無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年04月10日(日) 当人には悲劇、他人には喜劇/『夢幻紳士【幻想篇】』(高橋葉介)

 昨9日、鹿児島市武岡の防空壕跡と見られる洞窟内で、焚き火をした市立武岡中学校2年生の男子生徒4人が一酸化炭素中毒を起こして死亡。
 最初にこのニュースを聞いたときには、あんな狭い空間で焚き火なんかしたらそりゃ窒息だってするだろう、中学生にもなって、その程度の科学知識もなかったのか、と、ご遺族の方には申し訳ないが、またぞろ「学力低下」の四文字がアタマの上に浮かんでしまった。無遠慮でデリカシーのかけらもない感想であるが、そう思っちゃったのは事実なので、人非人との批判は甘んじて受けたい。
 今日になって、4人のうちの2人は、以前もこの洞窟内で火を焚いて遊んでいたことが判明したとか。その時点で別に何も異状がなかったのなら、洞窟とは言っても比較的通気性はよかったのかもしれない。少年たちは恐らくは「前も大丈夫だったから」と「油断」してしまったのだろうが、前だって多少は煙いとか何とか、異状はあっただろうから、これはやはり子供たちの不注意であったと言うしかない。今回は火種にした段ボールなどが充分に燃えなかったせいで、一酸化炭素濃度が急激に高まったということである。気づいたときには煙に巻かれて、身動きできなくなってしまったのだろう。
 亡くなられた4人には気の毒だが、結局これはただの不幸な事故である。昔から「探検ごっこ」に興じる子供はいくらでもいて、それこそ崖から落ちたり川で流されたり猪に襲われたり火に巻かれたり遭難したり神隠しに遭ったり、命を落とした子供たちも決して少なくはなかった。悲しむべきこと、痛ましい事故ではあるが、危険を承知の「探検」である以上、全ては少年たちの自業自得でしかなく、誰かに責を求めることもできない。
 ところがこの「ありふれた事故」が、今朝の新聞では一面のトップを飾っているのである。あたら若い命が失われたことを悼む気持ちが加味されているのかもしれないが、だからと言って、大見出しで報道しなければならない意義が奈辺にあるのか、私にはそれがよく分からない。最初にこのニュースを知ったのは昨日の夜、yahooのニュースで見たのだったが、ネット上での記事は全てベタ記事なので、三面記事程度のものだと思って読み流してしまったくらいなのである。
 新聞が未だに「公器」であるのなら、私の個人的な感覚と世間の常識とがそこまで乖離してしまったということになるのだろうか。それともこの事件にも子供たちが死に至った社会的な道義というものが存在しているのだろうか。購読者の「公憤」を喚起する何かしらの要素があるというのだろうか。想像するにそれは、「子供たちが危険地域に立ち入っていたことに気づかなかった、あるいは気づいていても放置していた親や教師など大人たちの責任」とか、「防空壕跡を埋め立てもせずに放置していた土地管理者の責任」とか、そんなところにあるのかもしれない。けれどいくら「危ないから止めろ」と注意したところで、子供は大人の目を盗んで「冒険」してしまうものだし、子供にとっての危険地帯なんて、その辺にいくらでも転がっているのである。この事件を大々的に報道するのなら、子供が道路へ飛び出して一人車にはねられるたびに一面トップに持ってこなければ、“釣り合いが取れない”のではなかろうか。
 私がどうにも気に入らないのは、実のところ新聞などのメディアは、社会的な義憤とかそういったものにこの事故の報道価値を見ているわけではないのではないか、という点なのである。つまりは、殺人とか強盗とか誘拐とか、まさしくワイドショー的な扇情的事件のひとつとして、もっとハッキリ言ってしまえば、死んだ子供たちの愚かさ加減を笑い者にする感覚が無意識的に報道の背景にあって、面白おかしく報道しているように思えてならないのである。
 いや、確かに子供たちが愚かであるのは事実であるし、親がお茶の間で子供に向かって「あんな馬鹿なことしちゃダメですよ」と戒めるきっかけとして使えるかもしれない。けれどもだからといって被害者をここまで晒し者にするほどの事件なのか? これは、という疑問がどうしても脳裏から排除できないのである。
 もちろん我々人間は本質的にドス黒いものを常に内部に宿している存在ではある。馬鹿を見てあざ笑う心理は醜くはあるが、だからと言って、これを全面的かつ無条件に否定することは、人間の存在自体を否定することになりかねない。だから我々は日常を維持するために、時にそういった「心の暗部」が外部に流出しようとするのを抑制し、なだめすかし、飼いならしつつ何とか過ごしている。しかし今回の報道姿勢は、その醜さがあまりにも露骨に流出してしまっているとは言えまいか。これは「社会」自体が人間の欲望や恨みや妬みや狂気を「飼いならす方法」を既に見失っている証拠ではないのか。
 ……と、ちょっと不安に駆られたような書き方をしてしまったが、過剰報道をしているのは一部の新聞くらいのもので、世間的には「そんな事件があったの。ふーん」で終わっているような気配ではある。なるほど、それが「普通」だ。「よくある事件のひとつ」として新聞報道なんか気にせずに流すのが、この場合の「世間知」ってものだよねえと、私の「古い感覚」ではそう思っちゃうんですけど、もしかしたら若い人は、こういう事件を見たり聞いたりするのは何よりも楽しいんですかね。


