無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年02月15日(火) 『のび太の恐竜2006』(仮題)?!/DVD『ダーク・クリスタル デラックス版』

 大阪府寝屋川市中央小学校の教師殺傷事件の続報。
 犯人の少年、取り調べに対して、動機は「いじめがなんたら」とか「誰でもよかった」とか「殺すつもりはなかった」とか適当なことを言ってるらしい。教師への恨みが目的であるなら、「誰でも」なんて無差別に狙う必要もないわけで、やっぱりアタマがイカレてるか、あるいはどうせ未成年だから死刑になることはないとタカをくくって「自分が悪いんじゃない」ってしおらしさを演出しようとしてるんじゃないかねえ。「凶器を捨てろ」と警官に声をかけられて、素直に捨てたってのも随分ものわかりがよすぎるのではないの。人を刺しても「死ぬとは思わなかった」って殺意を否認しておけば、減刑される可能性があることをちゃんと知ってたんだと思うぞ。
 昔、私も似たような事件に遭遇したことがある。通っていた学校で、「苛められた」と思いこんだ生徒が、「苛めた」生徒にナイフを振りまわしたのだ。幸い被害者の生徒はかすり傷ですんだので、警察沙汰、新聞沙汰にはならなかったが、駆けつけた先生たちが止めに入らなければ、大惨事になっていたところである。加害者の生徒は日頃から言動がたどたどしく、確かにからかわれやすいところはあったのだが、パシリにされるとか暴力を振るわれるなどの具体的ないじめはなかった。加害者の生徒は「やらなきゃいつか自分がやられると思った」と供述していたが、全くの被害妄想であった。警察に届けなかった代わりに、加害者の生徒は当然退学。「動機がどうだろうと、やったもんが悪い」と、「加害者の人権」なんぞ知るかとばかりに厳罰を処した点で、うちの学校、結構マトモだったと思う。情状酌量を考えてやらなきゃならん人間と、そうでない人間とは、明確に区別したいものである。
 フジテレビ『とくダネ!』で、犯人の17歳少年の作文を紹介する際、その氏名が判読可能な状態でウッカリ放送しちゃったとか。一応、名前の部分は黒く映像処理して見えなくしていたのだけれど、処理が不十分で文字が透けて見えたということだ。とんだ不手際ではあるが、凶悪事件が起きるたびに「未成年の実名報道」についての論議が喧しい折から、「ワザとやったんちゃうか、フジテレビ」というカングリがネット上では早速展開されている。
 一応、キャスターの小倉智昭キャスターが番組中に謝罪して、広報部長の遠藤龍之介氏(遠藤周作の息子さん)が「技術的なミスで、意図的なものではない」とコメントを出しているので、ワザとじゃないことは確かだろうが(ヘタすりゃ自分のクビが飛ぶのにワザとやるバカもおるまい)、これで実質、犯人の実名は殆ど流布してしまった。
 私自身も、未成年であろうと凶悪事件の犯罪者を擁護するような仮名報道は馬鹿馬鹿しいなと思っちゃいるのだが、ネットのドブネズミどもの陰気な愉しみに組したいとも思わないので、「犯人の17歳の少年」と表記するに留めておきたいと思う。たとえ実名や住所を知っても、その家とか関係者にイタズラ電話やら中傷メールとかしないだけの節度のある国民ばかりならいいんだれども、ここを先途とマス・ヒステリーに乗っかって「某巨大掲示板(^o^)」に実名書きまくるような猿どもと一緒にされたくはないからである。「未成年の犯罪」が起きて喜んでやがるからな、あいつら。
 ヒステリーをいかに沈静化させるか、これくらい難しいことはない。実名報道ができないのは、「実名報道しろ」とヒステリックに騒ぐやつらがいるからである。「被害者よりも加害者の人権の方が守られている」のは、「加害者の人権を優先して、被害者の人権がなぜないがしろにされにゃならんのか」と感情的に叫びたてる連中がいるからである。冷静に論議ができなければ、たとえそれが大方の意見であったり正論であったとしてもそれが規制されるなんて逆転現象も起きてしまう。
 「司法」という権威主義の固まりのようなところが、低俗な「巨大掲示板」なんぞがいくら騒ごうと、それに屈するように実名報道に踏み切るなんてことはありえないよ。犯人の実名をネットに晒す行為自体が、結果的に加害者をなんとしても世間の目から隠す方向に動いてあの手この手を使って擁護する結果になってることに、なぜ2○○○ねらーは気づかんのかね。所詮は鬱憤晴らしのための感情を垂れ流してるだけで、本当に逼塞した状況を変革させていくだけの実効力を持てないところがあそこの限界だなあと思うのである。


