無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年02月14日(月)  明日、あなたも刺されているかもしれません/『戦後最大の歌姫伝説 美空ひばり今年17回忌 今甦る愛・幻の絶唱』

 今年は2月、6月と、芝居を見に上京する予定を立てたので、例年ゴールデンウィークに観劇しているシティボーイズのライブは諦めようかと考えていた。なんたって、連休中は飛行機代がめちゃくちゃかかるのである。超割り、特割りに比べて2倍、しげと二人だから、出かけて1泊するだけで一気に七、八万円がすっ飛ぶのである。とても毎月のように上京するわけにはいかない。
 ところが、ついこないだまではシティボーイズのファンサイトを覗いても何の情報も載っていなかったのに、いきなり九州公演が決まったというのだ。
 しげは「『ちけっとぴあ』とか『e+』のプレオーダーにもまだ何の情報も載ってない」と言うから、まさに急遽決定したものだろう。会場が北九州芸術劇場で、しかも平日のみの公演だから、偶然スケジュールが空いてるかどうかして、いっちょやってこましたろうか、ということになったのではなかろうか。
 福岡から北九州に行くのにだって、旅費はかかるのだが、たかだか往復二千円のことである。今や結構見応えのある芝居は、福岡よりも北九州で上演されることのほうが多いから、その程度の出費はもう計算のうちだ。なんたって、WOWOW放送開始から15年、上京して観劇するようになってからも4年になるのだ。毎回毎回、アンケートに「九州公演行って下さい」と書き続けてきた甲斐があった。なんかもー、マジで泣きたくなるくらいに嬉しいのである。
 でもなあ、まだチケット取れたわけじゃないんだよなあ。なんたって、即日完売の超人気ライブである。果たして発売日に取れるかどうか。また電話半日ずっとかけっぱなしということになりゃしないか、今から気もそぞろなのである。


