無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2002年02月15日(金) ニンニクの家/映画『がんばれ!ジャイアン!!』/『キノの旅V』(時雨沢恵一)ほか

 仕事が混んでないので定時に帰れるようになった。
 ありがたいありがたい。

 今日はどこにも寄らずに帰宅するつもりが、結局「マルちゃん」に寄って二人でうどんを食う。
 ところが、しげの目当てのコロッケは売りきれている。
 仕方なく、しげはチクワを食って誤魔化している。
 かわいそうなので、私が頼んだ肉うどんの肉を分けてやる。
 それだけじゃ物足りなかったのだろうか、しげは帰りにコンビニに寄って、おからと餃子を買って食った。
 また、この餃子、いったいニンニクをどれだけぶち込んだものなのか、食ったあとのしげの口が異様に臭い。そりゃもう、田口ランディの『コンセント』で「口から死臭を漂わせる男」ってのが出てくるが、あんな感じか。
 もう、たまらなくて部屋の中を逃げまわるハメに。
 風呂に入って、歯を磨けって言ってもなかなかそうしないのはやはりイヤガラセだろう。普段は私に対して「歯は磨いた?」とウルサイくせによう。
 おかげで部屋中がニンニク臭くなる。
 ……この匂い、消えるかなあ。


 KBC(テレビ朝日系)アニメ『早春! ドラえもんスペシャル』見る。
 今日の目玉はオタク人気の高かった『がんばれ!ジャイアン!!』。
 岡田斗司夫さんが『オトナ帝国』と並んでプッシュしてた作品なだけに、そんなにいいのかと見てみたが、確かに佳作ではある。
 でも藤子さんが亡くなるまで、30面下げて堂々と『ドラえもん』映画を毎年見に行ってた身にしてみれば、素直に出来がイイって言いたくないところがあるんだよねえ。
 これまでの『帰ってきたドラえもん』や『のび太の結婚前夜』、『おばあちゃんの思い出』などの短編をリメイクしてきたのは、はっきり言えば、長編が藤子原作を離れてレベルダウンしちゃったのを補うための苦肉の策って感じが強い。事実、「長編より併映の方が面白い」と感じてた人、ネットを検索してみても意外に多いのだ。