 しげが「太極拳」のカルチャースクールで、「二十四式」という紙をもらってきた。
 つまりは太極拳のいろんなポーズを表しているものらしいが、名前は分かっても、肝心なポーズがどんなものか分からない。しげもまだよくは覚えていないので、聞いてもはっきりとしたことは分からない。だもんで、名前から勝手に「こんなポーズであろう」ということを想像してみた。もしかして全然違ってるかもしれないが、そこはそれ、想像は自由だから(^o^)。
 まずは名前から。

1 起勢(チシ)
2 左右野馬分鬃(ズゥオヨォウイエマアフェンゾン)
3 白鶴亮翅(パイフリィアンチ)
4 左右楼膝拗歩(ズゥオヨォウロオシアオブ)
5 手揮琵琶(シオウホイビイバ)
6 左右倒巻肱(ズゥオヨォウダオジュエンゴォン)
7 左攬雀尾(ズゥオランチュエウェイ)
8 右攬雀尾(ヨォウランチュエウェイ)
9 単鞭(ダンビィエン)
10 雲手(ユゥンショウ)
11 単鞭(ダンビィエン)
12 高探馬(ガオダンマァ)
13 右蹬脚(ヨォウドォンジィアオ)
14 双峰貫耳(シュアンフォングゥアンアル)
15 転身左蹬脚(ズゥアンシェンズゥオドゥンジィアオ)
16 左下勢独立(ズゥオシィアシドリ)
17 右下勢独立(ヨォウシィアシドリ)
18 左右穿梭(ズゥオヨォウチュアンスゥオ)
19 海底針(ハイテイゼン)
20 閃通臂(シァントォンベイ)
21 転身搬攔挫(ズゥアンシェンバンランチュイ)
22 如封似閉(ルゥフォンシビ)
23 十字手(シズシォウ)
24 収勢(シォウシ)

で、以下が中身の想像。
1 起きあがって威張る。腰に手を当ててスーパーマンのポーズ。歯が光っているともっといい。
2 左右に馬がいるので、どっちの馬のたてがみを撫でたらいいか分からない。撫でてどうするんだろう。
3 白鶴飲んで熱海に行こう。酔拳である。
4 左右の膝が棒になったので、ヨチヨチ歩きしかできない。あんよはおじょず、ころぶはおへた。
5 ビーバーと言えばエアコン。そよそよと動こう。
6 カルロス・ゴーンを左右からぶっ叩いて倒す。
7 左から雀のしっぽが見える。つまり左の腋毛を見せて匂いを嗅いでもらう。
8 右から雀のしっぽが見える。つまり右の腋毛を見せて匂いを嗅いでもらう。
9 SM。
10 四股を踏む。「ウンショウ!」
11 やっぱりSM。ほーほほほほほ!
12 高いところで馬を探す。山の中に逃げこんだのである。
13 馬を探し疲れて右足を痛めた。
14 ツイン・ピークス殺人事件。死体の耳にはピアスの穴が。
15 馬は結局見つからず、左足も痛めた。
16 実は僕、左の方が大きいんです。だからパランスが取りにくくて。
17 実は僕、右の方が大きいんです。だからパランスが取りにくくて。
18 宮崎駿を左右からぶっ叩いて鼻血を出す。
19 海底に針が刺さっている。これを抜くと地球の綻びが……。
20 マイケル・ベイの作る映画はどれもこれも見てると目がチカチカしてくるということ。
21 人生をもう一度やり直そうとしても挫折が待っているだけだということ。
22 後ろも前もガードしなさい。痴漢に注意せよということ。
23 スペシウム光線。
24 笑止千万。