 夜、『ブラック・ジャック』『名探偵コナン』『世界まる見え!』『キスイヤ!』と続けて見る。どれも気に入って見ている訳ではないのに、どうして毎週チャンネルを合わせてしまうのか自分でも謎なのであるが、それが人間の不思議というやつであろう。
 続く『スーパーテレビ特別版 戦後最大の歌姫伝説 美空ひばり今年17回忌 今甦る愛・幻の絶唱』。
 美空ひばりの養子(本当は甥)の加藤和也と、浜田光夫の娘さんとの結婚披露宴に絡めて、美空ひばりの軌跡をたどるもの。それにしてももう亡くなって17年になるんだなあ。美空ひばりを知らない若い人もいくらでもいる時代になっちゃったんだなあ。
 美空ひばりに関する番組はもういやというほど見てきていて、その神格化のされ具合が鼻につく部分もあって最近はあまり見ていない。これも「流れ」で偶然見ただけのことなのだが、まあやっぱり「美空ひばり伝説」を補強するものでしかなくて、その音楽性とか大衆性とかに本気でメスを入れようとしたものではない。本当はそれをちゃんとやらないと、美空ひばりを知らない若い人が見たときに「なんでこんなケバイおばちゃんの特集なんかやってんの?」って誤解を生むことになりかねないと思うのだが。
 従来の「ひばり」特番の何が鬱陶しかったかと言うと、関係者が口を揃えたように「歌が人生でしたね」と繰り返すインタビューばかりが延々流される点なのである。「一卵性親子」も「弟の事件」も表層的になぞるだけでは“にも関わらず、美空ひばりの歌や映画が庶民の心を掴んだのはなぜか”ということが一向に分からない。
 美空ひばりは、よく「昭和」を象徴する歌手として称えられるが、実際は「戦後」を象徴する歌手なのであり、「復興」のイメージと美空ひばりを切り離して語ることはできない。ハッキリ言った方がいいと思うが、昭和も40年代後半になれば、既に美空ひばりは大御所ではあっても「過去の人」であり、時代はフォークからニューミュージック、そしてアイドル全盛の時代へと移り変わっていっていた。美空ひばりが「スター」として時代と“寝ていた”時期は、戦後の20年ほどで終わっていたのである。だからこそ、NHKも「弟の事件」を理由に、彼女を『紅白歌合戦』から“降ろすことができた”のである。
 しかしだからと言って、美空ひばりの価値が貶められるわけではない。妙な神格化がかえって美空ひばりの真価を見誤らせる危険があるというだけで、彼女が大歌手であることは紛れもない事実である。
 それまでにも流行歌手はたくさんいたが、「歌に生き、歌に死ぬ人生」を意図的ではないにしろ、初めて社会的に“演出”したのが美空ひばりという存在であった。マスコミからのバッシングや病魔との戦いは、「私には歌しかない」という熱情を彼女にもたらしたが、それらの「物語」は後続の演歌歌手たちにこぞって“模倣”された。そしてそれは「生きるしかない」敗戦後の庶民の姿にもぴったりと重なっていたのである。その決して上手いとは言えない、聞きようによってはダミ声にすら聞こえる独特の歌声は、どんなに朗らかに歌おうともどこかに哀愁を帯びており、高額所得者に名を連ね、「ひばり御殿」と称される豪邸に住みながら、美空ひばりにはどこか「不幸」の影が付き纏っていた。それらの要素はみな、戦後復興期から高度成長期にかけて庶民が味わってきた「苦労」を体現したものとして受け容れられてきたのである。だからこそ、カツカツの生活の中で、それでも卓袱台を挟んで親子で食事をする暖かさに安らぎを覚えていた「昭和」の人々には、『柔』や『悲しい酒』が、すんなりと我が心の歌として口ずさまれていたのだ。貧乏も借家住まいも知らない現代の若い人たちが聞いたなら、彼女の歌はいったいどのように受け止められるのだろう。ダサイだろうか。お笑いだろうか。だとしたらこんなに悲しいことはない。
 今回の番組にはその手の視点が悉く欠けていて、「こんな歌手がいたんですよ」程度の中身しかなく、その意味ではまるでつまらない。けれど、それでも加藤家に所蔵されていたものであろうプライベートフィルムなどが紹介されていて、息子・和也君への彼女の溺愛ぶりが、そのスキンシップぶりや笑顔とはまるで正反対に、「努力して努力して不幸から脱却しよう」と懸命になっているように見えて痛々しく、涙をそそらないではいられない。ここで哀しみを感じるか感じないかで、「昭和」を生きてきた人間かそうでないかが分別されるのである。この「笑顔の裏の悲しみ」こそが、「戦後の昭和」という時代の本質であった。「昭和」のイメージの色濃い役者たち、例えば渥美清も、中村錦之助も、「無国籍」と言われた『渡り鳥』シリーズの小林旭ですらも、実はその「悲しみ」を映画の中で体現していた。そしてそれは現代の若手の歌手や役者からは完全に失われてしまったものなのだ。
 ……でも、美空ひばりと小林旭との結婚について一切触れなくなったのはなぜかなあ。どちらの家に遠慮してるのかは分からないけれども、本気で伝記番組を作る気なら、避けちゃいけないことだと思うんだがなあ。暗黙のうちに「タブー」になっちゃってるのだろうか。