 確かにこの映画、見所はたくさんある。
 最初の5分で、その「動きのよさ」にまず感心しちゃうね。
 ジャイ子のマンガを取り上げて、からかいながら逃げるジャイアン。
 信号でちょっと立ち止まり、足踏みしてまた脱兎のごとく走り出す、その作画のタイミングのよさ! クルリと後ろを振り帰り、ジャイ子との距離を測り、追い付かせるように見せかけてまたパッと距離を空ける。
 何がスゴイって、こういう軽やかな動きをジャイアンにさせるために、今回の映画版では、普段のテレビシリーズより「幾分痩せさせて」いるのだ! おまえはロバート・デ・ニーロか、ジャイアン!
 美術もここまでやるかってくらいに凝ってる。
 何しろ、剛田酒店の内部が、卓袱台はあるわ、テレビはチャンネル式だわ、小津安二郎か! ってツッコミたくなるくらい、昭和40年前後を再現しているのだ(もともと時代の変化の緩やかな物語だけれど、今回は特にあの時代の部屋の中の「薄暗さ」まで再現している凝りよう)。
 そういう技術とか演出とか、細部で惹きつける要素はたくさんある。
 けどねえ、やっぱり「藤子不二雄じゃなくなってるじゃん」ってとこも同じくらい随所にあるのよ。
 ストーリーは『シラノ・ド・ベルジュラック』をベースに(なぜかトキワ荘系のマンガ家さんでシラノ好きって人多いね。手塚治虫、石森章太郎、赤塚不二夫、みんな『シラノ』を一回は描いてる)、マンガ家の卵であるジャイ子と茂手モテ夫くんの恋の成就をジャイアンがサポートするって話だけれど、原作の方、それほど「感動」を押し売りするような話ではない。「結構いいとこあるぞ、ジャイアン!」って程度の話なのね。
 でも、そこが藤子さんの作劇の「抑制」が利いていて粋なとこなんだけれど、映画にするとどうしてもその「抑制」のタガを外してしまうことになる。今までの短編シリーズも、映画にするためのやむを得ない脚色だったとはいえ、「クドイ」のである。
 みんなに散らばったジャイ子の原稿を集めてもらったけれど、3枚足りない。けれど、ジャイアン、「全部そろったよ」と嘘をついて、ただ一人、雪の降る街を原稿を探しまわる。確かに感動的なシーンではあるけれど、この「自分の力で誰にも頼らずやらなきゃ」っての、『帰ってきたドラえもん』のときののび太をジャイアンに移殖しただけだし。っつーか、このパターン、『ドラえもん』シリーズではあまりに多すぎて、今更映画でこのネタ使って感動呼ぼうとするなよ、とちょっと腹立たしくなるのだ。
 しかも今回は、原作の藤子マンガがあるにもかかわらず、改めて「映画用の原作マンガ」まで藤子プロに描かせている。……それは、違うんじゃないの?
 だから、確かにアニメとして佳作なのは認めるけれど、たとえて言ってみれば、「『ルパン三世 カリオストロの城』って、面白いけど、モンキー・パンチのルパンじゃないよね」ってのと同じ感想を抱かざるをえないのだ。
 でも長編シリーズに比べりゃもう、はるかにスバラシイ。
 長編もオリジナルやるんじゃなくて、他の藤子作品をベースに「ドラえもん化」するとかさ。そういうこと考えてくれた方がまだいいな。ほら、『UTOPIA 最後の世界大戦』とか『海の王子』があるじゃんかよう。
 やれよシンエイ動画。

 岡田さん、『BSマンガ夜話』に出たときに藤子さんをフレドリック・ブラウンに例えたりしてたから、『ドラえもん』の原作、結構読んでるはずなのに、実のところ思い入れは少ないんじゃないかなあ。まあ、褒めてもらってるんだから嬉しいんだけど(って、自分が藤子ファンの代表みたいな言い方してんじゃねえよ)


 時雨沢恵一『キノの旅V ―the Beautiful World―』(メディアワークス/電撃文庫・535円)。
 オビに「一応言っとく ――さよなら。」なんて書いてあるから完結編かと思った。読んでみると別にこれで終わりってわけでもないみたいね。もっともいつどこで終わってもおかしくないシリーズではあるけど。
 ああ、しかしこのセリフが出てくる第四・五話の『英雄達の国』……作者、思いっきり遊んでるんだよなあ。
 2話連続のこの話、もうサブタイトルが“No Heroes”“Seven Heroes”ってなってるの見ただけで、私なんかは、ああ、と思っちゃったんだけど、もう若い人にはなんのことだかわかんないんじゃないかな。

 キノが訪れた廃墟の町。
 しかしそこには「人」がいた。そして、キノはいきなり銃の襲撃を受けた。
 身を守るために応戦するキノ。
 一人……また一人、敵を倒して行く。
 七人。
 そして最後の敵を倒したとき、その男は言う。
 「俺たちは英雄になれなかった……帰って来たらみんないなくなっていた……せめて最後ぐらいは英雄として……」
 そのあと「勝ったのは俺たちじゃない、村人たちだ(いなくなってるけど)」とか言い出すんじゃないかと心配しちゃったよ(^_^;)。

 つまり時雨沢さん、「キノVS荒野の七人(あるいは七人の侍)」がやりたかったんだね。
 禿頭の男。
 背が一番低い男。
 口の回り中髭の男。
 筋骨たくましい大男。
 帽子を深くかぶった男。
 痩せて長身の男。
 大きなリュックを背負った男。
 もう歴然としてるよな(^_^;)。
 でも生き残るやつが誰もいないのが作者の皮肉なんだろうか。