 「ポーズじゃないじゃん」というのも多いが気にしないように(^o^)。


 しげが「今日はエコ缶さんとこの練習に早めに行かなきゃならない」とか言ってたので、迎えに来てもらえないのも困るなあと思って、仕事を少し早引けした。
 ところが、5時になってもしげが出かけようとしないので、「練習、行かなくていいのか?」と聞いたら、「え? 七時でいいんだよ」なんて言う。どうやら言葉の行き違いがあったらしいのだが、よくよく問い質してみると、しげは裏方だから練習には殆ど出る必要がないらしいのだ。どちらかというと、勝手に押しかけてって、好き勝手なことを言って打ち合わせを引っ掻き回しているような様子なのである。「家事ちゃんとするから」とか言ってパートも辞めたというのに、毎日のように家を空けていたのでは約束が違うのである。叱り飛ばしたらシュンとして「アンタ中心にものを考えればいいっちゃろ!?」なんて口の利き方をする。「自分の仕事が何か考えろ」ということが言いたいのに、どうしてそんな風に自分が被害に遭ってるようなモノイイしかできないのか。
 結局。今日も練習には行かなくてもよかったようで、なんのために早目に帰ったんだか意味がないのであった。居残りの仕事を同僚に代わってもらって有休取ったというのに、こいつは相変わらず自分の都合でしか行動しようとしない。それで何度も劇団辞める羽目になったというのにどうしてこうも学習能力がないかな。
 ケンカでゴタゴタしたんで、テレビもあれこれ見損ねた。ああくやしい。

 しげは空いた時間を利用して、ガードレールに引っかいて前輪の部分がボコボコッとへこんだ車をダイハツに持っていって、代車をもらってきた。「乗り心地は?」と聞くと、「怖い」と言う。
 「アクセルは効かないし、ブレーキは効き過ぎる」……でも逆だとすごく困ることになるんだが(^_^;)。


 今年の春は製作されない映画『ドラえもん』だが、一年置いた2006年の内容が発表された。なんと原点がえりの『のび太の恐竜』のリメイクである。
 総監督には、TVリニューアルシリーズと同じ楠葉宏三氏。監督には『帰ってきたドラえもん』などで、その演出力を高く評価された渡辺歩氏。スタッフ・キャストともに全面入れ替えということで、さてどうなることやらと不安もかなりあったのだが、フタを開けてみると前々からファンの希望も高かった渡辺氏の登板ということで、順当な世代交代だなあ、という印象である。
 藤子・F・不二雄氏亡きあとの劇場シリーズの迷走ぶりを見れば、「『ドラえもん』、もう終わってもいいんじゃないか」の声も巷では決して少なかったとは言えない。ただ、アニメってのはいったん終わってしまえばそれはあっという間に過去のものとなり果てる。手塚治虫が、横山光輝が、水木しげるが、石森章太郎が、赤塚不二夫が、永井豪が、二度三度どころか四度、五度、六度、と尽きることなくリメイクされていくのは「忘れ去られないため」の手段だ。『のび太の恐竜』のリメイクと聞けば、どうせまたぞろ「旧作のイメージを壊すな」とか知ったかなことを一席ぶちたがるやつらはいるだろうが、いったいあれが何年前の映画だと思っているのだろうか。現代の目で見れば旧『のび太の恐竜』はかなり古臭い。それはアニメ技術がまたまだだった、ということだけではなく、「SFとして」見るに堪えない描写が多すぎるのである。
 『ジュラシック・パーク』を見たあとでは、ティラノザウルス・レックスが「二足で直立歩行している」というのは明らかに「おかしい」と分かる。それどころかプテラノドンは「羽ばたいて」飛んでいる。いや、そもそも『のび太の恐竜』というタイトル自体がまずい。フタバスズキリュウは、海棲爬虫類ではあっても、「恐竜ではない」からだ。なつかしアニメとして見る分には構わないが、現代の子供に見せるには不都合な部分が多々あるのである。
 もしも藤子・F・不二雄氏が存命であったなら、SFに拘りのある氏のことだから、何らかの形で『のび太の恐竜』をリテイクすることは充分考えられる。数々のマンガで「ネッシー」を実在の存在として描いてきた氏は、それが完全に「捏造」であったと判明した直後、アニメ『モジャ公』では謎の恐竜として「ルケーレ・ムベンベ」を出してきた。恐竜の滅亡説も新説が出るたびに作中に取りこんでいる。その時その時の最先端の科学に目を配り、それを物語に生かそうとする姿勢が藤子氏には常にあった。だとすれば、「『のび太の恐竜』をリメイクするな!」の声は、単に自分の好きな「アニメ」に執着しているだけのもので、藤子氏の「精神」に共感しているファンのものだとはとても言えないのである。
 私は「アニメのファン」ではなく、「藤子・F・不二雄のファン」であるから、声優が変わろうがスタッフが変わろうが、一向に構わない。というよりも、そんなことで怒りの声を上げる浅薄なアニメファンの方にこそ腹が立つ。あなたたたちが愛しているのは「自分の中のイメージ」であって、「作品」ではないではないかと。オタクの「痛さ」ってのはそういうところにあるんだわ。
 現段階では、『のび太の恐竜』がどんな出来のものになるか分からない。この日記でも何度も繰り返しているが、批評の基本は(それが感想文レベルのものであっても)「見てからものを言う」である。私もリメイク版を見てまだティラノサウルスが直立歩行してたら怒るよ。まだ一年以上先のことでヒステリックに騒ぐんじゃなくて、「不安はあるけど期待しよう」くらいの余裕をカマシてほしいもんだけどねえ。