 夜、外出して、エコ缶さんとこの打ち合わせから帰宅したしげが、「なんかまた乱入事件が起こっとるよ」と言う。「乱入」と聞くと私はどうしてもタイガー・ジェト・シンやハルク・ホーガンやラッシャー木村を連想してしまうのだが、プロレス関係の事件ではなかった(そういう連想をする私の方がオカシイ)。
 午後3時すぎに、大阪府寝屋川市初町の市立中央小学校に、包丁を隠し持った17歳の少年が侵入し、男性教師1人と女性2人を刺した。背中を刺された教諭の鴨崎満明さんの傷は右肺から心臓にまで達しており、間もなく死亡した。駆け付けた寝屋川署員によって少年は取り押さえられたが、取り調べた結果、寝屋川小の卒業生と判明した。
 同じ大阪ということで、どうしても宅間守による池田小殺傷事件を想起してしまうが、今回は犯人が少年で、被害者が教師ということだからベクトルは全く逆である。「弱者」をターゲットにした宅間守に対しては世間やマスコミの怒りは容赦がなかったが、さて今回またぞろ起きた「未成年」の犯罪に対してはやはりテレビなど表だったメディアでは「犯人に対して怒りを覚える」式の発言は聞かれない。その代わり、「警備体制はどうだったのか」という、責任を何としても学校側に求めようとする論調の方が目立っている。「下校時で正門は開いたままだった」「監視モニターの前には誰もおらず、警備員も雇っていなかった」「校長・教頭は出張でいなかった」など、「学校の不手際」「安全対策の不徹底」などが取り沙汰されているが、学校側に油断がなかったとは言わないが、これって、未成年である犯人の「責任」についての言及から問題を逸らそうとしているだけではなかろうか。
 実際、いくら「警備の徹底で安全対策を」と言ったところで、限界があろう。宅間事件のときだって、ああした「乱入」事件が初めてだったわけではなし、行政や教育機関、あるいは地域が、これまでの「教訓」に基づいて何か対処ができるものかどうか、どんなに真剣に対策を取ったところで、どこかに“綻び”が生まれてしまうことは否めないと思う。
 今回も、初め犯人の少年は普通の訪問者のふりをして、鴨崎さんが職員室に案内しようと背中を向けたところを刺したと言う。無害な庶民のふりをされては、身を守ることなんてそうそうできることではない。フェンスを高くしようが、警備員を雇おうが、本気で隙を突こうとする犯罪者にとってはたいした障碍にはならない。佐世保の小六少女殺害事件などは内部の犯行ではないか。
 ネットなどを見てみると、犯人がゲームに熱中していたからということで、そちらに責任転嫁しようとする向きも相変わらずないではないが、さすがにこの手の馬鹿意見は「煽り」的にしか見られなくなっている。少年犯罪がこれだけ異常化し複雑怪奇なものになっている現在、たかがゲームだけに原因を求めることには無理があるし、その手の意見を口にすれば大谷某のように袋叩きに合うことが誰の目にも明らかだからだ。
 その大谷某は、今回の事件に関して「それよりもそういう異常な犯人が現れないような社会環境を形成していく方が重要ではないか」という意見を述べているようであるが、一見、以前よりはマトモなことを言っているようでいて、これとても実効性を考えれば無理な注文つけてやがるなあとしか思えない。社会の基本が家庭にあるとすれば、核家族化共働きが普通で子供とろくろく顔を合わせることすらできず、教育機能が崩壊している状態で、なんの環境が整えられようか。地域だって、休日に子供を受け入れる施設や交流の場を充分に設けていないのが実情である。
 今度の事件の犯人も、両親は揃っているし、兄弟もいたと言うが、それでも何の対処もできなかったのだ。たとえ社会が正常に機能していても、既知外は出る時は出る。「動機は何か」なんてことを追及したって、結局、人間の心の闇など誰に解明できるはずもなく、再発防止にはまるで直結しないことはこれまでの事件が証明しているとおりである。
 「集団下校だって、危ないよなあ。手当たり次第に殺そうと思ってるやつにとっては『狙って下さい』って言ってるようなものだし」と言ったら、しげがサラリとこう言った。
 「だから、誰か一人犠牲になってる間に、逃げたり通報できるから集団で行動するんだよ」
 ……要するに通り魔的犯罪を防ぐ手段など基本的にはないのである。そりゃ、取れる対策は全部取ったがいいに決まっているが、「絶対の再発防止」は夢想でしかない。我々は今、隣にいる人間が突然狂人と化して襲いかかってくる危険性を覚悟して生きねばならなくなっている。しかし、世も末だとは嘆くまい。昔から既知外はいくらでもいたし、そういう危険性がなかったわけではない。逆に現代、世相がこれだけ荒んでいるにも関わらず、凶悪事件を起こす子供が何万人に一人しか出ない、という見方だってできるのだ。
 情報の伝達が、そういう危険性に鈍感だった時代を過去へ押し流してしまっただけのことだ。侃侃諤諤の議論のあとに、最後は少年法の改正を求める声が高まるのは、せめて犯人を死刑に処することでしか庶民の溜飲が下がらないからではないのか。


 で、今日も深夜にしげと『いたスト』。寝たのは3時かなあ(^_^;)。

2004年02月14日(土) 入院日記13/どこまで食えるか
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