 日曜の朝は『仮面ライダー響鬼』、今回は十一之巻 「呑み込む壁」。
 一話も欠かさずよく見てるなあ、オレ。こうなるとDVDすら発売されたら買いたくなってしまいそうだが、考えてみたら『仮面ライダー』シリーズは一番好きな旧本郷ライダーですらLD、DVDは持っていないのである(エアチェックのビデオテープだけ)。気に入らないところもないわけではないのにこんなに入れ込んでるのはなぜなのかまだ自分でもよく分かってないのだが、それを自己確認するためにもついつい見ちゃうのである。
 ついに明日夢も高校生。制服を今一つ着慣れていない様子なのが初々しくてよい。新学期に合わせるかのように、「猛士」側も「魔化魍」側も、急激と言っていいくらいの新展開があったのが今回の話。ダブルライダー揃い踏みのワリに、ドラマ展開自体はまったりしていた前回までとは打って変わったようである。
 ディスクアニマル開発者である滝澤みどり(梅宮万紗子)と明日夢との出会いはまさしく「出会いがしら」でいささか強引だけれども、明日夢がいよいよ「猛士」と深く関わっていくためには必要な展開であろうか。ただこのみどりさん、キャラクターとして香須実とカブってる部分があって、初登場のワリにはちょっと印象が薄い。今後の展開でもう少し突っ込んだ扱いをしないと無駄キャラになりそうな心配があるけれど、まあ私は日菜佳の方が好みなのでどっちゃでもよろし(笑)。
 敵方では「幹部」っぽい黒づくめの男が登場。なんだこいつはブラック司令(『ウルトラマンレオ』)か、と思っちゃったが、いつまでも単発的な戦いばかりじゃドラマが続かないし、敵さんにもやはり組織的な行動が必要だろう。ただこれもデザイン的にはありきたりで、もしかしたらあの黒服の中に斬新な衣装が隠されているのかもしれないが、今のところは「変なやつが出てきたな」程度のインパクトしかない。これも「面白くしてくれよ、頼むよ」という期待で見ていきたいところだ。……それはそうと、今回の魔化魍、食虫植物っぽいけど、「塗り壁」なのかね?
 ラストで明日夢が「たちばな」の秘密の壁に呑み込まれて落ちていくカットと、響鬼がヨロイを纏った童子たちになすすべもなくやられて崖を転落していくカットがシンクロする演出は秀逸。響鬼の危機感が相殺されてるんで、また「ライダーっぽくない」と怒るファンもいるかもしれないけれど、もう響鬼ってどんなにやられても悲壮感のカケラもないキャラとして認知されてると思うぞ。細川茂樹さんと栩原楽人くんの脱力した「あ〜〜〜〜〜」という悲鳴がかぶるのがGood(笑)。
 もう一つ、さりげない台詞だけれど今回のお気に入りは、松山さんの息子に「おにいちゃん」と呼ばれてヒビキが「おじさんでいいよ」と答えるシーン。日常普通に見られるシーンだけれど、ドラマでこういうやり取りを描いた例は意外に少ない。たいていは逆パターンの、「おじさん」と呼ばれて「おじさんじゃない、おにいちゃんと呼べ」と「若さ」を強要する陳腐なシーンが描かれることが多いのである。つまりはヒビキが自ら「おじさん」であることを引き受けていることを端的に示した台詞であって、当然これは将来的に明日夢との師弟関係も暗示しているのであろう。なにより、子供にとっての「大人」が今の世に必要だと訴えるスタッフの姿勢も表しているように思える。ドラマだけじゃなくて、、現実の「おじさん」たちも、堂々と「おじさん」であることを引き受けてほしいものだけれどもね。