 DVD『ダーク・クリスタル デラックス版』。
 え〜、『もえたん』でも「ファンタジーの傑作」と紹介されている、『ダークリ』。今更紹介するのもなんなのだけれども、「2枚買ったら1枚タダ」ってキャンペーンに応募したらタダで入手できたので、久しぶりに見返してみたら、いやあ、やっぱり面白いんだわ、これ。1983年製作というと、もう20年以上前になるんだなあ。記憶が定かじゃないが、これ多分、大学時代の夏休みだったかに、当時の彼女と一緒に見に行ってる。映画もよかったから、二人の雰囲気もいい感じになったんじゃなかったかな。ゼミの友達もすっごく誉めてたのは覚えてるんだが。むにゃむにゃ。
 現在のように巷にファンタジー映画が溢れかえっている状況と違って、そのころは「ファンタジー」と言えば、あとは『ネバーエンディング・ストーリー』やら『ラビリンス』やらがあるくらいで、ファンタジーファンにとっては「冬の時代」だった。そんな中で『ダークリ』がどれだけオアシスな存在だったか。
 故ジム・ヘンソンとフランク・オズが、『セサミ・ストリート』以上のマペット技術とスーツアクトで構築したファンタジー世界。善のミスティック族と、対立する悪のスケクシス族(劇場公開時の吹替えでは「スケクシー」)。長きに渡る悪の支配を終わらせるために、悪を封印するというダーク・クリスタルを求めて、か弱きゲルフリン族の生き残り・ジェンは旅立つ……。
 ストーリーはかなり『指輪物語』の影響を受けているけれども、何と言っても素晴らしいのは、次から次へと現れるこの世界の住人たちの造形だ。賢人の気高さを湛え、羊と牛を合わせたようなミスティックス。直立する巨大な鴉のごときスケクシス。花沢徳衛そっくりのオーグラ(^o^)。そしまあ、人間以上に人間らしい表情を見せてくれた美しき笑みと魅惑の唇の妖精・キーラ。「萌え」という言葉が当時あったなら、絶対に「キーラ萌え〜!」なオタクどもが食玩フィギュアを買いあさっていたことだろう。そんなんなかったけどよ。
 なんかねえ。こういうの見てると『ハリー・ポッター』シリーズなんかはどうにもファンタジー“モドキ”にしか見えなくて困っちゃうのよ。いやもう、ファンタジーファンを自称するなら。これを見てないというのはモグリってなもんです。マジで。

2004年02月15日(日) 入院日記14/存在の耐えられない重さ
2003年02月15日(土) 今日はケンカしなかったね/映画『スコルピオンの恋まじない』/DVD『新八犬伝 辻村ジュサブローの世界』
2002年02月15日(金) ニンニクの家/映画『がんばれ!ジャイアン!!』/『キノの旅V』(時雨沢恵一)ほか
2001年02月15日(木) 携帯綺譚/『雨柳堂夢咄』5巻(波津彬子)ほか



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