 第八話「用心棒」に出て来た「師匠」ってのは、キノの師匠の若き日だろうか。それともまさか成長したキノ?
 こうやって伏線張った以上、『キノの旅Ⅵ』はちゃんと書かれるのだろう。次作をまた期待したい。  


 マンガ、鬼頭莫宏『なるたる』8巻(講談社・530円)。
 中学生編が始まって、暴力シーンやえっちシーンも増えてきたかな、と思われる『なるたる』だけれど、鬼頭さんの絵、一般的に言われている「暴力マンガ」のイメージ(まあ、原哲夫あたりを想起してください)とは程遠い。
 線は細いし、別に血がだくだく流れるような描写はない。キャラクターはみな肋骨ねーんじゃねーかと言いたくなるくらいの細身だ。鬼頭さんの描く女の子に巨乳はいない。一番チチがあるのは女装したのり夫かも(^o^)。
 でも、妙にリアルなんだよね。
 小沢さんの操る“龍の子”に襲撃されたシイナ、思いっきりグーで顔殴られるけど、もう頬骨が陥没してんじゃないかって言いたくなるようにイタイ絵だ。
 小沢さんの回想シーンも、エロというよりまず先に、見ていてイタイ。
 シイナ襲撃に失敗したあと、小沢さんが壊れていく姿もやはりイタイ。
 どうしてそんなにイタイ絵ばかり、イタイ物語ばかり書くのかというと、やはり「痛み」なくして人生ならんやという小泉純一郎みたいなことを作者が考えているからだろう。

 シイナの母、玉依博士は述懐する。
 「繁殖をしない龍の子は生命体ではない。しかし、生物を必要とし、原子を再構築して生物以外の物質を作り出せる。ではなぜ生命だけは作れないのか。
 生命とはなにか? 死とは何だ?」
 ようやく明確な「コトバ」として、作品の中心テーマが語られた印象だ。
 「命」や「魂」、それが本作の重要なモチーフであることは間違いないが、しかしストーリーは必ずしも一般的なイメージでの「生命の賛歌」なんて方向には向かっていない。
 今しがた書いた通り、このマンガはあまりに「イタイ」のだ。
 既に何人もの人間が死んでいる本作だが、実は死んだ人間よりも生き残った人間たちのほうがどんどん傷ついているのである。身も心も。

 生は死を意識したときに初めて相対的なものとして概念化される。
 だとすれば、龍の子が「死」の象徴であることは必然ではないだろうか。
 「生」は「性」であり、われわれは「性」の営みによって「生命」を生み出すのだが、それは同時にわれわれが「命」を外部に投げ出すこと、即ち我々自身が「死」に一歩近づくことに他ならない。
 このアンビバレンツに作者は答えを出していこうとするのだろうか。
 それはある意味、とてもツライ、徒労になりそうな心配すらあるのだけれど。

 折り返しに作者のコメントが載っている。
 「『差別用語』を禁じることで問題は解決できるのでしょうか。
 言葉が『差別』をしているわけではありません。
 そこに、その意味を付与してるのは、人間の意識なのですが」
 もちろん、「言葉」に責任を転嫁することによって、自らの差別意識を糊塗しようというのが、「言葉狩り」の正体である。だから鬼頭さんの書いていることは至極マットウなことなのだが、なぜ、今、こんなことを「作者コメント」として書かなければならないのか。
 作品が作品なだけに、その「表現」について、どこかから「横槍」が入ったりしてるのかもしれないなあ。
 『アフタヌーン』はその作品ラインナップからしても作家に自由にものを描かせている雰囲気があるので、おそらく大丈夫だとは思うけれど、どうでもいいことで「連載打ち切り」になんてことにはならないでいてほしいものだ。

2001年02月15日(木) 携帯綺譚/『雨柳堂夢咄』5巻(波津彬子)ほか



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