 夜、8時半ごろ、またまた大き目の余震。
 さすがに少しは雪崩れた家具や本類を片付けないと、と、床を片付けた矢先にこれである。今度もパソコンの前に座っていたしげの手の上に棚からDVDが落ちてきて直撃。でもしげは「いてぇぇぇぇ!」と大仰に騒ぐので、かえって悲壮感に欠けている。よけろよそれくらい。
 それにしてもこの余震の数の頻繁さは何なのだ。今度の余震もかなり大きくて、マグニチュードは4.8、余震としては3月22日のM5.4に次ぐ2番目の規模、余震で震度4が観測されたのはこれで4回目だということである。西方沖の断層が活性化しているだけでなくて、福岡の地盤自体にあちこちガタが来てるんじゃないかね、これ。
 そんな風に心配し始めると、余震以上の本震が来ることもあるかなあという疑惑をどうしても捨てられなくなる。地震以前から計画していた引越し、本気で考えなきゃならんかとも思うが、いかんせん夏場まではどうにも動けない。その間にデカイのが来ないことを祈るしかないのだ。


 マンガ、高橋葉介『夢幻紳士【幻想篇】』(早川書房)。
 『マンガ少年版』『リュウ版(冒険編)』『怪奇編』『外伝』(更には『帝都大戦』『学校怪談』のゲスト出演も)と続いてきた『夢幻紳士』シリーズの最新作。掲載紙は「ミステリマガジン」で、ついにミステリとしてきちんと評価されるところにまで来たか、と、第一作のころからのファンとしては感慨無量である。
 「幅広の黒帽子、全身も黒服の男」というイメージだけが共通していて、作品ごとにひょうきんだったり純情だったりと変化して、作者自身からも「夢幻魔実也氏はそれぞれ別人」と言われてしまってはいるが、『怪奇編』の中盤あたりから、ジト目で煙草吸いで女たらしなイメージはだいたい固まっている(笑)。全く、何でこんな外道が女性にモテまくるのか、作者ならずとも、こんな陰険で卑劣でそのくせ妖しいくらいに美形なんてやつが現実に存在していたら背中から蹴り倒してやりたいくらいだ。
 けれど今回の魔実也氏の最大の特徴は、彼が「実在していない」という点だろう。すなわち魔実也氏は主人公の“僕”の心の中にしか存在していない。事件が起これば“僕”の心の中から「出てきて」解決するのだが、それは“僕”がそのように思い込んでいるだけであって、現実には“僕”自身が行っているのである。
 つまりこれはいわゆる「脳内探偵」ものなのであるが、本格ミステリとしてこれが秀逸なのは、やはりその「オチ」のつけ方だろう(もちろんネタばらしはしない)。
 何と言うか、実に複雑な気分なのは、このネタ、そしてオチに至るまで、私ゃ昔から考えていたんだわ。つか、実際に戯曲にも書いた。その戯曲を元にして、もうちょっと洗練された形で書きなおしたいなあと思っていたら、「そのラストシーンに至るまで」そっくりそのまま、高橋さんにやられてしまったのである。いやもう、悔しいというかなんというか。
 こういうことはしょっちゅうあって(先日見た芝居もそうだ)、人間の想像力なんて似通っちゃうものだなあとタメイキをつくしかないのだが、だからこそ「更にもう一歩先の物語がつむげないものか」という意欲にもつながるのである。私の脳もそろそろボケがひどくなっているようで、いさささか心許なくはあるのだが、シロウトなりにもうちょっとは面白いよと言っていただけるものを書いていきたいと思っちゃいるのである。

2004年04月10日(土) 勇気を持って言おう。
2003年04月10日(木) 最近教育テレビづいてるかも/『名探偵コナン』41巻(青山剛昌)
2002年04月10日(水) ヒミツ、ヒミツ、ヒミツのしげ/『クロサワさーん! 黒澤明との素晴らしき日々』(土屋嘉男)
2001年04月10日(火) 大江山枕酒呑草子/『カエル屋敷のベンジャミン』(玖保キリコ)ほか



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