映画『黒蜥蜴』(1962年・大映)ほか
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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